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なぜ神に祈っても『神様』は助けてくれないのかを説明しよう。

重要

神様はいないのだ。人が『神』と呼んでいる威厳の正体は『法則』であり、法則に話しかけても『沈黙』されるに決まっているのである。

 

冒頭でまずこう書いておいた方がいいだろう。記事中にも記載したが、この話は『アインシュタイン』や『スティーヴン・ホーキング』も辿り着いた答えである。この世界にある一切の宗教の否定ではない。むしろ、その根幹にあるものを直視して見極めた事実を記載しているだけだ。

 

『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

正直、この2つの記事を見れば話は終わりだ。しかし、少し難しいらしい。だからこういう簡易版の記事も書いた。

 

世界平和を実現させるためのたった一つの方法

 

上の2つが10万文字なのに比べ、この記事は3000文字以内と、簡潔にまとめている。しかしこれでもわからないという人がいる。それはやはり、扱っているテーマ、出ているキーワードが『真理、神、愛』という、『わけのわからない、実態がよくわからない、あまりにも壮大で、かつ関わりづらい』実態であるということが邪魔をしているのである。しかしそんな人も、今回のこの記事で別の角度から見ることで、わかる人が出てくるだろう。

 

聖剣『エクスカリバー』を抜け!ケルト神話から受け継がれる誇り高き心構え

 

この記事を作るまでの過程で、『神話』については大体まとめた。この後、『宗教、哲学』をまとめ、更に私の言葉に説得力をつけていくつもりだ。しかし今から言っておくが、それをまとめる前も、まとめた後も、私が言うことは同じなのである。

 

MEMO

上記ジャンルの勉強は済んだ。言ったように、私が言うことに変わりはなく、それどころか確信が強まった。

 

もし『神様』を信じている人がいたとしても、大丈夫。あなたが信じるその『威厳』は実在する。しかしそれは『人格神』ではなく、『法則』だ。そもそも『神が人間の形をしている』、あるいは『人格神である』という発想をする人に、神を語る資格はない。人間というのはそんなに大した存在ではないのだ。神と人間はそんなに近い関係にない。だからここで『法則』という言葉を使っているが、それすらもその実態の正確な表現とは言い切れない。これはただ人間にわかりやすい言葉に当てはめているだけだ。

 

 

記号

文字とか数字とか、人間が認識できるもの。

 

 

未だかつて、『神様』という存在を見たことがあるだろうか。昔ならあった?それは、世界宗教の祖が生まれた時のことだろうか。では、なぜその時代に、その場所にだけ存在し、そして今はいないのだろうか。『最後の預言者』というシナリオもいいが、それよりもはるかに信憑性の高い考え方がある。それが『神』を『法則』だと解釈することである。

 

それならば、数千年前の話どころではない。宇宙が始まる138.2億年前から存在している。1グーゴル後、宇宙は無になる。1グーゴルとは、10の100乗(1に0が100個ついた数)であり、数の単位。9999兆年後よりもはるかに遠い未来のことである。『宇宙の熱死』とは、すべての星々が燃え尽きること。宇宙自体がとても遠くまで広がっていき、物が動くためのエネルギーがなくなり、時間も止まり、星々も消え、何もかもが消滅するということ。

 

こういう『法則』であれば、最初から最後まで存在する。『期間限定』ではなく、いつでもそこに存在している。法則が存在する間、どんな人間がそこに目を向けても、その法則の存在を肌で感じることが出来るだろう。神という規模の話をするなら、これくらいの規模で考えなければならないし、そこに人に似た面影を作ってはいけない。

 

遠い宇宙のどこかに、『スマイリー』という種族がいたとしよう。彼らが思い描く神は『スマイリーに似た存在』であってはならない。スマイリーにも、人間にも通用するもの。それが『神』でなくてはならない。つまり、『神』というのは、

 

  • スマイリー
  • 人間
  • 動物
  • 昆虫
  • 微生物
  • 宇宙人A
  • 宇宙人B
  • 宇宙人C
  • 宇宙人D

 

…等々とは、全く無縁の姿かたちをしていなければならない。そう考えたとき、それが『法則』であれば、この全宇宙で生きるすべての存在に、共通する存在となる。

 

 

『神』『人間の願いをかなえてくれる、人格を持った神様』

 

という図式を理解することが必要なのである。『違う』からだ。微生物に祈って、微生物が願い事を叶えるだろうか。叶えないなら、『願いを祈り、それを叶える』という図式が通用するのは人間世界だけだ。人間世界がすべての基準であると考えるのは、『人間本位』である。

 

それに比べ、『法則』はこの世を支配している。何人たりともこれに逆らうことはできない。まるで、人間がイメージした『神が持つ力』だ。それに等しく甚大なエネルギーと権力を持っている。しかし、別に法則は意図的に『むかつくから殺す』とか、そういうことはしない。そこが重要なポイントだ。

 

例えば、『神様』とやらに祈るとしよう。何か願い事をする。

 

神様、どうか無事に子供が産まれますように!

神様、あの人と一緒になれますように!

 

すると、その願い事が叶う可能性は『不明』である。叶いそうな願いであれば叶うし、無理難題を祈れば叶わない確率が高い。つまり、もしそこでその願い事が叶ったとしても、それは『神様』という『人の形をした偉大っぽい人』が、その願い事を聞いて叶えたのではなく、『たまたま』叶っただけなのである。

 

重要

神様はいないのだ。人が『神』と呼んでいる威厳の正体は『法則』であり、法則に話しかけても『沈黙』されるに決まっているのである。

 

私はクリスチャンの両親のもとに生まれ、そして幼少期から現在に至るまで、クリスチャンではない。私は、クリスチャンになるように強要、洗脳されて育てられた。もちろん両親の愛にも気づいていたから、100%憎むことはできない。まだ幼い頃などは、親の言う通り、何か困ったことがあったら手を合わせ、

 

助けてください

 

と祈ったものである。しかし、その願いは『叶う時』と『叶わない時』があった。それは最初に話した通りの事実が関係しているからである。例えば、

 

1兆円欲しい!

 

とお願いするのと、

 

この腹痛を治してください!

 

とお願いするのとでは、その願いが叶う確率に雲泥の差がある。この時点でもう勘のいい人は実態が見えてきたはずだ。

 

私は中学生くらいの頃から両親に反発するようになり、やがて真正面から対立するようになった。親の言うことを聞き、自分の心を捨て、クリスチャンになるくらいなら、自殺した方が良い。いや、それはむしろ自殺と同じだと考えていた。自分の意志を押し殺して生きていくのだからそれは『自殺』じゃないか。しかし私は根っからの『ネアカ』である。『根暗』ではない。だから私が自殺するくらいなら、親に死んでもらおうと考えた。そこまで対立してしまっていたのだ。

 

 

私は、無意識に両手を合わせる癖が染み付いてしまっていた。その頃の私はまだ、何か困ったことがあったら『神様に祈る』癖がついてしまっていたのだ。しかし、自我が発達し、自分の意志とその行為が矛盾していることに気づいた私は、その手を振り払い、祈るような素振りを心から軽蔑し、

 

自分の力で乗り越えて見せる!

 

と強く言い聞かせた。例えばある時は、腹痛だった。私はその頃、自分がまだ『乳糖不耐症』だということに気づいていなかったから、よく原因不明の腹痛に悩まされることがあった。

 

乳糖不耐症

牛乳を飲むとおなかを壊す人。日本人に多い体質。

 

いつもは神様に祈りを捧げ、その腹痛の痛みを和らげていた。しかしそうして自分の意志でその痛みを克服しようと覚悟したら、なんと腹痛は自然に治まったのだ!

 

なんだ!神様に祈んなくても治るじゃないか!

 

…もちろんこれは当然の原理である。腹痛はいずれ治まる。その間に、神様に祈ろうが、祈らまいが関係なかったのだ。

 

 

しかし私は、『何かあったら神様にお祈りをする』習慣を染み付かされてしまっていため、『うまくいったら神様のおかげ』だと考えさせられるようになってしまっていたのだ。しかし実際には違った。その証拠に、ある祈りは叶うことがないまま無に消えることになる。戦争の最中、自分の家族や知人の無事を祈ったはずなのに、死んでしまった。その時祈った人はこう思うだろう。

 

なんでですか神様!祈ったのに!祈ったのに…

 

 

『神様』はいない。だから願い事など叶わない。そしていくら天に向かって何かを叫んでも、それは『沈黙』するだろう。その祈った人がいくら善人であっても関係ないのだ。

 

重要

神様はいないのだ。人が『神』と呼んでいる威厳の正体は『法則』であり、法則に話しかけても『沈黙』されるに決まっているのである。

 

 

しかし、『叶いそうな願い事を祈ったなら、その願いが叶う』事実は存在するし、ときには『叶いそうにない願い』も偶然的に叶うときがある。これらの事実が人々に『神様の奇跡』を想像させやすくしてしまっている。私の両親が行っている教会でも、あるクリスチャンがクリスチャンになった理由として、こういうものを挙げていた。

 

あるとき、山登りをしていました。テントを張っていました。急に天気が大きく荒れました。私たちは内側から必死にテントを押さえ、それが飛ばないように祈りました。神様にも祈りました。死を覚悟しました。すると、嵐が収まったのです。私たちは、神様に救われたのです。

 

私はこれを聞いた時にすぐにそれが『単なる偶然による思い込み』だとわかった。間違ってはならない。その祈った相手が『どの神様』であっても、『神様じゃなくて悪魔』であっても結果は同じになったということを。これが決定的な事実である。このことを理解しないと、わけのわからないカルト教団に利用されることになる。

 

ほーら、ね!叶ったでしょ!私たちの主(あるじ)、ウンタラカンターラは、存在するのです!

カルト教団員

 

 

 

そう。人間がこうして真実から逸れても、神は何も言うことはない。『法則』が喋るわけがないだろう。例えば、ガリレオコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。

 

画像

 

しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、

 

画像

 

更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかったのだ。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』のである。このように真実から逸れても、神は何も言わない。『法則』が喋るわけがないからである。

 

天動説を否定した件でガリレオよりもひどい目に遭った人がいた!

 

矢井田瞳の歌にこういう歌詞がある。

 

 

神様はいない。…だって、祈ったもん。想いが届きますようにって。祈ったもん。祈ったもん。

 

重要

神様はいないのだ。人が『神』と呼んでいる威厳の正体は『法則』であり、法則に話しかけても『沈黙』されるに決まっているのである。

 

彼女が当時抱いた疑問の答えも、これで説明がつくようになる。『神様』という『人間の要求に応えてくれる存在』はいないのだ。ただ、法則だけが存在していて、人が『たまたま』そこに近づけば心が充足し(この場合、思いが届き)、『たまたま』逸れるなら心は虚無となる。

 

その祈った人がいくら善人であっても関係ないのだ。善人だからといって、恋が叶うとも、それが長続きして結婚するとも、結婚生活がうまくいくとも、子供が無事に生まれるとも、誰も怪我、病気とは無縁で生きていけるとも限らない。すべては、とんでもなく細かい様々な法則がここに絡んでいる。少しでも人がそこから逸れれば、人は虚無に陥る。

 

MEMO

例えば、ちょっとでも油断すると自動車事故を起こす。

 

そして人間は、『ビッグバン』とか、『核爆弾で20万人が死ぬ』とか、『九死に一生を得た』とか、そういう『あまりにも規模が大きい出来事』を受けると、理解の範疇を超えるため、どうしても人間以上の存在をそこに感じてしまい、『神様』という圧倒的な力を持った存在を想像してしまうのである。

 

 

神様がやったとしか説明できない!

神様、なぜこんなことを許すのか!

奇跡だ!神様、助けてくれてありがとう!

 

 

先ほどの天動説等の事例で考えたように、人間というものは『神(法則)』から逸れることができる。だから悪の道に逸れるだけ逸れることができる。しかし、それから逸れると、心が虚無に陥るようになっている。

 

真理(神・愛)から逸れれば逸れるほど、虚無に近づく。近づけば近づくほど、心が充足する。

 

これが私が独自に見つけた『神と人間の関係性』だ。

 

しかし、偶然にもこの世に未だに残り続けている世界的宗教は、なかなか的を射た教えをしている。

 

世界宗教(儒教含む)

  1. ユダヤ教
  2. キリスト教
  3. イスラム教
  4. ヒンズー教
  5. 仏教
  6. 儒教

 

『プラシーボ効果』の奇跡的な力、これらの事実も人々に『神様の奇跡』を想像させやすくしてしまっている。

 

限られた者の間にしか起きない『奇跡』の正体とは?難病を治した医者と少年

『思考の力を侮る人間は、人生に敗北する。』

 

儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、彼らはとても賢く、愛に溢れた話を残している。これらの事実も人々に『神様の奇跡』を想像させやすくしてしまっている。彼らの言葉は本物である。しかし彼らは『神様』ではない。その証拠に、もし彼らが『間違ったこと』を言ったら、彼らにある威厳は失われる。

 

だが、ソクラテスも含め、彼らの目線の先には『それ』があっただろう。それは彼らについて学んだ私の素直な感想だ。彼らは『それ』に目を向け、『それ』の実態の把握に近づいた。

 

ヒントはこうだ。

 

完全一致

 

部分一致

 

下の画像が『彼ら』である。この意味は冒頭の記事を見ればわかる。彼らは天才だったのだ。群を抜く識者であり、綺麗な心を持っていた。だから彼らに威厳が備わっているのである。

 

識者

見識のある者。見る目がある者。

 

だがそもそも、なぜ神様という宇宙を統べる主が、『人間の形をしていて、人間の味方をして、人間の願いをかなえてくれる』と思っているのかが問題だ。残念ながら、神という存在を語るなら、そのような視野の狭い自分本位な発想では無理だ。

 

『動物』を食べていない?『昆虫』を踏みつぶしていない?自分が歩く、走る道路を埋め立てたときに死んでしまった生命の命のことを考えた?植物は?これらのことを考えていない人には、『神』という圧倒的な規模を語ることはできない。

 

 

では、なぜこの世には『人が死ぬ』とか、『重力がある』とか、『相対性理論がある』とか、そういう『からくり』が存在するのだろうか。それを創ったのが神様じゃないのだろうか。宇宙の最初は?終わりは?死んだらどこへ行く?

 

実は、私もこれらのすべての『ビッグクエスチョン』の答えは出していない。しかし、この話を聞いた後にもう一度冒頭の記事の、簡易版から見てもらいたい。きっと、

 

神様がいなくても、『神はある』んだ!

 

という境地を知り、あなたの心は平安に満たされるだろう。『神様』はいない。しかし、人々が『神様』と言って目を向けている方向にある『威厳』は、真実なのである。

 

人間が『神』の輪郭を見つけるためには、知能を発達させることが避けて通れない

 

この記事に書いた内容を見てみよう。遡ること紀元前5000年よりもっと前、人はまず最初に知能が低く、知識がなかった時代に『神話』レベルで神を大体のイメージで想像した。

 

そして紀元前5000年頃からそれらを『宗教』へと変えていって人間の秩序を作っていく過程で、徐々に『神は目に見えない存在であり、人間の理解の範疇を超えたもの』であるという事実を知り、神の詳細を追求していったと考えられる。

 

STEP.1
知能が低く、知識もない
この時に想像できる『神』は『神話』レベルのもの。雨は神様のおしっことか、涙とか。紀元前5000年以前。

STEP.2
農耕社会へと移り、秩序を求める
一夫一妻、殺人や盗みをタブー視する。紀元前5000年頃。

STEP.3
その秩序を植え付けるために『神』が必要になる
みんなが権力を主張し、人間では意見をまとめられなかった。『人間以上の存在』が必要だった。

STEP.4
神話が宗教へと変化していく
宗教にてより『神の存在』を追求していくことになる。

STEP.5
人間がより『神の実態』に近づく
例えば、雨が神様のおしっことか、そういう稚拙な考えは完全に淘汰される。

 

人間を統率するためには『人間以上の存在』が必要だった!

自然現象を説明するには『神』が必要だった。では、その『神』はどこから生まれた?

 

人間が『神』の輪郭を見つけるためには、知能を発達させることが避けて通れない。例えば、スティーヴン・ホーキングの著書、『ビッグ・クエスチョン<人類の難問>に応えよう』にはこうある。

私はアインシュタインと同じく『神』という言葉を、人格を持たない自然法則という意味で用いる。したがって、神の心を知るということは、自然法則を知るということだ。私の予想では、今世紀の末までに、人類は神の心を知ることができるだろう。

 

MEMO

ちなみに、私はこの二人の思想に影響されて『法則』と言ったのではない。私と彼らの意見がたまたま一致しただけなのだ。私が彼らほど頭が良いということではなく、私は『彼らと同じ場所を、同じだけ掘った』のである。すると、たどり着くものは一緒になる。

 

アインシュタインやスティーヴン・ホーキングの名前が出てきたからと言って臆することはない。これは別に、彼らのような高知能者だけが神の実態を理解できるということではないのだ。だって、

 

人が死ぬとか、そういう避けられない絶対的な法則があるんだね!

 

これで終わりだ。これでもう法則を理解している。小学生でも理解できるだろう。つまりここで言う『知能』とは、『人間の知能』のことである。動物や昆虫や植物や微生物や恐らくウイルス等のその他の生命には存在しない。地球上では人間だけが神の実態を、その輪郭を把握することができるのだ。

 

輪郭

概要。物事の大体のありさま。

 

人間であれば誰もが理解できる。それが『神(真理・愛)』という法則なのである。

 

神は、『人を殺せ!』とは言わない。絶対に、間違いなく、断じて言わない。しかし神(法則)は人を死なす。そしてもちろん人だけじゃなく、動物も昆虫も、あらゆる生命の命を終わらせる。そしてもちろん、生かし、誕生させる。

 

この意味を理解したとき、人の心は虚無から遠ざかり、平安に満たされるだろう。人の心とはそういうものである。『完全にそうなっている』という事実を知ると、納得してしまう生き物なのである。そこに少しでも未練や執着やエゴや他の可能性への期待があると、ジタバタと騒いでしまう。これも神(法則)である。そうなっているのである。

 

 

また例えば、

 

神の為に人を殺した!

 

とかいうセリフを叫んで、テロを起こして人を殺す者がいるだろう。あの類の人間は、この法則が存在することによって完全に否定される。つまり彼らは法則を無視し、曲解(自分の都合のいいように理解)し、勘違いして道を踏み外しただけなのだ。どうだろう。この事実を理解するだけで、何だか心がホッとしないだろうか。彼らが間違っていて、悪であるということがわかっただけで、ホッとしないだろうか。

 

そう。人間は、この法則の圧倒的な力によって、心がホッとしたり、逆に虚無に陥ったりするのだ。それこそが私が言っている、

 

真理(神・愛)から逸れれば逸れるほど、虚無に近づく。近づけば近づくほど、心が充足する。

 

という言葉の意味なのである。つまり、『神』という言葉にはもうこだわらない方がいいということだ。こんなものは人間が勝手に作った言葉であり、これで言うなら『日本語』。その程度のものがこの威厳の実態を正確に言い表しているわけがない。なまじその言葉があるから人は道を逸れる。無意味な期待をし、主体性を失い、潜在能力を埋没させる。

 

さて、これ以上奥へと進むためには冒頭の記事、そして以下の記事を読むことが必要だ。確かに人は『神の輪郭』を見つけるのには、持ち前のほんの少しの知能があればいい。だが、それ以上のことになるとやはりもっと知的レベルを引き上げる必要があるのだ。

 

Inquiryで導き出したもの、導き出していくもの(序)

 

長い間天動説が信じられていて、賢い人々によって真実が明るみになってきたように、普通の発想をしていてはたどり着けない境地がある。

 

『ドラゴンと海獣の死』があったからこそダーウィンはこの世に名を遺せた

もし地球が平面なら人は『上と下と横』に何があると考えたかわかるだろうか?

 

手塚治虫はこう言い、

 

湯川秀樹もこう言っている。

 

彼らのような柔軟性と、理性と、賢さが必要である。そうじゃないと実態を把握できない難解さも、人が『神』と言うものがいつまでも雲がかってしまっている理由の一つである。

 

酸素も、暗黒物質(ダークマター)も、人の目に見えない。人の目に見えないものは確かに存在している。だが、目に見えないからといってその正体が『人間の願いをすべて叶えてくれる人格神』だと考えるのは、人間の思いあがりである。今はただ、『法則のようなもの』があると解釈するのが限界なのだ。そして私はその法則を、

 

『神、真理、愛』

 

という人間が作りだした最も威厳があり、高潔で、崇高な言葉を用いて、表現することにしている。もちろん、この言葉すらもこの実態の正体を正確には言い表せていないだろう。

 

暗黒物質(ダークマター)

宇宙の7割を占める、目に見えない物質。存在していないとつじつまが合わない物質。

 

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