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寿命が『22歳』でこの世の生活が『苦あるのみ』であれば人は何を想う?

バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 』にはこうある。

エジプトやメソポタミアの石に掘られた記録から、世界的社会の歴史は人類が物理学や化学、生物学全般にわたって何も知らない状態から始まっていることがわかる。人間は安全な食べ物をほんの少ししか知らなかった。あやしげな場所で摘み取られた一見おいしそうなものを食べて、多くの仲間たちが中毒死していくのをまのあたりにした。伝染病がはびこっていた。平均寿命は22歳程度で、時折言及される、聖書に言うところの『人生70年』のおよそ3分の1に過ぎなかった。

 

人間は50歳が寿命で、それ以上生きても意味がないという見解がある。昔の人の寿命は短く、だいたいそれくらいだったから、今の人はむしろ長生きしすぎているということだ。インペリアル・カレッジ・ロンドンで生物学の学士号と修士号を取得したのち、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンおよびロンドン動物学協会で進化生物学の博士号を取得したアランナ・コリンが2016年に書いた『あなたの身体は9割が細菌』によると、人間の1900年の全世界的な平均寿命は、31歳だった。先進国では50歳。日本はよく50歳だったと言われる。

 

 

しかし、それがこの100年、更に厳密に言えば『抗生物質が普及した1940年代の10年』を境に、人類はこれまでの倍の時間を生きるようになった。それについてはまた別の記事で詳しく言及している。

 

ニキビを抗生物質で治すと副作用で他の病気になる?~カギを握る腸内細菌~

 

とにかく言いたいのは、昔は寿命が短く、ピラミッドを作ったような紀元前2,500年付近の時代になると、『22歳』程度で人々は命を終えていくのだった。まるでその命は『消耗品』であり、奴隷としても、生贄としても、その他の動物と同じような扱いを受けた。『上に立つ者』以外の人間の命の尊厳は、とても低かったのである。

 

 

本にはこうもある。

生活はあまりにもひどい状態だったので、どんな理屈をもってしても、宇宙の偉大な神は生きることそれ自体を望ましいものとして意図していると、人々に信じ込ませることはできなかった。唯一主張できる言い訳は、来世での生活のための準備としてのみ、この世に生をうけたのだというものだった。ひどい生活はそれを立証するもので、この世でのよい生活は来世で苦しみを受けることになると考えられていた。しかし、経験から一般に食物があまりにも不足していたので、来世でさえも、ファラオ以外に十分な食べ物を得られる者は誰もいないだろうと考えていた。

 

ピラミッドというのは、ファラオ(君主)が来世でまた同じようにファラオであるように作った墓でもあり、『蘇る前提で作られた家』だ。その家に入れるものは限りなく少なく、その他大勢の人はむしろその『家づくり』を強いられ、ぞんざいに扱われた。

 

 

もし寿命が『22歳』でこの世の生活が『苦あるのみ』であれば人は何を想う?

 

彼らのように、

 

きっと来世は良いものであるに違いない

きっと彼ら(ファラオ)の上に、更なる『上に立つ者』がいて、その人が平等にジャッジしてくれるに違いない

 

と思うだろう。ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆いた。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。

 

自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。

 

そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。詳しいことは下記の記事に託そう。

 

Inquiryで導き出したもの、導き出していくもの(上)

 

2,500年前の時代を生きた以下の3人は、

 

 

実にこの年齢まで生きたから、その時代にあって1900年の寿命の2倍以上の人生を生きている。一体なぜなのだろうか。『賢く、熟慮できる人間の寿命が長い』のだろうか。それとも、『運よく長く生きられた者がたまたま熟慮できる余裕があった』のだろうか。確かにブッダは、旅に出る前のゴータマ・シッダールタとして生きていたときは、『王子(クシャトリア)』という身分で、何不自由ない生活をしていた。

 

私も真剣に勉強を始めたのは22歳を過ぎてからだ。釈迦も29歳でブッダになるための旅に出た。孔子、ソクラテス、イエスに関しても30歳までの正確な記録はほとんどない。私が考えるに、やはり寿命がそれだけ短かったから『縦に掘る』時間が確保できず、自分の心と向き合えないから、真理にたどり着かない。

 

『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』

 

早稲田大学を経て、情報会社・出版社の役員を歴任した岬龍一郎の著書、『言志四録』にはこうある。

自分の心を深く掘り下げることは、たとえていえば縦の努力であり、博く書物を読むのは横の修行である。縦の努力は深く自己を反省して悟ることができるが、横の努力は薄っぺらになりがちで、なかなか自分のものとはならない。

 

人間には『縦に掘る』時間が必要なのだ。そう考えたとき、寿命が短かった時代の世が混沌であり、光が照らされなかったのはつじつまが合う。光にたどり着く前に命を終えてしまっていたからだ。

 

 

参考文献

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