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『器が大きいのは男だ。だが、器の数では女に遠く及ばない。』

意味

男と女の器の実態

『鈍感でなければ出来ないこと、敏感でなければ出来ないことがあるのだ。』

『女が虚ろで神秘的なのは、この世が虚ろで神秘的だからだ。男は鈍感である。』

 

これらの記事で、男と女にはそれぞれの違いがあり、特性があるということを考えたわけだ。そして今回考えるのは『器』についてである。まず前者の『器が大きいのは男』という言葉に引っかかる女性はいるだろう。

 

私の知っている限り、男ってのは器が小さい奴しかいないがねえ。

 

という声が聞こえて来る。もちろん、そういう事実もあるだろう。それらもふまえて、こう結論付けているのだ。実は、『器が大きいのは男』という言葉は、その後に続く『器の数が多いのは女』という言葉と均衡を保つために後で考えたもので、最初に強く頭に浮かんだのは、『器の数が多いのは女』の方なのである。女性だけの肩を持つのは差別的なので、それに比べて男が何であるかを正当に評価したつもりだ。

 

それに、よく考えればわかるが、例えば『1リットル』の容量の大きな器がある。そして、『100ミリリットル』の容量の小さな器が『10個』ある。では、その器の容量の総量は、どれぐらいになるだろうか。

 

『1リットル』=『100ミリリットル×10』

 

つまり、同じ容量になるのだ。

 

私はこの『総量が同じになる』という部分を主張したかったわけで、男女を平等に考え、差別的にならないようにするためには、『男の器は大きい』とする必要があった。それに、もし周りにそういう人がいなかったとしても、私の知っている男には、器が大きい男が実在している。そしてその器の様相は、女性のそれとはやはり次元が違うのだ。次元が違うというのは女性に対する差別的な意味ではなく、『様相が違う』というような意味だ。そういう感覚からも、

 

『器が大きいのは男だ。だが、器の数では女に遠く及ばない。』

 

という言葉はピタリくるものだと考えたのだ。

 

 

女が突きつけられてきた現実

『女が虚ろで神秘的なのは、この世が虚ろで神秘的だからだ。男は鈍感である。』

 

の記事でも、『女心と秋の空』については書いた。変わりやすい秋の空模様のように、女性の気持ちは移り気だということを突いているわけだ。しかしそれは決して女性が『軽薄な存在』だからではない。これらの事実が存在しているのは、女性が『流動変化しなければ生きていけない現実を突きつけられてきた』からなのだ。

 

だが、見識がない人間がその様子を見ると、『軽薄な存在』としか見えない。つまり、『見方によっては軽薄に見える』事実が存在しているわけだ。では、それを『軽薄ではないのだ』と説明するとなると、こういう発想が必要になってくる。

 

『女の器は、数が多い。そして、一つ一つの器のサイズは小さい。だから、すぐに埋まって満たされ、満たされると次の器を満たさなければならないと考えるようになる。』

 

この発想があれば、

 

  • 女心がコロコロと流動変化する
  • 移り気である
  • 一言『髪型変えたね』と言うだけで満たされる
  • ヒステリックになる
  • すぐにいっぱいいっぱいになる
  • ちょこちょこスキンシップを取って欲しい
  • マメが好き
  • 細部をいじってほしいが、深入りはしてほしくない
  • 流行や流れに乗るが、飽きっぽい

 

等といった女性の特性にもつじつまが合う。

 

 

あのガールズトークもそうだ。権威ある女性の心理学者は、

『女性の会話は、結論が出なくてもいいんです。基本、他の人の話は聞いていないんです。』

 

と言うが、確かに彼女らはそうしたトークでのコミュニケーションのとき、核心に迫るような深い話をして涙を流しながら酒を酌み交わすというよりは、表層的な部分だけを合わせ、感覚を繋ぎ合わせているように見える。

 

私などは、『THE・男脳』の典型のようなものだから、結論の出ない話なら最初からするつもりはないし、無意味な言葉のやりとりでコミュニケーションをするつもりもなく、形だけの表層的な心のこもっていない会話や社交辞令をするぐらいなら、一冊の本を読んだ方がはるかにましだと考えてしまうものである。

 

だが、私も家族に母や妹といった女性が存在しているからわかるが、やはり女性というものは、男が求めている会話の内容とは、違うニーズを持っていることは明白なのである。

 

太宰治もこう言った様に、

 

日本人男性

愛してるなんて、言わなくてもわかるだろ。
言ってくれなければわからないのよ。

日本人女性

 

として、男女は今日も明日も上手くかみ合うことはない。では、男女というものはそもそも脳のつくりが違うのだろうか?

 

 

男女の脳の構造

東京大学大学院教授、池谷祐二の著書、『脳と心のしくみ』にはこうある。

構造的には男女差はない

 

男性と女性では体つきが違い、それぞれの担っている社会的な役割も異なる場合が多い。また、性行動、出産、育児などにおいても、行動は異なっている。そのため、男と女では脳の構造や機能が違うと考えられてきた。実際に、リスやネズミなどのげっ歯類では、視床下部の構造がオスとメスとで大きく違っているなど、動物の行動は、脳をはじめとする神経系の構造や機能の違いと関係している。しかし、こうした男女差は脳全体から見ればごくわずかで、大雑把にいって脳の男女差はほぼないといってよい。

 

『器』など最初から存在しない

しかし、明らかに男女の間には、肉体的な差異以上の違いを感じることがあるわけだ。そこで考えたのは、『器』という、最初からそんなものは存在しない精神世界の話だ。だが、確かに『器が大きい、小さい』という概念が存在していて、人もそれが何を意味するのかを大体理解している。私は、あの女性の移り気のある流動変化する様を見ていてこう考えた。

 

彼女らの器は小さいのではないか?だからすぐに満たされ、あるいはすぐに枯渇していっぱいいっぱいになり感情的になる。だが、単に器が小さいというだけでは差別的見解になる。男女が平等であるということを原則として考えなければならない。

 

 

間違いなく存在する男女の差異

だが、そう考えると女性のその小さな器の数は、男のそれよりも遥かに多い印象があるな。例えば、『どんぶりと定食』についてだ。ある女性心理学者は、

『男はどんぶりで腹を満たせればそれでいいが、女は定食で少量多食をしたい。友人同士でシェアしたりと、複合的な要素が揃っていてはじめて満たされるようになっている。例えば、『森ガール』や『山ガール』だ。あれが単なる登山だけだったら魅力を覚えない。だが、そうした流行的要素と、そこにファッションを取りいれることで、複合的にそれらの行事を満喫することが出来る。』

 

 

と言っていたが、確かに見ていてもその通りだ。何かがフィーチャーされたときも、『しかもイケメン』だとか、『LAでもこれが最先端』などと言って、妙にそこに複合的要素を加えようとする傾向がある。一つだけでは満足できないのだ。男にもこういう傾向はあるが、女性ほどではないという印象が強い。その様子から考えても、どうも『男よりは数が多い』という印象で、間違いなさそうだ。

 

女性はすぐにいっぱいいっぱいになる。ヒステリックになるのも鬱になるのも、女性の方が多い。これらの事実も、『器のサイズと数』の話で、全てつじつまが合うようになる。)原則的には、男女に差などない。だが、確かにそこには差異がある。つまり、男女はともに差別するものではなく、区別するものなのだ。

 

 

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