この記事を読めば何が得られるんだっけ?
世界平和のカギとなる『人生の免許』の取り方です。
自動車、クレーン車、ダンプカー、飛行機。こういった乗り物にはそれを運転する免許が必要ですよね。操作方法を取得する必要があり、誤った運転をした場合、大きな事故を起こし、最悪の場合は死に至ります。
では、人生には免許がいらないんですか?トラブルを起こし、問題解決が出来ずくよくよし、暗い気持ちになり、最悪の場合は死に至ることはありませんか?『ある』のなら必要ですよね。この人生を生きるための、資格試験が。そして取った後は人生をスムーズに生きることができます。人生は無免許運転もできますが、そろそろ人は、『人生の免許』と真剣に向き合った方がいいかもしれません。
人生を順調に登り詰め、政治家になったら免許皆伝?なるほど。政治家が一切不祥事を起こさないということですね?もうわかりましたね。『人生の免許』は学校に行き、あるいはエリートコースを歩いたからといって取得できるものではないということが。
結局どうすればいいの?
誰か(尊敬する人等)や何か(常識、法律、宗教等)に従ったり、依存したり、何かを期待するのではなく、自分の力で道を切り開く発想を持ちましょう。
自分の力を疑ってはいけません。あなたにある潜在能力と『主体性』が埋没しますよ。『拡張知能観』を持ちましょう。外部要因はあくまでも『利用』する程度にし、後は自分でやるのです。『支配』されてはいけません。『自律』するのです。悔いのない人生を送るためのカギを握っているのは、自分以外の何物でもないのです。もし心が『虚無』に陥ったら、道を間違えている証拠です。その心が晴れる道を探しましょう。あなたが利用できる良きマニュアルになれるよう、私もこのサイトの品質向上に尽力していきます。この話を理解できる人。それが『人生の免許』を持っているに相応しいと言える人ですね。
この記事は下記の記事の続きです。
Contents|目次
更に具体的な結論
いよいよこの記事で終わりです。この記事では、この簡潔版の結論が出た経緯と、『人間の最善の生き方』、『人間の最高到達地点』について、今までの記事で考えたことを踏まえて、まとめています。
最強の『自律』ツール
小国寡民の世界を捨て、エネルギーを開放して自由に生きていく。そうなると、そんな人間(厳密に言うと自分)をコントロールする、何かが必要です。その中で、確かに韓非子の言うように、『法律』は有効です。彼やダニエル・カーネマンの言うように、人は損失を非常に嫌がる傾向がある。それを逆に利用して、『前始末』をするのです。事実韓非子は法律を『犯罪の予防』として用意するべきだと考えました。
しかしそれだけでは、人が『アウトサイド・イン』の発想に甘んじてしまいます。それに『法律の限界』は秦の国、ソクラテスの死、いくつかの映画等で想像しましたね。人間にとって最も重要なのは『インサイド・アウト』。それは、ブッダもキリストも孔子もソクラテスも、同じことを言っているのです。
外の環境が変われば自分も変わるという考え方。
自分の心が変われば自分の周りは変わっていくという考え方。
そこで、孔子が言うように『徳』や『仁』の心に目を向け、利他的であるように考えるべきです。ソクラテスが言ったように無知の知を知り、あまり自分が偉いと思い込まないようにもします。ブッダが言ったようにあまり執着せず、キリストが言ったように『右の頬を殴られても左の頬を差し出す』のです。そしてイスラム教で教えるように、聖戦に勝つ(弱い心に打ち克つ)のです。
先ほど、このような考え方を見ましたよね。この『儒教』の部分を、今挙げたような偉人たちが説いたこと、つまり『真理』に置き換えるのです。そして人民を支配するという意味を持つ『統治』という言葉を使わず、他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動する、自分をコントロールするという意味を持つ『自律』という言葉を使います。
こうすればまず『統治』という『他人が勝手に人の人生を決める図式』は消え、人間の主体性に敬意を払い、それを揺さぶることができます。人間が『和』を手に入れるためには『主体性』が必要ですからね。そうじゃなければ『同』止まりになる。またこの図式によって、孔子が教えた儒教も含め、ソクラテスが古代ギリシャで考えた哲学、キリストやブッダの教え、イスラム教、ユダヤ教『で教えられている真理』、その他ありとあらゆる『真理』が含まれることになります。また、韓非子、マキャベリ、ナポレオンやダニエル・カーネマンの言うように人間の『間違いなくある一面』も見て見ぬふりをしないことになります。
そしてここを『~教』ではなく『真理』とし、そしてこれがあることで、偏った考え方はなくなり、また、この世にすでにこのようにして蔓延しているあらゆる宗教や教え、あるいは尊い価値を持つものをすべて平等に取り入れることができ、その間に引かれている『無駄な境界線』を取り払うことができます。また、当時のユダヤ教のように『律法さえ守っていれば後は何をしてもいい』とか、あるいは現代で考えても『法律さえ違反しなければ何をしてもいい』等の曲解も生まれなくなります。『それは真理ではない』からです。
- ユダヤ教
- イスラム教
- キリスト教
- ヒンズー教
- 仏教
- 儒教
- 道教
- 神道
この『最強の自律ツール』を用いることにより、これらの世界的宗教の『良い部分』だけをピックアップし、『悪い部分』をすべてそぎ落とすことができます。なんせ、テロは真理ではありませんからね。カースト制度に関しても、今はまだ断言できなくても、もし今後それで虚無に陥ることが間違いないのなら、いずれ淘汰されます。『地獄極楽』、『イエス復活』、『最後の審判』、まだわからないことはたくさんありますが、『いずれ虚無に陥る』のであれば、それは真理ではなかったことになります。今はまずそこまでを断言しておけばいいでしょう。
ブッダはこう言い、
ブッダ
ソクラテスはこう言いましたが、
ソクラテス
人は、アウトサイド(外部要因)に期待し、依存し、責任転嫁するのではなく、自分の力で『自律』することが求められているのです。ウォルト・ディズニーはこう言いました。
多くの人が憧れる『成功者』なるものになることを考えたって、それは同じなのです。成功の定義は色々ありますが、私は『インサイド・アウトの発想を自分のものにした人間』こそが、その称号に相応しい人間だと考えています。それであれば、お金持ち以外の人も、不遇の環境を強いられ、早くにこの世を去ることになった人も、それに値することになりますからね。
日本のある弁護士が言っていた言葉を思い出しましょう。
弁護士
この考え方であれば、もし人が罪を犯してしまった後のバックアップも可能になります。法律は、ただ淡々と人を裁くだけです。警察は淡々と被疑者を捕まえ、調書を取った後は検察庁にそれを回します。こういうバトンタッチが淡々と行われ、最終的に刑を終えた罪人は、ポンと社会に放り出されます。確かに『保護観察』という制度はあります。しかしそれもいずれは終わるし、結局は『アウトサイド・イン』です。本人に主体性がなければ意味がないのです。クレプトマニアの例を思い出せばわかりますね。
言わずもがなの名作映画『ショーシャンクの空に』には、長い間刑を受けた受刑者がいざ塀の外に出ると決まった時、恐怖で錯乱するシーンがあります。そして仲間の受刑者に刃物を突き立て、外に出ることを抵抗するのです。それを仲間たちはなだめます。『大丈夫。きっと大丈夫』。しかし彼は外に出て、自分の無能さを突き付けられ、虚無に襲われ自殺してしまいます。
それは、モーガン・フリーマンが演じる違う受刑者も同じでした。彼も外に出ることに対する抵抗感があった。人生の半分以上を刑務所で過ごした彼らにとって、外の世界はあまりにも不適切だったのです。
ただし、この映画はそれだけでは終わりません。そういう虚無だけをひたすら見せつけられるという、暗い映画ではありません。観ればわかります。観ている人は皆、知っています。ちなみにこの映画でも『聖書』が一つのキーワードになっています。観てのお楽しみです。
しかし、真理は違います。もちろんこれは儒教その他の宗教すべてに言えることですが、『真理』という考え方を選んだ場合、宗教、無宗教に関係なく、すべての人が平等にこれを『利用』できます。そして結果的にそれは『慰め』となり、支えられます。まるで、太陽のようにすべての人を平等に照らす。それが真理なのです。アウトサイド(外部要因)という『自分以外の何か』に依存していると、それが頼りなかったとき、闇に包まれます。しかし、『問題解決のカギは自分が握っている』という事実を知っていると、そうはならない。このことを忘れてはいけません。
この太陽の圧倒的な存在感は人々に大きな影響を与え、はるか昔、世界のいたるところで様々な太陽神が想像された。日本で言えば『天照大御神』である。(主な世界の太陽神)
これを考えたとき、
それって処罰した後何もバックアップをしない現状と、別に変わらないんじゃないの?
と思うかもしれませんが、そんなことはありません。前者と後者の違いは、『この図式を認識しているかいないか』という決定的な違いがあるからですね。この映画に登場する受刑者たちも、この図式を認識している人とそうじゃない人に分かれますが、そのあたりもこの映画の見どころの一つです。きっとあなたもこの映画でインサイド・アウトの発想をしたある受刑者の姿を見たら、何だか心がスッキリしますよ。
厳密に言うと、彼はこの図式を正確に認識しているわけではありません。しかし、無意識に、何となく(こうするべきだ)という心の声が聞こえていて、それに従い、ある行動に出ます。そのあたりに注目です。
そして、そのことがもっとよくわかるのは下記の記事です。
ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルが、その地獄のような環境で一体何を思ったか。彼との共通点は、理不尽な、あまりにも理不尽な目に遭ったということ。あなたはきっと彼の書いた本の内容を読み進めるうちに、自分の想像力を働かせることを制御するでしょう。『I×V=R』の図式はもう理解していますよね。この環境の『現実味(Reality)』を得たいと思う人、あるいは得られるという人はいません。
そして映画とは違い、これは現実なのです。よく『映画化不可能』と言われる真実が映画化されますよね。しかしこの話だけは絶対に映画化されないでしょう。『してはいけない』のです。したとしても多くの描写がカットされるでしょう。多くの仲間が人間の尊厳を奪われ、理不尽に殺され、あるいは命を絶つのを目の当たりにし、彼は希望を失わずに生き抜いた。それは一体なぜか?この内容に勝る証拠はこの世にはないでしょう。
ユダは本当に生きる価値のない者?
失敗した人はもう二度と社会復帰できないのでしょうか。『更生』。それは『更に生きる』と書き、くっつけると『甦る』となる。失敗をした人も、そこから更に生きていかなければならない。失敗したり、罪を犯した人の中には自分の非を認め、本気で更生を覚悟する人間がいるのではないでしょうか。そのような人たちもそうじゃない人たちも関係なく真理は平等に照らしますが、とりわけ、そう奮起した人はその真理から心強いバックアップを受けるでしょう。
『失敗をすぐに認められるか、それとも隠蔽するかで人間の価値は決まる。』
『失敗したと思っても絶対に諦めるな。そもそもそれは、「失敗」ではない。』
ちなみにキリスト教で有名な『裏切り者のユダ』がいますよね。『マルコによる福音書』では「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とまでイエスに言われているユダは、イエスの居場所を祭司長たちに銀貨30枚で売ります。確かにひどいことをしました。しかしよく考えれば、これくらいのことはユダでなくてもしてしまいます。彼が問題視されているのは、その対象が『イエス』だったというだけです。
それなのに『生まれなかった方が良かった』なんていうのはどうですかね。それにイエスはまだこの時、ここまで偉大な人物ではなかった。洗礼をする者や、悪魔祓いをする者は大勢いたし、彼が本当に偉人かどうかということはわかっていないのです。そういうことまで想像しなければなりません。彼がどのような人物だったかを知るためには、映画『パッション』を観る必要があります。
この映画はまさに聖書に忠実であるということが私にはすぐわかりました。キリスト教が発足する前のイエスの実像に迫る研究を20年近く続けた、レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』を読んでいたからです。
- ピラト裁判(3度イエスを救おうとする)
- ペトロと鶏(3度知らないと嘘をつく)
- ユダの裏切り(銀貨30枚、突き返す)
- 山上の説教(垂訓)
- ゴルゴタ(骸骨)の丘(イエスと2人の死刑者)
- 死ぬ間際のイエスのセリフ
- イエスが墓から蘇る
このあたりのことが忠実に映像化されていることもさることながら、決して翻訳版は出さず、一部始終アラム語とラテン語に徹したという事実を考えるだけでも、すぐにそれはわかりました。その中で、『ユダの裏切り(銀貨30枚、突き返す)』というものがありますよね。例えばWikipediaにはこうあります。
『マタイ福音書』では、ユダは自らの行いを悔いて、祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したことになっている。
映画でユダが首を吊るというシーンまではあったかどうかは忘れましたが、しかしユダが自分の行為を悔い、祭司長たちに掛け合い、自分の行為を改めるシーンがあります。しかし祭司長たちはそれを受け付けなかった。そしてユダは、その場に銀貨を投げ捨てたのです。
先ほど貼った黄金律に『失敗をすぐに認められるか、それとも隠蔽するかで人間の価値は決まる』とありましたよね。ユダは本当に『生まれてこなければよかった人』なのでしょうか。私はこの映画を観て、彼がどこにでもいる人間の一人にしか見えませんでした。私はこのように、失敗をしてしまった人は二度と復帰できないという考え方には賛同できません。
もちろんその罪の度合いにもよるでしょう。ユダが『イエスを殺した人』と捉えるなら、イエスを『イエス様』と崇拝するすべてのキリスト教徒は、彼を忌み嫌うでしょう。しかしユダヤ人も含めたすべての人間は、別に、間違えます。例えば、ガリレオとコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。
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しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、
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更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかったのです。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』のです。キリスト教が強い力を持っていたからですね。しかしその力は暴走します。
ブルーノという修道僧は、このコペルニクスが提唱した地動説を熱烈に支持し、自分が正しいと信じる世界の考え方を広めようといたるところで講演をしましたが、これは当時の法王の天動説的常識や、聖書の教えに著しくそむくものだと考えられたので、1600年2月17日、ローマのカムポ・ディ・フィオリという広場で、火あぶりにされてしまいました。これに続いてガリレオは、コペルニクスの説の正しさを確信して意見を主張したが、宗教裁判にかけられ、無知な裁判官の前にひざまずかなければならなかった。
ブルーノは死んで当然の人だったんですか?ガリレオも宗教裁判にかけられて当然だった?ただ真実を言っただけ(地動説を唱えただけ)なのに?そして、彼らを殺した人々、白い眼を向けた人々は、ユダと同じ扱いでなくていいんですか?
人は、人なのです。『恒久的に未熟』であり、間違いを犯す生き物なのです。どんな人間でもそれは同じことなのです。私はこのユダのような人間も、そしてクリスチャン『を名乗る人』も、ユダヤ人『を名乗る人』も、この世のどんな人でさえも、そして人以外のすべての森羅万象も、太陽のような真理は、平等に照らすと確信しています。
真理=愛=神
その真理については下の『この話の核となる記事』に張った記事にある程度書きました。しかしこれについての全容はまだ解明されていません。恐らく、未来永劫そのすべては解明されることはないでしょう。しかし、ここに挙げた偉人たちが残した聖典(聖書、仏典、クルアーン、論語等)を含めた様々な英知ある書物や教えに、それが散りばめられています。
例えば、人は毒を飲みませんね。なぜ飲まないのでしょうか。『死ぬ』可能性が高くなるからです。人は結局そのようにして、無意識に『何か』に支配されて生きています。韓非子はその性質を利用せよと言ったわけですね。法律のように、『それをすれば罰を科す』と定められていないものでも、逸れると虚無に陥ることはたくさんあります。
例えばいじめです。いじめをすることで逮捕されたり罰金を払わなければならないことはありません。しかし、どう考えても虚無に陥る。それは、人が真理から逸れたからなのです。
『真理=愛=神』です。つまり、これらは全て同じものの可能性が高い。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっています。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのです。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからです。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではありません。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はありません。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのです。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのです。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしています。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからです。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できません。
ゴッホは言いました。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうです。
- 人の目に見えない
- 何ものにも支配されない
- 永久不変である
- 極めて厳かで尊い
- 圧倒的な威厳と力を持つ
- 未だに全容を理解できていない
- 逸れると虚無に近づく
- 近づくと充足を覚える
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではありません。しかし、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのです。この法則に触れ、
- それを『愛』だと認識した人は『愛っていいなあ。』と感じ、
- それを『神』だと認識した人は『神様、ありがとうございます…』と祈り、
- それを『真理』だと認識した人は『ユリイカ!』と叫ぶ。
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
映画『インターステラー』では、地球に住めなくなる未来が分かってしまったため、惑星移住を計画します。しかしそれには、それが論理的に可能かどうか見極める必要があります。地球の未来はある親子に託されました。父親が決死の思いで宇宙から送ったメッセージを薄皮一枚で受け取った娘。その時娘はこう叫びます。『ユリイカ(アウレカ)!』
そして『1:43』あたりにあるこの言葉に注目してください。
『愛だけは時空を超えて生き続ける』
この映画についてのさらなる詳細は下記の記事に書きました。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』(3ページ目)
『新』灯明の導入
私は、法律の手の届かない領域に目を向け、そこで真理を発見し、世の人に伝えていきたいと考えています。例えば前述したように、『5大要素』と『2大嗜好品』の最適化ですね。それをするだけで人の心は虚無から遠ざかる可能性が随分高くなります。
どこまでその真理を見つけられるかはわかりません。完璧主義者の私は、全部が見つけられないなら最初からやりたくありません。しかし、私はもうやると決めました。決めた以上は、最後までやり遂げます。皆さんはどうかその真理を『利用(活用)(自分の物に)』し、虚無に陥るという『サイン』を道標に、悔いのない人生を生きてください。一番いいのはブッダの言ったように、『自灯明』です。つまり、自分自身でその感覚を鍛え上げ、悔いなき人生を生きることです。
灯とするのは自分自身ということ。つまり、自分以外の一切の要素に目を向けて、そこに答えを求めようとしないこと。
私が真理を解き明かす前に亡くなってしまう人もいるわけですからね。私はすべての人に貢献することはできません。しかし、最初から『自灯明』であれば問題ありません。私などに頼る必要は元よりないのです。
『柔訳 釈尊の教え 第1巻』にはこうあります。
自灯明(じとうみょう):他者を頼らず、自分自身を拠りどころとしなさい。自分自身に知恵の光を灯し、暗い先行きを照らしなさい。
法灯明(ほうとうみょう):他者よりも、真理を頼りなさい。コロコロと変わる生きる他人よりも、一定不変の真理を求め、真理を拠りどころとしなさい。
先ほどの本ではこの法灯明は、『釈迦の法(=教え)=仏教』という解釈でしたが、ここではただ『真理』とだけあります。まあ、ブッダが説いたのは真理であり、それをまとめたり、教えているのが仏教ですからそう違いはありませんが、微妙なニュアンスが違いますね。仏教と言われると拒絶反応を示す人も、『真理』であれば何も問題ないはずです。
しかしブッダという人はやはり相当な人ですね。私はこの『自灯明、法灯明』の言葉を受けて、この記事を書いているのではないのです。私は無宗教ですからね。あくまでもこれらは私の考え方を強化するため、偉人たちはどう言っているかを調べて、それで同じ考え方を見つけ、付け加えているのです。
したがってもちろん、ある程度『確証バイアス』に影響されている可能性はある。なるべく気を付けてますけどね。
自分の意見が正しいと思い込みたいために、自分と同じ意見を集め、それ以外の反対意見を無視し、自分の考えを正当化しようとする人間の心理。
しかしブッダはすでに2,500年も前に私と同じことを言っているのです。さすがですね。彼と同じ境地にいるわけもありませんし、違うことを言っているところもあるでしょうが、やはり真理というものは太陽のようなものでもあり、『核(コア)』のようでもあります。
地球のどの場所から、どの時代から、誰が、どのような掘り方で地面を掘っても、絶対に最終的に、この『核』に到達する。この様なイメージが強く頭に浮かびます。
『この世には、命よりも大事なものがある。しかし、それは『上』にあるのではない。だから、『命よりも上』という表現は相応ではない。『中心』にあるのだ。』
しかし、ここで言う『法灯明』の『法』とは、『法律』と間違えてしまいますよね。ちょっとだけ仏教の考え方を見てみましょう。『世界がわかる宗教社会学 入門』にはこうあります。
一神教では神が真理ですが、仏教における真理とはダルマ(法)です。ダルマは、そこにあるもの、宇宙の構成原理、宇宙の普遍法則で、永遠不変です。
(中略)ダルマはこの宇宙すべてを支配している根本法則で、輪廻の法則も含みます。まず、人間である自分がこの根本法則に支配されているという、ありのままの姿を実感しなければなりません。これが、覚るための『原因』になる。世界のあるがままのをありありと認識することが原因となって、その結果、自分の存在が変容する。そしてこの法則を超越するブッダというものになる。その手続きを踏み原因を作れば、誰であろうとブッダになれるわけです。
ブッダの言う『法』とは、『ダルマ』と読みます。意味は『真理』という意味です。ブッダは日本人ではありませんから『ほう』とは呼びませんからね。彼の本名もゴータマ・シッダールタですから。では一度整理してみましょう。
- 自=自分
- 法=ダルマ(真理)
ですから、『自灯明、法灯明』はそれを踏まえて考えることになります。そこで、これを現代の日本人、そして今回の『最強の自律ツール』になぞらえて考え直してみましょう。
- 自=自分
- 真=真理
- 法=法律
こっちの方がわかりやすいですね。
内省的な人生を送り、真理を多く発見し、経験豊富な人であれば『自灯明』でだけで十分でしょう。そしてまだその条件を満たさない人、あるいは未知の領域に触れたときは、『真灯明』を意識しましょう。最後に『法灯明(改)』です。ここで言う『法』は法律ですから、考え方としては、
法律でそうなっているならそうしよう。
まあ法律だから仕方ないか。他の人のことも考えて折り合いをつけると、やむを得ずこうなるか。
等という風に解釈すればいいでしょう。また、法律に納得がいかない場合は『自灯明』、『真灯明』で考え、それに対抗し、自分の意見を貫けばいいでしょう。とにかく重要なのはその順番。優先順位ということですね。決して法律や規制は、最優先順位の上には来ない。韓非子の言う通りにはさせませんよ。
最強の自律ツールの優先順位
1 | 自灯明 | 自分を拠りどころにする |
2 | 真灯明 | 真理を拠りどころにする |
3 | 法灯明(改) | 法律を拠りどころにする |
エマーソンは言いました。
この言葉の意味を熟考しなければなりません。ブッダがもう『自灯明』と言っているんだから、すべての仏教徒は、アウトサイド・インの発想を直ちにやめなければなりません。そもそもブッダというのは下記の記事に書いたように、
こう言っている人なんですよ。
『もしも君の敵が君をつかまえて、のこぎりで手足を切断しようとするならば、手にも足にも激痛が走るだろう。手からも足からも、身体的苦痛を送信するデータが入力されてくるだろうけれども、その身体の苦痛データに対して心を反応させ、『いやだ!』と心に怒り、すなわち反発心が生まれるならば、君は私の生徒ではなくなってしまう。私の生徒であろうとする以上は、誰に何をされても怒らないように。』(中部経典『鋸喩経』)
もちろん彼とてのこぎりで手足を切断されたわけではありません。しかし、彼が言うのは『執着からの脱却』。
ブッダ
と言っているのです。もちろんもっとやわらかくこういう言い方をしたかもしれません。
ブッダ
どちらにせよ言っていることは同じですね。彼は自分の心をコントロールし、自灯明であることを強く説いたのです。そしてそれを言うのはブッダだけではありません。
聖書にはこうあります。
『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』(コリント人への第一の手紙 第3章)
イエスが息をしていた当時、そこにあったのは『神殿の神格化』です。つまり、神殿が『拠りどころ』だった。さしずめ、『神殿灯明』というべきか。
あるいは律法灯明。律法さえ守っていれば後は何をしてもいいというユダヤ教の教えが蔓延していた。
しかしそれを『違う』と言ったのがイエスです。『自分たちこそがその神殿なのだ』と。そして、モーセの『安息日に働いたことに対する制裁』の話に対し、イエスはこう言っています。(詳細下記記事)
イエス
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』(5ページ目)
彼らは『本当に大事なこと』が何かを知っていた。時代と環境によって様々な違和感はありますが、それは自分の親の世代に流行したものに何も興味を持たない子供がいるのと同じこと。単なるジェネレーションギャップです。2,000年、2,500年も前の人に今の感覚と同じものを求めること自体が間違っている。そんな些末なことよりも重要なことは、『彼らが説いた真理』。それだけは、どれだけの年月が経とうとも、全く色あせることなく輝き続けているのです。
例えば『38の黄金律』
そしてその真理の見極め方はこうです。
真理から逸れれば逸れるほど、虚無に近づく。
人はこうした『サイン』を頼りにして『真理』を見つけ、それに沿った生き方をすることを余儀なくされています。まるで、最新の車が物にぶつかりそうになると警告ブザーが鳴るように、それを頼りにし、道から逸れないようにするのです。
ピンチ、逆境、絶体絶命に陥ったとき、それを『チャンスだ』と思わなければ、そこにあるのは『虚無』です。
人を愛せば心はどうなる。温かくなる。だとしたらその逆はどうだ。人を赦さず、人を憎しみ、冷めた目でこの世を見て、卑屈になる。そこにあるのは『虚無』です。
忘れられない過去の失敗や挫折を後悔し、忘れられない不幸な思い出をいつまでも引きずり、あるいは、まだ来ぬ、来るかどうかもわからない未来を憂い、思い煩い、今日を一心不乱に生きない。そこにあるのは『虚無』です。
思考の力を侮り、支配せず、逆に支配されることがあるのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
偶然に期待し、つまり主体性を放棄し、人生を反応的に生きるということは、ある場面、例えば『刑務所の鉄格子の間から外を見る』とき、星ではなく泥を見る。つまり、そこにあるのは『虚無』です。
自分の心と向き合わず、表層的に生き、あらゆる『答え』がわからないままなのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
やるべきことがなく、ただ漠然と、場当たり的に人生を生きるのであれば、人は悩む暇があり、憎む暇がある。そうした負の感情に支配されるのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
よく目を凝らせば足りているのに、『足りない』と思うのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
他の人と比べ、優れているところ、あるいは特殊なところがあるのにも関わらず、それを誇らず、劣っていると受け取るのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
どれだけ長く生きるかに固執し、その為にあらゆる醜い手段を使い、そこに執着し、自分の人生を見失うのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
この世に生まれた自分の奇跡の命の価値を理解出来ないのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
錆びた剣や、錆びた農工具のように雨ざらしにあって、生きているのかも死んでいるのかもわからない日々を送っているのなら、そこにあるのは『虚無』です。
働きもせず、運動もせず、苦労も努力も挑戦もしないで、ただ食事だけ摂って毎日を生きようと思うのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
人からどう見られるか、何と言われるかに支配され、たった一度の自分の人生の価値を見誤るのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
人からどう見られるか、何と言われるかに支配され、見栄を張り、虚勢を張り、優劣にこだわり、一喜一憂を繰り返し、本当に打ち克つべく『自分の心(欲望)』に打ち負けるのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『持つべき愛国心の「国」とは国家のことではない。「地球」のことだ。』
自分の生まれた国だけのことを考え、その他の国のことは考えない。そこにあるのは『虚無』です。
壁にぶち当たるたびに、そこを『行き止まり』だと考え、打ちひしがれるなら、そこにあるのは『虚無』です。
自分の状況が良くない理由は、自分ではなく『環境にある』と思い、自分の人生の舵を握ることを覚悟しない人間がいるなら、そこにあるのは『虚無』です。
『この世に価値のない人間などいない。いるのは価値がわからない人間だけだ。』
特定の人間だけが常にえこひいきされ、特定の人間だけが常に軽蔑視されるなら、そこにあるのは『虚無』です。
『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』
達成し、成功し、有頂天になっているとき、人の目は『盲目』になる。だとしたらそこにあるのは『虚無』です。
金に支配され、金の亡者となり、拝金的な人生を送り、『義利合一』の重要性を軽視するなら、そこにあるのは『虚無』です。
友人に依存し、友人を見失い、友人に支配されて人生を生きるなら、そこにあるのは『虚無』です。
『私はあなたとこの子がいて、それでご飯さえ食べれればそれで十分幸せなの。』…そこにあるのは『虚無』です。
『失敗をすぐに認められるか、それとも隠蔽するかで人間の価値は決まる。』
失敗をしてそれを認めず、利己的になり、真実を隠蔽して生き長らえようとするなら、そこにあるのは『虚無』です。
本当は知らないはずなのに、それを『知っている』と吹聴し、妄言するならば、そこにあるのは『虚無』です。
もっと簡単に、わかりやすく、シンプルに出来るはずなのに、それをしないというのなら、それを『受ける』人の心がないがしろにされている。つまり、そこにあるのは『虚無』です。
『基礎工事をしない建築物、基礎土台をおろそかにする人間。どちらもその限界は、知れている。』
基礎・土台を甘く見て、そのまま人生を先に進めようとし、そこに何かを建造しようとするのなら、いつかその建造物が崩壊する可能性が飛躍的に高くなることになる。だとすると、そこにあるのは『虚無』です。
慇懃無礼(いんぎんぶれい。表裏的な態度)に上辺だけ敬語を使い、敬っているようにしても、本当のところで敬っていないのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『耐え忍ぶことができる人間でなければ、大局を見極めることは出来ない。』
人間には、どうあがいても太刀打ちできない力がある。それなのに、それに逆らって『勝てる』と過信してしまうのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
人間が今、すでに『最高到達地点』にいるのだと盲信するのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
心が不愉快になるあらゆる原因に蝕まれるとき、そこにあるのは『虚無』です。
『流動変化が避けられないことを知っているかどうかは、人間の運命を大きく変える。』
流動変化するこの世の真理に逆らおうとするのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
人生を生きるということが、前に進むことなのだと理解できないのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
あらゆる不幸な事件の後、『こうなる前にやるべきことはなかったか』と嘆いても、そこにあるのは『虚無』です。
全知全能な人間などこの世に存在しないのに、自分が無知であることを人にさらけ出せない人間がいるのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『「一歩」の価値をどう評価するかで、その人間の人生は決まる。』
一歩の価値を軽んじ、『たかだが一歩だ』と言っていつまでもその一歩を踏み出せないのであれば、そこにあるのは『勇気』ではなく、『虚無』です。
『失敗したと思っても絶対に諦めるな。そもそもそれは、「失敗」ではない。』
失敗をするたびに『また失敗した…』といちいち嘆いて、下を向いている人がいるのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『一つのことに集中する人間だけが手に入れられる圧倒的な力がある。』
『弾み車効果と悪循環』を理解せず、『ハリネズミの概念』を理解せず、『器用貧乏』に陥って、いつまでも結果が捻出できずに憂いているのであれば、そこにあるのは『虚無』です。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
全てはこの法則(真理)通りになるのです。
理解する『システム2』直感の『システム1』
私が考えるに、この『真理』というものを理解するためには『システム2』を起動し、それで熟考することが求められます。アインシュタインも私と同じように、『神』を『この世を支配する法則』と同義語だと考えました。彼は間違いなく『システム2』を常時モードとしていた人間ですよね。そうじゃなきゃ相対性理論は見いだせない。
私の両親はクリスチャンですが、幼少期からそういう信仰を持った人々を見ていて思うのは、彼らに共通するのは『システム2を上手く駆使していない』ということです。それは(上)のカエサルの記事に書いたこの内容を見れば見えてくることです。
しかし、母親は私にクリスチャンを強要し続け、今も尚、そうじゃない私を目の前にして『イエス様』がどうとか言い出す。それは、『教育者』として本当に正しいのだろうか。いや、正しくない。彼女はもう何年も前から『教育放棄』をしている。『イエス様に身を捧げすぎて』、どこか思考回路が欠落している印象を持つ。その理由は、まず私が渡す本はおろか、小冊子、果てはプリントに至るまで、後で確認すると『読んでいない』ことがわかったのだ。その前から何年にも渡り、『メールを見ていないのでは?』と思うことがあった。そして最近、それが明るみになり、今回のように、話が出来なくなる現象が起きる。母親は、難しいことは考えずに、全てイエス様に身をゆだねることで、それを乗り越えてきたのである。
もちろん全員とは言えません。しかしキルケゴールがこう言い、
パスカルがこう言うように、
信仰自体が『理性、思弁、論理的理解』とは別次元のものであり、『システム1のままでよい』と示唆しているように見えます。ですから、クリスチャンである両親は『神(真理、愛)』がなんであるかを論理的に理解しておらず、知らぬ間にそれから逸れてしまい、多くの不和を生み、そしてその問題解決が出来なかったのです。
ニーチェがこう言った理由が、私にはよくわかるのです。目の前で『システム1』で問題に対応する両親を見てきましたからね。
最下部と今下に張るこの記事の軸になる記事を読めばわかりますが、『神(真理、愛)』がなんであるかを論理的に理解することは、『システム2』を起動しなければ不可能です。ですからまず人は、『システム2』でそれを理解し、その後『システム1』という『直感、感覚』だけでも『違和感』としてそれがわかるようになるべきだと考えます。そもそも、この記事にまでたどり着き、これを読んでいる人は全員『システム2』を起動しています。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
この2つの記事は『真理=愛=神』の図式があると仮定し、世界平和を実現させるための足掛かりを解いたものですが、この記事を読める人はほとんどいません。私に『この記事を読んだ』と言ってくれる人はいましたが、数えるくらいしかいません。それも、ほとんどが孔子、ソクラテス、ブッダ、キリストと何らかの関係があった人で、最初から『RAS』が整っていた人です。
脳にあるフィルター。例えば車を買おうとするとき車のCMは目に入るが、そうじゃないときは一切入らない。必要か不必要かを判断している。自分とは全く無縁だと思う情報はこのRASがシャットアウトする。
そこで、以下のような記事を書いたわけです。大勢の人向け、つまり『システム1』を常時モードとする人に対して簡易版を書いた。しかし、それでも扱っているテーマが『真理=愛=神』といった、この世で最大級に難解な問題ですから、これ自体が『システム2』を煽り、そこで拒絶反応を示すのでしょう。
ちなみに、『38の黄金律』で冒頭に『簡潔に』を持ってきているのもこういう背景があります。『38の黄金律』には、人や企業の運命を変えるほどのずば抜けた叡智がありますが、それを発信している私に説得力がないということから、これらの黄金律の価値は低く見積もられています。この黄金律の習得にも『システム2』が必要なのです。その証拠に私は黄金律を使いこなしている、あるいはそうするように常に意識できていますが、私の部下は、この黄金律に完全に支配されています。
『神(真理、愛)』がなんであるかを論理的に理解することは、やはり『システム2』を起動しなければ不可能です。例えば聖書の『伝道者の書 5章』をご覧ください。
『見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』
これは経済用語である『限界効用の逓減』と照らし合わせて考えるとすべてに納得がいくようになっています。例えば、仕事終わりのビールは美味いのに、二杯目、三杯目と味が落ちていきますよね。つまりこれは『美味しいご飯を食べたければ、働いたり、運動したりして、まず自分にある程度の負荷をかけることが必要だ』と説いているわけです。そうすれば自分の心は満たされるようになりますし、そのための『労苦』も受け入れられるようになります。
これは私が自力で見つけた見解で、どこの本に書いてあったわけでもなく、『夏休みの違和感』というテーマで、私の中に中学生時代からあった問題です。学校をさぼってばかりいた私は、夏休みになって周りが楽しそうにしているのを見て、違和感を覚えました。
あれ、全然楽しくないな…
私は毎日が夏休みだったので、別に夏休みに特別の幸福を覚えなかったのです。こういう経験をいくつもしていたから、私にはこの言葉が『限界効用の逓減』のことを言っているのだと論理的に理解できました(17~23歳くらい。正確な年齢は忘れました)。
母親にこのことを説明しても、(なるほど)という顔をして、初めて理解したようでした(伝えたのは29~31歳くらい)。母親は、
母親
と言いましたね。このように、『神(真理、愛)』がなんであるかを論理的に理解することは、『システム2』を起動しなければ不可能です。母は信仰者なので、そもそも聖書や神を論理的に理解しないようにしてきたわけですから、こういう現象が起きるわけです。漠然とさせ、あえて曖昧にさせれば崩れず、強固な支えを確保できるかもしれませんが、それは諸刃の剣ですね。その代わりに主体性を失い、問題解決能力をなくせば、我が家のように『宗教のせいで家庭内不和が起きる』という状況を作り出してしまいます。
存命中は知らない人がいなかったとされるアメリカの天才、バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス』にはこうあります。
神のみが完璧であり、まさしく真実そのものであることを感じる。それ以外の誤謬を徐々に排除していくことによって、われわれはこれまでより神に近づくことができるにすぎない。真実を愛することによって、われわれは神にもっとも近づくことができる。
間違った考え。間違った判断。
彼のこの言葉は、私が見出した『真理(愛・神)から逸れるほど虚無に近づき、近づくなら充足が得られる』というニュアンスと非常によく似ています。ここに出てきている言葉も『真実、愛、神』であり、そして人間の誤謬によってそこから遠ざかることで、得体の知れない闇に心が覆われることになるのです。
このバックミンスター・フラーの言葉をここで取り上げるのは『たまたまこの人の本を私が持っているから』ですが、この7,000円もする本を読めばわかるのですが、バックミンスター・フラーはまさしく『システム2』を常時モードとしている人そのものです。正直、そのあたりにいる中学生や高校生じゃここに書いてある内容を理解することはできません。あまりにも難しいので、もはや『嘘が書いてある』んじゃないかと思ってしまうほどです。そういう、オカルト的な要素に触れたときのような、ある種の嫌悪感や抵抗感を覚えるわけです。
しかし実際には違います。この本には『理解できる人だけが得られる大きな恩恵』があります。そのような実態を正確につかんだ時、彼のこの言葉が極めて『システム2』によって論理的に導き出されたものであることを知ります。
なるほど。この彼も論理的思考を積み重ね、こうした発想にたどり着いたか
となるわけですね。しかしこのようにして結局はその『真理(愛・神)』の輪郭を見つけることは容易ではないのです。
厳密に言うと、真理の理解に本当に『システム2』が必要不可欠である、とは断言できません。私はかなり若い頃からこの『違和感』を強く抱く人間でした。例えば下記の記事に書いたこの内容を見てください。
私は赤ん坊でこそなかったが、6歳やそこらの時、父親が、子供たちに威厳を知らしめるための材料として、理不尽に投げ飛ばされ、それに対して『死ね!』と叫ぶと、『死ねとはなんだ!』と、更に強く叱られたことが頭から離れない。あの時の影響で、私は人を心底から信用しなくなった。そして、人をよく観察するようになり、洞察力がついた。見栄や虚勢で態度が変わる人間も、人として軽薄に見えた。
まだ6歳やそこらの私は、父親の明らかな理不尽行為に『強い違和感(不信感)』を持ち、それが恐らく正義ではないことを直感的に理解しました。この時の私は当然『システム2』は起動できていませんから、自動思慮モードである『システム1』でそう捉えたのだと推測できます。ですから、もしかしたら私のように、『システム2を起動しなくても直感が鋭い人』というのはいて、そういう人は無意識に自分が『虚無』から遠ざかるように行動しているかもしれません。
ここで言う『死ね』発言は、事実を曲解しないために正直に書いただけです。言っても私は6歳ですからね。その言葉の意味もわかっていない。言いたいのは『それを言うしかないほど私が追い込まれた』ということです。そもそもなぜ私が痛めつけられたのが全く分からない。理不尽な出来事だったということです。謝罪してほしかったということですね。しかし父はしなかった。
しかし私の両親の例でもわかるように、やはり原則的には『真理(神・愛)はシステム2を起動しなければその実態の輪郭すら見えてこない』という考え方が正解に近いような印象があります。そして、その実態の輪郭など捉える必要はなく、なんとなくぼやっとしていても、ただそれが存在していればいい、という風に曖昧にその存在を信じるのが『信仰』のように見えます。
私がこの『最強の自律ツール』を提示しても、マザー・テレサが、
と言っても、この世にそう簡単には『世界平和』は実現されないでしょう。それはこのシステムを習得するのが、そう簡単ではないからです。まず、『システム2』を起動して、この輪郭を理解しなければなりません。最後には『システム1』だけで何となくわかるようになるのですが、そこに至るまではやはり通るべき道があるのです。
尾崎行雄はこう言い、
中国の思想家、魯迅は文学で人間の精神改造をしようとしました。
魯迅は、日本へ留学した際に日露戦争のニュース映画を見て、中国人がどのように扱われているのかを知り、医学ではなく文学による精神の改造こそが必要だと考えたことが、小説家になるきっかけの一つだと言われています。
確かに一部の『力強いエネルギー』は燃え上がり、この世に『良いエネルギー』を広めたでしょう。しかし、その結果はどうなっているでしょうか。この決定的な事実を真正面から受け止める必要があります。この問題は、一部の人だけではなく、この世を生きるすべての人々に与えられているテーマなのです。
さしずめ、これは『車の運転』や、『資格試験』、『機械・電子機器の操作』等に似ているかもしれません。最初にそれを習得するのには『システム2』を起動する必要がありますが、それを習得した後は、そんなに『システム2』にギアチェンジする必要がなくなってきます。慣れてきて、その知識を自分のものにし、『システム1』だけでも十分になるからです(もちろん油断すると事故が起きます)。
物事の大体のありさま。概要。
人間は地球に住んでいいのか
さて、この考え方を推進していくうえで一つだけ注意点があります。それは、『全員がインサイド・アウトの発想を持つのは無理だ』という軟弱な発想でなく、老子の思想に逆らい、上昇志向を燃やす以上、このクリー族の格言の通りにならないようにしならないということです。
宮崎駿が世に出るきっかけとなった名作映画『風の谷のナウシカ』は、地球環境の保全に取り組む民間の団体『WWF』からも推薦された作品です。そのWWFホームページに書かれている『エコロジカルフットプリント』とは、『人間が地球を踏みつけた足跡』です。人間がどれだけ地球の資源を使ってしまったか、浪費してしまったかを表す言葉です。
例えば米国のエコロジカルフットプリントは1人あたり9.5ヘクタールです。これは人類全員が米国人のような暮らしをすると、地球が5個以上必要となる計算になります。つまり地球環境に悪影響となっているのです。一方、人類全員がインドネシア人のような暮らしをすると、地球の天然資源・環境資源は現在の6割程度で賄えることになります。つまり地球環境に良い影響となっているのです。そして日本のエコロジカルフットプリントは1人あたり4.3ヘクタールです。人類全員が日本人のような暮らしをすると、地球が2個以上となります。つまり地球全体を考えた場合、日本は環境破壊と資源消費について悪影響なのです。
人類全員が○○人のような暮らしをするとどうなるか
アメリカ人 | 地球が5個以上必要 |
---|---|
日本人 | 地球が2個以上必要 |
インドネシア人 | 地球の6割程度で足りる |
ナウシカ第1話の冒頭にはこうあります。
ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った。大地の富をうばいとり大気をけがし、生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は1000年後に絶頂期に達しやがて急激な衰退をむかえることになった。「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し、複雑高度化した技術体系は失われ地表のほとんどは不毛の地と化したのである。その後産業文明は再建されることなく永いたそがれの時代を人類は生きることになった。
『風の谷のナウシカ』には有毒なガスを発する菌類の森、『腐海』と呼ばれる森に地球が覆われている様が、描かれています。そこには、『人間は地球の加害者だ』という宮崎駿の思いが反映されています。
『僕等自身がこの時代を生きてきて、ビニールが出来た時にすごい物ができたと感動し、アメリカの自動車ラッシュの渋滞の写真を見てすごいなと感動したり、農薬が出来た時に日本の米は助かったって思い、化学肥料が出来た時もそう思った。しかし、全部裏目に出ちゃったわけですね。誰か責めるわけにはいかなんですよ。僕ら加担したわけですよね。』
上昇志向を持ち、全員が『自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない』ことを優先する『リヴァイアサン』を発揮した結果、この世に残ったのは荒廃した土地だけだった、ということがないようにしなければなりません。我々は、韓非子にも、老子にも、『それ見たことか』と言わせてはならない。
アインシュタインは言いました。
核連鎖反応を見つけたのは、人間の『探求心』と『好奇心』です。アインシュタインの言うように、確かにそれを発見しただけでは人類は滅亡しない。しかし、それを扱う人間が恒久的に未熟である以上、探求心と好奇心は人類の滅亡を呼び起こします。『原爆の父』と言われたオッペンハイマーは、日本に原爆が使われてしまったことを悔いた。彼もそういう結果になるとは思わなかったのです。
手塚治虫は、
と言いました。先ほどの『空飛ぶ機会』の話を読んだ人は、今挙げた誰の言葉が一番真理に近いかはわかりますね。しかし、アインシュタインの言う意味もわかります。私などはアインシュタインの言うように、『人間に主体性があり、真理への自覚があれば探求心と好奇心を捨てる必要はない』という考え方を、まさにこの記事で提示しているわけです。
しかし実際には手塚治虫の言葉の方が『神の視点』を抑えているように見えますね。人間の『探求心』と『好奇心』、そして『上昇志向』というのは、人間が人間であるための必要なポテンシャルでもあり、いつ爆発して破滅を招くかわからない不発弾でもある。まさに『諸刃の剣』なのです。
こういった未来は、人が本当に『自灯明』、『真灯明』の意味を理解していればあり得ないことです。『それだと虚無が生まれる』し、『そうなってしまうのは真理ではない』のですから。それに、だからといって人間の『探求心』と『好奇心』、そして『上昇志向』を今から止めることはできそうもありません。これは恐らく、一度すべての人間が壊滅状態に陥るか何かしないとあり得ない。
だからといってわけのわからないテロを画策して『人類をリセットするんだ!』と思ってはいけませんよ!
『モチベーション3.0』にあったこの内容をもう一度見てみましょう。
人の基本的な性質は、好奇心に満ちて自発的である、と信じている。それは、わたしが無邪気な理想主義者だからではない。わたしには三人のこどもがいる。これまで小さな子供たちと一緒に過ごしてきた自分自身の経験から言っているのだ。何に対しても好奇心を示さず、自発的な生後6か月の赤ん坊や1歳の子供など見たことがない。そう考えればはっきりとわかるはずだ。14歳や43歳になって受身の姿勢や無気力な態度を示しているなら、それは人間の本質というより、何かが原因で後天的に設定が変わってしまっただけなのではないか?
人の基本的な性質は、好奇心に満ちて自発的であるとありますね。『モチベーション3.0』というのは、『その好奇心や探究心を大事にしていこう』という意味。ですから、人間が自分の埋没している潜在能力を引き出し、あるいは『人生の免許』を取ろうとして主体性を発揮したら、モチベーションのバージョンが3.0に引きあがると同時に、人々に好奇心と探究心が溢れかえることを意味します。
それであれば、何とかしてそれとともに共生していく方法を考えたい。例えば人というものは、言語、読み書き、火おこし、漁、食材の調理方法、船や車の運転方法、携帯電話やパソコンの操作方法、詐欺や犯罪の対策、仕事内容、社会の仕組み、ネットリテラシー。人は、『人間世界に必要なもの(あるべきもの、完全に浸透してしまったもの)』と共生していくために、そのスキルやリテラシーを身につけてきたし、これからもそれは求められます。時代の変化に合わせて人の考え方もそれに適応する必要がある。
情報や知識等の活用能力。
私はトヨタやソフトバンク、ディズニー等の巨大企業の社長も登場するテレビ東京系『カンブリア宮殿』を10年観てきましたが、そこに出演した多くの企業は生き残るため、飛躍するために取ってきた、あるいは重んじてきた共通する選択肢があります。それは、『伝統と革新』です。守るべき伝統は守り、しかし時代に合わせて柔軟に対応する。これが出来ない企業は生き残れず、淘汰されるのです。もう、面白いくらいにここが一致しますね。例えば和菓子の企業が、『インスタ映え』、『若者受け』するような洋菓子風の和菓子を作るとか。
番組には出ていませんが、例えばイエローハットの創業者、鍵山秀三郎はこう言っています。
『私の同業者が全部つぶれたのは、一時的な成功に惑わされて事業が成長するごとに大きくなるマイナス面に対応ができなかったからです。いつまでたっても以前と同じことをやっていたから、みんな消えてしまいました。時代が読めなかった、お客様の心が読めなかったわけです。現実の空気こそ読まなければならなかった。そこに問題があると思うのです。』
このイエローハットのテレビCMだけ見ていると、
どういう馬鹿が運営しているんだろう
と思いたくなりますが、それは違う。この鍵山秀三郎という人は、私が向き合った500人の偉人の中でも目を見張るほどの人物。彼の言葉は、相当人格を煮詰めなければ出てこない言葉ばかりです。
福沢諭吉はこう言いましたが、
世の人々を『猿』と認識する当たり、彼らはとても賢いのです。福沢諭吉にこう言われた尾崎行雄は『システム2』を起動しなければ読めない本を書いて『筆一本で生きていく』と言ったのですから、彼にこう言われるのは当然だったということになります。二人ともとても賢い人なのですが、福沢諭吉の方が『一枚上手』だったということですね。
ここで言う『猿』とは、『猿並みのバカ』という悪口ではなく、『システム1』を常時モードとしている人がほとんどを占めている、という現実のこと。そういう人のRASをくぐって訴求するためには、識者から見て馬鹿馬鹿しいくらいの方がちょうどいい。前述したスタジオジブリはこのあたりをしっかりと抑えていると言えます。だから『馬鹿馬鹿しい広告』を行う。
『流動変化が避けられないことを知っているかどうかは、人間の運命を大きく変える。』
無知の知を知り、『真理(愛・神)』を味方につけ、『同』ではなく『和』を作ることができる、主体的で、自燃型な、モチベーション3.0の超人になり、質実剛健になる。そして、『システム2』を起動して、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけ、上昇志向を持ち、フッパーやリヴァイアサンを思うように操り、インサイド・アウトの発想で、この世を悔いなく、エネルギッシュに生きる。それこそは、老子の理想とした小国寡民の殻を打ち破り、個性と多様性を重んじて生きる選択肢を選んだ今の世を生きる人々にとって、欠かせないポテンシャル(人間世界に必要なもの)なのではないでしょうか。
『モチベーション3.0の好奇心と探究心』だけでは心もとない中、無知の知を知り、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけ、質実剛健になることをセットで身につければ、安易な探究心からの不発弾の暴発を防ぐことができるかもしれません。そういった未来は、人が本当に『自灯明』、『真灯明』の意味を理解していればあり得ないことです。『それだと虚無が生まれる』し、『そうなってしまうのは真理ではない』のですから。ということは、人間の中心にあるべきなのはやはりこの『真理(愛・神)』という圧倒的な存在のようです。
ネットリテラシーならぬ『真理リテラシー』。老子や韓非子が言ったように、人は穏やかな小国寡民から離れれば離れるほど、秩序を保つのが難しくなり、混沌に近づきます。しかしもう我々は、自分たちの意識無意識に関係なく、小国寡民で生きていく選択肢をやめたのです。だとしたら、その『混沌という闇』の中を生きることを求められている我々に必要なのは、『それまで以上に』、この『真理リテラシー』なのです。『真理(愛・神)』を味方につけ、闇に光を照らし、虚無から遠ざかり、生きていくことが求められているのです。
もし、『人間世界に必要なもの』だと我々が勝手に思っているものをひた守ったその延長線上に、ナウシカの世界のような腐敗が待ち受けているとしたら、宮崎駿の言うように、人間というものは地球にとってふさわしくない生き物だったということになりますね。その時は彼の言うように、人間がこの世からいなくなって終わりです。その結果はただ人間が、ひたすら『沈黙』している『真理(愛・神)』の解釈を間違えたことによる、自業自得というやつですね。
恐竜がこの世から絶滅したように、人間だって絶滅する可能性は十二分にある。ただ、人間と恐竜の違いはその知能の高さにあります。もし人間が与えられたその知能を活かせず、逆にそれに食いつぶされてしまうようなことになれば、この世のどこかにいる『誰か』に、
と言われて終わりですね。このあたりの問題を更に深く潜って熟考するなら、やはり『ノア約束の船』を観るべきでしょう。『ブラック・スワン』のダーレン・アロノフスキーがメガホンを取り、『グラディエーター』、『レ・ミゼラブル』のラッセル・クロウ、『ハリーポッターシリーズ』のエマ・ワトソンらが出演するこの映画は、一部の宗教団体から問題視されましたが、あの伝説がどういうものだったかを観ておかないわけにはいかないでしょう。
この話は私は完全な『聖書で言い伝えられている伝説』程度にしか見ていませんが、しかしこの映画から得られたインスピレーションはありました。例えば、釈迦が妻と子供を置いて旅に出ようとするとき、妻に、
妻
と引き止められ、そこで釈迦は、『悪魔』という意味の、
釈迦
と言ったのは有名な話です。これには諸説がありますが、私はブッダの記事にて、こういう見解を出しています。
これを浅薄に考えると釈迦は単なる冷酷人間だが、実はそこにあるのは『子供への執着』であるという。つまり、自分の家族のことが大事だという感覚が自分にあり、しかしそれは『自分本位な感情であり、博愛的ではない』という葛藤があった。つまりこの感情の揺れを『天使と悪魔の葛藤』とした場合、『悟りを開こうという志』が天使、子供が『悪魔(自分の志を揺り動かす驚異的な存在)』、であるということになるのだ。
つまり、釈迦とて子供はとても大切だった。しかし、すべての人間がそうして自分本位な感情を優先するからこそ問題が起きるのだということを考えると、自分が率先してその執着を捨てたという行為は、とても注目に値する行動になります。そして、この映画の主人公である『ノア』も、同じような場面に直面します。
人間も動物も、男女一対ずつ船に乗せ、この地球をリセットするというのがこの話の軸にあります。しかし、自分たち人間だけをどうしても『特別扱い』しなければ、船には乗れない。男女一対ずつにならないからです。しかし家族はもう一人いる。では、自分たちを優先して、子供を連れていくか。ノアはそれは自分本位な考え方だと考えました。しかし、妻は言います。
妻
ノアは子供にナイフを振りかざした。…続きは映画で観てみましょう。しかし私にはこのノアと釈迦が『使命(大儀)を負った人間』として、ダブって見えましたね。『のこぎりで体を切断』されても苦しんではいけない、とまで言った釈迦なら、ノアと同じように自分の子供への執着すらも断ち切るべきだと覚悟したような気がしてなりません。
人にとって最善の生き方とは何か
(上)の記事にも書いた『病気にならない暮らし事典-自然派医師が実践する76の工夫-』にはこうもあります。
農作業がある時期は午前4時に起床して、畑に立ちます。ない時期は、午前7時に起床。自宅に隣接する診療所で、午前8時半から診察をはじめ、お昼は自宅に戻って食事をし、午後5時には診察を終えるという、規則正しい生活です。カレンダー通りに休みもとれるようになり、自分の時間がもてるようになりました。夜は、テレビやインターネットもほとんど見ず、2歳の息子と添い寝しながら、午後9時に一緒に寝てしまいます。
こうした自然に沿った生活をはじめてから、私の体調は大きく変化しました。自然とかけ離れた生活をしていた以前の私は、極端な冷え性でした。暑い日はほとんど汗をかかず、寒い日は脚をのばして眠れませんでした。それが最近では、むしろ暑がりなくらいで、とてもよい体調が保てています。周囲からは、いい意味で『性格が変わった』とも言われます。私はこれらの体験から、『病気のすべてが、シンプルな同じ法則でおきている』ことに気づいたのです。
著者はその『シンプルな法則』をズバリこう断言しています。
- すべての病気の原因は、不自然な暮らしにある。
- 自然に沿った暮らしをすれば、病気にならない。
この法則の信憑性の高さは、(上)で書いたように多くの専門書を読んだ私からしてもうなづける話です。私もこれからもっと勉強していきますから、更にそこでわかったことを踏まえ、この話を更新していきます。
以前、何かの雑誌で『お金持ち経営者の対談』が行われていました。名前は伏せますが、彼らは皆社会現象を巻き起こすほどの人物。誰もが知る男性経営者たちです。私はその時に誰かが言った、こういうセリフが頭から離れません。
男性経営者
彼らは確かに賢い。だからこそ大金を稼ぎ、偉人に近いような位置まで上り詰めた。だからこそここで挙げられている『賢い女性』を、どこか『上から見おろす』ように、まるで、
理解できないねぇ
とでも言うかのように、そう言うわけです。揶揄しているようにも見えました。しかしどこかでやはり『賢い』という言葉を捨てられない。彼らの中にある『賢さ』の中には2つあり、1つは自分たちのようなガンガン前に出て、上昇志向を持ち、フッパーやリヴァイアサンを発揮して大活躍するタイプ、そしてもう1つは彼女らのように、上昇志向を捨てて、まるで老子が理想とした小国寡民で実現できる安寧な日々を求めるタイプとがあるのかもしれません。
これにはもちろん『性ホルモン』も関係しているでしょう。男性にはテストステロン、女性にはエストロゲン等のホルモンが分泌されています。厳密には女性にもテストステロンは分泌されますが、その濃度は男性の20分の1程度。そのホルモンが人に与える影響もとても大きなものです。女性の場合、このエストロゲンの量が多ければ多いほど女性らしくあり、男性の場合、このテストステロンの量が多ければ多いほど男性らしくなる、と言っても過言ではありません。
主な性ホルモン
名称 | 効果 | |
男性ホルモン | テストステロン等 | 男性らしくなる |
女性ホルモン | エストロゲン等 | 女性らしくなる |
例えば女性の場合、ホルモンバランスが乱れると『薄毛、体臭、ニキビ、うつ病、不定愁訴、冷え』等の様々な問題が起きます。ニキビで考える場合は、こういうことです。
ホルモンバランスが崩れると、ただでさえ普段、洗顔不足によって皮脂が洗い流せない場合はニキビの原因となるのに、毛穴自体が狭くなる現象が起こるので、なかなか皮脂が洗い流せなくなり、ニキビができやすくなるわけなんですね。
ですからエストロゲンと似た働きをする大豆イソフラボンを摂取することが有効だと言われます。しかし大豆イソフラボンは、下記の記事に書いたように、男性が摂取すると問題が発生します。もちろん多少なら問題はありませんが、女性ホルモンのエストロゲンと似た動きをするわけですから、男性にとっては女性ホルモンが優位になり、男性ホルモン(テストステロン)が劣位になりがちになります。女性乳房化といった現象や、テストステロンの減少などに繋がり、EDとなる可能性もありますので、大豆イソフラボンの過剰摂取には気を付ける必要があります。
私が女性について書いたオリジナルの記事は以下の2つですが、当サイトを通して私が男女の違いについて思い浮かべたイメージはこうです。
『男は階段を上ることに使命を感じる、女は踊り場で休息を取ることに生きがいを覚える』
どうも男を見ていると、攻撃性と野心があふれていて、上昇志向を持っている人が多いように見受けられます。そして女性を見ていると、『仕事よりも家族を優先してほしい』と言って、階段の踊り場にシートをひき、ピクニックをしたがる傾向があるように見えます。もちろん一概には言えませんが、どうも男女にはこういう違いがあるように見えました。
『女が虚ろで神秘的なのは、この世が虚ろで神秘的だからだ。男は鈍感である。』
その私の違和感は、勉強を進めていくうちにつれ、的を射ていたことがわかりました。『話を聞かない男、地図が読めない女』にはこうあります。
男性ホルモン・テストステロン その功罪とは?
男性ホルモン、とくにテストステロンは、男を狩りに向かわせ、獲物を殺させる攻撃的なホルモンだ。男にひげが生え、髪が薄くなり、優れた空間能力が持てるのはテストステロンのせいである。(中略)だがテストステロンは、現代の男たちにとって困った一面もある。適度なはけ口がないと、攻撃性が高まって、反社会的な問題を引き起こしかねないのだ。男の子の全身にテストステロンがあふれ出すのは12~17歳ごろだが、犯罪をいちばん起こすのもこの年齢である。
(中)の記事のオンラインゲームの話でよく出てきた『子供』というキーワードを思い出しましょう。あそこで私が『子供』という言葉を連発したのは、『子供だから仕方ない』という意味と、『この年齢は一番テストステロンがあふれ出し、血気盛んであり、それを制御する能力もなく、見栄と虚勢に支配されがちで、それ故に道を誤りがちである』という意味が込められています。あのゲームは小学生もやることがありますが、特に『害悪プレイ』をする人はまさにちょうどこの12~17歳という年齢にピタリ当てはまるのです。
更に本にはこうあります。
なぜ男は攻撃的なのか
テストステロンは、成功、達成、競争のホルモンなので、へたをすると男や動物のオスは危険な存在になる。信号でクラクションを鳴らす運転手の92%は男である。ちなみに強盗犯の96%、殺人犯の88%も男だ。性的倒錯者となるとほぼ男の独壇場だし、数少ない女の倒錯者も、調べると男性ホルモンが高いレベルにあることがわかった。
そのオンラインゲームの話で言うなら、そういう行為をするのはほとんど全員と言っていいほど男性です。そして、『ブレイブ・ワン』、『アメリカン・ギャングスタ―』、『ドン・ジョン』、『クロニクル』、『キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け』で考えた『問題人物』たちもすべて男性ですね。
本にはこうあります。
ジョージア州立大学のジェームズ・ダブズ教授は、企業経営者や政治家、スポーツマン、聖職者、囚人などさまざまな男性の唾液を採取して調べてみた。すると分野を問わず業績の良い者ほど、テストステロン量が多いことがわかった。いちばん少なかったのは牧師で、こういう職業に就く男は支配的な性格でもなければ、性的に活発でもないことがよくわかる。弁護士やセールス担当者など、女性でも大きな業績をあげている人もやはりテストステロンが多かった。ダブズ教授に言わせると、テストステロンが多いと業績があがるだけでなく、性向がテストステロンの分泌を高めるという相乗効果があるらしい。
だんだんとキーワードが揃ってきましたね。テストステロンという男性ホルモンの分泌量が多いことは、間違いなく人に何らかの影響を与えるということがわかってきました。
更に見てみましょう。
だがテストステロンがくすぶり続けていると、恐ろしいことになる。アメリカで、法律専攻の学生118名にミネソタ多面人格テストを受けてもらい、その後30年にわたって追跡調査を行った。すると敵意や攻撃性のレベルが最高だったグループは、そうでないグループより30年間に死亡する確率が4倍も高かった。(中略)男のテストステロンは新たなはけ口を見つける必要がある。筋肉隆々の男っぽさを前面に押し出したタレントが人気を集め、暴力的なゲームがヒットするのも、それに関係があるだろう。社会のなかでテストステロンの威力が軽んじられたり、避難されていると、かえって反社会的で乱暴な形で男性ホルモンが噴出してしまうのだ。やはり男の子には、日常的に体を動かす習慣をつけさせて、こまめにテストステロンを発散させた方がよさそうだ。
テストステロンを発散させずにため込んでばかりいると、死亡率が4倍も高くなるわけですね。まさにこれは『排泄』の話です。これで、ゲームの話の時に書いた『殺意、暴力的なゲーム、憂さ晴らし、闘争本能』というキーワードについて、理解が深まったのではないでしょうか。私なども『THE・男脳』の典型のような人間ですから、プロフィールにある動画を見てもらえればわかるように、ボクシングやトレーニングの練習は35歳を過ぎた今でもいまだに継続しています。
また、自分で会社を運営し、更にはゲームでも『発散』する。それぐらい私にはテストステロンが大量に分泌されていると言っていいかもしれません。(中)の記事にあった『テストステロンが出てしまった』というのは、問題が起きたときにそれに歯向かっていく、私の『対抗心、反骨精神』のことだったわけです。
知人とやるときは『勝つまでやめない』と言って、朝の6時くらいまで知人を道連れにし、勝つまでやり続けるときもありますからね。ちなみに女性がプレイして敵にやられても『あーやられたー』と呑気に言うことが多くみられますが、男の私は単純に『ブチッ』と頭の血管が切れます。
まさに血気盛ん。私の性質を知りたいという人は、あの古代ギリシャ最強の都市国家『スパルタ』を描いた映画『300』を観てください。
たった300人の軍団で、ペルシャ数戦の軍団、およそ100万人相手に突っ込んだ。私には知性を追い求める冷静さもありますが、同時にあるのは彼らのような煮えたぎる男の炎。『スパルタ教育』というと今の世を生きる人々は顔をしかめますが、もしこの時代に生まれたのなら、私も彼らのように誇り高く男として自分の命を使い切ったでしょう。あのソクラテスも敵からすると『厄介な敵』と思われた一兵士としての面もありましたが、私にもそういう一面もあるのです。
この記事や動画などを注意深く見ている人ならわかるはずですが、私は『聖人』ではありません。私は彼らを『ライバル視』してこのサイトで彼らと対話したわけです。『力に屈したら男に生まれた意味がない』、『私に依存しないでくれ』、『アウトサイド・インではなくインサイド・アウトの発想を持とう』というキーワードを拾っていけば、おのずとそれが見えてくるはずです。ブッダやキリスト等の話を真剣に説いているから私に後光が差し、私が高潔な人間だと勘違いする人もいるでしょうが、私は一度も自分が聖人だと言ったことはありません。
私は『男』です。野心もあり、自由に生きて、悔いのない人生を生きるために、たくさんのお金を手に入れ、それで世界のいろいろなところを行ったり、色々な体験をしてみたい。孔子、ソクラテス、ブッダ、キリストの共通点は以下の5つですが、
- 親の職業を継がなかったこと
- 伝統的なしきたりや体制を改革しようとしたこと
- 人一倍の努力家であったこと
- 確固とした信念を持ちそれを貫いたこと
- 見据えた的の規模が大きすぎて周囲の理解が追いつかなかったこと
実はもう一つ挙げるなら、『お金を欲しなかった』ということ。聖人とお金というのは縁がないものなのです。ですから私は単なる『野心あふれる一人の男』に過ぎないのです。
ちなみに、先ほど『牧師はテストステロンの量が少なかった』とありましたが、もし、彼ら四聖全員にテストステロンの量が少なかったのなら、彼らがお金を欲さず、無私無欲に生きようとしたことの理由もうなづけるようになります。しかし、もし彼らにテストステロンの量が多くあったのにも関わらず、無私無欲に生きようとしたのなら、彼らは克己心があり、弱い自分に打ち克ち、善悪と是非がなんであるか、また真理がなんであるかを理解するだけのポテンシャルを持った、相当な人物だったことになります。
また、彼らはお金を欲しませんでしたが、例えばブッダなどは、女性と接触することを避けるよう強く説いていました。
『女性たちを見てはならないし、話してはならない』(涅槃経5、23)
この女性軽視の考え方は何世紀も続き、女性修行僧は僧院では格下の仕事を与えられ、悟りに到達するには男性に生まれるほうが望ましい、というより不可欠であると伝統的に考えられてきました。
- お金
- 女性
という、確かに『欲求の暴走』に繋がってしまいがちな要素はシビアに考える必要はあるでしょう。中村勘太郎が『道元』を演じる『禅 ZEN』では、俊了という修行僧がおりんという女性修行僧に欲情してしまい、乱れるシーンがあります。たしかにあのようなことは十分に起こり得るのであり、それらを『敵視』する考え方は一理あるとは言えます。
武者小路実篤もこう言いましたが、
手塚治虫の『ブッダ』、『アメリカン・ギャングスター』等を見ても、お金がないという事実が人を歪め、人を間違った行為に誘う。そう考えると、確かにそれらの存在は『悪』であり、敵視する考え方は分かります。
しかし、今の世でそう考えることは正解でしょうか。別に今の世は正しい世界ではないので過剰評価することはありませんが、お金と女性自体に罪はない。それを使いこなす、あるいはそれと向き合う『人間』に問題があるからいけないのではないでしょうか。そう考えたとき、孔子と孟子の教えにある『義利合一』の考え方は注目に値します。
義を重んじながら富を得ることはできる、ということ。義を軽んじて富を得るなら、破滅するという戒め。
しかしとにかく、これでその男性経営者と『賢い女性』の道が分かれた理由も見えてきたのではないでしょうか。成功、達成、競争のホルモンであるテストステロンが多い男性は、おのずとそのテストステロンをいかんなく発揮、発散できる『戦場の最前線』を選択しがちになるということですね。
そう考えると『フッパー』や『リヴァイアサン性』というのは『=テストステロン』という図式も頭に浮かびます。リヴァイアサン性というのは『自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない』ことを優先する『猛獣性』なわけですから、とても酷似していますよね。フッパーとして似たようなところがあります。
茂木健一郎氏が挙げた『中国、マーク・ザッカーバーグ、ジュリアン・アサンジ』も全員男性です。『スノーデン』も男性ですね。私は男性として自分の中にある『当たり前の感覚』を軸にしてこの記事を書いていますが、こう考えるともしかしたら、こと『リヴァイアサン性』に関しては腑に落ちない女性がいるかもしれませんね。その『賢い女性』たちのように。
その場合はそこだけを外して考えてもいいかもしれません。ただし、(下)にも書いたように、フッパーやリヴァイアサンを『使いこなす』ことが出来れば、必ずしもエゴイズムに支配された利己的な行動は取らない。インテルのイスラエル・チームや稲盛和夫がやったことを考えればわかるように、彼らは結果として自分の利益も得たかもしれませんが、それ以上にその他の人々に大きな貢献を果たしましたよね。我々はインサイド・アウトの発想を落ち、人生に主体性を持ち、フッパーやリヴァイアサンを『使いこなす』ことで、潜在能力の埋没を防ぎ、それ故に生き延びることができ、同時に、大きな結果を出すことが出来るのです。
私が『あえて老子の小国寡民システムを否定しない』と言ったのには理由があります。私もここで挙げた、
- 賢い女性
- この本の著者
- 老子
- ヴィレッジに住む人々
- 神のお告げを聞いて行動したノア
の取った行動から垣間見える『純粋さ』というものは、とても大切なものだと感じるからです。それは、たまにテレビで観る『少数民族の暮らし』を見ていても感じるところです。アランナ・コリンが説いた、『人は、抗生物質等の使用によって寿命を延ばす代わりに、腸内細菌のバランスを崩し、21世紀病を増やした可能性がある』ということも非常に興味があります。
人間にとって最善の生き方って何だろう…
何度となくそういうことを私も考えてきました。しかしアランナ・コリンは、『抗生物質がなければ私は感染症による絶えることのない痛みに耐えられなかった』と言いました。また、そういう少数民族が怪我をして病気になったりすると、治療するために文化の栄えた場所に行きます。『ヴィレッジ』を観ればわかりますが、この映画でも同じようなことが起きます。
確かに、『医者が人の命を救う』こと自体が越権的だという見解もあり、病気や怪我を負っても自然に身を任せ、それで死ぬならそこが寿命だという考え方もありますが、例えば正体不明のウイルスが蔓延したとき、その正体をいち早く突き止め、最悪の事態を防ぐために奮闘するのは、人が人という種を保存して生きていくために必要不可欠な行動なのではないでしょうか。
『ワールド・ウォーZ』もいいのですが、『インセプション』、『ダークナイト ライジング』のマリオン・コティヤール、『ボーン・アイデンティティー』、『オーシャンズ11』のマット・デイモン、『シャーロック・ホームズ』、『キャプテン・マーベル』のジュード・ロウらが出演する映画『コンテイジョン』は、このあたりのテーマを考えるにはうってつけの映画となっています。
最後の最後のシーンが重要です。この映画のヤフー映画の評価はそう高くないのですが、『最後を観たのか』と言いたくなりますね。私も実はそれを見るまでは少し退屈さを覚えたのですが、最後の最後に淡々と流されたあるシーンを見て覆されました。私はそのシーンを見たとき、ゾッとしましたね。これは決して、空想の話だけで済ませられる問題ではないのです。
それに、今から中国人とインド人の増殖を防ぐことが出来るでしょうか。地球の人口はやがて100億人を超えるでしょう。このようなことをいろいろ考えた結果私は、『真理(愛・神)』を味方につけ、闇に光を照らし、虚無から遠ざかって生きていくことさえ忘れなければ、『不測の事態』が起きたときにもそれに対処でき、世界に平和は実現できる(あるいは秩序が保たれる)という判断に至りました。
しかしこれは言っておかなければならないでしょう。人間の過剰増殖とリヴァイアサン性の暴走によって、壊滅する未来が見えます。ですから私の説く話は、100年後には通用しない可能性があります。私の考えはあくまでも『この時代』を生きる人々にしか通用しないかもしれないのです。
初期設定を変えるべき人間
さて、ここまで読んだ方は、冒頭で『マニュアル車を乗りこなす』ことを求められるという意味が分かりましたね。人は楽をしてはいけないのです。『楽』と『楽しい』は違うのです。すべての人間が『自律』することが求められているのです。恐らく、人が虚無から遠ざかり、心を充足させて悔いのない人生を生きるためには、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけるための『資格試験』のようなものを受ける必要があります。人は、『通るべき道』を通ることが暗に求められているのです。
例えば芸人のK、Mさんを思い出してみましょう。彼ら二人は職業柄ということもあるかもしれませんが、『ネタ』や『面白さ』等も含めた『外見』、つまり『アウトサイド(外部要因)』を意識しがちです。女性等もそうですが、やはりアウトサイド(外部要因)を強化した方が仕事が増えたりちやほやされますから、そこに力を入れがちになります。特に容姿が整っている人などはそうでしょう。
であるからして、どうしても『システム2』を起動しません。そこは『システム1』のままにし、アウトサイド(外部要因)強化しようとします。ですから、『システム2』を起動しなければ解決できない問題に直面すると、あのようにどうしていいかわからなくなってしまうわけです。
そのような人も、アウトサイド(外部要因)が廃れてきたときに恐らく『システム2』を起動し始めるでしょう。人生に内省的になり、悔いのない人生を生きるためにどうすればいいかを考えだすのも、人生の黄昏時を迎えはじめるときになります。以前『PRESIDENT』で人が何に時間を使うかということを年齢別に調査したデータがあるのですが、多くの年代でやはり『自分のこと』に時間を使うのが圧倒的に多く、40代になって『家族』のこと、そして60代になってようやく初めて『自然と向き合う』ことが入ってきました。
しかも1位。それまで圏外だった『自然と向き合う』ことがいきなり1位に入る。これは人間が、人生の黄昏時に近づけば近づくほど『時間を有意義に使いたい』と考えるようになることを意味します。自分にやり残したことはないかと考えたとき、ようやくそこに目がいくんですね。まあ、自然というものはいつまでもそこにありますから、そういうことも優先順位が低くなる理由かもしれません。
私は26歳で日本の世界遺産をすべて見て回ったのですが、それはこういう『一般的なデータ』が関係しています。私は『非常識』ですから、その『一般的な王道コース』にはまりたくないので、先にそういう行動に出たのです。しかし、最初のころはふざけて崖から落ちるふりをしたりして、登山を舐めたりしていました。
この写真は私が撮ったもので、世界遺産『屋久島』で、樹齢3000年と言われる『縄文杉』を見に行くまでの片道4時間ほどかかる道のりです。私はこの橋から落ちるふりをしたり、一緒にいる部下を笑わせたりして、旅を面白おかしくするようにしていました。体力にも自信がありますから走ったり、階段を2段飛ばしにしたりして自分のペースを抑えませんでした。
しかし途中から体力が尽き始め、土砂降りの雨になり、かなり状況が変わってきました。とても過酷です。しかしまだ3時間ほどしか経っていない。そして、途中追い抜いたまさにこの画像の人、これは女性なのですが、この人が淡々としたペースで我々を追い抜いていきました。
私は恥を知りました。そのあとの5時間はまさに、前日に吸いすぎたタバコのせいで喉が悪化し、間違えた下着が雨をたくさん吸収してびしょびしょになり、それが冷え、私の体を痛め続けました。帰り道、少し歩くのを油断しただけで滑ってコケて、手が血だらけになりました。旅から帰った私は一週間は寝込みました。私はこのようにして、自然に人生の厳しさを教えてもらったのです。
このような経験をたくさんしたから言えるのですが、人は若ければ若いほど『システム2』を起動することを避けようとします。それは恐らく、周りにそういう人がいないということも大きく影響しています。私が18歳のころ、つまり『内観』の修行を終えた後、地元の旧友に真面目な話をしたらこう言われました。
そう言う彼の笑顔は少しひきつっていて、私がそれ以上真面目な話をすると、彼と私との間に距離が出来ることがわかりました。私には選択肢がありました。
- 気にせず自分の道を突き進む。
- 気にして彼ら友人たちと仲良く生きていく。
アインシュタインの言葉を思い出してみましょう。
もしその時に私が自分の人生を推進していたら、彼らとの調整はできなかった。しかし当時の私は自分の家族にわだかまりがあり、宗教や神といった大きな問題を解決するだけの能力もなく、不和があった。したがって、私は『推進』ではなく『調整』を選んだ。そして彼らと仲良く生きていくことを選択したのです。
しかし人間も年齢が60代になってくると、『育児・教育の終了』と『義務からの解放(仕事、家事、ローンの終了等)』というステージに入り、それまで通ってきた波乱に満ちた道のりが、その人を無意識に成長させ、『自然と向き合う』という精神状況にまで持っていくのです。
ただ、これは年配に配慮して尊重していて、実際にはそういう過酷な自然の状況に60代の人が多いということはありません。いたとしても楽しくおしゃべりをしながらとか、そういう人も多く、『システム2』を起動してそこへ来た、という人が多いという印象は特にありません。年を取れば大人になれるわけではない。
しかし、あのエレベーターの母親のように、やはり年齢を重ねるごとに人生に思慮深くなる可能性が高い。それは『義務・教育』を通して責任を覚え、アウトサイド(外部要因)が衰えてきたことによってインサイド(内部要因)、つまり『自分の内面』に目を向けるようになり、それで思慮深い行動をとれるようになってくるということですね。
私はこの『一般的なデータ』にも逆らいました。芸人『南海キャンディーズ』の山里さんは、『容姿がある奴は、それに怠けて努力をしない。俺は容姿が醜いから努力をしてきた』と言いましたが、私は容姿が悪い方ではなかったので、その『情けない怠け者』になる可能性があった。それが嫌だったので、インサイド(内部要因)を磨く選択肢を選びました。
私は23歳で起業したあたりから、『年配の人、上司、目上、偉人がやる行動』、とにかく『自分の年相応』や『自分の周りにいる人相応』で考えるのではなく、向上心があったので、常に『現在の自分とは不相応の人』が取る行動を取るようにしていました。例えば、
- 読書(哲学、宗教、自己啓発等)
- 映画鑑賞
- 高めのレストランでの外食
- 自然散策
- 世界遺産の旅
- 内省
このような行動です。まず自分の周りにそのジャンルの本を読んでいる人は皆無でしたから、それは相当浮く行動でした。しかしやはりどう考えても『周りにいる人の行動』に合わせていたら、いつまでも同じ場所で停滞する感覚があったので、そういう新境地を自分から試していかなければ新しい自分になれないと考えたのです。
そして先ほどの屋久島での出来事のように、それを通して多くの勉強ができました。やはり人というのは、『周りにいる人の行動』に合わせていたら、いつまでも同じ場所で停滞するのです。自分の身の回りにいる大体の人は、恐らく『システム2』を起動することを常時モードとしていない。そうなると、そういう人と行動すると『システム1』を常時モードとしなければ『調整』できない。
そうやって人は『システム2』とは無縁の人生を送るようになるのです。(中)に書いた私の経験談の時の人間関係も、ほとんど全員が『システム1』しか起動しておらず、あるいは、
それを起動すると調整が取れず、自分だけが浮いてしまう…
という恐怖心に脅かされ、『たまにしか現れない私』よりも、『頻繁に会う周囲の人』の常時モードに合わせることを優先してしまい、その結果、思慮浅い行動を取るようになってしまい、私に対してあのような発言をしてしまったのでしょう。
芸人のK、Mさんは、『システム2』を起動すれば間違いなく問題を解決できます。しかし例えばその陰口を言うMさんは、『お酒の席』での陰口が圧倒的に多い。お酒を飲んだ状態で『システム2』を起動することはできませんよね。彼は、
M
と断言していましたが、やはり精神状況的に、『システム2』と無縁の状況に自分の身を置こうとすればするほど、真理は遠ざかり、虚無を覚えるようになるような印象があります。
例えば、『システム2』を起動することが難しい子供で考えてみましょう。であるからして子供は、とても思慮浅い行動ばかりとります。私も小学生のころから悪さをしていましたからね。例えば、虫の羽を引きちぎって遊んだり、アリをつかまえてアリジゴクに入れたりして、命を冒涜していました。しかもこれは書けるような内容(多くの子供がやってしまうこと)で、もっと悪いことをしていました。
彼らに主体性とモチベーション3.0を期待することは難しく、『コラ!』とかそういう大人からの働きかけに『反応』させるしかない。そういう反応的な人生を送ることが圧倒的に多いのが子供という時代です。彼らに『真理』の話をして、理解できるでしょうか。恐らく出来ないでしょう。私の周りにいる20~60代の人でも100%理解できないんですからね。ある日部下にユダヤ人の話をしていると、明らかに聞いていないそぶりをしたので激昂し、1時間説教した後にこう言いました。
私
すると彼はこう言ったのです。
部下
つまりこれはこう言ったのと同じことですよね。
私
部下
世の中にはこういう人も大勢いるのです。したがって、子供やこのような人は目の前にある虚無を晴らすことができない。だから、くよくよしたり、泣いたりするのは往々にしてこういう人たちですよね。自律していて、思慮深く考えられ、客観視できる人は問題解決能力があるから虚無を晴らすことができますが、『システム2』と無縁の状況に自分の身を置こうとすればするほど、あるいは無縁であるほど、真理は遠ざかり、虚無を覚えるようになるのです。
恐らく、人が虚無から遠ざかり、心を充足させて悔いのない人生を生きるためには、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけるための『資格試験』のようなものを受ける必要があります。人は、『通るべき道』を通ることが暗に求められているのです。
ちなみに私には例の経験事例のように、『私との人間関係が上手くいかない(不和がある)』と思っている人が大勢います。その理由は簡単で、私がその18歳の時に『調整』を選び、そしてその後『推進』を選んだことを考えればわかるように、私はもう人生で、相手が『システム2』を起動できないのであれば話はしない、という考え方に至ったからです。(子供以外)
つまり、『私との人間関係が上手くいかない(不和がある)』と思っているその大勢の人は、いまだにその『システム2』を起動できずにいるのです。どうやって私との人間関係を解決すればいいか、そのKさんMさんのように、わからない。したがって、『見て見ぬふりをする』という選択肢を取り、この問題を放置しているわけですね。あのエレベーターで降りた男女のように、そういう『楽な選択肢』を選ぶ人が後を絶ちません。
唯一不和をある程度解消できているのは、私との接触回数が多い人間だけです。私と接触すれば私の考え方はすべてさらけ出されますから、それを受け、本人も『システム2』を起動する機会が増え、『和』が作られるようになるということです(例の人間関係はたまにしか会わないので、ここで言う接触回数は少ない、という考え方になります)。
あと私が『彼ら』にできることと言えば、およそもう見て見ぬふりをすることなどできない『わかりやすい大きな結果』を出し、その人の内省を促し、遠隔的に『システム2』を起動させることくらいでしょうね。
恐らくブッダやキリストらは、このあたりのことを非常によく知り尽くしていた。少なくともイエスより50歳近く多く年齢を重ねたブッダは特にそれがよくわかっていたでしょう。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうあります。
ブッダは、弟子たちが悟りを経験するには、自分の歩んだ道に従うことで十分だと考えていた。この道とはそもそもブッダが考案したものではない。それは、『遠い昔に人々が踏破した非常に古い道(相応部経典12,65)』であり、これまでのブッダがかつて教えたものであるのに、その後すっかり忘れ去られてしまっていた。神の様な超自然的な存在の介入を一切必要としない道である。
ブッダとは『釈迦(ゴータマ・シッダールタ)』だけのことを指すのではなく、釈迦が通った道と『同じ道』を通った人全員に与えられる称号なのです。私は『内観』体験者だからよくわかります。彼と同じ一週間という時間を使い、自分の心とひたすら向き合いました。
自分の心と深く向き合うこと。多くは座禅を組むか、あぐらをかき、目を閉じてひたすら時間をかけて自分の心と向き合う。イメージは、『反省→猛省→内省→内観』の順番で、人は自分の心と深く向き合う。
釈迦が『苦しみからの解放』を見極めた『ブッダ(悟りを開いた者)』になったのは、快楽も苦行も関係なく、それが終わった後の『瞑想(内観)』による、自分の心と向き合う時間が決め手でした。(上)の記事『『地獄』と『極楽(天国)』の本当の意味とは』を思い出しましょう。
一つ一つの真理を理解していくことにより、心が豊かになり、思い悩みから解放されるわけです。これを『極楽』と表現しているのです。そして無知である人の心を『地獄』と言っているわけです。
[内に目を向けて真理を理解すれば心は平安になる]
[内に目を向けずに問題を未解決にしたままだと心は混沌とする]
そう考えるとやはり、すべての人は一度『システム2』を起動させ、自分の心と深く向き合うという『通るべき道』を通り、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけるための『資格試験』のようなものを受けることが求められているのかもしれません。つまり、人は皆、ブッダになることを求められているのかもしれません。
それができないなら、Kさん、Mさんのような状況、戦争、不和、軋轢、確執は避けられず、人は虚無に落ちることは避けられない。つまり、世界平和は永遠に実現されないのかもしれません。私は恐らくこれが世界平和が永遠に実現されない理由だと分析します。
何度も言うように私は無宗教であり、仏教徒になるべきだとも、クリスチャンになるべきだとも思いません。ただそこで教えている尊い教えの価値を正当に評価しているだけです。仏教徒にならなくても、私がここで言う『ブッダ』に近い存在にはなれます。
つまり、私のような無宗教の人間が、ある種宗教に『喧嘩を売った』結果、やはりブッダやキリストや孔子といった人々から崇拝される人物は、人としての人格レベルを限界近くまで引き上げ、真理の実態を捉えた、見識高い『天才』だったということですね。
ここまで考えてわかったように、人は最初に『システム1』でいて、やむを得ないタイミングで『システム2』を起動しますよね。『最小努力の法則』を思い出してみましょう。
ある目標を達成するのに複数の方法が存在する場合、人間は最終的に最も少ない努力ですむ方法を選ぶ、ということ。
私は、この人間の初期設定が間違っていると推測します。つまりその真逆で考えるのです。
この考え方を後押しする、私が好きな言葉があります。フランスの小説家、ブールジュのこの言葉です。
数多くの名言を内省してきた私が、厳選して部下に伝えている言葉の一つに、これがあります。私は兼ねてからこの言葉が好きだったのですが、今回のテーマと照らし合わせて考えてみてください。まさにこれはこう言っているわけですよね。
『いつもは『システム2』でいなければならない。そうでないと、『システム1』で軽はずみに取った言動があなたを悩ませる。』
人はこの初期設定(デフォルト)を、どうも勘違いしている。ダニエル・ピンクの言うように人の初期設定(デフォルト)は、もっとレベルの高いものです。
ダニエル・ピンク
つまりその逆で、積極的に自発的に行動するようにプログラミングされているはずなのです。そして、常時モードは『システム2』であるべきなのです。私はこの記事を書きながら、様々な参考や事例を思い出しながら、強く強くそう実感しています。
ここに出てきた登場人物は皆、初期設定が『システム1』になってしまっています。だからこそ目の前にある『システム2』を起動しなければ解決できない問題を解決できず、右往左往するか見て見ぬふりをしてしまっています。そこにあるのは『虚無』です。私も何度も何度もこの人たちの生み出した虚無を目の当たりにしてきました。
あるときフジテレビ系『ホンマでっか!TV』で、ある学者がこう言っていました。
女装についてはともかく、私はこういう人の行動がわかります。恐らく常時モードが『システム2』だからこそ、そのように極端な『システム1』でしかはじき出せない非常識なことをして、脳をリフレッシュしたいのです。彼らは常に『システム2』を起動して何かを考えていますからね。下記の記事の『セレンディピティ』をご覧ください。
セレンディピティとはまさに、『システム2』で考えてもアイディアが思い浮かばないが、『システム1』に落として全く違う行動を取った時、その時に考えて煮詰まっていたアイディアのカギが見つかり、アイディアが完成するという現象です。
このように、本来『システム1』というのは、『システム2のリフレッシュ』、つまり『食事の途中で飲むドリンク』のようなもので、メインは『食事』なのです。『食事のために(ついでに)ドリンクがある』のであって、『ドリンクのために(ついでに)食事がある』のではないのです。箸休め(一休み、リフレッシュ)のためにあるのであって、メインとして考えていく対象ではないのです。人間はこの初期設定を間違ってしまうと、人生を大きく狂わせることになるのです。
あるいは、人生で起こる様々な問題に、インサイド・アウトの発想で対処できず、虚無を解決できないようになる。ブールジュの言う通りの結果になる。
私の行動について説明したいくつかの言葉にあるキーワードを拾ってみましょう。
- お風呂に頻繁に行く
- 運動をよくする
- 映画をよく観に行く
- 自然をよく見に行く
- ゲームをよくする
- ゲームではムキになりたくない
これらは全て、『常時モードがシステム2だから、システム1に落としたリフレッシュを日常に挟み込みたい』という私の意思が現れています。例えばゲームは完全に気晴らしでやっていますから、プロプレイヤーのようにそれで生計を立てようと思っていないので、適当にやりたい。つまり、『システム1』程度のモードでやりたいのです。
映画は実際には『システム2』を使っていますが、映像や音楽を楽しんだりして娯楽要素が高いため、『システム1と2』の両方を使うことが出来、リフレッシュにもなります。運動も、アスリートのように何らかの使命があれば『システム2』が必要ですが、そうじゃない限り心身のリフレッシュです。私は基本、運動には『システム1』しか使っていません。
まさに私もその学者のように、『常時モードがシステム2だから、システム1に落としたリフレッシュを日常に挟み込む』という生活スタイルを取っているのです。当然、私がやっているからという理由は全く関係ありません。これは、人間にとって非常に重要な話をしていると確信しています。
『いつもは『システム2』でいなければならない。そうでないと、『システム1』で軽はずみに取った言動があなたを悩ませる。』
まあ、そうなったならそうなったでリフレッシュのときに羽目を外しすぎて逮捕される人が出るかもしれませんけど…。
最後に~人間が求められる最善の生き方とは~
さて、冒頭に書いたこの記事の言葉を思い出してみましょう。
- (面倒だ)と思ったその瞬間的な発想こそ、この話のカギ
- この記事を読んだあなたには『ある能力』が身についている
- これを書いて見せることが私があなたにできる最大の貢献で、これ以上のことはしてはいけない
つまりこれはこういうことですよね。
- (面倒だ)と思ったのは『システム1』。初期設定が『システム1』の人はブールジュの言った通りになってしまいがち
- この記事や映画の真意は『システム2』を起動しなければ読めない。あなたにはそれを起動する力が身についた
- 私を含めた一切のアウトサイド(外部要因)に頼ったらあなたの可能性が埋没する
そして宮崎駿が、
めんどくさいなぁ、めんどくさいなぁ
と思いながらたった4秒のシーンを作るのに1年半の時間をかけることができたのは、その(めんどくさい)と思うのは『単なるシステム1の自動思考』であり、暑い日に(暑いなぁ)と思うのと全く同じで、あまり重視するような意思ではないもの。実際にはすでに『システム2』で自分のやるべきことを熟考して固めてあるので、彼はいくら『システム1』がそう自動思考しても、屈することなく自分の使命を成し遂げることが出来たのです。
恐らく、人が虚無から遠ざかり、心を充足させて悔いのない人生を生きるためには、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけるための『資格試験』のようなものを受ける必要があります。人は、『通るべき道』を通ることが暗に求められているのです。それは、ブッダになる道と似ています。ブッダは、内観によって真理を発見し、悟りの境地を見ました。しかし内観までの時間を確保できなくても、今回の記事、映画を通して『長く深い内省』をしたあなたは、もはや完全に『システム2』を自分のものにしたはず。
冒頭に書いた文章をもう一度載せましょう。
私のこの記事をすべて読み終わった後に感じるのも、確かにこの『ドーパミン(オピオイド)』でしょう。しかし、この記事を読んだ後に残るのは『ただの充足感』だけではありません。まるで、一度運転免許を取ってしまえば後は、失敗さえしなければほぼ一生免許を取り直すことがないように、この記事を読んだあなたには『ある能力』が身についているのです。そのイメージはまさしく、下記の絵がピタリです。
この記事を通して身についたあなたのその『システム2を自在に起動する能力』があれば、あなたはインサイド・アウトの発想を自分のものにできます。アウトサイド(外部要因)の圧倒的な力に負けず、『最強の自律ツール』を使いこなす、一流の人間になっています。
外の環境が変われば自分も変わるという考え方。
自分の心が変われば自分の周りは変わっていくという考え方。
そしてそのすべての能力によって、あなたは『真理』を発見するでしょう。ブッダのように内観をする時間を確保できなくても、これだけの能力が備われば相当な人物になる。その逆で、アウトサイド・インの図式に依存し、人から『統治(支配)』され、『システム1』に甘んじてしまうようならば、人は『虚無』に陥るでしょう。
考えればわかりますが、この『最強の自律ツール』を使いこなすためには、『システム2』を常時モードとしなければいけませんよね。『システム1』の自動思考モードで楽をしていると、当然『真理』が何かを発見できず、場当たり的な人生を生きることになります。すると、気づいたらアウトサイド(外部要因)の圧倒的な力に支配され、何か(誰か)に従属することになります。
冒頭に書いた言葉を思い出してみましょう。
どうやら人間というのは、ある一定の条件をクリアしなければ見えてこない景色がある、どうやら大勢の人向けに結論を簡潔に書いても、その中に眠る圧倒的な力には気づけないらしい。つまり、あの結論の意味を理解し、そこに眠る圧倒的な力を自分のものにし、人生を大きく変えるためには、この後に続く資料を『読む(観る)』ことが必要だ。
確かに猿にでもわかるように本を書き、多くの人に本を売った福沢諭吉は尾崎行雄よりも一枚上手です。しかしあの話で問題なのは、『猿にでもわかるような本(例えば絵本)』を書き、それで人々が『システム1』だけで読めるからノンストレスで読めるのはいいが、人は本来『システム2』を起動して物事を考え、生きていかなければ、ブールジュの言った通り『生きたとおりに考えてしまう人生』になってしまうので、楽をしてしまった(システム1に任せっぱなしになった)ツケは大きいということになります。大勢の人(『システム1』を常時モードとしている人)向けに結論を簡潔に書いても、その中に眠る圧倒的な力には気づけない。これは大きな大きな痛手となるのです。
ニーチェの言葉を思い出してみましょう。
これは別に『キリスト教徒』だけに言えることではないですよね。『生の拡大をさまたげ、本能の発揮を抑え、人間を萎縮させ、退化させる』のは、別にキリスト教だけでなく、それも含めた『人間を甘やかし、潜在能力を埋没させる飴玉』なのではないでしょうか。つまり、『猿にでもわかるようなもの』を読んだところで、『簡潔版の答え』を見たところで、人に何か燃え上がる魂が宿らないように、『システム2』を起動することに対するストレスを、『使命』と覚えるくらいの心境にさせ、『自分の考えた通りの悔いのない人生』を生きることが、人に求められた最善の姿なのではないでしょうか。
しかし、ここまで読んだ人はその『飴玉』とは無縁ですね。『システム2』を起動しなければここにたどり着くことはできませんでした。それを踏まえ、冒頭の『簡潔版の答え』をここでより具体的にまとめ、詳細を明らかにしてみましょう。今までの記事を読んだ人だけがわかる『より的確な本当の答え』ですね。
結局どうすればいいの?
誰か(尊敬する人等)や何か(常識、法律、宗教等)に従ったり、依存したり、何かを期待するのではなく、自分の力で道を切り開く発想を持ちましょう。
自分の力を疑ってはいけません。あなたにある潜在能力と『主体性』が埋没しますよ。『拡張知能観』を持ちましょう。あなたの初期設定は『モチベーション3.0』のはずです。外部要因はあくまでも『利用』する程度にし、後は自分でやるのです。『支配』されてはいけません。『自律』するのです。そうしなければ『自燃型』ではなく『多燃型』人間になりますよ。『虚無』から遠ざかり、『悔いのない人生』を生きるためには、『天上天下唯我独尊』の意味を理解しなければなりません。
『真理(愛・神)』を味方につけ、『同』ではなく『和』を作るためには、『無知の知』を知る『質実剛健』な人でなければなりません。インサイド・アウトの発想が必要なのです。ニーチェの言う『超人』になること。それはつまり、『システム2』を起動して、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけられる人間になることを意味します。『最強の自律ツール』を使いこなすためにも、それを起動し、常時モードとすることは避けて通れません。『システム2』を常時モードとして、『システム1』はリフレッシュのために利用するのです。ここが逆になってしまう人が大勢います。
人生に主体性を持ち、『フッパー』や『リヴァイアサン』を『使いこなす』ことで、潜在能力の埋没を防ぎ、それ故に生き延びることができ、同時に、大きな結果を出すことが出来るのです。悔いのない人生を送るためのカギを握っているのは、自分以外の何物でもないのです。もし心が『虚無』に陥ったら、道を間違えている証拠です。その心が晴れる道を探しましょう。あなたが利用できる良きマニュアルになれるよう、私もこのサイトの品質向上に尽力していきます。
言葉の意味
- 主体性…他人からの指示で動くのではなく、自分の意志で動くこと。
- モチベーション1.0…ただ生理的欲求を満たして生きようとすること。
- モチベーション2.0…誰かの指示で初めて反応的に動くこと。
- モチベーション3.0…自分の意志で主体的に動くこと。
- 拡張知能観…自分の知能は拡張し、成長していくと考えること。
- 固定知能観…自分の知能は固定されていて、これ以上成長はないと考えること。
- 利用…活用する、 役立つようにうまく使うこと。
- 支配…他人や環境に自分の人生を操られること。
- 自律…他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動する、自分をコントロールすること。
- 自燃型…自分の意志で行動する人。
- 多燃型…人の指示で行動する人。
- 虚無…心がもやっとして、スッキリしない状態。鬱的で、落ち込んでいる状態。
- 悔いのない人生…死ぬときにほがらかでいられる人生。
- 天上天下唯我独尊…この世には自分という人間はたった一人しかいない。その自分を誇り、尊重しようという考え方。
- 真理(愛・神)…厳かで、永久不変で、近づいたら心が充足し、逸れたら虚無になる圧倒的な力。
- 同…自らの主体性を失って他に妥協すること。
- 和…主体性を堅持しながら他と強調すること。
- 無知の知…『自分は何も知らない』ということを知っている知識。
- 質実剛健…中身が充実して飾り気がなく、心身ともに強くたくましいさま。
- インサイド・アウト…自分の心が変われば自分の周りは変わっていくという考え方。
- アウトサイド・イン…周りの環境が変われが自分が変わっていくという考え方。
- 超人…唯一無二の命を大事にし、運命を受け入れてエネルギーを燃やし、堂々と生き貫ける人。
- システム2…思慮深い状態になれる脳のモード。
- システム1…思慮浅い脳の自動思考モード。子供はほとんどこのモードでいる。
- リヴァイアサン…元々人に備わっている凶暴かつ強力なエネルギー。
- フッパー…生き延びるための能力。最良の結果があるならそれを摩擦を恐れず追い求める姿勢。
- 最強の自律ツール…『真理と法律』の2つを利用し、インサイド、アウトサイド両面から自分を自律できるツール。
これらのポテンシャルがあれば何が出来るか。それは『システム2』を起動できるあなたには説明不要でしょう。『システム2』を常時モードとし、インサイド・アウトの発想で主体性を持って人生を生きていくなら、間違いなくあなたは『悔いのない人生』を生きることになるでしょう。そして、すべての人々が『悔いのない人生』を生きたとき、はじめて『世界平和』が実現されるのです。
リヴァイアサンは時に人を傷つけますけどね。誰かが前に出て、勝負に勝てば、誰かが負けることになる。
つまり『人生の免許』を持っていると言える人は…
『システム2』を常時モードにしている人のことです。
乗り物の運転や危険物の取扱いを『システム1』でやってはいけませんよね。『それらすべてを行う人生』なら尚のことです。主体性を発揮することも、モチベーション3.0になることも、拡張知能観を持つことも、利用することも、支配からの脱却も、自律することも、自燃型になることも、真理(愛・神)の輪郭を見つけ、虚無から遠ざかることも、無知の知を知ることも、インサイド・アウトの発想をすることも、天上天下唯我独尊を知り、超人になることも、和を重んじることも、フッパーを発揮することも、リヴァイアサンを操ることも、すべてはこの『システム2』を起動することが条件です。
さらに厳密に言うと、武道やスポーツに『10級~10段』等という段級位制がありますが、ただ『システム2』を常時モードとするだけでは『初段』程度の段階。確かにそれだけで一気に有段者を名乗るに相応しいのですが、人としての最高到達地点を目指すためには今挙げた能力をすべて身につけなければならず、そのためにはただ常時モードとするだけではなく、内省に内省を重ね、精神を熟達させる必要があります。さしずめ、『ブッダ』というのはここで言う『免許皆伝』の境地と言えるかもしれません。
私は、この人間の初期設定が間違っていると推測します。つまりその真逆で考えるのです。
じゃあ『人生の免許』の資格試験っていうのは…
『内観』ですね。
反省→猛省→内省→内観、の順番で自分の心と向き合う深さが深くなります。ですから、必ずしも内観をする必要はないかもしれませんが、それならせめて、毎日の内省を怠らないこと。PRESIDENT等の経済誌を読んでいればわかりますが、世にいる大企業の経営者たちは皆、朝や一日のどこかに30分程度の内省の時間を設けています。人一倍失敗できないと自覚し、人一倍模範的な人になる必要を自覚し、立派で一流な人を目指せば、自然と人はそういう行動に出るのです。そういう習慣がつけば人はおのずと、『システム2』を常時モードとすることができるようになります。
『内観』がよくわからない?それはただ『システム2』を起動していないだけですね。
『システム1』でしか人生に対応できない人はどうなるの?
そういう人は人生の無免許運転をしていることを自覚しましょう。あまりにも複雑な人間の人生を生きる以上、『システム2』を起動することは避けて通れません。それができない人は、悔いの残る人生を生きるか、後悔することが多い人生を生きることになるでしょう。
私がいくつか書いた『システム1、2』のモードで対応した人の事例は見ましたよね。それでもまだ『システム1』に依存する人生を送りたいですか?安易で無責任な言動を取って人を傷つけ、本人は『深く考えていない』と言うのが相場です。人が人として生きていくために、『システム2』を起動することは避けて通れませんよね。
『充足』も『虚無』も、心がある人間だけに起きる現象。高知能という特権を持った複雑な仕組みの人間には、他の動物にはない背負っている『使命』があるということですね。こうした『人間の仕組み』を理解することは、あなたの人生に大きな恩恵を与えるでしょう。『自分の考えたとおりに生きなければならない。そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう』。私は何人も何人も見てきました。『自分が生きたとおりのことを考えるシステム1に依存した人』を。
電力王、松永安左エ門がこう言うように、
どちらにせよ『システム2』は大きな失敗をしたときに起動するものです。人生を大きく考え直しますからね。つまり、これを『前』に起動するか、『後』に起動するかだけの違いなのです。あなたが生きたいのは『前始末型』の人生か、それとも『後始末型』の人生か。自問してみましょう。というか誰か一人でも『後始末型』になってしまったら、もうその時点で『世界平和』から一歩遠ざかるんですけどね。安易で無責任な行動を取る人がこの世に現れるということですから。
さて、いかがだったでしょうか。この『人生の免許』を取ることが出来れば、どれだけスムーズな人生を送ることが出来るかがわかりましたね。そして今までの記事を読んでも、まだ人生を無免許運転することの怖さがまだわからないという人は、この世に起こった様々な凄惨な事件、テロ、戦争の現場をその目で見ることです。『人生の免許』を持っていると胸を張って言える人は、『システム2』を常時モードとすることが出来る人。そしてその資格試験は、『内観』を含めた『自分の心に目を向ける』ことなのです。
人生の無免許運転をして、安易な気持ちで人を傷つける人の例は私の事例で話したとおりですが、わかりやすい例を今もう一つ出すなら、ソクラテスのこの言葉です。
これはこの本の超訳かもしれませんが、彼がこう言ったとしても全くおかしくはありませんからね。彼は間違いなく『そういう無免許の人たち』と『免許を持った人』の差を理解していたと言っていいでしょう。だから彼ら無免許の人には一切媚びを売らず、むしろ教育が必要だという態度を貫いたのです。
私もあなたも、そして地球で生まれるすべての人も、この人生で何ができ、どこまでできるかはわからない。どこまでリヴァイアサンを操ることができ、どこまで与えられたこの知能を活かせるかわからないし、どこまで真理を見つけられるかわからない。しかし、だからといってそれはやらない理由にはならないのです。
人間の増殖がどういう未来を生み出すのかはわかりません。わからないことを憂いていたって仕方ありません。いずれにせよ人はその世界を生きていくのです。そして、リヴァイアサン云々、テストステロン云々の話以前に、すべての人間は生きている間、どちらにせよ戦い続けなければならないのです。
だとしたら、『やむを得ず』戦うのではなく『率先して』戦う。それが人間の矜持というものです。どうせ死ぬんだ。持てるエネルギーをすべて使い切り、命を使い切って死のうじゃありませんか。それが人間の『使命』なのだから。『人生の免許』を取り、この儚い意味のない人生に、強い意志を持って尊い意義を見出す。それが人間の意地なのだから。
それではみなさん、悔いのない人生を。
この話(理論)は、私の成長とともに成長し、少しずつ更新・強化されていきます。2019年5月の現段階での考え方をまとめました。もしこれが今後20年、30年と覆らないのなら、私は結構な真理を見つけたことになりますが、言ったように私の話を過信するのは禁物です。しかし、100年くらいの期間であれば、この世界の光となれるでしょう。
一瀬雄治
追記~『次の人間』が通る4つの道~
『人間の主体性を応援するマニュアルが欲しい』
この記事は『今まで自分が積み上げてきたもの(記憶と経験)』に基づいて書いたわけですが、記事の強化として本棚にある本を読んでいくうちに、面白いことが起こりました。『38の黄金律』を書いた時と同じように、私が言いたいことと本に書いてあることが『リンクする(一致する、繋がる)』ことが見受けられたのです。
例えば宗教系の本には『自灯明、法灯明』がありました。四聖(孔子、ソクラテス、ブッダ、キリスト)に関しては他の偉人よりも丁寧に考えてきたので無意識に何らかの影響は受けていたとしても、ここまでピッタリと私とブッダの意見が一致していたかどうかまでは覚えていませんでした。
また、『モチベーション3.0』にはダニエル・カーネマンの話が書いてありました。彼も私と同じように、カーネマンの言う『プロスペクト理論』を題材に出し、『人は損失を避ける』ということについて掘り下げていました。『7つの習慣』では、ナチスの強制収容所で暮らしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルについて取り上げていました。私はこの7つの習慣を最後に読んだのは10年前ですからね。ここに彼のことが書いてあるとは知りませんでした。
私が今回軸に置いた『インサイド・アウト』という言葉は、この7つの習慣から借りた言葉です。私が今回の記事で意識的に『何かを借りた』のはこの言葉だけで、後は『今まで自分が積み上げてきたもの(記憶と経験)』だけを頼りに、それを軸にして書いたつもりです。きっと、もっと掘り下げればたくさんの由緒ある本に、私と同じ場所まで潜った話を見ることになるでしょう。
なぜなら、それが真理だからです。真理というものは『太陽』でもあり『核(コア)』でもあります。誰もが手を伸ばし、探求すればそこにたどり着くことが出来る。そのことを、この世を生きるすべての人々は理解する必要があります。
地球のどの場所から、どの時代から、誰が、どのような掘り方で地面を掘っても、絶対に最終的に、この『核』に到達するのです。間違ってはいけないのは以下の2点です。
- (真理にはたどり着けない)と思う
- (真理は人間の慰めのために存在している)と思う
『違う』からです。人は必ず真理(愛・神)にたどり着くことができ、自分の心の虚無を晴らすことができます。しかしそれは真理が自分の味方をしたわけではないのです。ただ、自分がその真理に近づいただけなのです。まるで、暖炉に近づくと温まり、離れると寒くなるように、真理というのは『ただそこに断固として存在するもの』なのです。多くの真理を知り、その真理を使いこなす『真理リテラシー』が必要です。もちろんそこで生まれがちな発想は、
俺は真理リテラシーがあるからな!『利用』する側で、偉いんだ!
という奢りです。しかしここまで読んだ人はもうわかりますね。その発想は真理ではないということが。『熟慮』しなければなりません。
『マニュアル車を乗りこなす』ことが求められると言いましたが、実際にはオートマ車というのは、ギアチェンジは自動ですが、アクセルやブレーキ、ハンドル操作その他は自分で行うわけです。そう考えると、『自律(インサイド)+法律(アウトサイド)』の図式に似ています。ですから、最善はマニュアル車を乗って、そのすべてをインサイド・アウトの発想で自律して生きるのがいいのですが、人は全知全能ではないので、実際にはオートマ車を運転し、ある部分だけはアウトサイドに任せるという発想も認められるでしょう。
また、『システム2』で運転技術を習得すれば、後は『システム1』だけでも運転できるようになることもあります。ですから、『マニュアル車を乗りこなす』ことに窮屈さを感じたり、ハードルの高さを覚えたりする人がいれば、そうした発想で、少し楽に構えることができるかもしれません。『資格試験』と同じように考えるのです。免許を取るまでは一定の条件を満たす必要がありますが、取った後は人生をスムーズに生きることが出来るのです。
また、もし『命を使い切ることが使命』というフレーズに対しピンと来ない、テストステロン濃度の低い、性格穏やかな人がいるとします。知っているでしょうか。動物の中には、自分の子供を産んだと当時に命を終えてしまうものがいるということを。
『ミズダコ』です。
そしてそれと同じような話が人間にもあります。(中)の記事で中国の話をしましたが、かつて、四川の大地震のとき、ある母親が遺体で見つかりました。しかし、その母親の腕の中には、赤ん坊が居たのです。赤ん坊は生きていました。母親が命を賭して、守り抜いたのです。
母親の携帯電話には遺言が遺されていました。
『私があなたを愛したことを、忘れないでね。』
彼女は、その赤ん坊の命を救うために、自らの死を選択したのです。私は『彼女ら』も命を使い切ったと確信します。そういう命の使い方もあるのです。私が書いた記事の中に、少しでもあなたの人生に『光』を与えられるものがあるなら、この記事が存在する意味もあるでしょう。悔いのない人生を生きてくれれば、それでいいのです。
では最後に、私が何となく頭に浮かべる『人類の歴史』をご覧ください。
何度も言うようにここで言う『ブッダ』とは、仏教的な話ではなく、仏教の開祖のあの『ブッダ』と同レベルの精神を持った人間のこと。最低でも、『真理』が何かを『システム2』で熟考した人間のことですね。『人生の免許』を持っていると胸を張って言える人、つまり『システム2』を常時モードとできる人ですね。
藤田田はこう言い、
ココ・シャネルはこう言い、
ルソーはこう言い、
ヴォルテールはこう言い、
ジョン・ロックはこう言い、
ゲーテはこう言い、
マリリン・モンローはこう言い、
岡本太郎はこう言い、
イチローがこう言ったように、
勘の鋭い人は『正しい道』を見極め、選択肢を見誤らなかったからこそ生き残れた。食物連鎖の頂点にいる(はず)の人間が、大自然の力以外で淘汰されるとしたら、戦争等の『人為的』な自滅。そしてその戦争というのは、『不和、確執、軋轢、いざこざ』等の人間関係のトラブルが沸点を超えた段階で起きる現象。『1→2→3→…10(戦争)』という過程があるとしたら、問題は『1』、あるいは『0』にあるわけです。
人間が生き残るためには、大きく分けて以下の2つの要素が必要です。
人間が生き残るために必要な要素
- お金を持つ
- お金に支配されない人格レベルになる
お金がなければ生きていけない。しかし、ただお金があるだけでは、それに支配されて破滅。まさに孔孟教の『義利合一』の言葉の重みが見えてきますよね。人は『高知能』を持っています。それは、『延長線上にその知能を持て余すことによる人為的な破滅』の未来の可能性を持っていることを意味します。つまり人間は、高知能生命体だからこそ、選択肢を間違えてはいけない存在なのです。人間だけですよ。『この選択肢』が与えられているのは。
全員がブッダレベルになる次の人間世界では、『お金』すらなくなるかもしれませんね。
人はこの世に生まれ、そしてこの世を生きるとなると、今のところ『2つの道』を通る人と、『3つの道』を通る人に分かれます。ここでは『凡人』という言葉を使いますが、それはこういう道です。
凡人が通る2つの道
- 産道
- 義務教育
偉人が通る3つの道
- 産道
- 義務教育
- 専門的な道
産道は誰もが通る道です。ここは絶対に全員が通ります。しかし、義務教育以外の道は義務ではなく、更には、その義務教育の道ですら、『真剣に通る』か『適当に通る』かの選択肢が与えられています。そしてもちろん、偉人になるためにはそれらの意思が必要な道をすべて真剣に通る必要があります。
例えば日本で言えば、イチロー、本田圭佑、錦織圭、吉田沙保里、石川遼、内村航平、福原愛、浅田真央、羽生結弦、彼ら、彼女らは皆若くして世界に名を馳せる、名アスリートとなりました。しかしそれは、彼ら、彼女らが幼少の頃から、自分の生きる道をしっかりと見定め、野球、サッカー、テニス、レスリング、ゴルフ、体操、卓球、フィギュアスケートと、そのことだけを考え抜いて、努力して生きて来たからですよね。
幼少ということは、そこには『親』が関係しています。親がその『専門的な道』を用意したのです。そして本人もその道を歩くことを受け入れ、真剣に通ります。どれだけ真剣にその道を通ったかがその人の偉業具合に影響してきます。
こう言ったイチローは、幼少期から自分の決めたその『専門的な道』を信じて歩き続けた。それが彼の最大の特徴であり、強みです。大人になって英語等の外国語を覚えることに抵抗を覚える人がいます。それは、バーナード・ショーがこう言ったように、
『自分(エゴ)』が確立してしまっているからです。しかし、幼少期のころならそれは弱い。であるからして、多くの親は幼少期のころから習い事をさせ、親がその子に適していると判断した『専門的な道』を歩かせます。ここまではわかりますよね。こう考えたとき、私が今頭に浮かんでいるのは『4つの道』を歩く人間のこと。つまりこういうことです。
『次の人間』が通る4つの道
- 産道
- 義務教育
- 専門的な道
- ブッダになる道
ちなみに『ブッダになる道』を歩くというのは『内観』をするということです。もちろん『ブッダ』という言葉を使わなくても構いません。ブッダというのは『悟りを開いた人』、つまり『真理が何かを見極めることができる、システム2を自在に起動できる人』のことですからね。
自分の心と深く向き合うこと。多くは座禅を組むか、あぐらをかき、目を閉じてひたすら時間をかけて自分の心と向き合う。イメージは、『反省→猛省→内省→内観』の順番で、人は自分の心と深く向き合う。
一週間という時間をかけて、ひたすら自分の心と向き合います。エゴが確立した大人がこの話を聞けば抵抗を覚えるかもしれませんが、恐らくそれがまだ弱い子供であれば、その抵抗も少ない。あまりにも幼い時期にそれが無理だとしても、
- 小学校卒業のタイミング
- 中学校卒業のタイミング
等で、随所に内観をするタイミングを挟んでいくのです。そういう時期は、子供が結構大人びている時期ですからね。大人の階段を確実に上っていることを実感するタイミングだから、タイミングとしてはバッチリです。そこでたったの一週間だけ内観をする。それはこの人生の時間を考えても、決して無駄な時間ではないと確信します。もちろん、精神未熟であればあるほどその内観の質は低いでしょう。釈迦がブッダになったのは、
- 29歳までに王子の身分であらゆる快楽を味わった
- その後6年間でありとあらゆる苦行を体験した
という2つの極端な要素がその内観の質を高めたと考えられます。ですから、経験値が低いほど内観の質は低くなる可能性がある。しかしこのように、『人が通るべき道』の中にこの『ブッダになる道』を入れることで、人の次元は年齢とともに徐々に上がっていき、『専門的な道』を歩いた人間が偉人に近づくように、すべての人は『高次元の人間』になることができるかもしれません。先ほどのテストステロンの話を思い出しましょう。
男の子の全身にテストステロンがあふれ出すのは12~17歳ごろだが、犯罪をいちばん起こすのもこの年齢である。
たしかに人は失敗を積み重ねることが成長にとってとても必要な経験となります。それは下記の黄金律を見てもわかることでしょう。しかし、いくらそうだからといって、そしてテストステロンのせいだからといって、犯罪が起きてしまってはいけませんよね。軽犯罪ならともかく、この年齢でも世間を震撼させる凶悪事件を起こした人がいるのを我々は知っているはずです。ですからこの『通るべき道』というものは、大人になってから通るのでは遅い可能性があります。
『大人になってから通るのでは遅い』というのは、『犯罪をする前にやらないと手遅れになる』ということ。内観自体は100歳になってからでも遅くはありません。
人間が今『決められている』のは、『凡人が通る2つの道』だけですからね。私は、人が人であり続け、これからも自滅から遠ざかって繁栄し続けるために、そして世界平和という最大の目標を実現させるためには、『『次の人間』が通る4つの道』を通ることを『義務づける』必要があるのではないかと推測します。その中でも特に、
- 産道
- ブッダになる道
この2つの道を通ることが避けて通れないのではないでしょうか。つまり、
人間が最終的にたどり着く『内観(深い内省)』を初期の段階で行う
のです。ブッダや一流企業の経営者たちが行う『内観(深い内省)』は、現在、『人間が最終的に行う』という考え方が根付いていますが、私はそれが間違っていると考えます。
別にそれは最初からそれが当たり前だったら大した重荷ではありません。むしろ、その後の人生で『虚無から遠ざかる』ことができ、より『悔いのない人生』を生きることができるので、運転技術を習得した後にスムーズに運転ができるようになるように、私はその道を通ることは避けて通れない気がしますけどね。
人格そのものを変える内観は、専門的な道を歩き続けて(もう嫌になる)と考える人がいる中で、『それをそう思わなくなる』という圧倒的な利点があります。そう考えると、専門的な道を歩くよりもむしろこっちの道を歩く方が『楽(楽になる)』かもしれません。
紀元前2500年頃、ピラミッドを作っていたような時代ですね。その時のファラオ(君主)以外の人間の寿命は平均『22歳』でした。まるでその命は『消耗品』であり、奴隷としても、生贄としても、その他の動物と同じような扱いを受けた。『上に立つ者』以外の人間の命の尊厳は、とても低かったのです。
寿命が『22歳』でこの世の生活が『苦あるのみ』であれば人は何を想う?
上記の記事に書いたのはこうです。
人間には『縦に掘る』時間が必要なのだ。そう考えたとき、寿命が短かった時代の世が混沌であり、光が照らされなかったのはつじつまが合う。光にたどり着く前に命を終えてしまっていたからだ。
人はただこの世に生まれただけでは平和を作れない。そして寿命が短く、その命の日数の間で『やるべきこと』をやり、『通るべき道』を通らなければ、人は平和が何かということすら理解できないのです。
存命中は知らない人がいなかったとされるアメリカの天才、バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス』にはこうあります。
建築学に関わる知的専門家たちー土木、海洋工学、航空学、宇宙航空学ーは、武器製造でなく生活器製造に関連して、一般市民としてつねに最高の思考が用いられる分野に属してきた。いまこそ、そうした包括的な思考の機会に恵まれた建築家が一軒の住居に6か月も費やすといったスケジュールを自ら放棄し、空輸が可能で、上下水道設備から解放され、エネルギーを取り入れることのできる居住機会を一日で何百万も生産する世界へと方向転換するときなのである。
(中略)統合された世界のいたるところで、ときには短期的に、ときには長期的に居住し、ときには都市に、ときには郊外へと交互に集中拡散を繰り返している状態の40億人の人間を、西暦2,000年までに満足に住み替えさせなければならない。科学技術の面から言えば、この宇宙船地球号には自らの興奮にまったく気づいていない40億の億万長者が乗っていることになる。彼らが気づかないうちに、一般の人々の無知、恐れ、利己性によって、そして許認可を与え、区域を規制し、建築法をつくるなどの無力化した無数の知的専門家たちによって、その上部構造である権力機構の官僚的運営方法が形成されて、それらの資産は保護観察下に置かれているのである。
私はまだこの分厚い本を確実に読みこなしてはいませんが、彼が言っていることも私が言いたいことと大体同じようなものという印象を受けます。極めてシンプルにまとめるとこういうことです。
人間の立ち居振る舞い次第で地球は破滅するし、永続する。
彼も真理に目を向けたとき、大勢の人が『向いている現在の方向』に首を傾げました。例えば今あったように、『賢い建築家が一軒の住居に6か月も費やす』ようなスケジュールを組んでいるわけです。しかし本当に彼は、そういうことに時間を費やすべきなのか。そういうことに持って生まれた知能を活かすべきなのか。そういうことを説いているわけです。
そして、大勢の人が地球の『限られた資源(エネルギー)』を使うとどうなるか。このことについて警鐘を鳴らし、当時で考えられる、最善の案を出しています。人間全員がもっと力を合わせ、見るべきところに目を向け、潜在能力をいかんなく発揮させれば、この地球は人為的な崩壊を避けることができる。そう言いたいのだと考えます(多分)。
この話の核となる記事
この話に追加する言葉(記事)
運営者は立派なのか?
ちなみに私は『立派なことは言える』のですが、だからといって『私自身が立派』なのではありません。それは、本物と瓜二つの絵を模写する人が、人格的に優れているとは限らないのと同じことですね。私は自分の能力を生かして世に貢献するだけです。
だからこの記事でも無様で見づらいところがいくつもあったでしょう。ああいうのは私のカタルシスですからね。10年後の自分が見ればそこに余裕のなさや未熟さを覚え、自分の至らなさに不満を覚えることでしょう。
ギリシア語で排泄、浄化の意味。心の中に溜まっている感情が解放され、 気持ちが浄化されること。
ですから、私に対して過大評価をしないようにしましょう。以下の記事『失われる威厳』で書いたのはこうです。
しかしこのようにして、とにかく、この世には『何らかの法則』が働いていることは間違いない。その『何らかの法則』を断固として説く者には後光が差し、揺るぎない権威が与えられる。しかしそれは、『彼らが崇高』だからではない。『彼らが説く法則』、つまり『真理』こそが限りなく厳かで揺るぎなく、崇高だからだ。その証拠に、もし彼らがそれ(真理)から逸れたとき、彼らの威厳は失われる。
そういうことですね。ここでもう一度映画『チェンジング・レーン』を用いて考えてみましょう。これは映画を観た人でなければ分かりません。拝金的な弁護士の彼は、自分が若くして地位と名誉と財産を得て、自分を『賢い人間』だと自負していました。それ故、傲岸不遜な立ち居振る舞いをし、相手役の彼とのトラブルを含め、様々な問題を起こしていきます。『壁』にぶつかるのです。そして懺悔室で彼はこう言います。
これは『彼の独断と偏見による一時的な解釈』です。真理(神・愛)というものは、『沈黙』している。だから人間がこのように勝手に解釈しても、何も言いません。この時の彼に、人としての威厳は全くありません。しかし彼は地頭が良かったのでしょう。話が進むにつれて、彼は自分の『良心のようなもの』に衝き動かされるように、道を改めていきます。誰に何を言われたわけでもない。『それ』はもちろん、沈黙している。しかし、彼はその違和感に従い、自分を改めていきます。
そして最後には、今まで見て見ぬふりをしてきた自分勝手な権力に立ち向かいます。権力はそれまで、彼に圧力をかけ、思い通りに動かしてきました。しかし覚悟を決めた彼には、もはやその権力は通じなかった。まるで、彼には後光が差し、揺るぎない権威が与えられたように見えますよね。相手役の彼も同じように自分を悔い改め、二人が真理から背を向けなくなった時、そこには平和がありました。
しかし当然、また彼らが真理から逸れた行動をとるなら、彼らと威厳や平和は、無縁のものとなるのです。あの映画は私が言いたいことをとてもわかりやすく描写してくれています。いやあ、映画って本当にいいものですね!
さて、これで私を過大評価するべきではないことがわかりましたね!もちろん、『義利合一』に重きを置いて、利益も得ていきます。私は自由ですよ。何しろ私は『無宗教』ですからねえ。私は偽善者でも聖人でもありませんので、私に何かを期待することはやめましょう!
さて、ここで(中)の記事で『こういう記事やサイトを作るような私が『システム1』向けのものを作ろうとは思いませんよね。(ただ、これに関しては最後の記事で捕捉します。)』と書いたことについて説明しましょう。ここまで読んでいる人は相当『システム2』を使いこなしている人で、『システム1』しか起動できない人はここにたどり着いていません。ここというか、もう(上)さえも読んでいませんよね(私の説得者要因にも問題がありますが)。
説得力のようなもの。その人の意見は信用したいが、あの人の意見は信用したくない、というその人そのものにある信憑性。
しかし、そうなると本末転倒じゃないですか?だって『システム2』を起動して真理の輪郭を見つけなければ、この世に世界平和は実現されないわけです。主体性も、モチベーション3.0も、利用することも、支配からの脱却も、自律することも、自燃型になることも、真理(愛・神)の輪郭を見つけ、虚無から遠ざかることも、無知の知を知ることも、インサイド・アウトの発想をすることも、天上天下唯我独尊を知り、超人になることも、和を重んじることも、フッパーを発揮することも、リヴァイアサンを操ることも、すべてはこの『システム2』を起動することが条件です。
しかし実際にはどうでしょうか。本当にこの世は『システム2』を常時モードとする人が常識となる日が来るのでしょうか。いや、私は先ほどちらっと予想した通り、一度今の考え方(常識)が完全に蔓延したこの人間たちがこの世からいなくならない限り、恐らくそういう日は来ないと分析します。
だからたまに映画で『一度すべてをリセットする必要があるのだ!』と叫ぶテロリストを見るとき、(一理はある。だがこのやり方は認められないだろう)と思いながら観ています。それは間違いなく真理から逸れる行為ですからね。
それに、私は何回かこの記事でも宮崎駿のことをわかったような口を利いていたわけですが、彼のことを最初に知ったのは『アニメ』です。アニメという『システム1』向けの媒体を通さなければ、私は彼のことを知ることはなかった。そう考えると、私がここにいくら『システム2』を起動できる人(識者)向けに記事を書いたって、福沢諭吉に言わせれば、
福沢諭吉
ということになるわけですよね。ただですね、先ほども言ったように、大勢の人向け、つまり『システム1』を常時モードとする人に対して下記のような簡易版を書いたのですが、それでも扱っているテーマが『真理=愛=神』といった、この世で最大級に難解な問題ですから、これ自体が『システム2』を煽り、そこで拒絶反応を示すわけです。私がここで言いたいことは結局人々に『システム2』を起動してもらうことですからね。
まあ『猿にでもわかる』とするなら、『真理=愛=神』という言葉を使わず、
とすればいいのでしょうが、しかしやはりそれだけでは、
という解釈が生まれたり、あるいはその都度それに対応して模範解答を言う大人がいなければいけなかったりして、結局は『システム2』を起動しないとこの話の意味が分からないということになってしまいます。芸人のMさんの例を思い出してもそうですよね。彼のように、模範的な大人に模範解答を教わらないと、どこまでも人の心というのは歪んでしまうものなのです。これを『認知の歪み』と言います。
私は認知が歪んだ人を目の前で何年も見続けていますが、彼がそれを元に戻すためには、間違いなく『システム2』を起動することが必要です。これはもう、10年以上彼を見続けている私が断言します。ですから、やはり結局人というのは、虚無とは無縁の悔いのない人生を生きるためには、『システム2』を起動することは避けて通れないのです。つまりここに以下のような事実が乱立するわけです。
どうしても避けられない決定的な現実
- 人が『システム2』を常時モードにすることが常識になる日は、絶滅寸前に追い込まれるまであり得ない
- 人が虚無とは無縁の悔いのない人生を生きるためには、『システム2』を起動することは避けて通れない
矛盾してますね。一体どうすればいいのでしょうか。正直、私だって『システム1』型人間の典型例のような生き方をしていましたからね。多くの人が私をそう判断していただろうし、真面目な話をしたときゲラゲラと笑われたこともありますから。それは私がどれだけ『システム2』を普段発動させることがなかったか、そして私の周りに『システム1』モードでいる人が多かったかということを表す事例ですよね。
私は、宮崎駿がこのような考え方を意識して、アニメというわかりやすい媒体を選んで社会にメッセージを送っている、という話は聞いたことありません。ただ、『イソップ物語』なんかはとても教訓性が高いですよね。『北風と太陽』の話も例に出しましたし、イソップは素晴らしいものを世に残してくれました。
イソップ物語の例
- ウサギとカメ
- オオカミ少年
- アリとキリギリス
- 金の斧と銀の斧
- 北風と太陽
しかしこれも結局は、大人になって『システム2』を使って意味を理解して、初めてその教訓性を理解したわけです。それに、果たして世にいる大人たちで、どれだけここにある教訓を自分のものにできている人がいるでしょうか。正直、パレートの法則通り、8割の人は自分のものにはできていませんよね。
例えば『カメの生きざま』というのは、イチローや高齢でノーベル賞を獲るような人たちのことですから。他が先に進んでいてもそれに惑わされず、自分の道を踏み外さない。あるいはイチローのように、自分の出来る一歩を毎日踏み続ける、ということが出来て、はじめて『カメの生きざま』を自分のものにしたと言えるわけですからね。
『カンブリア宮殿』には、自殺未遂まで追い込まれた社長たちの話がいくつも出てきますが、それでも屈さずやるべきことをやってきて、ついに花開いた。そういう人たちも『カメの生きざま』を自分のものにしたと言っていいと言えるでしょう。
『「一歩」の価値をどう評価するかで、その人間の人生は決まる。』
ですから、結局は『システム2』を起動しなければ、その『システム1』でも読めるアニメや絵本は、自分のものにできないわけです。では、どうすればいいのでしょうか。 尾崎行雄のように、『システム2』向けに難しい本を書いてもだめ。イソップのように、『システム1』向けに簡単な絵本を描いてもだめ。今まで再三再四見てきたように、他(アウトサイド)が世話をしても能力が埋没するからだめ。だったらもう、人が人にできることなんて何にもないですよね。あるいは、
『システム2』向けの記事を書いておけば、いずれその人が『システム2』を起動できるようになった時に役立つ
とか、
『システム1』向けに教訓性を込めて描いておけば、いずれその人が『システム2』を起動できるようになった時に役立つ
という具合に、『いずれその人が『システム2』を起動できるようになった時』のことを想定して、種を蒔いておくことぐらいしかできないでしょう。
ブリタニー・メイナードの言うように『良いエネルギーを広めたい』んですけどねえ。宗教の布教みたいなこともしたくないし、というか何度も言うように人が人にできることには限界がありますしね。
ただ、私に一つ案があります。私はもうすでに『システム2』向けの記事は書きましたから。もう大きな役目は果たしました。これからはですね、このガンジーの言葉を軸にして、あるテストをしてみたいと考えています。
このサイトの軸にもしている『四聖(よんせい、しせい、ししょう)』とは、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の四名の歴史的賢人のことですが、彼らには共通点があります。それが以下の5つです。
四聖の共通点
- 親の職業を継がなかったこと
- 伝統的なしきたりや体制を改革しようとしたこと
- 人一倍の努力家であったこと
- 確固とした信念を持ちそれを貫いたこと
- 見据えた的の規模が大きすぎて周囲の理解が追いつかなかったこと
この『伝統的なしきたりや体制を改革しようとしたこと』に注目してください。孔子は、今でこそ中国を代表する大学者や聖人とされているが、同時代人の多くからは、出来もしないことをしようとしている身の程知らずや物好き扱いされていた(憲門第十四-四十)。ソクラテスとキリストは、無実の罪なのに冤罪を着せられ処刑されている。ブッダも、バラモン教(現ヒンズー教)のカースト制度を否定したことで、バラモン教司祭の強い反感を買い、嫌がらせをされていたわけです。
- 孔子=法律に頼らないより良い社会を目指した
- ソクラテス=より知性ある人間を求めた
- ブッダ=バラモン教(現ヒンズー教)の闇(輪廻による負の連鎖等)に光を当てた
- キリスト=ユダヤ教の傲慢な律法主義を戒めた
これを考えたとき、人はまず最初に『強いられる』ことが潜在能力を開花させるための登竜門なのではないかということが頭に浮かぶわけです。事実、私が『システム2』をここまで起動できるようになったのも、家庭内にあった宗教問題等の、様々な『窮屈な抑圧』だったわけですからね。全世界に散り散りになったユダヤ人も、北朝鮮で金正恩に逆らう姿勢を見せた人も、間違いなく強いられていたわけです。
『この道は闇に続いている。私はそれを人一倍知っている。だからこそ歩ける、王道の道がある。私は堕ちたのではない。王になる道を歩く権利を得たのだ。』
この上に張った記事は、『偉人たちのある共通点』について軽くまとめたものです。皆、病気や貧困等、何らかの形で『強いられている』のがわかりますよね。まあ、だからこそ先ほども言ったように『絶滅寸前に追い込まれるまであり得ない』というキーワードが出ていたのですが、恐らく、やはり人がその潜在能力をいかんなく発揮するためには、周囲が何か手助けをしてはいけないんですよ。
これを踏まえて私が考えているのは、『もう『システム1』に依存する人は無視する』というシナリオです。北野武がこう言い、
ユニクロことファーストリテイリング社長柳井正がこう言い、
レディー・ガガがこう言い、
広告の神、クロード・ホプキンズがこう言ったように、
あるいはyoutuberヒカキンが恐らく年収10億円前後稼いでいるように、やはり結局この世は『アウトサイド(外部要因)依存、システム1依存』の人がほとんどを占めています。それであれば、もうその人たちのその性質を『利用』し、利益を稼いで、圧倒的なアウトサイド(外部要因)を確保するのです。ちなみに、明石家さんまやタモリと並んで、彼は『BIG3』と言われますが、
- BIG3
- ダウンタウン
- 中居正広
- 所ジョージ
- みのもんた
このあたりの人たちは、世間をにぎわせたあのカルロス・ゴーンと大体同じ年収で『6~10億円』程度です。あくまでも予想ですが。しかしこれより頭一つ抜きんでて稼ぐ人がいます。それは、秋元康です。彼の場合、大体23億円程度だという計算がありました。このあたりのことを計算すると柳井正、孫正義等の話もしなくてはならず、更に長くなってしまうので割愛するのですが、私がここで言いたいのは、
大金(圧倒的なアウトサイド(外部要因))を稼ぐ人はみんな、『システム1』向けにビジネスを展開している
ということです。市場というものは下記の図のように、圧倒的なシェアを占めるのは、『キャズム』から右です。キャズムというのは、何でもない。絵の通りの、単なる『溝』の名前ですね。
『マジョリティ』というのは『多数派』で『マイノリティ』が『少数派』だから、この『アーリー、レイト』のマジョリティ総が、全体の7割を占めます。『ラガード(遅延者)』を入れたら、8割。このキャズムを飛び越えるために必要なのは、『ホールプロダクト』です。それもなんてことはない。ただの英語です。『この溝を飛び越えるために必要なカギ』のことです。そのカギが違うなら、溝は超えられない。『ピッタリのカギ』こそが、ホールプロダクトというわけですね。つまりこの絵は、
『システム2』を使ってその製品の良いところを見極め、人よりも先に自分の意志で製品を買う人なんて、キャズムから左の、ほんの少ししかいないよ。ほとんどの人がキャズムから右にいて、『システム1』だけで製品を判断するから、製品の良し悪しを見極めるのに時間もかかるし、そこに主体性もそんなにないよ
という世の中の構図を現したものだということです。
エジソンは言いました。
エジソンは、そのホールプロダクトを『実用性』だと言ったわけです。分かりやすい例で言うと、テキストベースのコマンドを入力して操作するのが常識だったパソコンにマウスでコマンドを指示して、誰もがわかりやすく使えるようになった、グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)の環境を持つパソコンを登場させたスティーブ・ジョブズが率いたアップル社の『マックOS』、ビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社の『ウィンドウズ』です。この圧倒的な実用性は間違いなくホールプロダクトでしたね。
この革命によって、ジョブズとゲイツは人々の家庭にコンピュータを『必要家電』として導入させることに成功し、巨万の富を得たのです。これは完全に彼らが『システム1』向けにビジネスを展開させたわけですよね。
ですから私も同じように『システム1』向けにビジネスを展開し、大金を稼いでやろうかと考えているのです。どこまでできるかはわかりませんが、もうやれるだけやってみようかと。とりあえずはここに出た日本人の高給取りたちは超えたいですね。そして、とことん『システム1』、『アウトサイド(外部要因)』依存の人たちを追い込むのです。
すると、たまらずその『不公平だと感じる窮屈な抑圧』の中から飛び出そうとする人が現れます。『主体性』の誕生です。まるで、ぬるま湯に浸かって満足気でいる人たちの風呂の温度を、グーンと上げ、あるいは熱湯を注ぐイメージで、彼らの居心地を悪くするのです。そうすれば、主体性のある人が勝手に出てきて、結果的に『システム2』が起動し、私の書いた記事にたどり着くのではないか、と考えるわけですね。
おい、このままじゃ不公平だよ!何とかして改革する方法はないのか!
ただ、このシナリオを進めることは、問題点が二つあります。
1つ目、私はこのソクラテスの記事に『プラチナ資格所有者が資産を横領して逃げた』という事例を載せました。騒ぐような額ではありませんが、しかし当時の私にとっては大金。これは間違いなく犯罪ギリギリの行為でしたね。実はその相手は、
世の中の人間は『システム1』しか使えないから、俺のように『システム2』を使える奴が勝つんだ(賢いんだ)。
と考えるような人間でした。私はそんな彼を見て『賢い人』だとは思わなかったし、今もそう確信していて、これからも未来永劫そうであるからして彼とは縁を切ったのですが、当然、このシナリオを進めるにあたり、このような考え方にならないようにすることは避けて通れません。まあ、我々はまだ20代でしたから、私にも至らないところはあり、彼も反省しているでしょうけどね。事実は事実ですが、無意識に私は自分を棚に上げて書いているはずですから。
プラチナ資格所有者にはたくさん出会ったので、これだけでは誰かは特定できませんから、その人の名誉も守っていますからね。
また、質実剛健の説明で話したこの記事に書いたように、
東大生
『東大生』というネームバリューを使い、人生を有利に運ばせる考え方をした東大生がいましたが、表面だけ見ると結果的に、彼と同じように『世間という愚かで強大な力』を上手く利用するということをしたとしても、彼の考え方の背景にあるような『思いあがり』がないようにしないといけませんね(彼の言い方が見下しているように見えただけで、本当は思い上がりはなかったかもしれませんが)。
世間での知名度。 名前そのものの価値。名声。
2つ目、ニーチェの記事を思い出してみましょう。ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆きました。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。しかし、『自分以外の人間を『主』にするということは、つまり『主体性』を失うこと』を意味するわけです。だからこそ人は弱体化してしまったのだと。ニーチェはそう考えたわけです。
私がやろうとしていることは、まさに『これと同じ状況』を作ろうとしているわけですよね。『強いる』ことを考えているわけです。しかしそうすると、私の狙い通りに主体性を発揮してくれる人と、ニーチェが言うように『ルサンチマン』を持った人が現れ、予期せぬ宗教が生まれる可能性があるのです。
このままではマルクスの言った通りになりそうですね。やはり、人が人にできることはほとんどなく、そしてこの世で虚無に陥る人は後を絶たず、真理という絶対軸を見ないために『妙な多様性』が生まれ、そのせいでいざこざが起き、ある程度の混沌は必ず起きる。ここまで考えると、もう『それが真理』なのかもしれませんね。
一瀬雄治
また、私の性格上、『一度目』で完成させることができません。今までいろいろな試験も一度目は失敗しています。不合格になるのです。しかし、二度、三度と挑戦することで合格してきています。ゲームそうです。ダンスもそうです。ボクシングや剣道や筋トレもそうです。絵もそうですし、ピアノもそうです。楽譜も読めないし人から教わるのは嫌いなので独学であり、器用貧乏も手伝って、別に全てが全く達者ではありませんが、私はいつも、何度も何度も失敗を重ね、あるいは挑戦し続けることでその品質を向上させてきています。
『失敗したと思っても絶対に諦めるな。そもそもそれは、「失敗」ではない。』
『一つのことに集中する人間だけが手に入れられる圧倒的な力がある。』
ですから、このサイトの中に品質が悪いものがあっても、私からすればそれは『未完成』です。私は別に『完成した』とは言ってませんからね。このページだけでも2か月かけて作り上げたと言いましたよね。関連リンクや映画の奥行きまで考えれば5年かかっています。そうやって時間をかけて磨き上げ、ようやく自分の達したい領域まで品質を向上させることができるのです。
ただ、サイトの性質上、『アップされているものは完成しているもの』と見られてしまいますから、そのあたりは無責任だと解釈する人もいるでしょう。そういうこともあって、私に何かを期待することはやめましょう!
例えば『そこに存在している人』は『完成した人』ではなく、『成長段階にいる人』ですよね。その成長とともにその人が作るもの、捻出するもの、発する言葉というものは変化するものです。そういう広い心で一つよろしくお願いします!(えへへ!)許してくれないならぶっ飛ばしますよ!リヴァイアサン出しちゃいますよ!いいんですかっ!(脅迫)
私なんてこの程度の人間です。アウトサイド(外部要因)がないと見下されて終わりですしね。でも卑下なんて一切しません。私に何かを期待すると傷ついてしまうから、そうならないようにしてほしいのです。私はこれからも自分の人生を誇りに思い、自己実現をしていきます(自己超越もできたらいいですけどね)。でも周りから見たらその自己実現の達成に関しては色々な意見があるでしょう。私利私欲を捨て去ることが、ブッダへの道ですからね。彼らのような聖人がいる限り、私はそれと比較されることになる。ただ、これだけは決して忘れないでください。
私は『真剣な求道者』です。それは自信を持って断言します。私自身は一生未熟で模範になりませんが、それとこれとは関係ないのです。間違えてはいけません。たとえ私自身につけられる世間からの評価が低かったとしても、私が説いた真理の価値はそれとは無関係です。この世で最も権威があり、人間が道標とするべきなのは、真理(愛・神)なのです。
その他、『天、道、光、徳、仁、義』等も似たような威厳を持っています。まあ私にはそのあたりは別にどうでもいいことです。重要なのは『その言葉が指し示すもの』ですからね。孔子が『言葉で教えるのはやめようと思う』と言ったように、恐らく『それ』を言葉で言い表すことはできませんよ。
例えば私は先ほど罪人の話をしたときに、『更生』の言葉を使って『失敗した人を許せ』と言いました。しかしもし私の家族が殺されたら、私はもしかしたらその相手を殺すかもしれません。理論で『赦すことが愛であり、真理であり、救いだ』とわかっているのにです。そう。私にはジョディ・フォスターが演じた彼女を非難し、軽蔑することはできないのです。あの警官のように。
しかし、もし私が真理から逸れたことをしてしまっても、私が説いた真理の価値はそれとは無関係です。私は単なる人間。間違えてしまいます。しかし、真理(愛・神)は違う。それを覚えておいてください。
さて、このサイトはいつ完成するのでしょうか。それはもちろん、
[ONE PIECE STRONG WORDS 下巻]
Inquiryで導き出したもの
『システム2』を常時モードとする次の人間の時代について考えわけですが、ただそうなると、この世から『システム1』を常時モードとする人を一掃するわけですから、それによるデメリットはないでしょうか。そこら中で『システム1』で自動で考えた、
このようなある種『元気な声』が聞こえなくなるということになるでしょうか。確かにこういう声を現時点でも『雑音』だと捉え、聞きたがらない人もいます。しかし、このような『システム1の雑音』が多少世間にあるのが、妙に人間らしくもある。『システム1』の自動思考モードは思慮浅いがゆえに敵視され、軽蔑視されることになれば、『システム1』を煽る広告や看板が減り、無意味なネオン、見栄のためにあるブランド物等がなくなり、女性の化粧もなくなるかもしれません。そんなことで女性を判断しなくなるからです。
麻薬、人身売買、武器がなくなりますから、密輸も銃乱射事件も、孤児が理不尽な扱いを受けることもない。キャバクラ、ストリップ、風俗等の水商売、競馬、競輪、パチンコ、カジノ等のギャンブルもなくなりますから、それによって自堕落に陥る人間も出なくなる。ど派手なアクション映画はなくなるでしょうか。アイドルのコンサートやスポーツで大騒ぎする人はいなくなるでしょうか。オリンピックやワールドカップはどうなるでしょうか。ボクサーや格闘家、アスリートの人たちは、松岡修造の言うように、
『システム2』を常時モードにしているようには見えません(スポーツの集中の際には天才的に発揮させますが)。するとこのようなこの世を彩る様々な色彩が消え、少し閑散とした世の中になるでしょうか。ただ、アスリートが肉体を作るときに『動物の肉』を食べますよね。日本で長い間肉が食べられなかったのは、『生類憐みの令』等による為政者たちの考え方が理由ですが、さらに遡って考えると、そこにはやはり『孔子』や『ブッダ』の影響があります。
徳川綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出した。人はもちろん、生きとし生けるものの命を大切にし、むやみな殺生をしてはならない、というルール。この『仁の心』とは、儒教、つまり孔子が教えた人のあるべき姿です。
『禅宗』は、中国で生まれた仏教の宗派ですが、殺生戒を守るために味噌や豆腐などを多用する精進料理を発達させ、それが日本に伝わって、現在の日本食のベースとなったと言われています。そもそも、人間が動物の肉を食べていいのでしょうか。しかし食べなくなると体が作れず、人々の身体能力は落ちます。ですから、もしこの世界が今よりも閑散とし、質素になっても、最初からそれが初期設定であればそこのギャップを感じることはなく、虚しさもありません。
また、『最後に読む育毛の本』にはこうあります。
たんぱく質は納豆、豆腐、ブロッコリー、プロテインなどから摂取するほうが、獣肉から食べるよりも吸収率は高く、効率的に摂れます。ブロッコリーにもたんぱく質がある、というのは意外かもしれませんが、100g中、約3gのたんぱく質があり、体への吸収性は動物性たんぱく質よりも高いのです。
実際にはたんぱく質は納豆、豆腐、ブロッコリー、プロテインなどから摂取するほうが、獣肉から食べるよりも吸収率は高く、効率的に摂れるかもしれません。そうなると、アスリートたちは次の時代からはもう肉を食べることはやめた方がいいかもしれません。
皆が『システム2』を常時モードにできれば、見栄も虚勢も張らなくなるから、競争しようとも思わない。私が先ほど考えたように、『システム1』の人たちをある種『騙す』、『嵌める』かのように商品を売りつけて、金儲けをする『一部の大金持ち』がいなくなる。皆が『システム2』であれば、そういう衝動買いもなければ、『浪費、消費、投資』が何であるかを見極められるため、格差が生まれなくなる。
今の世は、一部の『何かに気づいた人たち』だけが大金持ちになり、それ以外の8~9割の庶民は、その『金づる』となっている。しかし皆が『システム2』を常時モードとすれば、そういうことはなくなる。むしろ、お金すら必要なくなり、それぞれが協力して自分のやるべきことをやれば、社会が成り立つ可能性もある。孔子が見た夢のように、法律にすら頼らなくなる可能性もある。そうなるとやはり、世界は今よりもうんと『質素』になる。見た目というアウトサイド(外部要因)に依存しなくなる人々は、無意味に浪費しなくなり、エコロジカルフットプリントも一気に抑えられる。様々な病気と無縁になり、肥満もいなくなる。
一部の富裕層の見栄と虚勢を煽った『数千万円もする高級腕時計』や『高級車』、その他の一切の贅沢品がなくなり、貧困で苦しむような人にきちんと分配され、世の中から格差と貧困がなくなる。そうなれば、『インフラ整備すら整わない国』と『何もかもが手に入る国』との間に確執が起こらなくなり、その状況を力づくで覆そうとする過激なテロリストもいなくなる。
出会いや結婚はどうなるか。『システム1』の若さゆえの衝動で女性が妊娠し、それがきっかけに結婚し、そのままうまくいくこともある。今の時点で『結婚しない若者』が増えている中、みんなが『システム2』を常時モードとすると、皆にそういう衝動がなくなり、間違いがなくなると同時に、『きっかけ』も消えてしまう気もする。
ただそれは杞憂で、実際には『システム2』を常時モードとした人々は『お見合い』のように計画的に結婚をし、無意味な人口の増殖と、それによる環境破壊、秩序の乱れを抑制し、今よりもうんと『地球相応』の生き方が出来るようになる可能性もある。地球に住むべき人間の数がどれだけかはわからないが、一度絶滅に近い経験をしたそこにいる人間たちには『ボーダーライン』が見えていて、今度こそ『地球相応』の生き方ができ、地球と共生できるようになるかもしれない。
心配する必要のないことをあれこれ心配すること。取り越し苦労。
キリスト教の7つの大罪である、
- 嫉妬
- 怠惰
- 憤怒
- 暴食
- 色欲
- 強欲
- 傲慢
はなくなり、ブッダが罪とした『執着』もなくなる。孔子が望んだように人々は『利他』的になり、ソクラテスにあった『無知の知』がある賢明で純粋な魂がそこら中に溢れる。人は韓非子、マキャベリ、ナポレオンが冷酷に言い放ったような、単なるその他大勢の一人ではなくなる。『主体性』が芽生える。
- 格差
- 差別
- 見栄
- 虚勢
- 虚偽
- 犯罪
- 暴走
- 軋轢
- 確執
- 戦争
こうしたことはすべて思考の欠如が原因だから、皆が『システム2』を常時モードとすればこれらがなくなり、この世界は一気に『世界平和』を実現させることができる可能性が高くなる。
人間はこれからも利便性を次々と向上させていきますし、人口も増やしていくでしょう。しかし『地球相応』の生き方、『人間相応』の生き方とはなんでしょうか。例えば、『「脳ストレス」に強くなる セロトニン睡眠法』にはこうあります。
北欧など冬の日照時間が非常に短くなる地域では『冬季うつ病』といって、季節性のうつ病になる人がいます。その原因はまさに日照不足です。
太陽光と脳内物質のセロトニンは密接に関係していて、太陽があまり当たらない地域では、うつ病になる確率が高い。例えばですが、こういうデータがたくさん取れた今、
- 人間が住む場所
- 人間が食べるものを作る場所
- 動物や昆虫が住む場所
- 植物や自然があるべき場所
- 不要物の廃棄やリサイクルをする場所
- 自然エネルギーを生み出す場所
等のことを考えてそれを最適化して、それをひたすらに守ることが求められているような気がします。人間に与えられた知能というのは『人間のエゴを追求するため』にあるのではなく、『地球を管理するため』にあるのかもしれません。
先ほども載せたバックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス』の内容をもう一度見てみましょう。
建築学に関わる知的専門家たちー土木、海洋工学、口腔学、宇宙航空学ーは、武器製造でなく生活器製造に関連して、一般市民としてつねに最高の思考が用いられる分野に属してきた。いまこそ、そうした包括的な思考の機会に恵まれた建築家が一軒の住居に6か月も費やすといったスケジュールを自ら放棄し、空輸が可能で、上下水道設備から解放され、エネルギーを取り入れることのできる居住機会を一日で何百万も生産する世界へと方向転換するときなのである。
(中略)統合された世界のいたるところで、ときには短期的に、ときには長期的に居住し、ときには都市に、ときには郊外へと交互に集中拡散を繰り返している状態の40億人の人間を、西暦2,000年までに満足に住み替えさせなければならない。科学技術の綿から言えば、この宇宙船地球号には自らの興奮にまったく気づいていない40億の億万長者が乗っていることになる。彼らが気づかないうちに、一般の人々の無知、恐れ、利己性によって、そして許認可を与え、区域を規制し、建築法をつくるなどの無力化した無数の知的専門家たちによって、その上部構造である権力機構の官僚的運営方法が形成されて、それらの資産は保護観察下に置かれているのである。
これは2007年に出版されたものですが、彼がここで『2000年までに』と言っていることから、これは2000年以前に書かれたものだということがわかります。そのときはまだ人口が40億人だったわけですね。そして2050年頃には地球の人口はもう90億人になるのです。今、バックミンスター・フラーが生きていたらこの現実を受け、なんと言うでしょうか。そして彼はこの地球の未来をどう予見したのでしょうか。
やはり人間がこの地球に住むなら、
- どこに住むか
- どこまで利便性を向上させるか
- どこまで技術を発展させるか
- どこまで人を増やすか
- どんな人間に『成る』か
等の『最適な条件』を明確にし、それを遵守しなければならないような気がします。もしかしたら余計な家電やハイテク技術、化粧、お金、法律、薬物といった『人為的なもの』はほとんど必要なく、必要なのは最低限の衣食住に、『真理を直視し、それを受け入れる心』と『自分の心と向き合うだけのほんのわずかな空間(部屋)』だけなのかもしれません。
『物価が高い』『休日』の『雨の日』に高いお金を払って、『人が大勢いるところ』に強引にでも行く人がいますが、私は、『物価が安い』『平日』の『晴れの日』に、人がいるいないに関係なく、自分の行きたいところへいく人生の方が魅力を感じますけどね。
何だか『人間の在るべき姿』について突き詰めて考えていたら、『絶滅』とか『やり直す』とか『地球相応』とかいって、いつの間にか『ノアの箱舟』や『小国寡民』のような考え方をしてしまっていますね。やはり古代の偉人たちが突き詰めて考えたことは、なかなか見て見ぬふりができない核心を突いているのかもしれません。
ただ、今パッと考えたようにはいかないような気もしますね。不測の事態は常に起こり得る。『超訳 聖書の言葉』にはこうあります。
悲しむ心にワインを
強い酒は、滅びていく人に与えよ。葡萄酒は、悲しむ心に与えよ。飲んで、悲痛を忘れ、今の苦しみを思い出すことがなくなる。
格言の書 第31章
例えば、先ほど考えたような『テストステロンのはけ口』とか、ストレスの発散、排泄等のことを考えると、
これくらいはいいだろう
として『歌』や『踊り』、『少量の酒』が許され、するとそこでその快楽を味わった人がそれを更に発展させ、結局人間は同じ轍を踏むような気もしますね。
ただどちらにせよ言えることは、人間全員が『システム2』を常時モードとするようになれば、今よりも明らかに良い世界が広がるということです。それでも『システム1』を煽るような世の中のシステムは消えないかもしれませんが、それを踏まえて考えても、今よりはいいはず。
また、私はこの記事で『フッパー』や『リヴァイアサン』といった『上昇志向』に必要な要素が大事だと説いてきましたが、もし人間が人為的な問題で絶滅寸前に追い込まれることになれば、やはり老子の言ったようにその上昇志向は捨て、『システム2』を常時モードとして、『質素』に『地球相応』に『人間相応』に暮らしていくことが求められるかもしれません。ではここでひとまずまとめてみましょう。
- 人間全員が『システム2』を常時モードとするようになれば、今よりも明らかに良い世界が広がる。
- もし人間が人為的な問題で絶滅寸前に追い込まれることになれば、老子の言ったように上昇志向は捨て、『システム2』を常時モードとして、『質素』に『地球相応』に『人間相応』に暮らしていくことが求められる。
どちらにせよ『システム2』を常時モードとすることが問われていることはわかりますね。
ただ、今回考えた『フッパー』や『リヴァイアサン』という性質については考える余地があります。車の運転で言えば、その『フッパー』や『リヴァイアサン』という上を目指すためのエネルギーは『ハイギア』です。冒頭で『マニュアル車』の話をしましたが、自動車におけるマニュアルミッションのギア段は以下のように名称がついています。
マニュアルミッションのギア段
- 1速:ロー
- 2速:セコンド
- 3速:サード
- 4速:トップ
- 5速:オーバートップ
ローギア(低いギア) | ローギア、セコンドギア |
ハイギア(高いギア) | サードギア、トップギア、オーバートップギア |
人生は、『質素な暮らし』という『ローギア(低いギア)』で生きることもできます。さしずめ、『フッパー=トップギア』、『リヴァイアサン=オーバートップギア』ではないでしょうか。このギアに入れなくても人は生きていけますが、問題にぶつかたっとき、極めて上昇していくとき等にこのハイギアに入れる必要が出てくるわけですね。
今回の記事で説目したのはつまるところ『人間にはギアがある』という話です。例えば『ロウソクの問題』等で考えたように、人は主体性を失い、報酬を動機に行動してしまうとアルゴリズムに依存し、ヒューリスティックを発揮できません。潜在能力が埋没するのです。そして私の部下や孔子、ブッダらの弟子のように、人は自分で(やろう)と思わなければ、永久にそのギアチェンジをすることはできません。
指定されたやり方をたどり方法。
新たな方法を見つけるために、決まりきったやり方から離れる方法。
人々が『モチベーション1.0』だと思い込んでいた時代があり、しかし実際には『モチベーション3.0』が初期設定であると『気づいた』ように、今回の話のカギとなるのは『人間にはギアがある(まだ眠っている能力がある)』ということ。それに気づけば人生が大きく変わるよ、という話です。間違えてはならないのは、ここで言う『ローギア』というのは『低いギア』という意味で、さらに具体的にすると大体こういうイメージになります。
人間のギア段
バック | 現実逃避、支配、認知の歪み、システム1 |
ニュートラル | モチベーション1.0、支配、目標がない、場当たり的、システム1 |
1速:ローギア | 傲岸不遜、他燃型、支配、モチベーション2.0、同、システム1 |
2速:セコンドギア | 無知の知、主体性、質実剛健、自燃型、モチベーション3.0、自律、和、天上天下唯我独尊、システム2 |
3速:サードギア | インサイド・アウト、超人、利用、システム2 |
4速:トップギア | フッパー、システム2 |
5速:オーバートップギア | リヴァイアサン、システム2 |
表の読み方としては『モチベーション1.0止まりになっている』、『システム1依存している』、『支配されている』等と読みます。言葉の意味を考えれば自然とどういうことかは見えてきます。
ローギア(低いギア) | ローギア、セコンドギア |
ハイギア(高いギア) | サードギア、トップギア、オーバートップギア |
バック
人間は前に進むために目が前についていて、年齢や経験とともに成長し、熟達していくはずなのに、犯罪をしたり、反社会的に生きたり、現実逃避をしたりして一向にそれが見られない、むしろ自分も他人もネガティブな闇に引きずり込んで足を引っ張っているような人がいます。そういう人はギアが『バック』に入っていると言えるでしょう。求められるのは『パラダイム転換』です。
ニュートラル
ただ生きているだけの原始時代というのは、モチベーション1.0であり、やはり目標がなく場当たり的に生きているので、動物たちと同じようにあまり『進歩している』ということはありません。もちろん動物たちも長い年月をかけて『進化』はするのですが、ここで言う進歩というのは、人間世界で見る『成長』のようなもので、そうなるとその現象は動物にはありませんからね。もし生きているのに全く成長がないという人がいるなら、それはギア段は『ニュートラル』のままにある人だと言えるでしょう。
ローギア
確かにギアには入っていて、人生が進んでいます。卒業し、就職し、収入があり、家族を儲け、家を購入し、一見すると順調のように見えます。しかしよく見ると支配されていて、モチベーション2.0であり、資産だと思うそれは『負債』であり、人格が足りず、例えば傲岸不遜であり、問題解決能力が低く、あまり人生をスムーズに生きているとは言えない人をよく見かけます。そういう人は、まだギアが『ローギア』であり、まだまだ余力があるということに気が付けば、この先の人生が大きく変わるかもしれません。
セコンドギア
無知の知があり、主体性を発揮できていて和の作れる、質実剛健な人である。自燃型であり、モチベーション3.0の自律できる一流な人間。それがこのギア段に入れられる人のことでしょう。天上天下唯我独尊を理解していますから、自他に対する最善の解釈がわかっていて、浪費せず、自分がやるべきことがわかっています。実際にはこれをローギア(最低限のギア)としたいところですが、先ほど見たような人が大勢いる中で、彼らも確かに『進んではいる』という事実を評価しないわけにはいかず、やむを得ずこれがセコンドギアになっています。
本当は先ほど『ローギア』と説明した人たちのギア段は『ニュートラル』にいしたいところなんですが、ここをローギアとすることには意味があります。多くの人は人生を生きていて、中には冒頭に書いたように政治家になったり、エリートコースを生きている人もいますよね。しかし、同じく冒頭に書いたように、不祥事を起こす人もいます。つまり、
俺は人生が順調に進んでいるから、人生の免許は持っている
と、勘違いしている人が大勢いるわけです。それはこの『ローギアに入って確かに進んでいるから』という事実が関係しています。自分の人生は確実に前に進んでいる実感がある。だから自分には『人生の免許』があると思い込み、傲岸不遜になってエゴに支配され、転落してしまうわけですね。さしずめ、スピード違反や左折禁止、一時停止違反等で捕まるというところでしょうか。
しかし、『人生の免許』を持っているに相応しいのはセコンドギアに入れられる人のことです。エリートコースを生きている人や、お金持ちの人ではないのです。また例えば、『38の黄金律』のような真理がありますよね。もちろん『真理から逸れると虚無に近づく』という真理もあります。では、それを知らない人に『免許皆伝』の称号は相応しいでしょうか。
多くの偉人たちはこのあたりのことは熟知しています。そう考えると、『ギアが、自分が入れているそのローギアが限界だと思っている人』に『人生の免許』は相応しくない。やはり車の性質を理解していない人には免許は与えられませんからね。最低でも、自分のギア段がどこまであるかを熟知していることが求められます。これが、ここをローギアにする理由ですね。
無知の知を理解せず思いあがっていたり、主体性を発揮できずに和も作れない段階にいる人がこの世には大勢います。たしかにそういう人でも、他燃型人間、モチベーション2.0として、支配されながらも物事を進めているので、人生を前に進めることはできるでしょう。しかしそれはまだまだ『ローギア中のローギア』。あるいは、まだギアに入れることすらできていないかもしれません。
そうなるとさしずめ『ニュートラル』か、『バック』でしょう。私の部下で考えればわかるように、彼は10年前に『現実逃避宣言』をして、本当にそういう人生を生きてしまっていますから、未だに遅刻を繰り返し、制裁を喰らい、という無限ループを繰り返し続けています。彼の人生は全く進んでいない。それどころか衰退・退廃してしまっている。ですから、
俺は別にローギアでいいんだ
と思っても、実はそのローギアというのは『低いギア』、つまり『質素な暮らし』という意味で、このマニュアル車のギア段で言うならば、『セコンドギア』に入れなければ合格点とは言えないわけです。マニュアル車のギア段で言うローギアは、『モチベーション2.0で支配されていて、同に甘んじている人』ですからね。
このセコンドギアに入れることは『システム1』では無理で、『システム2』を常時モードとすることが避けて通れません。だから部下は永遠にローギアにすら入れられず、立ち往生しているのです。まずはこのようにして、『人間にはギアがある(まだ眠っている能力がある)』ということを理解できれば、この記事に書いた内容を理解したことになります。
部下の場合、何度も読書や内省を私から勧められては、それを行い、挫折して、を10回以上繰り返し、現在ではついにそのすべてを放棄している状態です。私は当然、『どうせ人が前に進むためにはそこを避けられない。俺なら一分でも早く内省する』と言ってありますが、本人の心はまだ整わないのです。こればかりは自分の意志でやらないと何も意味がありません。
やはり、ギアに入れられないでニュートラルで空ぶかししたり、教官に『進んで欲しい』と言われているのにバックしてしまうような人には、『免許』を与えることはできないでしょう。ですから、『人生の免許』というのは最低でもセコンドギアに入れられる人に相応しい資格だということになります。
足踏みしている人が『生きている資格がない』ということではなく、『人生の免許』を取ればスムーズな人生が送れる、というイメージで受け取るべきですね。ただ、それを踏まえた上で考えるべきなのは、『この世には生きたくても生きれなかった命がある』という事実と、ルソーのこの言葉です。
免許を持っているのにも関わらず交通違反を起こしてしまい、『免停』、『免取』になる人がいます。そういう人もこのルソーと同様、
『免許を持っているに相応しい人は、免許証を持っている人のことではない。車の性質をよく理解し、それを使って人生をスムーズに運ぶことが出来る人だけだ。逆に問題を起こしている人がいるなら、それは無免許と同じである。』
ということになりますね。
このように考えたとき、さしずめ、『フッパー=トップギア』、『リヴァイアサン=オーバートップギア』。しかし、孔子、ブッダ、老子、ソクラテス、キリストという『最も注目に値する人間』たちは、どうも『セコンドギア』で生きていたように見えます。例えばソクラテスなら、
ソクラテス
ソクラテス
と言っています。そして、孔子、ブッダ、老子の『儒教、仏教、道教』でも『足るを知る者は富む』と教えていますし、イエスもお金を追い求めることはありませんでした。
そう考えると、人は必ずしもハイギアに入れて人生を生きる必要はなく、ただ『そのギアがあるよ』ということを知るだけでまずは十分なのかもしれません。また、生きている人間全員がオーバートップギアに入れてしまうとどうなってしまうのかもわかりませんから、ハイギアに入れることは必須ではなく、人としての基本はローギア(低いギア)で生きていくことが求められているのかもしれません。
サードギアにある『インサイド・アウト、超人、利用』というのはセコンドギア扱いでもいいのですが、このあたりは『この要素を持って状況を最適化する、利用して有利な方向に持っていく』等の『攻撃的』なニュアンスも含まれていますので、ギアとしては『無知の知』を知り、じっとしている人に比べると高いギア扱いになると考え、そこに設定していますが、実際には『最強の自律ツールを利用する』ということを考えたときの『利用』は、セコンドギア扱いの『防衛的』なニュアンスが含まれますので、状況次第となります。
まあ適当なイメージですからね。サードギアのところが空いていたんで…。大体のイメージでいいんですよ。こんなものは最初から存在しないんですからね。
いくつかの映画で考えてきたように、確かにこの世界で生き、正義を遂行したり、信念を貫くためには、時にハイギアに入れる勇気と覚悟というエネルギーの捻出が必要です。しかしあくまでも、『システム1と2』の常時モードが入り混じった現代の人々がいるこの世界で『輝く』、『屈さない』、『上昇していく』為に、そのハイギアが役に立つのであって、もし、絶滅寸前に追い込まれるようなことがあり、『質素』、『地球相応』、『人間相応』に生きていくことを遵守し、皆が『システム2』を常時モードとすることが使命だと理解するような日が来るなら、人間というものはローギア(低いギア)だけで生きていくことが求められるのかもしれません。
表を見てわかるように、『システム2が含まれるローギア(低いギア)』は、セコンドギアのことですね。
『ブッダや孔子らのような質素でローギア(低いギア)な人生』と『ドナルド・トランプやウォルト・ディズニーらのような派手なハイギアの人生』。人間はまず、『人間にはギアがある(まだ眠っている能力がある)』ということを知ることが求められ、そしてそのあとには、どこまでそのギアを入れて生きるかということが求められるわけですね。男性経営者はハイギア、賢い女性はローギア(低いギア)を選択したようです。テストステロンの有無も関係しているでしょう。
『清貧の思想』では、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者であるエーリッヒ・フロムの著書『生きるということ』を参考にして、以下のような内容を記載しています。
フロムにとってはこれはあるべき新しい人間のタイプを示すものでさえあるのです。この『在ること』を重視する新しい人間のタイプとはどういうものか、彼が21項目をあげて説明しているそのいくつかを挙げてみましょう。
- 1.十全に”在る”ために、あらゆる”持つ”形態を進んで放棄しようという意志。
- 2.安心感、同一性の感覚、自信、それらの基礎は自分の”在る”姿であり、結びつき、感心、愛、周りの世界との連帯への要求であって、世界を持ち、所有し、支配し、ひいては自分の所有物の奴隷になろうとする欲求ではない。
- 3.自分の外のいかなる人間も物も、人生に意味を与えることはなく、このラディカルな独立と、物に執着しないことが、思いやりと分かち合いに専心する最も十全な脳同性の条件になりうる、という事実の容認。
- 4.自分が今あるところに十全に存在すること。
- 5.貯蓄し搾取することから出なく、与え分かち合うことから来る喜び。
- 6.生命のあらゆる現われへの愛と尊敬。それは物や力やすべての死せるものでなく、生命とその成長に関係するすべてのものが神聖である、という知識の中に見られる。
- 16.自己を知っていること、自分が知っている自己だけでなく、自分の知らない自己をも(知っていること)。
- 17.自分がすべての生命と一体であることを知り、その結果、自然を征服し、従え、搾取し、略奪し、破壊するという目標を捨て、むしろ自然を理解し、自然と協力するように努めること。
所有を放棄して貧しくあることこそ『清貧』であり、清貧こそが人の生きる道だと見極めた賢者たちの見解は、私から見てもとても的を射ているように見えます。
私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること。
そう考えると、人間というのは『原子力』に似ています。とてつもない力を持っていて、それが暴走するなら地球も消滅します。
アインシュタインがこう言ったように、もしまた世界大戦が行われてしまうのであれば、もう地球は終わりですからね。人間はもうそこまでの力を持ってしまったのです。しかし、アインシュタインがこうも言ったように、その力を上手に使うのであれば、何とかこの地球と共生していくことができます。
今のこの世界の話で言うならば、このギアの存在を知り、ハイギアに入れることができている人だけが、世間で言う『成功』を収めているように見えますね。ただ、ローギア(低いギア)に徹して清貧な人生を送ったあらゆる清純な魂にも『成功者』の称号は相応しいように見えます。人々の初期設定が『システム2』となり、無駄な争いがなくなり、人間がハイギアに入れる必要がなくなったとき。それが人間が最高到達地点にたどり着いた時なのか。それとも人が生きている限り何らかの問題は必ず起き、その時にこういうハイギアは役に立つのか。
これもシステムと同じように常時モードであるべきギアが決まっていて、人はローギア(低いギア)を常時モードとして生きていき、問題に直面したらハイギアに入れるのが理想なのでしょうか。ブッダは終始ローギア(低いギア)に徹して人々に説いたイメージがありますし、ドナルド・トランプのような人間は、ハイギアに入れるからこそ信頼を勝ち取り、防衛できているイメージもあります。果して、『人間が入れるべきギア』はどちらなのでしょうか。まあ、最低でも『人間にはギアがある(まだ眠っている能力がある)』ということだけは覚えておきたいですね。
とにかく、私は『世界平和』という、ブッダやキリストといったとてつもない偉人たちがいたときから一度も実現されていない大きな目標を達成させるためには、やはりこの世に『システム1』を常時モードとする人がいては無理だと考えます。確かに、そのような人がいるからこそこの世が賑やかになり、人間味が出てくるような感覚もあります。そういう若き時代を振り返ってつい思い出し笑いをする。失敗も時間が経てば笑い話となり、人生を彩る色彩の一つとなる。それが人生の醍醐味でもあります。
しかし、そういう『無免許運転の人』がいるからこそ世の中から争いが絶えないという事実も同時に存在します。それに、もし最初からこの世界がそういう質素で思慮深いものであれば、そもそもそこにギャップを覚えることはなく、物足りなさという失望感はない。あるいは、『システム2』を常時モードとする世が訪れても、結局子供がいる以上、うまくギアチェンジできない人も出てきて、この世界に様々なトラブルが起こり、結果的に人生はそうモノクロの世界にはならない。
さて、人間はいったいどんな生き方をするのが最善なのでしょうか。それは、今を平和に生きている危機意識のない人々からすれば、無縁の話なのかもしれません。この話を真剣に考えることが出来る人は、相当に『システム2』を使いこなせる人か、あるいは残酷な事件や事故、不運に巻き込まれ、それを体験し、
この世界を変えなければならない
という意志を燃やしている人でしょう。戦争やテロを経験していない我々は、平和ボケしていますからね。とにかく、こうして真剣に考えておくことで、もし地球が壊滅状態に追い込まれるような日が来た時のヒントになればいい。そう考えれば今、人の最善の生き方を熟考しておくことは無駄にはなりません。
まあ、私に未来を予見する能力はありませんが、何となく俯瞰(神の視点)で見ると、こんなイメージが浮かぶんですけどね。どうなるかはわかりません。一つだけ言えることは、ブッダやキリストという最大級の偉人がいた時代から、現在に至るまで、一度も世界平和は実現されていないということですね。彼らだけが異彩を放っていても意味がありませんから。
頼もしい人がリーダーをやれば、一時的にその周辺は明るいエネルギーで満ち溢れます。そのような『人一倍強いエネルギー』があると、それがある間は、そのエネルギーの影響を受けて少しだけ世界が明るくなります。しかし、本当の世界平和とは、一部のエネルギーが人一倍燃えることでは達成できません。では一体どうすればいいのでしょうか。ここから先は、自分で考えるしかないのです。
ここまで観た方は参考映画もしっかりと観た思慮深い人でしょう。いやあお見事。あなたはただ『人生の免許』を持っているだけじゃなく、確実な有段者。3~10段のうちのいずれかに該当する人だと言えるでしょう。何にせよ、『システム2』を起動させることが重要だということだけは決定的な事実ですから。しかし、私の記事はぞんざいでもあの映画はどれも素晴らしかったでしょう。何しろ、1,100本観た映画の中から『考えさせられた、為になった』映画を厳選しましたからね。
最近人類は初めてブラックホールを目視することに成功しました。アインシュタインが100年前に予想した通りブラックホールは本当に実在し、姿かたちもほぼ想像と同じものだったようです。このブラックホールはまるで銀河の支配者かのようにそれぞれの銀河の真ん中に存在しています。一体これは何を意味するのでしょうか。
このブラックホールに物を入れると、同じだけのエネルギーがそこから放出されて返ってくるようです。つまり、例えばここに放射線廃棄物を入れた場合、それがブラックホールという『エネルギー変換器』によってエネルギーに変えることができる。廃棄物処理とエネルギー問題といったあまりにも大きな問題を2個同時に解決するというのです。
我々を照らすこの太陽は、後50億年経てば燃え尽きると言われています。また違う話では、ちょうどそのころに違う銀河とこの銀河が衝突し、地球が消滅するとも言われています。だとすると地球の寿命って、大体100億年くらいですね。人間にとってはあまりにも膨大な時間でも、真理の目線からすればあっという間の出来事です。
そして、こと『人間の歴史』で考えるならなおのことあっという間ですね。『宇宙、時間、真理、愛、神』人間の目の前にはいつまでもこうした圧倒的な規模の存在が立ちはだかります。この広漠としたあまりにも広い宇宙の片隅で、ほんのわずかだけ呼吸をした小さな種族がいた。いずれ消滅することを避けられないなら『高知能』も何もない。ある視点から見れば人間は星屑と同じ、この宇宙の要素の一つの塵にすぎません。
しかし、本当に我々は『塵』なのでしょうか。どうせ死ぬ虚しく、儚い運命なのに、考えても、探究しても、明らかにしても、戦っても、すべて意味がない?
私はそうは思わない。それが人間の矜持というものです。もう一度言いましょう。どうせ死ぬんだ。持てるエネルギーをすべて使い切り、命を使い切って死のうじゃありませんか。それが人間の『使命』なのだから。『人生の免許』を取り、この儚い意味のない人生に、強い意志を持って尊い意義を見出す。それが人間の意地なのだから。
内観までしなくても、『システム2』を使って近道することなく(『システム1』に甘んじなることなく)ここまでたどり着いたあなたには、間違いなくある能力が身についています。それは『自信』です。たった一度の人生を悔いなく生きるために必要な、『矜持』です。
プライド。
最後にここで考えたすべてのことを、簡潔にまとめておきましょう。主体性やインサイド・アウト、モチベーション3.0等はすべて『真理を見ることができれば見えてくるもの』としてまとめます。
Inquiryで導き出したもの
1.真理、愛、神というのは言葉が違うが同義語である可能性が高い(真理=愛=神)。
2.それを独自解釈した人間がいるから、この世に宗教の多様性がある。
3.真理(愛・神)から逸れるほど人の心は虚無に近づき、近づくほど心が充足する。
4.人が真理(愛・神)の輪郭を見つけるためには、『システム2』を起動することは避けて通れない。
5.人が虚無とは無縁の悔いのない人生を生きるためには、『システム2』を常時モードとし、『人生の免許』を取ることは避けて通れない。
6.しかし、人は『アウトサイド』と『システム1』に依存し続け、『システム2』を常時モードにすることが常識になる日は、絶滅寸前に追い込まれるまであり得ない。
7.人が『システム2』を初期設定にするためには、幼少期からの計画的な『内観』が必要である。
8.必ずしも内観をしなくても読書等による内省でもいいが、それができない人でも内観はできる。
9.覚えておかなければならないのは、内観の質には『経験』が影響するということ。
10.恐らく人が間違いなく通るべき道とは『産道』と『ブッダへの道』の2つである。
まあ、これは2019年5月現時点での見解であり、10年後には違う境地が見えているでしょう。見えていないなら私が今回神がかり的な境地を見ることに成功したか、あるいはただ私が10年探究をさぼっただけということになりますね。というか、今この段階を書いている時点でちょっとした違和感がありますので、この違和感に従って更にこの話を詰めていくつもりです。まだまだ奥行がありそうだ。
フランスの哲学者、パスカルは言った。
それではみなさん、お待たせしました。ようやく本題に入りましょう。アベンジャーズとジャニー喜多川の貴重な裏…
完。