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『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』(6ページ目)

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真理(愛・神)とは、永久不変に、断固としてそこに存在しているものであり、甚大なエネルギーを秘めているものである。人間は、そこに近づくように合わせに行く使命を背負っている可能性が高く、また、未だにその真理の実態を完全に把握出来ていない可能性が高い。

 

確かなものは『神=愛=真理だけであり、それを断固として説く者には後光が差し、揺るぎない権威が与えられる。しかしそれは、『彼らが崇高』だからではない。『彼らが説く法則』、つまり『真理(愛・神)』こそが限りなく厳かで揺るぎなく、崇高だからだ。その証拠に、もし彼らがそれ(真理・愛・神)から逸れたとき、彼らの威厳は失われる。

 

特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。

 

 

しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、

 

 

それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。

 

我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。

 

 

その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『』と言ったり、『』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。

 

 

ゴッホは言った。

 

『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。

 

  • 人の目に見えない
  • 何ものにも支配されない
  • 永久不変である
  • 極めて厳かで尊い
  • 圧倒的な威厳と力を持つ
  • 未だに全容を理解できていない
  • 逸れると虚無に近づく
  • 近づくと充足を覚える

 

もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、

 

  • それを『愛』だと認識した人は『愛っていいなあ。』と感じ、
  • それを『神』だと認識した人は『神様、ありがとうございます…』と祈り、
  • それを『真理』だと認識した人は『ユリイカ!』と叫ぶ。

 

[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]

 

例えば、『愛』で考えたいのは、

 

 

これらが行われているとき、そこにいる人は(これは愛だ!)と思っていることである。しかし、本当にここにあるのは『愛』だろうか。違うから人の心が虚無に陥るのである。つまり人は、この目に見えない『愛(真理・神)』の正確な認識がなかなか出来ない。だからこそ世界平和がいつまでも訪れないのである。

 

『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』

 

全ての人間が『愛(真理・神)』の正確な認識をしたとき、それが世界平和が実現するときだ。

 

 

蛍のような『限界のある』光

イエスやブッダが生まれた場所が、現在の世で混沌としているのは一体なぜだろうか。普通、その様な聖なる場所であったら、そのあたりだけが常に聖域とも言えるような神々しさをまとっていなければおかしい。テロが起きたり、あるいは強盗が多発したりしている。また、彼らが死んだ後、奴隷制度や人種差別、戦争といったあらゆる混沌があった。

 

これらの事実を考えるとき、まるで蛍の光のように、その2,000年前、2,500年前だけが神の光によって一時的に、またあるいは部分的にぽっと明るくなったが、やがて光が消え、行き届かなくなると、闇と混沌に陥る、そんな様子が浮かび上がってくる。

 

 

それは、『人間が真理(愛・神)から逸れた証拠』であり、神が常にこの世を照らすのではなく、人間が認識する真理(愛・神)は、人間によって光ったりそれが弱まったりする、ということを裏打ちしていることになるのだ。

 

もう一度『面白いほどよくわかる聖書のすべて』のこの内容を確認しよう。

旧約聖書と新約聖書の違いは何か?

 

『わたしは熱情の神である。わたしを拒む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える』

 

これが聖書の伝える神の本質である。日本人にはわかりにくいとされる聖書だが、冒頭に述べた神の本質さえ理解していれば聖書には強くなれるのである。

 

わたしを拒むのか?それとも愛するのか?じつは聖書全体を通じて流れているのは神のこの問いかけなのだ。だからこそ、二者択一を迫る神とそれに答える人間との間に契約が必要とされるわけだ。拒むのか?愛するのか?という契約である。その中間などありえない。そして愛すると契約したその時点から、熱情の神は文字通り情熱的にその人を愛しはじめるのだ。まずここを押さえてから聖書の扉を開いてみよう。

 

求めればそこには真理(愛・神)が存在している。だが、求めなければ人はそれを見つけることはできず、心が虚無に陥る。

 

 

 

アシタの言葉に秘められた偉大なる智慧

ではここで、『教えを歪曲させた凡人、偉人が説いた真理』に書いた、『アシタの言葉』についての詳細を書こう。

 

『彼は国王の地位を捨て、感情を抑え、真実を知る。彼の知恵の光を前にすると、日の光の前で夜が逃げ出すように、この世から過ちは消える。彼は、邪悪な海の中で、とげのように突き刺してくる病や、押し寄せる老い、怒り狂う死の波に苦しむ人々を救い、知恵という偉大な船に乗って、ともに漕ぎ出す。彼はどこへ向かうべきかを知っている。それは、流れが速く、すばらしく、恵み深い川。務めをなすべき川だ。

 

 

彼は道筋を明らかにする。渇きに苦しむものはそこへ来て、水を飲む。悲しみに苦しむ者、感情に囚われている者、道に迷った旅人のように存在の森をさまよっている者には、救済への道を指し示す。感情の炎に身を焦がす者には、みずからが洗い流す雨をもたらす雲になる。真理で武装した彼は、生きるもの全てが疲れ果てている欲望の牢獄へ行き、邪悪の門を破壊する。すべてを理解している彼は、世界を解き放つのだ。』

 

この言葉がアシタの言葉だとか、ブッダ神格化における伝説の言葉だとか、そういうことはどうだっていい。そういうことを全て取っ払ってニュートラルにこの言葉を見た時、この言葉は異彩を放っていることに気が付くだろう。この言葉はまさに、

 

『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

の説明をしているのである。『真理(愛・神)に近づけば近づくほど、心は充足を覚える』ということを、示唆しているのである。つまり、真理(愛・神)という圧倒的なエネルギーの存在を、断言しているのだ。

 

 

黄金律の実力

そして、私が捻出した、

 

8,000の名言から浮かび上がった38の黄金律

 

これはまさに、『真理(愛・神)』にふさわしい法則だ。

 

『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

『ピンチ?逆境?絶体絶命?いや違う。『チャンス』だ。』

ピンチ、逆境、絶体絶命に陥ったとき、それを『チャンスだ』と思わなければ、そこにあるのは『虚無』である。

 

『愛があれば全ては解決する。』

人を愛せば心はどうなる。温かくなる。だとしたらその逆はどうだ。人を赦さず、人を憎しみ、冷めた目でこの世を見て、卑屈になる。そこにあるのは『虚無』である。

 

『生きるのは過去でも未来でもない。『今』だ。』

忘れられない過去の失敗や挫折を後悔し、忘れられない不幸な思い出をいつまでも引きずり、あるいは、まだ来ぬ、来るかどうかもわからない未来を憂い、思い煩い、今日を一心不乱に生きない。そこにあるのは『虚無』である。

 

『思考の力を侮る人間は、人生に敗北する。』

思考の力を侮り、支配せず、逆に支配されることがあるのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『偶然に期待する人間は、支配される。』

偶然に期待し、つまり主体性を放棄し、人生を反応的に生きるということは、ある場面、例えば『刑務所の鉄格子の間から外を見る』とき、星ではなく泥を見る。つまり、そこにあるのは『虚無』である。

 

『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』

自分の心と向き合わず、表層的に生き、あらゆる『答え』がわからないままなのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『やるべきことがない人間だけが、悩み、憎むのだ。』

やるべきことがなく、ただ漠然と、場当たり的に人生を生きるのであれば、人は悩む暇があり、憎む暇がある。そうした負の感情に支配されるのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『足るを知る者は富む。足るを知らぬ者は貧しい。』

よく目を凝らせば足りているのに、『足りない』と思うのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』

他の人と比べ、優れているところ、あるいは特殊なところがあるのにも関わらず、それを誇らず、劣っていると受け取るのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』

どれだけ長く生きるかに固執し、その為にあらゆる醜い手段を使い、そこに執着し、自分の人生を見失うのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』

この世に生まれた自分の奇跡の命の価値を理解出来ないのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『「生きる」ということの本当の意味とは。』

錆びた剣や、錆びた農工具のように雨ざらしにあって、生きているのかも死んでいるのかもわからない日々を送っているのなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『自分の命を最も躍動させる為には、「働く」必要がある。』

働きもせず、運動もせず、苦労も努力も挑戦もしないで、ただ食事だけ摂って毎日を生きようと思うのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』

人からどう見られるか、何と言われるかに支配され、たった一度の自分の人生の価値を見誤るのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』

人からどう見られるか、何と言われるかに支配され、見栄を張り、虚勢を張り、優劣にこだわり、一喜一憂を繰り返し、本当に打ち克つべく『自分の心(欲望)』に打ち負けるのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『持つべき愛国心の「国」とは国家のことではない。「地球」のことだ。』

自分の生まれた国だけのことを考え、その他の国のことは考えない。そこにあるのは『虚無』である。

 

『それは「行き止まり」ではない。ただの「曲がり角」だ。』

壁にぶち当たるたびに、そこを『行き止まり』だと考え、打ちひしがれるなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』

自分の状況が良くない理由は、自分ではなく『環境にある』と思い、自分の人生の舵を握ることを覚悟しない人間がいるなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『この世に価値のない人間などいない。いるのは価値がわからない人間だけだ。』

特定の人間だけが常にえこひいきされ、特定の人間だけが常に軽蔑視されるなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』

達成し、成功し、有頂天になっているとき、人の目は『盲目』になる。だとしたらそこにあるのは『虚無』である。

 

『お金を稼ぐことは、良いのか。それとも悪いのか。』

金に支配され、金の亡者となり、拝金的な人生を送り、『義利合一』の重要性を軽視するなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『本当の友人とは。』

友人に依存し、友人を見失い、友人に支配されて人生を生きるなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『人間が「幸せだ」と言ったのなら、そこにあるのは隠蔽だ。』

『私はあなたとこの子がいて、それでご飯さえ食べれればそれで十分幸せなの。』…そこにあるのは『虚無』である。

 

『失敗をすぐに認められるか、それとも隠蔽するかで人間の価値は決まる。』

失敗をしてそれを認めず、利己的になり、真実を隠蔽して生き長らえようとするなら、そこにあるのは『虚無』である。

 

『自分のものに出来ない知識は、自分の知識とは言えない。』

本当は知らないはずなのに、それを『知っている』と吹聴し、妄言するならば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『簡潔、単純、シンプルが知性だ。』

もっと簡単に、わかりやすく、シンプルに出来るはずなのに、それをしないというのなら、それを『受ける』人の心がないがしろにされている。つまり、そこにあるのは『虚無』である。

 

『基礎工事をしない建築物、基礎土台をおろそかにする人間。どちらもその限界は、知れている。』

基礎・土台を甘く見て、そのまま人生を先に進めようとし、そこに何かを建造しようとするのなら、いつかその建造物が崩壊する可能性が飛躍的に高くなることになる。だとすると、そこにあるのは『虚無』である。

 

『真の礼儀とは。』

慇懃無礼(いんぎんぶれい。表裏的な態度)に上辺だけ敬語を使い、敬っているようにしても、本当のところで敬っていないのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『耐え忍ぶことができる人間でなければ、大局を見極めることは出来ない。』

人間には、どうあがいても太刀打ちできない力がある。それなのに、それに逆らって『勝てる』と過信してしまうのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『人間は今、「最高到達地点」にいない。』

人間が今、すでに『最高到達地点』にいるのだと盲信するのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『いつも心が愉快であることの、甚大な恩恵を知れ。』

心が不愉快になるあらゆる原因に蝕まれるとき、そこにあるのは『虚無』である。

 

『流動変化が避けられないことを知っているかどうかは、人間の運命を大きく変える。』

流動変化するこの世の真理に逆らおうとするのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『前進あるのみ。それ以外は後退だ。』

人生を生きるということが、前に進むことなのだと理解できないのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『後始末では遅い。前始末をせよ。』

あらゆる不幸な事件の後、『こうなる前にやるべきことはなかったか』と嘆いても、そこにあるのは『虚無』である。

 

『知者?無知者?自分が振る舞っている人格はどっちだ。』

全知全能な人間などこの世に存在しないのに、自分が無知であることを人にさらけ出せない人間がいるのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『「一歩」の価値をどう評価するかで、その人間の人生は決まる。』

一歩の価値を軽んじ、『たかだが一歩だ』と言っていつまでもその一歩を踏み出せないのであれば、そこにあるのは『勇気』ではなく、『虚無』である。

 

『失敗したと思っても絶対に諦めるな。そもそもそれは、「失敗」ではない。』

失敗をするたびに『また失敗した…』といちいち嘆いて、下を向いている人がいるのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『一つのことに集中する人間だけが手に入れられる圧倒的な力がある。』

『弾み車効果と悪循環』を理解せず、『ハリネズミの概念』を理解せず、『器用貧乏』に陥って、いつまでも結果が捻出できずに憂いているのであれば、そこにあるのは『虚無』である。

 

『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

全てはこの法則通りになるのだ。

 

 

人間の認識の範囲外

※2016年11月追記

9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。

つまり世界がなぜいま見えているように見えるのか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからという点をさらに突っ込んでみたいと思う。

 

 

私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界ー私はミドル世界という名を使うつもりであるーでは、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。そこでは事物はじっと立っているか、高速に比べればゆっくりとした速度で動いているからでありる。そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととしとえ処理しても問題はない。私たちの精神的なブルカ(※人間の視野の限界。見える範囲の限界の例)の窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助けるうえで、それをひろげる必要がなかったからなのである。

 

(中略)ミドル世界で進化した私たちは、『一人の人間が、人間や他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前身は、苦痛を伴って阻まれる』といった事柄なら、直接的に、容易に把握できる。

 

しかし私たちの脳は、ニュートリノ(※宇宙にある人間の目には見えない物質)が壁を、つまりその壁を『現実に』構成している広大な隙間のなかを、どんなふうに通り抜けるかを想像出来るようにはつくられていない。また私たちには、ものが光速に近い速さで動くとき起こる事態にうまく対処する知覚能力も備わってはいないのだ。

 

 

(中略)私たちが現実世界に見ているものは、ありのままの現実世界などではなく、感覚データによって制御され、調節された現実世界のモデルー現実世界に対処するのに役立つように構築されたモデルーである。このモデルの性質は、私たちがどういう動物であるか、その種類に依存する。

 

飛翔する動物は、歩行する動物、木に登る動物、泳ぐ動物とはちがった種類のモデルを必要とする。捕食者は被食者とは、必然的に重なり合うところがあったとしても、異なる種類のモデルを必要とする。サルの脳は、木の幹と枝が創り出す三次元の迷路をシミュレートしすることができるソフトウェアをもっているにちがいない。ミズスマシの脳は3Dソフトウェアを必要としない。なぜなら彼らはエドウィン・アボット(イギリスの作家)の言う平面図(彼の著作『二次元の世界』による)に暮らしているからである。

 

モグラがその世界モデルを構築するためのソフトウェアは、地中用に特注されたものだろう。ハダカデバネズミはおそらく、モグラのとよく似た世界表現ソフトウェアをもっているだろう。しかしリスは、デバネズミと同じ齧歯類だが、おそらく、サルのそれとずっとよく似た世界表示ソフトウェアをもっていると思われる。

 

 

(中略)コウモリは、ひょっとしたらものの表面の音響的な肌理のような、反響音の有効な側面を表す内的なラベルとして『赤』や『青』のような形で知覚される色合いのようなものを使っているのではないだろうかというのが、私の説である。

 

確かに、『真理(愛・神)』は人間の目には直接的には見えない。だが、『間接的には』見えるときがあり、感じるときがある。人間がその目で確認できないからといって、そこにそれが存在しないという理由にはならないのだ。

 

 

『0(ZERO)』

注意

この項目はあまり本気で見る必要はない。

 

『真理=愛=神』

 

だとちょっと言いづらい。そこでこの言葉を一つにまとめた造語を作りたい。まず単純に、

 

  • 『真理愛神』
  • 『真愛神』
  • 『愛神真』

 

この様な言葉を思いつくがこれだと読み方もよくわからない。というか、私は『全人間』に通用する概念が欲しいわけだから、恐らく漢字ではだめだ。では、英語ならどうか。まず、

 

  • 真理=truth
  • 愛=love
  • 神=god

 

と訳してみる。その頭文字を取って、

 

  • TLG
  • LTG
  • GLT
  • GTL

 

などとしてみる。だが、それでもあまりピンとこない。そもそもこの言葉を使うときに、『真理=愛=神に近づいた』とか、『真理=愛=神はそこにある』、『真理=愛=神から逸れると虚無になる』などという風な言い回しをするわけだから、『GLTに近づいた』とか、そういうことになると、余計わかりづらくなる。

 

また、わけのわからない造語を作ってしまうと、下手をすればよくあるカルト教団の謎の専門用語にもなりかねないので、注意が必要だ。それに英語も全世界の共通語としては、完全なものではない。

 

 

では、『数字』ならどうか。これなら全世界に通用しそうだ。そこで考えたのが、

 

  • 『0(ZERO)

 

だ。『0(ZERO)ならば、これらをまとめた別称として相応しいのではないか。そこで考えたいのが、『真理=愛=神』の、全てが『0(ZERO)で説明できるかどうかということだ。

 

まず『神』だが、それが『宇宙の創始者、世界のデザイナー』であるかどうかはわからないが、たとえそうだとしても、『彼』は『ゼロ(無)からこの世界を創った』。ということで、ここに『ゼロ』が通用することになる。また、汎神論的な法則と同義との神で考えた場合でも、『神は人の目には見えない』ということで、『無。つまりそれはゼロ』ということになる。ここにも『ゼロ』が通用することになる。更には、『見えないし、神様がいたとしても、それは1人とは数えない』ということになる。そうすると、ここにも『0(ゼロ)』が通用することになる。

 

 

次に『真理』だが、これは、『天秤』のような、『シーソー』のようなものを思い浮かべたい。その天秤の左右が完全に均等になったとき、そこに真理が存在するイメージを持ちたい。

 

  • 左=人間が解釈した真理
  • 右=本当の真理

 

としたとき、その両辺が寸分の狂いもなくピタリと一致したとき、人間はその真理を認識することが出来る。

 

 

例えば、引力に支配される人間に書いた『ニュートン力学の欠陥』で考えた時、『宇宙のどんな運動でも説明できる』ニュートン力学のはずだったが、実はそれは真理ではなかった。従って天秤は、完全なる均等ではなかった。目盛りで言えば、少しだけ『数字のずれ』が起きてしまっていた。それを、アインシュタインが修正し、『0(ゼロ)』にした。つまりそれではじめてそこに真理が誕生した。

 

あるいは『靴のサイズ』だ。自分の靴のサイズが、『26.0㎝』だとする。しかし、『26.5㎝』や、『25.5㎝』を履いたとする。するとそこにあるのは、『窮屈、履きづらい』といった納得のいかない状態となる。なぜならそれは、それぞれ『-0.5』、『+0.5』という靴を履いてしまったからだ。自分の靴のジャストサイズは『26.0㎝』だ。それを履いて初めて『0(ゼロ)となる。

 

 

真理もこのように考えたい。『その考え方で、本当にジャスト、ピッタリ当てはまるのか。欠陥は、ずれは、矛盾点はないか』ということで考えた時、もし本当にピッタリ当てはまるのであれば、それは『ズレ度』が、『0(ゼロ)となる。数学などでも、0.01ずれているだけで、その回答が『×』となることがある。

 

そして、『愛』だが、例に挙げた『キリストの愛』、『インターステラー』、『アウシュビッツ強制収容所』で考えてみる。まず、『キリストの愛(『神=愛』)』だが、これは利他の精神だ。それはつまり『没我』だ。自分のことを後回しにし、人に思いやる。これは、自分の我を無くすことで成立することだ。自分の我が、『無(ゼロ)』になる。それでここに、『0(ゼロ)が当てはまる。同じように、仏教で考える『無我の境地』も同じことだ。我が『無(ゼロ)』になる。それでここに、『0(ゼロ)が当てはまる。

 

 

では『インターステラー(宇宙と時間の圧倒的な力)』で考えた『愛』だ。これは、『時間と空間に支配されることがなかった』という話だ。そこで考えたいのが、まず『無重力(ゼログラビティ)』という言葉。当然、『愛(もしくは真理や神も)』は重力にも支配されない。ということで、ここに『0(ゼロ)』が当てはまる。

 

 

では、『時間と空間』も同じように考えられる。実際には『無重力(ゼログラビティ)』と言うような言葉はないが、それは『無時間、無空間』という概念が『まだ』存在していないだけだ。『無重力』だって、存在していない時期があった。ということでこれも『無重力(ゼログラビティ)』と同じように、

 

  • 『無時間(ゼロタイム)』
  • 『無空間(ゼロスペース)』

 

という言葉を作ることが出来る。愛は、時間にも、空間にも、重力にも支配されないもの。従ってそこには、『0(ゼロ)』が当てはまる。

 

 

そして『アウシュビッツ強制収容所(愛(神・真理)のない空間はあるのか?)』だが、これは、『ストレス値』とか、『血糖値』のような『数値』をまず思い浮かべたい。この時彼らが強いられていた状況は、軽々しく話せるようなものではなかった。そこにあったのは、『ストレス値』とかそういう言葉で済ませられるような、軽々しいものではなかった。

 

だが、確かにそこにあったのは、『普段と比べると明らかに異常な数値』だ。真冬で半袖半ズボンで外を歩くとき、人は平静でいられるだろうか。たとえば、空気清浄機で『部屋の最適な湿度』とされているのが『60%』だと言われているように、人には『最適な数値』というものが存在している。

 

 

その真冬の例で言えば、恐らく人は、

いい気分だなあ。まるで、無になった気分だ…

 

とは思うことはないだろう。

寒い…

 

とか、

痛い…

 

とか、

辛い…

 

とか、実に様々な邪念や煩悩といったストレス値が高まり、平静ではいられなくなるはずだ。『血糖値が上がる』というイメージで、これらの『数値』は『異常』になってしまうはずだ。そして収容所にいた彼らは、ここで想像した『真冬の例』の遥かに苛酷な状況を強いられ、精神状態はギリギリになってしまっていた。

 

だが、ヴィクトール・E・フランクルは、そこで『愛は人が人として到達できる究極にして最高のもの』という境地に達した。それは彼がその『ある数値』を、『0(ゼロ)』にしたからだった。ある種の無我の境地になり、自分から『愛』に近づいて行った。するとそこには『愛』があった。生きているか死んでいるかもわからない妻のことを想像しただけで、彼の心は愛で満たされ、たとえ一時でも心の虚無が晴れた。

 

 

従って、私はこの『真理=愛=神』という言葉の同義語として、『0(ZERO)が相応しいのではないかと、ふと考えた。これなら全世界の人が使える言葉だ。ただ言い方を考えると、

 

  • 『0(ZERO)にするんだ』
  • 『0(ZERO)に近づけろ』
  • 『0(ZERO)から逸れるな』
  • 『0(ZERO)がそこにあるのか』
  • 『0(ZERO)を信用しろ』
  • 『0(ZERO)はとても尊いものだ』
  • 『0(ZERO)だけが絶対なんだ』

 

ということになり、結局これはわけのわからないカルト教団の謎の専門用語になってしまうので、言葉で言い表すのは難しそうだ。そういうことも人々が無意識にそこから逸れる原因の一つになってしまっているだろう。『真理=愛=神』の同義語を探すのはそれだけ難しいということだ。

 

MEMO

『徳、道、光、天』といった言葉は、その中でもこれらに近い印象を得る。

東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。

 

最後に

この記事は、自分が宗教を親に強要されて悩んできた、という事実を入れて考えれば、実に20年以上の時間をかけて熟成させたものである。そういう環境を強いられた私は、この20年間、『この答えなら納得することができる』という答えを、探し求めていたのかもしれない。またあるいは、『その答えを見つけ出すまでは死ねないし、一生安堵など出来ない』と思っていたのかもしれない。そうした厳しい目でチェックした内容を、これらの記事にまとめたつもりである。

 

そして言った様に、私は『この答えなら納得することができる』のだ。

 

『真理=愛=神』

 

であり、

 

『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

ということなのであれば、私は納得することが出来るのだ。乱立する宗教の存在も、混沌とする信者の奇行も、対立する意見や思想も、存在した威厳ある人物たちの存在も、偏った宗教を強要した両親のことも、全てこの図式を理解することで腑に落ちるようになる。

 

神(真理・愛)は、『いる』のではなく、『ある』のだ。人間はそれに合わせに行く使命を持っている生き物であり、何人たりとも、そこに近づけば心は愛で満たされ、遠ざかるなら心は虚無に陥る。神が『創造した』という話はまだ解決していないが、私は『真理・神・愛』という甚大なエネルギーの実態に、少しは近づけたと確信している。

 

ただし、まだまだ未熟なはずだ。これからまた長い時間をかけ、生きている限りこの記事の完成度を上げていく覚悟である。

 

 

 

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