Contents|目次

『人類の歴史(世界史)』を最速で理解する。『結局どういうこと?』

時系列で見る『文明の興り』の記事一覧

時系列で見る『ヨーロッパ史』の記事一覧

時系列で見る『アフリカの歴史』の記事一覧

時系列で見る『アメリカの歴史』の記事一覧

時系列で見る『イスラムと西アジア・インド史』の記事一覧

時系列で見る『中国とアジア史』の記事一覧

 

上記の記事に『人類の歴史(世界史)』についてまとめましたが、この記事ではそれらの内容を簡潔にまとめ、要点だけをピックアップしています。『結局どういうこと?』という点だけを急いで知りたいという方におすすめです。

全114記事

 

『文明の興り』

地球の最初の人間は?

2019年現在、700万年前の猿人の化石が見つかっています。

アダムとイブから始まったという『旧約聖書』的な話もあれば、中国神話にも同じように『泥からできた』話がありますが、そのシナリオを正当化すると、これらの事実と矛盾点が出てしまいます。700万年前にはすでに人間の祖先と考えられる化石が見つかっているので、まずはその事実を受け入れたいところですね。私の両親もクリスチャンだったので、色々と複雑な心境ではありますが。

 

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人類はどうやって進化してきたの?

猿人→原人→旧人→新人という形で、長い時間をかけて人類は少しずつ現代人に近い姿に進化していきました。

700万年前~250万年前ほど前までは『猿人』がいました。その後240万年前に『原人』、60万年前に『旧人』、20万年前に『新人』が登場します。徐々に現在の人間に近い姿かたちに進化していき、新人の頃にはもうすでに現代人と変わりはないですね。ちなみに現在の人は『現代人』と呼びます。

 

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文明が興る前の人間は何をしてたの?

狩猟や採集をして生きていたのですが、紀元前5000年頃からは『農耕』を覚えて生活していました。

農耕が始まるのが紀元前5000年頃です。

 

それまでの人間は、狩猟・採集をして生活していました。60万年前くらいの『旧人』時代にはもう『戦闘』をした形跡があるので、生きるための狩猟採集はかなり前から行われていたと推測されます。しかし、『1万年前』という時期を皮切りに、人間の生活は大きく変わっていきます。氷河期が終わり、地球規模の温暖化が起きたのです。それによって動物が小型化し、魚介類や植物の種類が多くなると、弓矢や網を使用する狩猟・採集などの『獲得経済』の技術を高めていきました。

 

しかしそれとは逆に、大型獣が死滅し、それまでの狩猟・採集生活を続けることが困難になります。そして紀元前5000年前、つまり『7千年前』あたりから、徐々に人は『農耕社会』へと移るようになってきます。そこで人類は『生産経済』を知るようになります。獲物を追い求めて移動するよりも、農耕をするなどして自分たちで『生産』してしまったほうが効率的だということに気が付くわけですね。

 

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なぜ文明は『川』の近くで興ったの?

『水』が何よりも重要視されたからです。

農耕生活を続けていると、次第に人口が増えてきました。

 

またちょうど世界的に『乾燥地帯』も増える傾向にありました。すると、徐々に『農地不足』が深刻化してきます。農耕で生活していた人々にとって水はあまりにも重要でした。そして人々は水を求めて移動し、川の近くで『世界四大文明』も興りました。

 

・メソポタミア文明
・中国文明
・インダス文明
・エジプト文明

 

重要なのは、この4つの場所がすべて『大乾燥地帯』だったということです。乾燥していたからこそ大河を求め、水の付近で文明を作ったわけですね。

 

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人類最古の『文明』は何文明?

紀元前14000年に中国の『長江文明』があったと考えられています。

『世界四大文明』は『大文明』のことです。メソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明というのは世界四大文明です。単なる文明ということになると、それよりも前にいくつかの場所でありました。『文明』を語るには、前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければなりません。

 

紀元前14000年に中国の『長江文明』があったと考えられています。現在の『イラク、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、エジプト、トルコ、西北ヨルダン、西南イラン』あたりの地域を指す『肥沃な三日月地帯』には、紀元前9000年にそれが行われていた証拠が見つかっています。

 

しかし、文明の定義として『大きな人口』とするものがあり、それを考慮するならば、やはり『メソポタミア文明(紀元前6000~紀元前4000年頃)』が一番古くて大きな文明と言えます。

 

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なぜ『メソポタミア文明』は世界最古の文明じゃないのに一番有名なの?

ここで『文字』の原型を作ったり、現代にも影響する大きな爪痕を残したからです。

メソポタミア文明は世界四大文明の中で最も古い文明ですが、それ以前にも文明はありました。

しかし、それ以前の文明はそれほど大きくありませんので『大文明』とは言えず、また、そこで発展したものもそう目立ったものはありません。しかしメソポタミア文明では、

 

・1週7日制
・60進法
・楔形文字
・太陰暦
・ハンムラビ法典

 

という現代にも影響する大きな爪痕を残しました。特にこの『世界最古の文字』というところがポイントで、文字があれば『国の名前や人物名』等を、その文字を解読して理解することができるわけです。つまり、文字がない時代のことは解読しようがないので、メソポタミア文明よりも更に7000年以上前にあった中国の長江文明には何があったかわからないということになります。

 

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ピラミッドは何のためにあるの?

ファラオ(王)が死んだ後に蘇ることを想定して作ったお墓というのが濃厚です。

ただし、完全にはハッキリしていません。エジプトのファラオ(王)は、太陽神ラーの化身であるとされていました。

 

したがって、彼らがトップに君臨し、すべてを支配していたのです。ピラミッドは、ファラオ(王)が死んだあと、また帰ってくることを前提として作られた墓であり、家のようなもので、だからピラミッドからはファラオ関連のミイラや、たくさんのお宝が発掘されるわけです。しかしそれを作ったのは奴隷でした。しかし最近では、近くに労働者の居住地が発掘され、彼らに食事やビール、休みが与えられている記述も発見されています。ナイル氾濫時に仕事を失う農民へ、仕事を与えるための公共事業だったという説もあるというわけです。

 

ただ、粗末な食事、中毒死、伝染病等の問題もあって、当時の平均寿命は22歳程度で、そう考えるとどちらにせよ『ピラミッド建築という巨大事業』を建築している途中で息絶える人が多かったはず。そうなれば、その人達は結局『ファラオの墓の為に一生を費やした人』となり、客観的に見るとそれはあまり奴隷と変わりないようにも見えますね。

 

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ツタンカーメンは何をした人?

新しい神とそれを信仰する団体の勢力を抑えた…となっている人です。

古代エジプトは太陽神ラーが信仰されていました。

 

しかし、『アメン・ラー』という新たな神を信仰する団体が現れ、その勢力を抑えようとして別の太陽神『アテン』を持ち出し、抑えようとします。しかし話が余計にこんがらがって民衆から反発を受け、ファラオたちは権威を失いかけます。そこにツタンカーメンが登場し、その話を丸く収めたということなのです。

 

しかし、ツタンカーメンはわずか9歳で即位し、死んだのも19歳です。そんな若い彼がこのようなことをやったとは考えられず、彼の裏には、

 

・宰相アイ
・将軍ホレムヘブ

 

といった人物たちの存在があったと考えられています。

 

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いくつか質問があるんだけど、

・世界で初めて鉄を本格的に使用した民族は?
・史上初の公式な軍事記録に残された戦争は?
・アルファベットの起源は?

1.現在のトルコあたりに生活していた『ヒッタイト人』です。

2.古代エジプトとヒッタイトの戦い『カデシュの戦い(紀元前1286年頃)』です。

3.現在のエジプトやイラクあたりに生活していた『フェニキア人』の作ったフェニキア文字がギリシャに伝わり、そしてそれが『アルファベット』になります。

 

これらはちょうど紀元前13世紀頃のことです。

 

しかしそれはあまり関係なく、注目したいのは『メソポタミア文明』、『エジプト文明』といった大きな文明の間にあった小さな文明の中にも、現代に影響を及ぼすほどの文化が作られていたということですね。

 

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『インダス文明』を作ったのは誰?

紀元前2500年頃に『ドラビダ人』がインダス川の近くで作りました。

インダス川の下流にあったシンド地方が『インド』の語源となりました。

 

インダス文明は世界四大文明の中でも最も新しい文明です。インダス文明は、メソポタミアやエジプトをしのぐ規模の都市があり、インダス文字などもまだ解明されていません。エジプトのピラミッド同様、まだまだこれから新しい事実が発見される可能性が高いと期待されています。

 

しかし、インダス文明を作ったドラビダ人の後、1000年後ほどに現れた『アーリア人』は、彼らを制圧し、奴隷として扱います。それがこのインドの地に今も尚続く『最悪の負の連鎖』である『カースト制度』の原因となってしまいます。このせいで何もしていない子供が無残に殺され、捨てられるというようなあまりにも残虐な事件がインドで頻発してしまっているのです。

 

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世界四大文明なのは『黄河文明』?『中国文明』?

どちらと答えても間違いではなく、『中国文明』と言った方が正解に近いと言えます。

黄河文明の前に『長江文明』というものがありました。

 

黄河文明は紀元前5000年頃にできて、長江文明は紀元前14000年頃にできたとされています。そのため、それらをまとめて『中国文明』と数えるなど、まだ整理しきれていないところがあるようです。

 

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世界初の世界帝国はどこ?

紀元前7世紀の前半、セム語系遊牧民アッシリア人が打ち立てた『アッシリア帝国』です。

ティグラト・ピレセル3世が帝国の基礎を作り、アッシュル・バニパルの時代に最盛期を迎えます。

 

アッシュル・バニパルは楔形文字について造詣が深く、『文化王』の名にふさわしい知性を持ち合わせていましたが、同時に持っていた側面が『残酷性』でした。彼の統治はあまりにも残酷であり、抵抗した国家を徹底的に破壊していくき、支配に逆らう民族を容赦なく虐殺していきました。このような圧政によって諸民族の反乱を受け、アッシリア帝国は100年程度で崩壊することになります。滅亡は紀元前609年だと言われています。

 

史上初の世界帝国アッシリアは、

 

・エジプト
・リディア
・メディア
・新バビロニア

 

の4つに分断。それを紀元前525年にペルシャ人が『アケメネス朝』としてこれを統一します。そこからアレキサンダー大王が支配する紀元前330年頃まで、アケメネス朝ペルシャがヨーロッパの覇権を握ることになります。両方とも現在の中東近辺(アッシリア=イラク、ペルシャ=イラン)エリアの国です。

 

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アメリカ大陸にはどんな文明があったの?

マヤ・アステカ文明等がある『メソアメリカ文明』とインカ文明等がある『アンデス文明』がありました。

世界四大文明には数えられませんが、アメリカ大陸にも大きな文明がありました。

 

世界遺産等にも選ばれているマヤ文明の『マチュピチュ』などが有名です。これらは日本などと同様、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の文明との交流を経験せず、地理的に孤立した環境で発展しました。そのため、彼らの生活は原始的な生活に近く、独自の文化がありました。それは外国の人が日本を見て思う感想と同じことです。『神殿を祀る文化』が紀元前2000年頃に興り、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けました。

 

しかし16世紀頃、スペインは征服者(コンキスタドール)をアメリカ大陸に送り込み、次々とペルー、メキシコ一帯は征服され、スペインの植民地となっていったのです。

 

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ヨーロッパ史の歴史

古代

ペリクレスは何をした人?

貴族だけが行っていた政治を、成年男子であれば参加できるようにした人です。

ペリクレスは貴族政から民主政に変えました。

 

ペリクレスだけでそうしたわけじゃなく、ドラコン、ソロンとその前にも政治家がいて、徐々に貴族だけが持つ特権が薄れてきて、民衆に発言力が与えられていくようになりました。そしてペリクレスのときに民主政治が完成したということですね。また、ペリクレスの時代はアテネの黄金期で、古代ギリシャのアテネが最も栄えた時代だと言われています。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ペリクレス以外にアテネに貢献した人はいないの?
  2. 古代ギリシャのアテネはなぜ滅亡したの?

1.ソクラテス、アイスキュロス、ソフォクレス等たくさんの人がいました。

2.『ペロポネセス戦争』に負けた外部問題と、アテネ内の混乱、つまり内部問題が重なったからです。

ペリクレスというのは優秀な指導者でした。

 

しかし、彼一人で革命を起こしたわけではなく、同じ志を持った様々な人のリーダーとして活動していたので、彼以外にも偉大な展望を持っている人はいました。例えば悲劇作家のソフォクレスですが、ペリクレスが将軍に立候補した際に、同時にソフォクレスを自分の同僚として推挙します。そして紀元前440年にソフォクレスは将軍に選ばれました。ペリクレスには同志と呼べる人が何人もいたのです。

 

しかしそんな風に勢いがあったアテネに対し、そのうち、同じギリシャ人であるはずのスパルタ人が、

 

スパルタ人

アテネめ、なぜお前らがギリシャの中心であるかのように振舞っているのだ!

 

と腹を立て、アテネとスパルタで戦争を起こしてしまいます。『ペロポネセス戦争(紀元前431~404年)』です。この時、クレオンという『デマ』を流す政治家のせいでアテネは混乱し、スパルタと戦争をしなければならないというような雰囲気がありました。そして紀元前404年に降伏したアテネはギリシアの覇権を失いました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. アレキサンダー大王(アレクサンドロス)は何をした人?
  2. マケドニア王国はなぜ崩壊したの?

1.アッシリア、ペルシャの次に、つまり史上3番目に世界的な帝国を創った人です。

2.彼は32歳で亡くなり、帝国の拡大も短期間で行ったので、すぐにそのしわ寄せがきて崩壊しました。

アレキサンダー大王は『アルゲアス朝マケドニア王国』の皇帝です。

 

彼が創った帝国が『世界最古の帝国』だと書いてある専門書がありますが、その前に、

 

・アッシリア(紀元前7世紀)
・アケメネス朝ペルシャ(紀元前525年)

 

がありますから、世界3番目の世界帝国です。アレクサンドロスはそのアケメネス朝ペルシャの最後の王、ダレイオス三世を打ち破り、ギリシャ軍、ペルシャ軍に勝ちました。

 

若かった彼がやったことは確かに世界に大きな影響を与えたでしょう。しかし彼が統治したアルゲアス朝マケドニア王国は、紀元前336~323年の、たったの13年間しか持たず、始皇帝が統一した『秦』の時代よりも短い帝国だったようです。急速に拡大させたことが原因となって、民族の融和なども進んでおらず、アレクサンドロスが死んだ紀元前323年とともに瓦解してしまったこのマケドニア王国は、『成長』というよりも『膨張』的に膨らんだ帝国だったと言えるかもしれません。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. カエサルの前のローマには誰がいたの?
  2. ハンニバルは何をした人?

1.例えば『大スキピオ』と呼ばれる名将がいました。

2.確実に拡大していくローマを何度も打ち破り、それを食い止めた人『ローマの強敵』です。しかしスキピオが打ち破りました。

ローマにはスキピオ、カルタゴ(北アフリカ)にはハンニバルがいました。

 

当時ローマは着々と自国の領土を広げていました。そして地中海の覇権をめぐってフェニキア人の都市国家『カルタゴ』と衝突し『ポエニ戦争』という3回の大きな戦争をすることになります。しかし、後に世界史上最高の名将と呼ばれるハンニバルは想像以上に手ごわく、奇をてらった戦略によってローマはカルタゴをなかなか崩せませんでした。

 

しかし、『大スキピオ』と呼ばれたローマの名将、スキピオが敵の本拠地であるアフリカに上陸し、ハンニバルに負けじと攻撃に挑みます。たまらず帰国するしかなくなったハンニバルは、スキピオの活躍によって振り回され、1万5千人のカルタゴ軍は壊滅し、戦争は終結しました。これによってローマはすべてのポエニ戦争に勝利した形となり、ローマは地中海の覇者となり、『ローマ帝国』への道を確実に開いていきます。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. カエサル(ジュリアス・シーザー)は何をした人?
  2. クレオパトラは何をした人?
  3. アウグストゥス(オクタウィアヌス)は何をした人?

1.ローマで絶大な支持を得て、『ローマ帝国』の初代皇帝になろうとした人です。

2.カエサルの愛人となり、息子を王位に就かせようとして色々と計画した人です。

3.カエサルが暗殺された後に『ローマ帝国』の初代皇帝になった人です。

長い間(紀元前509年~紀元前27年)ローマは王がいない共和政でした。

とある参考書によると、当時の臨時の最高職であった『独裁官』を終身の『終身独裁官』に変更し、自らその役職に就くことで事実上の『王』になろうとしたカエサルは、共和制を守ろうとする人々から反発を受け、それで暗殺されたとあります。しかし、違う参考書にカエサルが、

 

長年、共和制が続いてきたローマにあって、人々はカエサルが王となることに納得しないだろう

 

と考えていたとあるので、本当のところはわかりません。しかしどちらにせよ言えるのは、カエサルは身内に暗殺され、その暗殺者の中の一人には、愛人セルウィリアの子供、マルクス・ブルートゥスの姿もあったということです。そしてあの名言が生まれたわけですね。

 

ブルートゥス、お前もか…

カエサル

 

クレオパトラは『自分の魅力で男を操って出世する』という野心家だったかもしれません。カエサルの愛人となり、息子を王位に就かせようとしたり、カエサルの死後も権力者と手を組んで誰かを殺害させたりと、自分の美貌に自信がある野心家の女性が取りそうな行動を取った女性と言えます。彼女は『世界三大美女』に数えられていますが、それはもしかしたら、『本当の美女』というよりは、『美貌を使ってここまで大きなエネルギーを動かした人はそういない』ということかもしれません。

 

オクタウィアヌスは、カエサル亡きあとのローマをまとめた人です。彼の養子でもあったオクタウィアヌスは、その元老院から『アウグストゥス(尊敬すべき人)』の称号を得て、あらゆる権利を付与され、『帝政』となりました。カエサルの時には王の存在をあれほど拒絶したのに、

 

アウグストゥスなら大丈夫

 

だと思い、『帝政』を受け入れ、そして彼自身もそれに応えて、国に尽くしたわけですね。そして実際に彼は国の為に尽くし、彼自身は皇帝の宮殿とは程遠い質素な家に住み、更には自分のお金を使って市民に食料を配ったりして、国と国民に尽くしました。

・圧倒的な攻撃力で帝国の礎を築いたカエサル

・『ローマ帝国』の初代皇帝になったアウグストゥス

 

『ローマ帝国』を創ったのは、そして『ローマ帝国』の英雄は一体どっちだったか。おそらく、その両方だと言えるかもしれません。

 

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イエスが言った『カエサルの物はカエサルに』の『カエサル』は、ユリウス・カエサル?

第2代ローマ帝国皇帝のティベリウスです。彼は『ティベリウス・ユリウス・カエサル』という名前でした。

よく知られるカエサルは『ローマ帝国の基礎を創った人』です。

 

そしてローマ帝国の初代皇帝はアウグストゥス。そして2代目にこのティベリウスがいました。彼は『紀元14年9月18日 – 紀元37年3月16日』までローマ帝国の皇帝だったので、イエスが生きた時代のローマ皇帝は彼になります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ローマ皇帝で一番ひどかった人は誰?
  2. ローマ皇帝で一番不運でかわいそうな人は誰?

1.第5代皇帝のネロもひどいですが、『ローマ史上最悪の暴君』と言われたのはカラカラでした。

2.軍人皇帝時代のローマ皇帝ウァレリアヌスは不幸でした。

義弟や母、妻など自分の気に入らない存在はことごとく抹殺し、ついにはローマに火を放ったと言われたネロ。

 

ネロはその放火の犯人を台頭してきた『キリスト教信者』たちのせいにし、大量虐殺してしまいました。更に、金を浪費し、自分の為に『黄金宮殿』を建設し、金箔、宝石、真珠を散りばめた大豪邸を作りましたが、最後にはそうした悪行がたたって反乱が起き、『人民の敵』と定められます。しかし、それよりもひどいのがカラカラ。弟と、その側近や友人等、およそ2万人を処刑してしまい、即位の翌年212年に『アントニヌス勅令』を発布し、ローマ帝国内の自由民に市民権を与え、増税を試みるも、結局彼はネロよりもひどい『ローマ史上最悪の暴君』と言われ、うまくいきませんでした。

 

50年間に26人の皇帝が乱立した『軍人皇帝時代』に突入したローマ帝国は、何をやってもうまくいかず、衰退しつつありました。253年からの皇帝ウァレリアヌスは、その中で最も不運で、東方遠征時に、ペルシャ王の捕虜となり、2年余り屈辱的な日々を強いられます。ペルシャのササン朝第2代王シャープール1世はローマ軍を撃破する力を持っていて、彼を乗馬の踏み台にし、奴隷として扱います。そして死後は皮を剥がされ、赤く染め、見せしめに神殿に飾られました。これが、彼がローマ皇帝で最も不運だったと言われる理由です。

 

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中世

いくつか質問があるんだけど、

  1. ミラノ勅令って何?
  2. テオドシウスは何をした人?
  3. ローマ帝国はなぜ滅亡したの?
  4. ヨーロッパで『古代→中世』へと変わる分岐点はいつ?

1.ローマ帝国内でキリスト教を公認し、保護すると主張された勅令です。(勅令:国王・皇帝・天皇などの君主が直接発する命令・法令。)

2.ローマ帝国の国教をキリスト教と定めた人です。

3.ローマの経済破綻による反乱に、ゲルマン人がやってきたりしてローマは東西に分裂します。しかし、本当に滅亡するのは1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされてしまったときです。

4.476年に西ローマ帝国がゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手で滅ぼされたときからです。

ローマ帝国の国教がキリスト教になるということは、とても大きな出来事です。

それによってキリスト教が大きな力を持ち、その後の中世の1000年間を支配するからです。この間は哲学も大した発展をせず、ただただキリスト教の為にある1000年間でした。現在キリスト教が世界一信者が多い宗教なのも、この時の出来事が大きな理由となっています。

 

ディオクレティアヌスが皇帝を神として崇めさせる『専制君主制』を始め、コンスタンティヌスが夢の中でキリストの十字架を見て、『ミラノ勅令』を発布。そしてローマ帝国最後の皇帝テオドシウスがキリスト教をローマ帝国の国教と定めた。この3人の強烈なリーダーシップがなければ、現在のキリスト教はないかもしれません。

 

ゲルマン人傭兵隊長オドアケルは確かに、ローマ帝国が滅亡した後の最初の王です。しかし、『ローマ帝国』というのは複雑な話で、

 

・東西に分かれた395年
・オドアケルに西ローマ帝国が潰された476年
・ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がオスマン帝国によって滅ぼされた1453年

 

と、そのどれもで『ローマ帝国が終わった』ということができます。ただ、厳密にはローマ帝国が分裂しても、西だけが潰れても、まだ東(ビザンツ帝国)は残っているので、本当にローマ帝国が潰れたのは1453年ということになります。したがって、ローマ帝国の寿命は1500年だったとされています。しかし、ヨーロッパで『古代→中世』へと変わる分岐点は、オドアケルに西ローマ帝国が潰された476年ということになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ゲルマン人はヨーロッパに入って何をしたの?
  2. 『キリスト教VSイスラム教』の最初の戦いはいつ?
  3. 『ビザンツ帝国』ってどこ?
  4. 『カールの戴冠』って何?

1.フランス、イギリス、ドイツ、イタリアの大元の国を創りました。

2.『トゥール・ポワティエ間の戦い』(732年)で、キリスト教の勝利に終わりました。

3.ビザンティウム(コンスタンティノープル)を都にしたためにつけられた通称で、『東ローマ帝国』のことです。

4.これによりカール大帝率いるゲルマン人が創ったフランク王国が『新しい西ローマ帝国』として公認されました。

 

ゲルマン人がやってきて現在のヨーロッパの国々の大元を創りました。

 

フランス=『フランク王国』、イギリス『アングロサクソン七王国』、ドイツ『東フランク王国』、イタリア。また、彼らはデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となりました。

 

そんなフランク王国のメロヴィング朝のカール=マルテルの時代に、イスラム史上最初の世襲であるウマイヤ朝との戦いもあり、『キリスト教VSイスラム教』の最初の戦いでもある『トゥール・ポワティエ間の戦い』(732年)が行われました。

 

ビザンツ帝国というのはあくまでも通称ですが、西の『神聖ローマ帝国』、東の『ビザンツ帝国』として覚えられることが多いです。西ローマ帝国が『神聖ローマ帝国』と呼ばれるまで『帝国』とか『ローマ帝国』と呼ばれていたので、それと区別するためにこう呼ばれたのかもしれません。

 

『カールの戴冠』は、異民族であるゲルマン人が認められた証拠でもあります。

 

  1. メロヴィング朝ローヴィスがカトリックを国教にする
  2. カロリング朝ピピン3世がローマ教皇にゲルマン系民族ランゴバルドから奪った土地を寄進

 

このような彼らのキリスト教やローマ人への敬意が伝わり、ついにローマ教皇から王冠を授かり、フランク王国が『新しい西ローマ帝国』だと承認されました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 『神聖ローマ帝国』はどこ?いつから始まったの?
  2. 『カノッサの屈辱』って何?

1.800年のカール大帝戴冠以降、962年のオットー1世戴冠以降の2つで意見が分かれているようです。

2.神聖ローマ皇帝(ハインリヒ4世)がローマ教皇(グレゴリウス7世)に波紋されて権力を失い、裸足で3日間も立ち尽くして謝罪した事件です。

更に厳密には『神聖ローマ帝国』という名称自体は、1254年から使うようです。

1254年、ローマ王ヴィルヘルム・フォン・ホラントによって『神聖ローマ帝国』の国号が初めて正式に用いられます。しかし『神聖ローマ帝国の始まり』となると、その800年、962年が用いられます。

正式には1254年からだが、あの時からこの帝国の基礎は作られていた。

とかそういう解釈でしょう。しかし、『神聖ローマ帝国の初代皇帝』という肩書を持っているのは、カール大帝とオットー1世の両者ということになります。

 

『カノッサの屈辱』は、神聖ローマ皇帝でもあったハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世に破門され、ことごとく権力を失ったことから、裸足で3日間も立ち尽くして謝罪し、教皇に許してもらおうとした事件です。この事件で『ローマ皇帝<ローマ教皇』という図式が明確になり、ローマ教皇率いるキリスト教会が確実に力をつけていうようになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. キリスト教はなぜ十字軍を遠征したの?
  2. サラディンは何をした人?

1.イスラム教にエルサレムを支配された…と解釈したからです。

2.イスラム教の英雄で、キリスト教徒にも差別なく平等に対応し、十字軍にも勝利した戦死です。

 

エルサレムというのは相当複雑な場所です。

詳しくは下記の記事に書きましたが、見れば分かります。であるからして、この地を巡って色々な人が争ってしまったのです。イスラム教の言い分も、キリスト教の言い分も、そしてユダヤ教の言い分も、

 

この地を奪還せよ!

 

です。ローマ教皇がキリスト教の立場で十字軍を遠征させ、この地を奪還しようとしたのも、この地の複雑な事情と、根底にこの発想があるからでした。

 

サラディンというのは、イスラム教の英雄です。サラディンは、宗教的な憎しみにもとづいた無駄な殺傷は一切行わなかったといいます。そのため、キリスト教側から見ても彼のことを、

 

騎士道精神を持った真の勇者だ。

キリスト教徒

 

と評価しているようです。ただ、スポットライトは当てる場所によって景色が全く違って見えます。24歳でこの世を去った『ボードゥアン』という十字軍側の騎士は、そのサラディンにとてつもなく不利な状況で勝ちました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. アナーニ事件って何?
  2. ローマ帝国はいつ滅亡したの?

1.聖職者に課税を求めたフィリップ4世に対し、教皇ボニファティウス8世が謝罪を求めたのに、逆に捕らえられた事件です。

2.1453年5月29日です。

以前に『カノッサの屈辱』という事件がありました。

この事件の流れもあって、教皇が怒れば、皇帝もひざまづくという風潮がありました。しかし、フィリップ4世とボニファティウス8世の時代には、その形勢が逆転していて、逆に教皇のボニファティウスが皇帝のフィリップ4世に捕らえられて謝罪しなければならなくなりました。この少し前から長く続いたキリスト教一強の時代の雲行きが怪しくなっていて、キリスト教の権威が下がっていたのです。

 

現在のトルコの前段階であるオスマン帝国は、十字軍にも勝利するほど力をつけていました。そして1453年5月29日、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを征服。これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになったのです。

 

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近世

いくつか質問があるんだけど、

  1. ルネサンス時代はいつから?
  2. ダヴィンチやミケランジェロはなぜ芸術活動ができたの?

1.イタリア=ルネサンスの扉を最初に開けたのは、詩人ダンテ(1265年 – 1321年9月14日)だとされています。

2.彼ら芸術家たちには『パトロン(出資者、支援者)』のような存在がいたので、彼らは芸術活動に専念できました。

キリスト教会の権力によって抑えられていたものを『再生(復興・ルネサンス)』させる。

中世ヨーロッパの1000年間の暗黒時代というのは、哲学というものは大した発展がなく、すべては神の為にあった1000年間で、その時代が『暗黒時代』と呼ばれるようになりました。それは哲学というような思想面だけではなく、全体的に見てもそうでした。キリスト教が腐敗し、権力が低下し始めた14世紀頃、ヨーロッパはその時代の殻を破ろうと『ルネサンス時代』に突入したのです。

 

その扉を最初に開けたのはダンテの『神曲』。地獄篇は、1304年から1308年頃に執筆されました。また、ジョットがサン・フランチェスコ大聖堂に書いた『聖フランチェスコの生涯』も『ルネサンスの萌芽』、つまり先駆けと言われ、初期ルネサンス絵画の中でも最高傑作のひとつといわれています。これら芸術作品を通して、『神中心』から『人間中心』へ人々の価値観が変わり、キリスト教支配時代の終わり、そして新しい時代(ルネサンス時代)の幕開けとなりました。

 

芸術活動には豊富なリソース(資源。物やお金)が必要になります。しかしダヴィンチやミケランジェロといったこの時代に活躍した芸術家には、ローマ教皇などのお金持ちの支援者がいました。中には私財をなげうって芸術家たちを支援し続けた人もいて、彼らの存在があったからこそ彼らは芸術活動に専念できたのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. イタリアはいつできた?
  2. イギリスはいつできた?
  3. フランスはいつできた?
  4. ドイツはいつできた?
  5. ロシアはいつできた?

1.国号としてのイタリアの走りは476年にゲルマン人が西ローマ帝国を滅ぼして建国したときです。

2.ゲルマン人のアングロサクソン諸民族が、7世紀に『アングロサクソン七王国』を創ったあたりイングランドの始まりです。

3.987年に西フランク王国でカペー朝が成立し、『フランス王国』となりました。

4.東フランク王国が『神聖ローマ帝国』になり、そこから1861年にイタリアが独立し『ドイツ』になりました。

5.854年か859年にノルマン人が『ノヴゴロド国』を建国し、東スラヴ人(ロシア人)が『ノヴゴロド国』の人々と同化したあたりからです。

国の最初の話はとても複雑です。

例えばロシアの件なら『ソ連からロシアに変わったとき』なのか、『ロシア人の大元はどこか』なのかということでも話が変わります。イタリアで考えても、そのゲルマン人オドアケルの476年の『初代イタリア王』の話は本当ですし、現在の『イタリア共和国』の前段階の『イタリア王国』は、その前に『サルディーニャ王国』でした。更に見てみましょう。

 

  1. 西ローマ帝国(395年 – 476年)
  2. ブルグント王国(411年 – 1378年)
  3. サヴォイア伯国(1003年 – 1416年)
  4. サヴォイア公国(1416年 – 1720年)
  5. サルディーニャ王国(1720年 – 1861年3月17日)
  6. イタリア王国(1861年 – 1946年)
  7. イタリア共和国(1946年~)

 

こう考えるといつが『イタリアの初め』なのかが複雑になってきます。年号の最初と終わりも同じではありませんしね。挙げたヨーロッパの国々はも同じことが言えます。ただ一つ言えるのは、476年にのオドアケル(ゲルマン人)を筆頭に、

 

  1. ゲルマン人
  2. ノルマン人
  3. スラヴ人

 

がローマに流入したことがイタリア、フランス、イギリス、ドイツ、ロシアといった現在のヨーロッパにおける様々な国を作った起因だったということになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 大航海時代って何?
  2. コロンブスは何をした人?
  3. マゼランは何をした人?

1.スペインとポルトガルが行った『新しい大陸探し』の旅です。

2.新大陸(バハマ諸島やカリブ海の島々)を発見した人です。

3.船で世界一周して『地球が丸い』ことを証明した船団の船長でした。

『新大陸』とはスペイン・ポルトガル人から見てのことです。

アメリカ大陸からすれば、彼らの島こそが『新大陸』ですからね。しかし、先に航海をし、先に新大陸を見つけたのはスペイン・ポルトガル人で、ここに挙げられているのがその先陣を切った航海者たちということです。

 

1492年に出航したコロンブスは『アメリカ大陸の一部』を発見。全体を一つの島だと認識して見つけたのはイタリアのアメリゴ・ヴェスプッチです。彼の名をとって『アメリカ大陸』となりました。ちなみに『コロンビア』はコロンブスの名をとってつけられました。アメリカが『アメリゴの土地』を意味し、コロンビアは『コロンの土地』を意味します。『アメリカ大陸の発見者』と言えば、通常この二人が筆頭に挙げられます。

 

1519年に出航したマゼラン自体は途中で原住民と戦って亡くなってしまいますが、生存者はアフリカ経由でスペインに帰還することに成功し、太平洋横断、つまり『地球球体説』を実証しました。その後、1530年にコペルニクスが『地動説』を唱え、この世界の人々の考え方はガラッと変えられました。今まで信じていたことが嘘だったからです。

 

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『カトリック』や『プロテスタント』らに分派することをイエスは望んだの?

もちろん望まなかったでしょう。

そもそもキリスト教はイエスではなく、パウロが作ったものです。

更に、そのパウロは生前のイエスに会ったことはなく、興味もなかったといいます。そのパウロが作った『キリスト教』というのは一体どういう存在なのでしょうか。しかし、それがこの世界において最も多い信者を得ることになる宗教へと成長したのが事実なのです。ただ、その過程にあるこうした宗派の分裂や、それ同士の争いを肝心のイエスが望んだでしょうか。もちろん、望んでいません。そう考えると、『神(真理)は正しい。しかし、人間は間違える』ということになりますね。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 封建国家って何?
  2. 主権国家って何?
  3. 絶対王政って何?
  4. ユグノー戦争(1562年 – 1598年)って何?
  5. ナントの勅令って何?
  6. 重商主義って何?

1.複数の主君に仕えることもできる土地のやりとりによる契約関係の集合体です。

2.自己の支配領域を明確にし、君主のみが排他的権力を行使する国で、『植民地』ではなく、『独立国』と同義語です。

3.国王に権力が集中する主権国家です。

4.フランスのカトリックとプロテスタントの内戦です。

5.信仰の自由を容認する王からの指示です。

6.『自分の国を豊かにする戦略』で、例えば外国製品の購入を制限し、輸出を促進して貿易収支を黒字にします。すると、国内におのずとリソース(資金、財源)が蓄積されるわけです。(⇔自由貿易主義)

封建国家だと国境が曖昧になります。

すると、戦争の時に困ったわけです。どこからどこまでが仲間で、集まるべきかということが曖昧だったのです。14世紀頃から『国をあげて戦争ができる国』にするために、『主権国家』という新しい国家のスタイルが確立されるようになりました。これによって曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけです。そして初期の主権国家では、流れ的にも国王に権力が集中する『絶対王政』がとられました。

 

その後フランスはカトリックとプロテスタントの『ユグノー戦争』、そして『サン・バルテルミの虐殺』等を経験します。国王となったアンリ4世が『ナントの勅令』を発布し、信仰の自由を容認する形で騒動は収まりました。これによってフランスの国内は安定し、王権も強化に向かったわけです。そして17世紀に即位したルイ14世の時代には、フランス絶対王政は最盛期を迎えました。

 

財務総監のコルベールが行った『重商主義』は絶対王政に大きな貢献をし、20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営したルイ14世は『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送りましたが、晩年はその贅沢に使った費用や戦費がかさんで国力を弱体化させ、衰退していきました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. なぜスペインが『太陽の沈まぬ帝国』なの?
  2. 『太陽の沈まぬ帝国』スペインが沈んだ理由は?
  3. 『ゴイセン』と揶揄されたネーデルラント(オランダ)はなぜスペインに勝てたの?
  4. イギリスはなぜオランダを支援したの?

1.『常に地球上のスペイン領のどこかには太陽がのぼっている』という事実があったからです。

2.『オランダ独立戦争、アルマダの海戦、新大陸の銀産出の減少』という大きな3つの出来事が原因です。

3.地の利を生かしたことが大きな理由の一つです。

4.スペインが『カトリック』で、オランダとイギリスは『そうではなかった』ということが理由の一つです。

新大陸の征服者』と呼ばれたスペイン人。『太陽の沈まぬ国』と呼ばれたスペイン。

ポルトガルを併合して、スペイン・ポルトガル両国の領土が手中に入ったスペイン。『スペイン帝国』とは、スペインとその植民地・属領などの総称ですが、まさにスペインは『太陽の沈まぬ帝国』だったのです。

 

勢いのあるスペイン王フェリペ2世は敬虔なカトリック教徒だったので、カトリック以外は弾圧しました。しかしそれに反発して『オランダ独立戦争』が起こったのです。イギリスは女王エリザベス1世のもと、プロテスタントの立場からこのオランダ独立を支援。オランダは、低地という地形を生かし、マース川の堤防を決壊させて洪水を起こし、敵を撤退させました。

 

そして1588年の『アルマダの海戦』でスペインの無敵艦隊を破り、イギリス・オランダ軍はスペインから覇権を奪いました。ちょうどそこに新大陸の銀産出の減少というダメージも加わり、スペインは沈んでしまったのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 百年戦争(1337年11月1日 – 1453年10月19日)の原因は?
  2. 百年戦争の内容と結果は?
  3. ジャンヌ・ダルクって何をした人?

1.イングランド王とフランス王の『フランスの王座』を巡る争いです。

2.前半はイギリスが活躍しましたが、フランス王国側が勝利し、ヴァロワ朝によるフランスの事実上の統一となりました。

3.神のお告げを聞き百年戦争の末期にフランス軍を先導してオルレアン(都市)を解放した女性です。

フィリップ4世が死去した後、フランスの王位をめぐって争いが起き、それが『百年戦争』の原因となりました。

フランス王になったフィリップ6世は、先王のフィリップ4世の血筋ですが、同じくイングランドのエドワード3世もフィリップ4世の女系の孫だったので、王位継承権を要求します。しかしそれははねのけられ、フィリップ6世がフランス王に即位しました。その後、国王フィリップ6世と対立していた、義弟のロベール3世・ダルトワは、エドワード3世にフランス王を主張することを勧める。

 

エドワード3世

フランス王に、俺はなる!
ははは!戯言を!我が真の継承者だ!

フィリップ6世

 

そうして始まった百年戦争ですが、前半は『黒太子(ブラックプリンス)』と呼ばれたエドワード3世の子『エドワード黒太子』が大活躍しました。1356年には『ポワティエの戦い』で、4倍の兵力のフランス軍を打ち破り、国王ジャン2世を捕虜にすることに成功し、スペイン遠征でも勝利をおさめます。しかし、後半になるとフランス軍が優勢になります。

フランスを救え…フランスのために立ち上がるのだ

という神のお告げを聞いた16歳だったジャンヌ・ダルクは、廃位を求められたシャルル王太子のもとに駆け付け、自ら軍隊を先導してオレルアンを解放。2か月後に王太子は、シャルル7世として戴冠しました。これによって彼女は『オレルアンの乙女』として名を知られることになります。結果的に彼女はイングランドに捕らえられ、処刑されますが、その後愛国心が芽生えたフランス国民が決起し、百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ピューリタン革命って何?
  2. クロムウェルって何をした人?

1.新しいイギリス王に弾圧されたピューリタン(キリスト教の一派)が反乱を起こし、王を処刑した革命です。

2.そのピューリタン革命の中心組織である『議会派』を指導した人です。

エリザベス女王が死去し、スコットランドの王ジェームズ1世がイギリス王を兼ねるようになりました。

彼は、エリザベス1世の父であるヘンリー8世から受け就いだ『英国国教会』の立場からピューリタン(清教徒、カルバン派の一派)を弾圧し、議会との対立が深まってしまいました。ピューリタンを中心とする議会はが国王に抵抗し、『ピューリタン革命』が始まったのです。

 

ジェームズ1世の次にイギリス王となったチャールズ1世の処刑を指示したクロムウェルは、議会派での反対派を追放し、独裁権を得ていました。イギリスには結果的には『共和政』という『王がいない時代』が到来したので、共和制イギリスのこの時代、国のリーダーはこのクロムウェルとなったわけです。彼は『英蘭戦争』に勝ち、ヨーロッパの覇権を獲ったので勢いはありました。しかし傲慢なやり方に不満があり、彼が死んだ後のイギリスは、再び『王様』を必要とするかしないかで、揉めることになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 三十年戦争(1618年–1648年)の原因は?
  2. 三十年戦争の内容と結果は?
  3. 七年戦争(1754年または1756年 – 1763年)の原因は?
  4. 七年戦争の内容と結果は?

1.カトリックかルター派か、どちらを信仰してもいいという自由を与えたのに、そのせいで逆に思想の衝突になった戦争です。

2.ヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展し、『神聖ローマ帝国』は解体同然となります。ルター派が勝ちますが、この戦争で大きく何かを得た者は、ほとんどいませんでした。

3.オーストリアとプロイセンのシュレジエン(地域)を巡る争いで、1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となりました。

4.一度はオーストリアが優位になりましたが、戦争は世界規模となり、結果はイギリス、プロイセン、ポルトガル連合軍の勝利となりました。

ルターの革命によって神聖ローマ帝国(ドイツ)はカトリックかルター派か自由に選べるようになりました。

本来であればこのような政策を取れば人々の自由が認められ、平和に落ち着くはずですが、それによって隣り合った諸侯同士がいがみ合うようになり、『三十年戦争』へとつながってしまうのです。

 

 

カトリック側 スペイン
プロテスタント側(ルター派) デンマーク、スウェーデン、フランス

 

当時のヨーロッパでは大国として大きな影響力を持っていたこれらの国を巻き込み、ヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展。戦争後は『ウエストファリア条約(ヴェストファーレン条約)』で停戦しますが、『神聖ローマ帝国』は解体同然となります。そのため、その条約は『帝国の死亡証明書』と言われるようになりました。

 

この戦争以降、神聖ローマ帝国(ドイツ)の諸侯の中で2つの国家が頭角を現します。それが、

 

  1. オーストリア
  2. プロイセン

 

の2国でした。『七年戦争』はこの2国における覇権争いだと言えるでしょう。しかし、争いは他国を巻き込み世界規模となります。

 

 

オーストリア側 ロシア、スウェーデン、フランス
プロイセン側 イギリス、プロイセン、ポルトガル

 

そのため、1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり複雑化。戦線がヨーロッパにとどまらず、イギリスやフランスの間で起きたアメリカやインドの奪い合いにも発展してしまいました。何とか困難を乗り切ったプロイセンの『大王』フリードリヒ2世は、その後も国に貢献し、啓蒙専制君主の模範的人物として、プロイセンの治世を絶頂期に持って行きました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ロシアの起源は?
  2. ロシア人の大元は?
  3. イヴァン4世は何をした人?
  4. ピョートル1世は何をした人?
  5. エカチェリーナ2世は何をした人?

1.ヴァイキング(ノルマン人)の一派の首長リューリクが『ノヴゴロド国(862年)』を作ったときです。

2.東スラヴ人と言われた人々が『ロシア人』となり、先にできていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していきました。

3.モスクワ大公国で『雷帝』と呼ばれたロシア史上最大の暴君イヴァン4世は、絶対君主制を導入し、大帝国ロシアの基盤を築きました。

4.『大帝』と言われたピョートル1世は、ロシアに新首都サンクトペテルブルクを建設したりして、西洋化と近代化を図りました。

5.彼の孫ピョートル3世は頼りなかったので、その妻である彼女が第8代ロマノフ朝皇帝となり、優れたリーダーシップでロシアに貢献しました。

リューリクがノヴゴロドを作り、スラヴ人と同化してロシア人の基礎ができます。

その後『キエフ公国』というロシアの原型ができ、一度はモンゴル帝国に飲み込まれるも、『モスクワ大公国』となり、イヴァン3世が分裂していたロシアを統一し、モスクワを中心とした中央集権国家をつくりあげ、2世紀半も続いたモンゴルによる支配を終わらせます。更に、彼の孫である『雷帝』と呼ばれたロシア史上最大の暴君イヴァン4世の時代に絶対君主制を導入し、大帝国ロシアの基盤を築きます。

 

その後、『大帝』ピョートル1世がロシアの西洋化と近代化を図り、『ポルタヴァの戦い(1708年)』に勝利し、バルト海の覇権を握るなどして、ロシアの国力が築き上げられてきます。その後、第8代ロマノフ朝皇帝となったエカチェリーナ2世は、ウクライナとクリミア半島を手に入れ、プロイセンとオーストリアを巻き込み、ポーランドを3国で分割して領土にするなどして、ロシアに貢献しました。

 

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産業革命って何?

18世紀のイギリスで革命的とも言える機械や動力が次々と発明され、産業のありかたが変わりました。

例えば今まで手動だったものが、自動になる。

それを考えただけでどれだけ効率と生産力が上がるかはわかるはずですが、1733年に『飛び杼(ひ)』発明をしたジョン・ケイを皮切りに、イギリスで次々と革命的な機械や動力が開発され、産業界に革命が起こります。これが『産業革命 』です。ジョン・ケイは迫害を受けますが、それは彼の発明によって失業者が出る可能性があったからです。それだけのことをやったということですね。

 

その中でも最も有名なのが蒸気機関を発明したジェームズ・ワット。実はワットが蒸気機関の発明をしたわけではなく、ワットは機械技師ニューコメンが1712年に実用化した蒸気機関に数多くの改良を施したのです。更にそこに、

 

  1. 農業革命(人口の増加に成功)
  2. エネルギー革命(木炭から石炭へ)

 

という2つの革命が加わり、産業革命に拍車をかけました。イギリスでこの革命が起きた理由は、

 

  1. 広大な植民地
  2. 黒人奴隷貿易
  3. 貿易と商業の発達

 

という理由があり、イギリスに『潤沢な資金』が蓄積されていたからです。更に無駄な戦争を避け、浪費を抑えたことも大きな理由です。こうしてイギリスは『世界の工場』と言われるようになり、ますます世界の覇権を握るようになるのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. フランス革命(1789年5月5日 – 1799年11月9日)の原因は?
  2. フランス革命の内容と結果は?

1.フランスのお金がなくなり、そのしわ寄せが国民に来てしまって国民の反感を買いました。

2.フランス王ルイ16世と妻のマリー・アントワネットがギロチンによって公開処刑され、フランス史上初の『共和政』が誕生しました。

彼の祖父ルイ14世の時代からフランス王の『浪費』癖は目立っていました。

そして彼の孫ルイ16世も、その妻のマリー・アントワネットも同様に浪費癖がありました。例えばマリー・アントワネットなら仮面舞踏会や違法な賭博場に現れては遊びほうけり、あるいは自分が着るドレスにかける年間の衣装代が10億円を超えていたという話もあります。度重なる対外戦争やそうした宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていました。

 

第三身分の人々

おい!なんで俺たちが王たちのツケを払わなきゃいけないんだ!

 

そして1793年、ルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンによって公開処刑されてしまい、フランス史上初の『共和政(王のいない国)』の誕生となりました。王様とその王妃が自国民にギロチンで処刑される。この事件は世界に大きな影響を与えました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ナポレオンは何をした人?
  2. ナポレオン戦争(1803年–1815年)の原因は?
  3. ナポレオン戦争の内容と結果は?

1.王がいなくなった後のフランスに貢献し、世界の覇権を獲る為に暴れ回った人です。

2.フランス潰しを画策した外国を倒し、むしろフランスを強国と証明するためです。

3.ほとんどはナポレオンが勝利しますが、『ロシア遠征』に負けるとまたもや『対仏大同盟』を結成され、連合軍に負けて衰退していきました。

フランス革命を起こしたフランスは外国に『対仏大同盟』を作られ警戒され、孤立していました。

自分たちの国でも『フランス革命』のようなことが起きたら大変ですからね。フランスは間違っていたということを証明するためにも、各国はフランスを潰しにかかりました。そうして内外的に混乱していた状況で、フランスは『強いリーダー』を求めていました。そこに現れたのがナポレオンだったのです。

 

ナポレオンはイタリア、エジプト、ロシアなどの遠征に赴き、フランス帝国の領土拡大を目指します。幾多の戦争を指導し、オーストリア・プロイセンの軍を撃破し、ヨーロッパ大陸の覇権を握り、イギリスと和約を結び、ヨーロッパに平和が訪れました。しかし、イギリスはフランスにとって最大のライバル国なので、『大陸封鎖令』を出し、イギリスに経済的な制裁を与え、フランスがトップになるように画策します。

 

ほとんどがナポレオンを恐れてそれに従いますが、ロシアだけがそれを無視してイギリスと取引をします。そのロシアを『裏切り者』として侵略しようとしますが、地の利を生かされて多くの兵士が凍死したりして、敗北。その戦争に負けたナポレオンは、一気に形成が悪くなり、ロシアを含めたヨーロッパ諸国にまた『対仏大同盟』を結成され、徐々に追い込まれていきました。そして最後は大西洋の絶海の孤島、セントヘレナ島に流され、屈辱的な死に方をして一生を終えました。

 

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ヴィクトリア女王は何をした人?

『大英帝国』黄金期を作った人です。

人類の4分の1を支配したイギリスは『大英帝国』と言われました。

『イギリス帝国』とはイギリスとその植民地・海外領土などの総称ですが、これがとてつもない規模になったので、イギリスはそう言われたわけです。ヴィクトリア女王はその『大英帝国』の女王としてイギリス史上最も長く、63年7か月もの間、イギリスに君臨し続けました。彼女の存在についてはあのガンジーが、

 

ヴィクトリア女王はインドの自由のために尽くす女帝だ!

ガンジー

 

と言ったほどですが、実際の姿はまさに『女王』の名にふさわしく、短気で激昂しやすい性格だったと言い、評価が分かれています。まるでヴィクトリア女王が二人いるかのような分かれ方です。

 

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世界大戦

ビスマルクは何をした人?

オーストリアからドイツの主導権を獲り、『普仏戦争』でフランスに勝ち、『ドイツ帝国』を成立させた人です。

『神聖ローマ帝国』はドイツの前段階です。

その主導権争いをオーストリアと行ったプロイセンのビスマルクは、のちに『初代ドイツ皇帝』ヴィルヘルム1世と一緒にプロイセンで活躍します。彼は『鉄血政策』によって富国強兵を進め、まずライバルのオーストリアを誘ってデンマークを倒し、更にオーストリアを挑発し、『プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)(1866年)』でヨーゼフ1世率いるライバルのオーストリアを撃破。そして、ドイツからオーストリアを除外し、『北ドイツ連邦』を成立させます。

 

更に『南』も統一するためにフランスを倒す必要があると考えたビスマルクは、1870年、フランスのナポレオン3世を挑発し、普仏戦争を起こします。しかし、挑発に乗ったナポレオン3世とは違い、ビスマルクは入念に準備をしていました。そのおかげでビスマルクは彼を筆頭とするフランスを倒すことができ、翌年にはヴェルサイユ宮殿で『ドイツ帝国』の成立が宣言されました。

 

ビスマルクは、フランスという『共通の敵』に焦点を当てることで、国民の気持ちを一つにし、鉄血政策によって力強さもアピール。見事フランスを打ち砕き、プロイセン国民から認められたのです。ビスマルクが活躍した時代はまさにドイツの黄金期であり、イギリスからヨーロッパの覇権を奪うほどの実力を持ちました。

 

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ガリバルディは何をした人?

カヴール、マッツィーニと並んで『イタリアの統一三傑』に数えられる人です。イタリア統一に貢献した人ですね。

イタリア統一に向けて『1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争』が起きました。

ガリバルディは20倍以上もいる両シチリア王国軍に、たったの1000人の革命軍で立ち向かい、イタリア統一がなされることで得られるメリットについて、説きました。すると、農民たちは彼の義勇軍に加わり、南イタリアである両シチリアは彼の手中に入りました。人々は彼にイエス・キリストのイメージを重ねたといいますが、それは外見以外にも理由がありました。

 

北にはサルデーニャ、南にはガリバルディ。この勢力がぶつかれば、イタリア統一はまた一歩遠ざかります。しかし、ガリバルディの目的はあくまでも『イタリア統一』であり、自分のエゴを満たすことではありませんでした。つまり、彼はサルデーニャに統一した南イタリアを献上し、身を引いたのです。

 

1870年、普仏戦争が勃発するとフランス軍はローマから撤退。これに乗じたイタリア軍はローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ここにイタリアの統一は完成します。

 

ガリバルディの偉いところは、その後、かつての敵国フランスを支援したことです。普仏戦争中、フランス第二帝政が崩壊したことをきっかけに、ガリバルディは新たに成立したフランス第三共和制を自由主義の観点から支援し、プロイセン軍に対するイタリア人義勇兵を率いて戦いました。イタリア国民の多くと同じく、長年の反仏感情を持つガリバルディは民衆に言いました。

『私は今までナポレオンの軍を倒せと言ってきたが、今はこう言うべきだろう。フランスの自由を救おう。』

 

彼はまさに『偉人』と呼ぶにふさわしい人物でした。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 東方問題って何?
  2. クリミア戦争(1853年10月16日 – 1856年3月30日)の原因は?
  3. クリミア戦争の内容と結果は?
  4. ナイチンゲールは何をした人?

1.オスマン帝国やその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題です。

2.ロシアがオスマン帝国に対し、聖地エルサレムの管理権を要求し、自ら戦争を引き起こしました。

3.オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ロシアが敗北しました。

4.クリミア戦争で看護師の立場から献身的な活躍をした人です。

ロシアは冬季でも凍結しない港が必要でした。

そのため、ロシアは不凍港を求めて『南下政策』を取るのですが、最寄りの不凍港がオスマン帝国の領土内にありました。そこでロシアはオスマン帝国の支配から抜け出したがっている国々を味方につけ、オスマン帝国を潰そうとします。こうした一連も『東方問題』の一部です。

 

そして1853年、ロシアは聖地エルサレムの管理権を要求して『クリミア戦争』を起こし、オスマン帝国を正面から潰そうとします。しかし、オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ライバルではあったが利害関係が一致した両国は、

 

ロシアにこれ以上力をつけられては困る

 

ということで、オスマン帝国側につき敗北してしまいます。こうした戦争の裏では、

 

  • トルストイ
  • ドストエフスキー
  • ナイチンゲール

 

等の様々な偉人たちが活躍しました。この後ロシアは何度か南下政策を遂行しますが、

 

地中海に出ると、ヨーロッパが敵になるか…。

 

そう考え、方向転換して東アジア方面の不凍港を見つけようとします。しかし今度はそこで、日本と満州や朝鮮半島の主導権を取り合うことになり、『日露戦争』へとつながっていくのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 第二次産業革命って何?
  2. ファショダ事件って何?

1.100個の商品を製造する機械を作ったのが『産業革命』なら、その機械を100台作れる機械を作ったのが『第二次産業革命』です。

2.『アフリカ縦断政策のイギリス』と『アフリカ横断政策のフランス』は、スーダンのファショダで接触し、一触即発となりました。

『第二次産業革命』は帝国主義の発想を後押ししました。

もちろんこれによってすべて商品が売れればそれだけ利益は出ますが、もし売れ残った場合は赤字になる。そういうプレッシャーも同時に生まれるようになってしまったので、

 

植民地をもっと増やして商品を売らなければ!

 

そういう考えが、当時の資本主義国の頭をよぎっていたのです。そしてイギリスとフランスは世界トップレベルの勢いを持っていてライバルでもありました。イギリスは『アフリカ縦断政策』を推進し、アフリカでの植民地を広げ、フランスは『アフリカ横断政策』でアフリカの植民地を広げます。縦と横に徐々に侵略していく中で、両国はスーダンのファショダで接触し、一触即発となりました。しかし、フランスの敵はあくまでもドイツだったため、イギリスに一歩譲り、衝突は免れました。この時の譲歩がきっかけとなり、かつてライバル国だったイギリスとフランスの距離は縮んでいくことになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 三国同盟って何?
  2. 三国協商って何?
  3. サライェヴォ事件って何?

1.ドイツ、イタリア、オーストリアの連合軍です。

2.イギリス、フランス、ロシアの連合軍です。

3.『第一次世界大戦』のきっかけとなるドイツ側の重要人物の暗殺事件です。

19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は『ビスマルク体制』と言われ、ドイツが強い力を持ちました。

 

『三国同盟』は、普仏戦争に負けたフランスに復讐させないように打った先手でもありました。

 

フランスが復讐を考えないように、イタリア、オーストリアと組んで『三国同盟』を作っておこう

 

そう考えたのです。しかし、第3代ドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム2世はそんなビスマルクを首にし、帝国主義政策を推進し、植民地の開拓をするため、イギリス、フランス、ロシアを挑発し、警戒心を抱かせました。その後ロシアとフランスで『露仏同盟』、そしてイギリスとフランスで『英仏同盟』が組まれ、ついに1907年、『三国協商』が結成されました。

 

そんな最中の1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者が、ボスニアの都サライェヴォにて、パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプにに暗殺されます。この『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦』のきっかけとなってしまうのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 第一次世界大戦(1914年7月28日 – 1918年11月11日)の原因は?
  2. 第一次世界大戦の内容と結果は?

1.ドイツ皇帝の暴走で戦争の種が蒔かれ、『サライェヴォ事件』で沸点を迎えた形です。

2.ドイツ優勢かと思いきや、イタリアの裏切り、アメリカへの攻撃で圧倒的に不利になり、『三国協商』が勝ちました。

第一次世界大戦は『三国同盟』と『三国協商』が軸となった戦争です。

 

三国同盟 ドイツ、オーストリア、イタリア
三国協商 ロシア、イギリス、フランス

 

上記の『サライェヴォ事件』の記事を見れば分かりますが、ドイツのヴィルヘルム2世がロシア、イギリス、フランスに喧嘩を売り、領土を奪ったりして暴走します。そこで彼らは『三国協商』を作り、敵対エネルギーが生まれました。そしてサライェヴォ事件でついに堪忍袋の緒が切れて、オーストリアがセルビアに宣戦布告。セルビアの後ろ盾であるロシア側と、オーストリアの後ろ盾であるドイツ側が総動員となり、『連合軍VS連合軍』の戦争へと発展してしまい、『第一次世界大戦』へと発展しました。

 

1915年4月22日、ドイツは初めて戦争で毒ガスを使用。これは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」と言われる大事件でした。しかし結果としてはイタリアの裏切り、中立国アメリカへの攻撃で圧倒的に不利になり、『三国協商』が勝ちました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 社会主義って何?
  2. 共産主義って何?
  3. 資本主義って何?
  4. ソ連はどうやって生まれたの?

1.利益は均等に配分され、消費も個人に任される考え方です。

2.利益は均等に配分され、消費も平等であるべきだと規制される考え方です。

3.競争に勝てば多くの富を得ますが、貧富の差は拡大する国考え方です。

4.レーニンが臨時政府を倒し『ソヴィエト政権』を成立させ、反乱等を乗り越え誕生しました。

19世紀末のロシアには『社会主義思想』が広まっていました。

 

工業化が進展し、都市労働者が増え、生産手段の国有化によって経済上の平等を求める『社会主義思想』が広まっていったのです。厳密に言うと『社会主義、共産主義』は違いますが、とにかく『資本主義』のような格差が広がる社会は避けたい。そういう考えを持った人々が増えたのです。そして帝政が崩壊した後のロシアは以下の2つの二重権力状態になりました。

 

 

臨時政府 ブルジョワの利害を代表
ソヴィエト 兵士や労働者の利害を代表

 

レーニンが率いたソヴィエトは、首相ケレンスキー率いる臨時政府を倒し、『ソヴィエト政権』が成立。そして、史上初の社会主義革命が達成されました。ただ、社会主義社会になると貧富の差がなくなり、人の間に格差がなくなるのはいいですが、努力しても、怠けても、何をしても評価や財産が平等になるということは、必ずしもメリットだけではありません。

 

さぼっても財産は平等に分けられるからさぼろーっと!
努力しても歩合制じゃないから、努力した分だけ損だ!手をぬこーっと!

 

このような人間が出てくることになれば、それは社会全体の活力が失われることを意味します。国力の弱体化や、『フランス革命』のような国家の転覆を懸念した欧米列強や日本は『干渉戦争』としてソ連の邪魔をします。しかし何とかこれを乗り越え、1922年

 

  1. ロシア
  2. ウクライナ
  3. ベラルーシ
  4. カフカス

 

地域による『ソヴィエト社会主義強化国連邦』、いわゆる『ソ連』が成立したのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ヴェルサイユ体制って何?
  2. 国際連盟って何?

1.『パリ講和会議』の後のヨーロッパの国際体制で、1920年代の国際秩序の基盤です。

2.世界の国々がこれを通して『世界平和』を考える国際平和維持機関です。

19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は『ビスマルク体制』と呼ばれました。

 

影響力のあったドイツ(ビスマルク)の名が取られたからですね。しかし『第一次世界大戦』でドイツは負けたので、国際秩序を誰がどう保つかということを決めなければなりません。この『ヴェルサイユ体制』は、ドイツへの報復も兼ねながら、新しくできた世界の脅威でもある『ソ連』の社会主義に対抗する国際秩序のための方針でしたが、本音は『先進国の既得権益の維持とドイツ暴走の封印』にあったため、それが許されたのはヨーロッパだけで、アジアの植民地等とは無縁の話でした。

 

パリ講和会議の翌年、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンは『国際連盟』として、国際平和維持機関を設けました。しかし国際連盟の出だしは不調で、そこまで世界に与える効力はなく、言い出しっぺのアメリカがこれに加盟しないなど、あまり意味がない集団となってしまいました。のちにこの失敗を生かしてこれが『国際連合』となります。『国連』とはどちらも指す言葉ですが、その存在感からして主に国際連合のことを言います。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ファシズムって何?
  2. ムッソリーニは何をした人?
  3. ヒトラーは何をした人?
  4. 日独伊三国同盟(1940年)って何?

1.『結束』を語源としていて、権力で民衆をおさえ、他国に侵略主義をとる独裁的国家体制のことです。

2.ファシズムという強行突破の手段を選ぶことによって、危機的状況を打破しようとした人です。

3.ファシズムという強行突破の手段を選ぶことによって、危機的状況を打破しようとした人です。

4.利害が一致した『日本、イタリア、ドイツ』が組んだ同盟です。

第一次世界大戦後はアメリカのお金に依存していた国がいくつもありました。

 

しかしその肝心のアメリカが『世界恐慌』という世界的経済危機に落ちてしまい、その影響がそうした国にも及んでしまいました。そうした怪しい雲行きの中、ヒトラー率いる『ナチス(ドイツ)』という国粋主義者や、ムッソリーニ率いる『ファシスト党(イタリア)』というファシズム思想の人間が出現し始めます。ムッソリーニがファシズム活動をし、ヒトラーも同じように世界恐慌の波を受けて陥った危機的状況を利用し、

 

ヒトラー

ドイツが苦しんでいるのはヴェルサイユ条約の賠償金だ!

 

と主張し、第一次世界大戦の戦後処理として決まったはずの『ヴェルサイユ条約』を破棄しようと国民に訴えます。国民たちは、かつてフランス国民が『フランス革命』の後、危機に瀕したフランスをナポレオンという救世主にすべてを託したときのように、ヒトラーにその状況を打破してもらおうと決めてしまいました。そしてヒトラーとムッソリーニは手を組むことになります。

 

ちょうどその頃、1932年3月に、『満州事変』によって国際連盟を脱退することになっていた日本の存在がありました。この頃の3国は利害関係が一致していていて、3国は『日独伊三国同盟(1940年)』を組み、この世界に強烈な危険因子が誕生してしまいました。この危険因子はのちの『第二次世界大戦』の原因となってしまいます。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 第二次世界大戦の原因は?
  2. 第二次世界大戦の内容と結果は?

1.ヒトラー、ムッソリーニが国家の危機的状況を打破しようとして『開き直った』のが発端です。

2.ナチス・ドイツが驚異的な強さを見せましたが、連合軍側が結束して巻き返して勝利しました。

ヒトラー、ムッソリーニが『開き直った』のは国家の危機があったからです。

 

彼らの国イタリア、ヴァイマル共和国(ドイツ)というのは『第一次世界大戦』の後、アメリカに助けられて存続していたような状態でした。そもそも彼らが第一次世界大戦を起こし、それで追い込まれたわけですから、自業自得なわけです。しかし彼らにも言い分があって、

 

このままで終われるか!

 

と奮起したのです。そして利害が一致した『日独伊』が同盟を組みます。日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中華民国を支援するアメリカと鋭く対立していたので、日本政府はドイツと手を結び、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていました。この3国の共通点は、

 

日独伊

我々の帝国を拡大させるぞ!

 

というものでした。ドイツとイタリアは窮地から『一発逆転』を狙い、日本は日清戦争、日露戦争と戦争に勝ったその実績から、そのまま自国の領土を拡大させる野心に囚われていました。

 

『枢軸国(ナチス・ドイツ、日本、イタリア)他』 VS 『連合国(イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中国』

 

第二次世界大戦は、以下の3つの側面を持つ戦争でした。

 

  1. 日独伊ら全体主義国が英仏米ら帝国主義国に対し、植民地再分割を求めた帝国主義戦争
  2. 全体主義対民主主義の戦い
  3. 帝国主義やファシズムによる侵略に対する諸民族の独立解放と抵抗の戦い

 

東南アジア等の植民地化された国々も独立解放の為に戦い、世界の列強である枢軸国と連合国の戦いというだけではなく、本当に世界規模の戦争となったのです。

 

枢軸国は暴れ回りましたが、結局1945年、ベルリンを包囲されたヒトラーは自殺し、翌年5月にドイツは無条件降伏。『ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)』が出され、他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結しました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 国連(国際連合)って何?
  2. 鉄のカーテンって何?

1.第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえ、国際平和と安全の維持の為に作られた連合体です。

2.ヨーロッパにおける資本主義国家と社会主義国家の境界線です。

『国連』を英語にすると『United Nations』で、これは大戦中の『連合国』という意味。

 

国際連合は、前段階である『国際連盟』のリニューアル強化版ですが、同時に『戦勝国による世界秩序』の始まりを強調するために用意された組織でもあります。戦勝国側の5大国、

 

  1. アメリカ
  2. ソ連
  3. イギリス
  4. フランス
  5. 中華民国

 

は安全保障理事会の『常任理事国』となり、『拒否権』という強い権限を持ち、戦争に負けた側の国は制裁を食らいました。

 

かつて、フランスとイギリスがこの世界の覇権をかけて争った時代がありましたが、この時代になるとその覇権争いは『アメリカ、ソ連』の間で行われるようになります。アメリカ対ソ連というのは(資本主義国家)対(社会主義国家)を意味し、『考え方の違い』でこの世界はまた大きな衝突を予期することになります。

 

1946年、イギリスの首相チャーチルはクルトン演説で、

『バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステまで、鉄のカーテンが降ろされた。』

 

とソ連を非難します。そして1947年、アメリカの大統領トルーマンが『トルーマン・ドクトリン』と呼ばれる演説を行います。

『ギリシャとトルコが共産主義勢力に脅かされています。軍事援助をしなければ世界はドミノ倒しのように共産主義に染まってしまう。自由諸国を支援するのはアメリカの使命です。』

 

これによってアメリカはギリシャとトルコへの支援を表明し、アメリカとソ連は対立することになりました。ここから『冷戦』が始まってしまいます。

 

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第一次世界大戦、第二次世界大戦中の裏ではどんな偉人が活躍したの?

アインシュタイン、ディズニー、チャップリン、タゴール。フォードにピカソにヘミングウェイ。

たくさんの偉人がいました。

この時期に多くの偉人がいる理由は3つあります。

 

  1. 時期が近いから多くの人を知っている
  2. 戦争を起こすだけのエネルギーが集まった時期だった
  3. 戦争というエネルギーがこの時期の人に影響を与えた

 

この3つです。まず1つ目は『時期が近いだけ』です。つまり、はるか昔にはもっと大勢の偉人がいたかもしれないけど、記録も記憶もないから歴史の闇に消えた可能性があります。しかしちょうどこれくらいの時期の人なら今の人は鮮明に覚えているし記録もあるということです。

 

2つ目。『産業革命』、『第二次産業革命』、『エネルギー革命』等、人間が生み出せるエネルギーと、蓄えられるエネルギーの量が膨大になってきたのもこの時期です。イギリスが産業革命を起こせたのも潤沢な資金があったからですが、それを『エネルギー』と考えた場合、やはり何かを生み出すにはエネルギーがいるのです。

 

3つ目。ヘミングウェイ、ヘルマン・ヘッセ、サン・テグジュペリ等は戦争の影響を受けた作家です。また、ロバートキャパは戦場カメラマンですし、ピカソが『ゲルニカ』を描いたのも戦争があったからです。

 

もちろんこれがすべてではありませんが、下記の記事で『偉人の共通点』を導き出した私からすれば、彼らが経験した『窮地』と『エネルギーの充填』には興味があります。しかし当然、戦争は二度と起きてはなりません。

 

『この道は闇に続いている。私はそれを人一倍知っている。だからこそ歩ける、王道の道がある。私は堕ちたのではない。王になる道を歩く権利を得たのだ。』

 

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冷戦

いくつか質問があるんだけど、

  1. マーシャル=プランって何?
  2. コミンフォルム(共産党情報局)って何?
  3. 冷戦(1947-1991年)って何?

1.ソ連の欧州への影響力を排除するための、アメリカによる欧州経済の計画です。

2.アメリカに対抗した、ソ連による東ヨーロッパの支配を意図した国際共産主義運動です。

3.直接戦争はしないものの、水面下で確実に戦争状態となったアメリカとソ連の状況です。

第二次世界大戦後はこのアメリカとソ連の『冷戦』が世界的な問題でした。

 

核保有国である両国は、日本が核爆弾を落とされた事例を目にしていて、そう簡単には核爆弾を使いたくないと考えます。核爆弾を使った戦争を起こしたら今度こそ世界は終わるからです。しかし、核保有国が戦争をしたなら、どちらかが戦況を有利にするために核爆弾を使う可能性がとても高くなります。ですから、第二次世界大戦以降の核保有国同士の戦争というのは、そう簡単には全面戦争を起こさず、『牽制』や『代理戦争』に留まるのが相場となりました。

 

 

資本アメリカ『マーシャル=プラン』 社会ソ連『コミンフォルム』
社会ソ連『ベルリン封鎖』 資本アメリカ『ベルリン空輸』
資本アメリカ『NATO結成』 社会ソ連『COMECON結成』
資本アメリカ『韓国支援』 社会ソ連『北朝鮮支援』
資本アメリカ『日米安全保障条約、SEATO、ANZUS結成』 社会ソ連『ワルシャワ条約機構結成』

 

その後の米ソは、いたるところで水面下の戦争をし続け、この世界の主導権を争いました。そしてこの後、『ベトナム戦争』、『キューバ危機』等のさらなる問題を引き起こし、冷戦はクライマックスを迎えます。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. スターリン批判って何?
  2. 中ソ対立の原因は?
  3. スプートニク・ショックって何?
  4. ベルリンの壁って何?
  5. キューバ革命って何?
  6. キューバ危機って何?
  7. 『デタント(緊張緩和)』って何?

1.スターリンの後任のフルシチョフの、スターリンの恐怖政治や個人崇拝への批判です。

2.スターリンの死去、ソ連がいきなり話を変えようとするので、中国はソ連に対して怒りを覚えて対立します。

3.1957年10月4日ソ連が『スプートニク』という人工衛星を秘密裏に打ち上げ、それを成功させてしまった件です。

4.西ベルリンへの『人の流出』を防ぐために東ドイツが作った壁です。

5.チェ・ゲバラカストロが巻き起こした、キューバがアメリカからソ連へ寝返った革命です。

6.ソ連はキューバにもミサイル基地を建設しようとし、アメリカがそれを阻止。一歩間違えれば『全面核戦争』という状況に陥りました。

7.冷戦の緊張が緩和されるということです。

ソ連のトップ、スターリンが死去(1953年)したことは大きく、冷戦の雪解けに一歩近づきました。

 

後任のフルシチョフは『スターリン批判』を行い、彼の恐怖政治や個人崇拝を批判します。しかし、同盟である中国と、

 

中国

話が違うぞソ連!

 

として『中ソ対立』が起きたり、ソ連の締め付けが緩んだハンガリーやポーランドでは、『反ソ運動』が起きます。東ドイツから西ベルリンを経由しての西ドイツへの亡命が相次いだので、東ドイツは西ベルリンへの流出を防ぐために『ベルリンの壁』を作りました。支配下の人間の暴走を力づくで鎮圧したソ連。結局スターリンの後任フルシチョフも、彼と同じように恐怖政治で支配下を治めようとしてしまったのです。

 

そんな中、ソ連は『スプートニク』という人工衛星を秘密裏に打ち上げ、それを成功させます。ソ連はこの時点で、爆弾や核弾頭を積んで飛ばす『ミサイル技術』を確保したのと同じで、アメリカはソ連に大きなアドバンテージ(有利性)を取られてしまいました。

 

更に、アメリカの従属国の立場だったキューバがチェ・ゲバラやカストロらによって『キューバ革命』を起こし、ソ連に寝返ります。ソ連はキューバにもミサイル基地を建設しようとし、アメリカがそれを阻止。一歩間違えれば『全面核戦争』という状況に陥りました。戦略的兵器削減交渉が始まって、ようやく冷戦は『デタント(緊張緩和)』と言える段階まできます。その後更に、

 

  1. ベトナム戦争
  2. ドル・ショック
  3. プラハの春

 

という出来事を通し、米ソの勢いは低下していきます。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ペレストロイカって何?
  2. グラスノスチ(情報公開)って何?
  3. 冷戦はどうやって終わったの?
  4. ベルリンの壁はどうやって崩壊したの?

1.『ソ連の崩壊を防ぐための対策』でにゴルバチョフ大統領が考えた政治改革です。

2.ペレストロイカの内容の一つです。

3.1989年12月2日から12月3日にかけての『マルタ会談』で話がつきました。これをもって、44年間続いた東西冷戦は終結しました。

4.冷戦が終わってソ連が弱体化した後『東欧革命』が起き、その流れで崩壊しました。

1964年からのソ連最高指導者ブレジネフの時代で、米ソ両国は国際的な影響力と権威を大きく失ってしまっていました。

 

1985年、ソ連の大統領ゴルバチョフは、『ペレストロイカ』という政治改革によってソ連の崩壊を防ごうとします。そんな最中の1986年4月26日、チェルノブイリにある原子力発電所で原発事故が起きます。ここでペレストロイカにある『グラスノスチ(情報公開)』はここで役に立ちます。しかしそれは真理の面から見て、ということであり、ソ連自体はその情報公開によってダメージを受けることになりました。

 

結局威信を無くしたソ連は、もはやアメリカと冷戦をするだけの勢いもなく、1989年12月2日から12月3日にかけてのアメリカのレーガン大統領との『マルタ会談』で冷戦終結を決断。これをもって、44年間続いた東西冷戦は終結しました。この裏にはイギリスの首相マーガレット・サッチャーの存在もありました。ソ連が冷戦を終わらせたいと考えていたことを察知した彼女は、裏で活躍。したがって、

 

  1. レーガン(アメリカ)
  2. ゴルバチョフ(ソ連)
  3. サッチャー(イギリス)

 

の3人は、『冷戦体制崩壊三人組』と呼ばれました。冷戦終結には彼女の尽力も影響していたのです。それと同時期に、『東欧革命』が起き、ソ連に圧迫されていた人々が立ち上がります。東ドイツでは『ベルリンの壁』がついに崩壊し、1990年には東西ドイツの統一が達成されました。ゴルバチョフは、

 

もうソ連は引き上げ時だ

 

と言わんばかりに、解放された後にソ連共産党を解党させ、自身もソ連大統領を辞任し、ソ連は完全に解体したのです。ここからソ連は現在の『ロシア連邦』へと変わっていきます。ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権(パクス・アメリカーナ)が成立し、当時はこれを歴史の終わりと見る向きも現れました。

 

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現代

いくつか質問があるんだけど、

  1. 第二次世界大戦以降、なぜアメリカ一強時代になったの?
  2. 欧州連合(EU)って何?
  3. 新冷戦って何?

1.他の戦勝国が戦場と化しダメージを負い、植民地も失い、アメリカに経済的な借りがあったからです。

2.アメリカの支援に頼らずに独立し始めたヨーロッパの連合体です。

3.EUを東ヨーロッパに発展拡大したときに、東ヨーロッパのボス『ロシア』との支配下争いが勃発し、あわや『新冷戦』となりました。

かつてのフランスやイギリスにあったのは『植民地』という『違法行為スレスレ』の上に成り立つ栄光でした。

 

人間は歴史と共に進歩し、差別などはいまだに根付いたままですが、一歩ずつ『正しい道』へと進んでいます。植民地として人が人を支配する行為は第二次世界大戦を期に終焉を迎えました。そして、それと同時にその上に成り立っていた栄光も消え、かつての強国イギリス、フランスといった国の国力は低下します。それと同時に、戦場のダメージ、アメリカへの借金等も加わります。アメリカは、

 

  1. ライバルの転覆(ソ連、フランス、イギリス)
  2. 借金の回収

 

という2つの理由でこの世界の覇権を獲りました。この状況を打破するためには、ヨーロッパがまとまることが必要です。西ヨーロッパ諸国の人々は、

 

長い間ライバル関係にあるフランスとドイツが対立せず、経済協力することが大切だ

 

と考え、1952年、『普仏戦争』以来の仇敵だったフランスとドイツが手を組む歴史的和解が行われました。そこから次々と新しい連合体が誕生し、ヨーロッパが一枚岩となり結束し始めます。

 

 

1952年 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)
1958年 ヨーロッパ経済共同体(EEC)
1958年 ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)
1970年 ヨーロッパ共同体(EC)
1993年 ヨーロッパ連合(EU)

 

しかし、

 

 

  • ギリシャ経済破綻(2010年)
  • 欧州債務危機(ユーロ危機)
  • 中東などからの難民の受け入れ問題
  • 続発するテロ

 

 

等の問題がEU内を混乱させ、2016年、イギリスで国民投票が行われたときには『EU離脱派』が僅差で勝利してしまいました。EUの行方が心配されています。

 

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アフリカの歴史

アフリカ人はなぜ奴隷として扱われたの?

勢いのあったヨーロッパから近かった、勢いがヨーロッパよりも劣っていたことなどが考えられます。

奴隷の存在ははるか昔からありました。

戦争に勝った者が負けた者を奴隷にすることは、当たり前でした。まずはそういう歴史の事実が大前提としてあります。16世紀にアメリカ大陸のマヤ文明、インカ帝国等がスペイン人に支配されたのは、

 

  1. 奇襲された
  2. スペイン人の方が技術があった

 

という2つの条件があったからです。つまり、ヨーロッパ人の方が経済から技術からすべてが発展していて、見たこともない武器を突き付けられ、なす術もなく彼らはスペイン人の奴隷となりました。それは中央アメリカ、北アメリカ大陸のインディアン等の先住民でも同じことでした。更にアフリカにあった黒人王国は、ヨーロッパの船が西アフリカに到達すると彼らと貿易を始め『黒人奴隷』を労働力として輸出します。つまり、前述したような二つの条件に、

 

  1. 古くからあった奴隷システムにある種の諦めがあった
  2. 奴隷貿易を斡旋する黒人たちがいた

 

という条件も重なったことが大きいと言えるでしょう。奴隷というのは労働力でもあり、性的な意味での価値があり、倫理を一切無視すれば大変利益を生み出す『金の卵を産むガチョウ』ですから、そんなガチョウがいれば捕まえるのが当たり前だ、という考え方があったのでしょう。彼らの中には今でもろくに勉強できない環境で生きる人々が大勢いますが、そのように、

 

  • 知識ある人間が知識無い人間を騙す

 

という構図も存在していたでしょう。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. アフリカで内紛が頻発する理由は?
  2. アフリカがなかなか発展途上国から抜けられない理由は?

1.ベルリン会議で決められた『文化的景観』を無視した国境のせいです。

2.内紛とモノカルチャー栽培(単一の農作物を生産する農業)への依存が大きな原因です。

1884、5年にベルリン会議が行われ、アフリカの国境が決められました。

しかしそれは『文化的景観』を無視したもので、この時に西欧列強が勝手に引いた国境線は、民族構成を無視して適当に引かれたため、このせいで現在進行形で、アフリカで紛争が行われてしまっているのです。それは中東でも同じことがありましたから、そうなるのは必然的だと言えます。アフリカがなかなか発展途上国から抜けられない理由は、

 

  1. 内紛が頻発してしまっている
  2. モノカルチャー栽培から脱することができない

 

という2点が問題として挙げられています。モノカルチャー栽培からの依存は『抜け出せばいいだけ』なのですが、簡単にそうすることができないこのあたりの理由にも、アフリカの発展が遅れてしまっている原因があるかもしれません。しかし、本来黒人である彼らのポテンシャルはとても高く、彼らが本気を出したら大きな結果を出すことも夢ではありません。アフリカはいろいろな意味で、まだまだこれからの国々なのです。

 

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アメリカの歴史

植民地時代

なぜインディアンはインド人じゃないのにそう呼ばれているの?

コロンブスが発見した島を『インド』だと思い込んでしまい、その先住民を『インディオ』と呼んだのが理由です。

インディオ(スペイン語)、インディアン(英語)。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達したときには、すでにそこには先住民が文明を築いていました。スペイン人のコロンブスはこの島を『インド』だと思い込んでしまい、その先住民を『インディオ』と呼んでしまいます。これによってアメリカ先住民は、以来『インディオ』と呼ばれるようになりました。

 

1492年に出航したコロンブスは『アメリカ大陸の一部』を発見。全体を一つの島だと認識して見つけたのはイタリアのアメリゴ・ヴェスプッチです。彼の名をとって『アメリカ大陸』となりました。ちなみに『コロンビア』はコロンブスの名をとってつけられました。アメリカが『アメリゴの土地』を意味し、コロンビアは『コロンの土地』を意味します。『アメリカ大陸の発見者』と言えば、通常この二人が筆頭に挙げられます。

 

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独立戦争と国家建設

いくつか質問があるんだけど、

  1. アメリカ大陸は誰が支配したの?
  2. アメリカ人のルーツは?
  3. アメリカ合衆国はどうやってできたの?

1.スペイン・ポルトガルは南アメリカ大陸で、北アメリカ大陸はイギリスとフランスが中心となって進出しました。

2.そのイギリス人とフランス人です。彼らの植民地としての『支配』からスタートし、先住民を虐殺、追放して彼らの土地を奪いながら土地を獲得していきました。

3.イギリス軍と植民地人が衝突して『アメリカ独立戦争』が始まり、翌年にアメリカに独立宣言書が交付され、『アメリカ合衆国』ができました。

北アメリカ大陸(北米)はイギリスとフランスの支配下にありました。

 

またその頃、ルターやカルバン等の宗教改革がありました。そのカルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり彼についていけなかったピューリタンは、居場所がなくなり、アメリカに新天地を求めました。彼らは貧しく、渡航費はありませんでしたが、移民先の大農場で労働することを条件に、アメリカに移ったのです。こうして主にイギリス人とフランス人が北米にやってきて、生活し始めます。しかしそのうち、

 

  1. フランス&インディアン
  2. イギリス

 

という2つのグループに分かれるようになりました。『フレンチ・インディアン戦争』で領地を巡って両者が衝突。イギリスは惨敗が続き、『ウィリアム・ヘンリー砦の戦い』では、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされます。しかしその後に形勢が逆転し、イギリスは北米のほとんどを支配することに成功します。

 

しかし、イギリスの積極的な『オフェンス』のツケは溜まっていて、その穴埋めのためのカバーに植民地の人々は更に首を絞められる事態となってしまい、それが仇となって植民地人が宗主国イギリスへの不満を爆発させたのです。1775年、レキシントンとコンコードにおいて、イギリス軍と植民地人が衝突。そして『アメリカ独立戦争』が始まりました。そして翌年の1776年7月4日、アメリカに独立宣言書が交付され、正式にアメリカ合衆国という国家が形作られたのです。

 

アメリカ合衆国とは、イタリアのアメリゴ・ヴェスプッチが見つけたから『アメリカ』と名付けられ、様々な事情からここへ移入してきたイギリス人が、『本家イギリス人』に対抗する形で『独立』を主張して作られた国。

 

では、先住民のインディアンこそが真のアメリカ人だと思いきや、彼らはそもそもスペイン人であるコロンブスにインド人だと間違えられて『インディオ』と呼ばれた。更に、『アメリカ』という言葉自体がイタリア人からつけられ、『アメリカ』という国は『本家イギリス人から独立したイギリス人たち』が作った国だから、『真のアメリカ人』というのはインディアンでも、インディアンと呼ばれる前にいた先住民たちでもなく、独立を果たした彼らということになります。複雑な話ですね。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ホワイトハウスの名前の由来は?
  2. 『明白な天命』って何?

1.1814年8月にイギリスに焼かれて、焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことが理由です。

2.『文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である』という先進国側の勝手な解釈です。

アメリカは『イギリス』から独立してできた国です。

 

しかしすぐに『米英戦争』が起きます。1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争です。その後イギリスは順調に勝利を重ね、

 

イギリス

インディアン戦争をするアメリカは侵略者だ!

 

として、首都であるワシントンの焼き討ちを行いホワイトハウスを破壊しました。アメリカの民衆は衝撃を受け、ヨーロッパ大陸の指導者らはこれを非難しました。大統領府のある首都ワシントンD.C.が陥落したのはこの一度のみ。大統領官邸が『ホワイトハウス』と呼ばれている理由は、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことが理由です。戦争は痛み分けに終わり、アメリカはイギリスとの貿易が途絶えてしまいました。だが、それが逆に国内の生産力向上につながり、アメリカは経済的自立に影響しました。

 

その後アメリカは徐々に領土を拡大。『文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である』という先進国の考え方は、

 

 

アメリカ 明白な天命(マニフェスト・デスティニー)
フランス 文明化の使命
イギリス 白人の責務

 

として正当化され、彼らはアメリカ大陸の先住民やそこにあった文化を塗り替えていってしまいました。

 

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南北戦争

いくつか質問があるんだけど、

  1. リンカーンは何をした人?
  2. 南北戦争の原因は?
  3. 南北戦争の内容と結果は?

1.アメリカの南北分裂の危機を救った人です。

2.北部では奴隷解放の考えが強く、南部では奴隷を維持する考えが強く、考え方が対立して衝突しました。

3.最初は南部が優勢でしたが、リンカーンの『奴隷解放宣言』で流れが変わり、最後には北部が決定的な勝利を収めました。

北部と南部では経済体制から支持する政党まで違いがありました。

 

南部の人

俺たちの環境はいい作物が育つからな!このチャンスをみすみす棒にふるう奴がいるかよ!
俺たちの環境では何も作物が育たない。だから、違う何かに目を向けなければならない。

北部の人

 

こうした土地的な環境の違いも理由でした。南部では作物がよく育ったので、それを中心とした仕事が多くあり、人手が足りず、奴隷が欲しかったのです。しかし北部は違うので、南北で違う考え方になりました。北部では、19世紀初めから奴隷解放運動が始まっていました。しかし、南部の人には安価な労働力である奴隷が欠かせなかったのです。

 

北部の人

奴隷は解放して『労働力』にしようや!
馬鹿野郎!奴隷がいなくなるのは考えられねえよ!

南部の人

 

アメリカが南北に分裂し、北部のリンカーン大統領に対抗して、南部がジェファソン・デヴィスを大統領にし『アメリカ連合国』を作りました。アメリカが2国に分裂してしまったのです。そしてアメリカ南北戦争が勃発してしまったのです。

 

最初は南部が優勢でしたが、リンカーンが1863年1月に『奴隷解放宣言』を出すと雲行きが変わります。南部の支配下にある奴隷たちが自由を求めて北部軍に合流し、諸外国が北部の正当性を認めて干渉を控えたのです。徐々に戦況が北部優勢となり、『ゲティスバーグの戦い』で北部が決定的な勝利を収めました。この戦争は、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集し、南北戦争史上最大の激戦となり、戦いでは4万6千人の人々が亡くなりました。リンカーンはこの地で戦死者追悼の為に、演説を行いこう言いました。

 

リンカーン

人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させない!

 

彼のこのゲティスバーグの演説は、世界的に有名な名言となりました。

 

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帝国主義時代 

中南米の人はどういう経緯で独立したの?

本国生まれの白人と、植民地生まれの白人が対立し、アメリカ・フランスの革命が重なり、後者が奮起した形です。

宗主国生まれの白人(ペニンスラール)と、植民地生まれの白人(クリオーリョ)との対立が生まれました。

 

ペニンスラールはプライドがあるのか、

 

ペニンスラール

俺たちは本国生まれの『純潔』だぞ!本物は俺たちだ!

 

と主張する人も多く、更には本国政府までも、ペニンスラール優遇策を取ったりしてしまいます。しかしそうなるとやはりクリオーリョも黙ってはいません。

 

よーし!やってやろうじゃねえか!血だけで差別するなんてまっぴらごめんだぜ!

クリオーリョ

 

そしてクリオーリョたちはペニンスラール及び本国政府への反感を持ちます。ちょうどその頃世界ではこういうことが起きていました。

 

  1. アメリカ独立戦争(1775年4月19日から1783年9月3日)
  2. フランス革命(1789年5月5日 – 1799年11月9日)

 

この世界レベルの2つの大事件かつ大革命は、クリオーニョたちを奮起させるには十分な材料となりました。そしてサン・マルティン、シモン・ボリバルといった人物たちを筆頭に、中南米の人々は次々に独立していきました。

 

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カナダが『アメリカ独立運動』に参加しなかった理由は?

独立するほどイギリスに反感を持っていなかったからです。

現在のカナダにあるケベックは『ケベック植民地』として存在していました。

 

フランスとイギリスが領地を競い、イギリスが勝ってイギリス領となりました。イギリスは、フランス系の住民の統治をするために、1775年に『ケベック法』を制定し、カトリックの信仰などのフランス系住民の習慣を尊重しました。このケベック法はカナダ人の忠誠をイギリスに保障するために大きな役割を果たしたのですが、『アメリカ合衆国』を作ったような人たちからすれば、それはイギリスから独立するだけの屈辱的な法律でした。

 

そもそもここに来たイングランド系アメリカ人は、『カトリックに反発』してアメリカ大陸で生きていこうとしたのです。しかし、ここにそのケベック法が導入されると、自分たちの居場所がなくなります。そうやってイングランド系アメリカ人は追い込まれ、そしてその怒りが沸点を迎えたとき、『アメリカ独立戦争』が始まったのです。

 

しかし、この戦争にはカナダ人は参加しませんでした。カナダはアメリカとして独立せず、イギリスの植民地にとどまったのです。彼らはイングランド系アメリカ人と違って、フランス系の住民。彼らとは違ってカトリックですから、ケベック法に文句はなかったのです。こうして考え方が違った人々が、『アメリカ合衆国』と『カナダ』という国に分かれていきました。

 

 

アメリカ合衆国 イギリス系住民、プロテスタントが多い プロテスタント48%、カトリック23%
カナダ フランス系住民、カトリックが多い カトリック43.2%、プロテスタント29.2%

 

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アメリカは独立した後、どのような手順で国力を飛躍的に拡大させていったの?

ヨーロッパから孤立したことが功を奏して領土拡大を続け、『アメリカ・スペイン戦争』でとどめをさした形です。

第5代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・モンローは1823年『モンロー教書』を特筆。

 

アメリカがヨーロッパの問題にかかわらないことを約束し、その代わりヨーロッパもアメリカに関わらないようにしてほしいと主張しました。アメリカ合衆国がヨーロッパでの戦争、およびヨーロッパ列強と植民地間の戦争について中立を保つ意思があるが、新しく植民地を作ることあるいはアメリカ大陸の独立国家に干渉することはアメリカ合衆国に対する敵対行為であると考える事も声明します。こうしてまず『孤立』し、支援しないでいいという状況と同時に『介入もさせない』という状況を作り、アメリカ大陸での領土拡大を確実に進めていきます。

 

更に、『アメリカ・スペイン戦争(1898年4月25日 – 8月12日)』に勝利し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得。ここから『アメリカ大陸での覇権』はスペインからアメリカに移ったと言えるでしょう。アメリカは商工業を発展させて力をつけ、この戦争でかつての強国スペインを打ち破り、帝国主義の道へと目を向けるようになったのです。

 

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第一次世界大戦

1923年、ヴァイマル共和国(ドイツ)はなぜハイパーインフレを起こしたの?

経済的に窮地に追い込まれ、大量の紙幣を印刷したのが原因です。

ドイツは『ヴェルサイユ条約』で国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられました。

 

理由は『第一次世界大戦』です。それをけしかけておいて、更に敗戦した。これは最も重い罪を課せられる形だったのです。特にフランスは『普仏戦争』でナポレオン三世を侮辱されて以来、ドイツに対して強い怒りを覚えていました。フランスはドイツを追い込み、

 

フランス政府

賠償金を早く返済しろ!

 

と主張し続けます。そして、1923年に『ルール占領』が発生。フランスおよびベルギーが、ドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部だったドイツのルール地方に進駐、占領したのです。このルール占領が原因でドイツ政府が、

 

お金がない!もっとお金を作らなければならない!

ドイツ政府

 

として、大量の紙幣を印刷したのがハイパーインフレの原因だったのです。このインフレで、戦後10年間で物価が『1.2兆倍』になるというとんでもない事態へと発展してしまいました。そこでアメリカは1924年、『ドーズ案』というアイディアでこの問題に介入。しかしこれが後の『第二次世界大戦』の原因の一つとなってしまいます。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 1929年10月24日(木曜日)の世界恐慌はなぜ起きたの?
  2. 『ニューディール政策』って何?

1.調子が良かったアメリカが調子に乗ってしまい、足元がおろそかになったからです。

2.世界恐慌で窮地に陥った人々の救済政策です。失業者救済や生産量や価格の調整をしました。

調子の良い時代に調子に乗り転落するのは、いつの時代を見ても見て取れることです。

 

アメリカのフーヴァー大統領は自由放任による『資本主義の永遠の繁栄』を主張。それぐらいアメリカ中が浮かれていたのです。商品を作れば作るほどそれが売れると思っていたし、株を買えば必ずそれが上がると思っていた。まさにアメリカはバブル真っ盛りだったのです。しかしそれは起きました。1929年10月24日(木曜日)。なぜ曜日まで記録されているかというと、この問題が『ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)』と言われているからです。物を作るだけ作り、それが売れ残り、銀行や株主に借金が残る企業が続出し、企業と融資を行った銀行が連続倒産をする。そういう一蓮托生ドミノ倒しのような悲劇が巻き起こってしまったのです。

 

フランクリン・ルーズベルトが当選し、『ニューディール政策』を進めますが、これに対する効果は未だに議論があるようです。しかしとにかくこうしてアメリカで世界恐慌が起き、これが後の『第二次世界大戦』の原因の理由の一つとなってしまいます。

 

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第二次世界大戦

いくつか質問があるんだけど、

  1. アメリカが世界恐慌から抜け出せた理由は?
  2. 『ハル・ノート』って何?

1.アメリカ経済が復興したと言えるのは『ニューディール政策』というよりは、戦争における武器の生産でした。

2.アメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官と日本とのやり取りで、これを通して日米の関係が悪化しました。

ニューディール政策の効果は現在でも疑問視されています。

 

しかし明白なのは第二次世界大戦でアメリカが武器生産体制を強化して大金を得たということ。専門家はこれによってアメリカが世界恐慌を抜け出したと見ています。アメリカは現在でもサウジアラビアなどに武器を売って大金を得ているので、武器で作り上げた大国と見られることもあります。

 

さて、アメリカはそうして国内の景気回復で手いっぱいで、戦争も反戦意識が強い人々の影響で、『第二次世界大戦』に深く介入しませんでした。そんな中、日本が中国を侵略し、石油禁輸などの強硬姿勢を取ったので、当時交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官は『ハル・ノート合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)』という交渉文書を送り、日本に牽制。そのやり取りの中でお互いの利害を主張し、意見が合わずに日本とアメリカの関係が悪化。

 

そして1941年12月に日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが日本へ宣戦布告。こうしてアメリカの『第二次世界大戦(太平洋戦争)』への参戦が決まったのです。アメリカは第一次世界大戦から常にこうした世界規模の戦争には中立的な立場でしたが、今回に至っては日本を止めるために参戦する必要があると思ったのです。

 

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アメリカは日本を戦後に占領したのになぜ現在は『同盟国』となっているの?

毛沢東(中華人民共和国)、金日成(朝鮮民主主義人民共和国)といった反米親ソ勢力を作ってしまったからです。

普通、敗戦国はズタボロになり、戦勝国に不平等条約を突き付けられます。

 

しかし、第二次世界大戦後のアメリカはソ連と『冷戦』ムードにあり、日本を味方につけようと考えるようになりました。ソ連は少しでも多くの味方を増やそうと自分たちと考えの合う共産主義国家を作ろうとしていて、アメリカにとってそれは脅威でした。

 

第二次世界大戦の後、『朝鮮半島』が北緯38度線を境に、米ソによる分割を受けます。北はソ連、南はアメリカによって支配され、南部で李承晩(いすんまん)を首班とする大韓民国(韓国)がアメリカの支援によって成立。しかしソ連のバックアップで、

 

  1. 毛沢東(中華人民共和国)
  2. 金日成(朝鮮民主主義人民共和国)

 

といった反米親ソ勢力が作られてしまいます。そこでアメリカは、日本と『サンフランシスコ講和条約』、『日米安全保障条約』を締結し、日本を東アジアにおけるアメリカの有力な同盟国にしたのです。つまり、東アジアにおいては、

 

  1. 日本
  2. 韓国

 

が反ソ親米勢力ということにしたかったのです。またこの頃、東南アジア等の植民地化された国々で独立運動が続き、世界中でそれに対する批判が巻き起こっていましたから、そういう流れも敗戦国である日本が現在のような対応を受けた理由の一つでしょう。いまだに日本には、アメリカ軍の基地が存在する『何とも言えない状態』となっています。

 

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冷戦時代

いくつか質問があるんだけど、

  1. ケネディ大統領の時代(1961年1月20日 – 1963年11月22日)には何があったの?
  2. ニクソン大統領の時代(1969年1月20日 – 1974年8月9日)には何があったの?
  3. レーガン大統領の時代(1981年1月20日 – 1989年1月20日)には何があったの?

1.法の上で人種差別が撤廃されるという動きがあったり、キューバ危機でソ連と一触即発となりました。

2.ベトナム戦争から撤退し、ドルと金の交換停止を宣言した『ドル・ショック』がありました。

3.財政支出削減・規制緩和・減税(レーガノミクス)や、強烈な反ソビエト政策を推進しました。

1960年代で米ソ『冷戦』問題はピークを迎え、そこから徐々に鎮静化していきました。

 

ケネディ大統領の時代にキューバ危機があり、アメリカ側のカストロ暗殺計画『マングース作戦』が秘密裏に進んでいましたが、ケネディがそれを牽制。彼がもしその作戦を後押ししていれば事態はもっと深刻化していたかもしれません。また彼の時代にはキング牧師マルコムXなどの影響もあって、公民権法が制定され、法の上では人種差別が撤廃されるという動きが見られました。

 

ニクソン大統領は、ベトナム戦争からアメリカ軍を撤退させました。しかし『ドル・ショック』でアメリカの経済力が疑われるようになり、アメリカはかつてのような絶対権力国ではなくなっていきました。ニクソン政権の課題は、

 

  1. 対共産圏外交の見直し
  2. 傷ついたアメリカの指導力の奪回

 

にありました。

 

レーガン大統領は、『強いアメリカの復活』を掲げてそんなアメリカを奮起させようとしました。その代償にソ連を挑発し、あわや『新冷戦』の危険性もありましたが、彼の時代のすぐ後にソ連との冷戦も終わりを迎えます。また、『レーガノミクス』と呼ばれる新自由主義的な経済政策を採用し、減税などを試みますが、経済、外交共に赤字となり、結局『レーガン政権』は『双子の赤字』を生んで終わりました。しかし、彼の支持は厚くレーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にしました。

 

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パクス・アメリカーナ

いくつか質問があるんだけど、

  1. ソフトパワーって何?
  2. アメリカニゼーションって何?
  3. パクス・アメリカーナって何?

1.軍事力や経済力などの対外的な強制力の『ハードパワー』の対義語で、コカ・コーラ等の企業力が代表です。

2.政治、経済、社会、文化の各面が、アメリカ合衆国のようになる現象です。戦後の日本に英語やアメリカ文化が増えたのもこれです。

3.「アメリカの平和」という意味で、超大国アメリカ合衆国の覇権が形成する「平和」のことです。

アメリカが圧倒的な軍事力を駆使して何かをすることを、良くないと思う人もいました。

そうした『ハードパワー』の対義概念として『ソフトパワー』は生まれ、コカ・コーラやマクドナルドといった『軍事力以外の力』を駆使してアメリカの国力をつける方向を見出しました。アメリカニゼーションは『アメリカ化』とも言い、特に日本はその影響を強く受けたと言えます。

 

 

といった人々も大活躍し、20世紀はアメリカの持つこうした『ソフトパワー』の力も爆発した時代であり、今ではすっかり『エンターテインメント=アメリカ』という考え方が定着しています。かつて、ローマ帝国の全盛期を指す『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』という言葉があったように、冷戦終了後(1990年以降)の世界はアメリカ一強、『パクス・アメリカーナ』の時代に突入したのです。

 

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宗教(思想)で世界が統一されるときはくるの?

ゼロではありません。しかし、その時は人間の数が数えるくらいしかいないかもしれません。

世界の歴史を見ると、人間ははるか昔から宗教(思想)の違いで衝突してきました。

 

ですから、人間の『最高到達地点』だと考えられる『世界平和』を実現させるためには、もはやこれを統一するしかないという選択肢が見えます。しかし、思想を無理矢理統一することは倫理的に間違っていて、世界平和と同じくらい『多様性』と『個人の権利』を大事にしなければならない問題を人間は抱えています。

 

どっちかを取ると、どっちかが崩れて問題が出る。これを『ジレンマ』と言います。では、この大きなジレンマを抱えた人間は、永久に世界平和を実現することはできないのでしょうか。そして、永久に人間は宗教(思想)の違いで対立し続けるのでしょうか。これは私の個人的な答えですが、記事の最下部にこの問題に対する解決策を載せました。今、私が言えることはこれくらいです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ジョージ・W・ブッシュ時代は何があったの?
  2. オバマ時代は何があったの?
  3. トランプ時代は何があったの?

1.テロやアフガニスタン侵攻等でアメリカの威信が傾いてしまった時代です。

2.『核兵器のない世界』の演説、『オバマケア』という低所得者に対する医療保険制度改革がありました。

3.TPP離脱などの保護主義、極端に排外主義的(アメリカファースト)な政策が取られました。

ブッシュ時代の裏番長はディック・チェイニー副大統領でした。

その『ブッシュ&チェイニー』時代(2001~2009年)は、

 

  1. 9.11
  2. アフガニスタン侵攻
  3. 民主主義拡大志向
  4. リーマンショック

 

といった様々な問題によって、アメリカの威信が傾いてしまった時代でした。

 

オバマ大統領はその遺産を受け継ぐわけですから、まず彼がやらなければならなかったことは、その『失われた威信』を取り戻すことでした。オバマ大統領はアメリカ合衆国大統領としては初めて核廃絶に向けた『核兵器のない世界(核なき世界)』の演説を行い、2009年のノーベル平和賞はオバマ大統領が受賞。また、彼は『オバマケア』という低所得者に対する医療保険制度改革を行いました。しかし、これらの対策はあまり有効打にならず、オバマ時代は『空振り』の印象を与えました。

 

トランプ大統領は、その『オバマケアの廃止』を公約に掲げ、TPP離脱などの保護主義、極端に排外主義的(アメリカファースト)な政策を取りました。これによって国内の支持を得ることに成功しますが、この政策がどう出るかを疑問視する声も多くあります。

 

  1. トンキン湾事件捏造
  2. 大量破壊兵器があると主張して強行突破

 

このような先例があるアメリカは、2019年に起きた日本とノルウェーの海運会社が運航するタンカーが襲撃を受けた『ホルムズ海峡タンカー攻撃事件』で悪い噂が上がっています。アメリカもその地位を維持するために様々な手段を使うでしょうが、いつまでこの世界の覇権をアメリカが握っているのかが注目されています。一つ言えるのは、永久に一つの国(帝国)が世界を支配した歴史は存在しないということです。

 

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イスラムと西アジア・インド史

イスラム国家

いくつか質問があるんだけど、

  1. アラブ帝国って何?
  2. イスラム帝国って何?

1.ウマイヤ朝が存在した時代のイスラム世界です(661~750年)。

2.アッバース朝になったあとのイスラム世界です(750~1258年)。

570年にイスラム教の開祖ムハンマドが生まれ、632年に病死しました。

その後、ムハンマドの3代目の後継者オットマン『を殺害したはずであるアッリー』を殺したムアウィヤが、『ウマイヤ朝』を建てます。そしてイスラム教に、

 

  • スンナ派
  • シーア派

 

という派閥が生まれ、ムハンマドの子孫であり、アッリーの後継者を自任するアブル・アッバースが半旗を掲げました。彼からすれば、アッリーは罪を着せられて殺されたわけで、ムアウィヤはカリフの地位を強奪したに等しい。その地位を奪い返すために、ウマイヤ朝を襲撃。そして750年、ウマイヤ朝は亡ぼされ、アッバース朝が建てられました。

 

 

ムアウィヤ スンナ派
アブル・アッバース シーア派

 

ウマイヤ朝の時代は、アラブ人のみが支配階級として君臨していた体制だったので『アラブ帝国』と言い、それと対比する形で用いられるアッバース朝時代を『イスラム帝国』と言うようになっています。

 

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なぜ十字軍とイスラム国家が衝突しなければ『ルネサンス』時代がなかったの?

イスラム文化でギリシャ文化が『翻訳・記録・保存』され、十字軍と交わらなければ、それがヨーロッパに伝わらなかったからです。

14世紀ヨーロッパのルネサンスというのは『人間を軸にものを見る』という考え方の復興でした。

それまでの中世ヨーロッパは『暗黒時代』とも言われ、ただただ神のためにある1000年間で『哲学』もほとんど栄えませんでした。しかし、キリスト教の腐敗と衰退により、それを打破する動きが活発化。その中で、14世紀の芸術家あたりから『神から人へ』視点を変える考え方が動き出しました。この考え方は、実は紀元前の古代ギリシャの時代にあったものです。ギリシャ神話の神々は人に姿が似ていて、それが理由で人が『神から人へ』視点を変え、『哲学』が生まれましたが、それは世界に広がりませんでした。『翻訳・伝播』されなかったからです。

 

その後8世紀頃のイスラム帝国で『アル・マンスル』がバグダードを経済的に繁栄させ、彼の孫である『ハールーン・アル・ラシード』がアリストテレスをはじめとするギリシャの化学を記録し、保存。ギリシャ語文献がアラビア語へ翻訳され、哲学、論理学、地理学、医学、天文学などの学問が発展。11世紀末にはアラビア語文献のラテン語への翻訳も盛んに行われました。そうしてギリシャ・ローマの古典はムスリム商人によってラテン語に翻訳され、それが十字軍の遠征の通り道で栄えた場所などを通してヨーロッパへ流入。

 

ムスリム商人

なるほどこれがギリシャ文化か!翻訳翻訳…。
うーむ!かつてのギリシャは『神』ではなく『人』を見たか。

ヨーロッパ人

 

こうしてヨーロッパで『ルネサンス』時代が幕開けしたのです。

 

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オスマン帝国

いくつか質問があるんだけど、

  1. オスマン帝国って何?
  2. ティムール帝国って何?

1.1500年続いた『ローマ(東ローマ帝国)』を終わらせ、モンゴル帝国の後に世界の覇権を握ったイスラム系の帝国です。

2.そのオスマン帝国を潰した、ティムールという人が一代で築き上げた帝国です。

どちらもトルコ系イスラムの帝国でした。

しかしオスマン帝国がティムール帝国の領土(スイヴァス)を占領したことが発端で、両帝国は戦争となります。盗賊団の首領から一代で大帝国を築いたティムールは、『アンカラの戦い』でオスマン帝国を破ります。オスマン帝国は一時壊滅的な状況となり、これによって滅亡の寸前まで追い詰められていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は救われました。ティムールは『中国(明)』に行く途中で病死しましたが、圧倒的な強さを持った人物として歴史に名を刻んでいます。

 

その後、ビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされます。1453年5月29日、これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになったのです。その後もオスマン帝国はイラクや北アフリカ、ハンガリー等を制圧し、大帝国へと拡大していき、キリスト教ヨーロッパは羨望のまなざしでオスマン帝国を見ました。モンゴル帝国の後にヨーロッパの覇権を獲ったのは間違いなくこのオスマン帝国でしたが、

 

  1. 官僚や軍隊の腐敗や肥大化
  2. ヨーロッパ勢力の台頭
  3. 帝国内アラブ人による革命

 

という内外の問題によって、徐々にその力を失っていくことになります。そこからオスマン帝国は1922年まで約700年近くその体制を維持し続けますが、少しずつ力を失っていき、やがて完全に消滅。そのあとを引き継いだのは『トルコ共和国』でした。

 

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ムガル帝国

いくつか質問があるんだけど、

  1. アショーカ王は何をした人?
  2. 奴隷王朝って何?
  3. ムガル帝国って何?

1.敬虔な仏教徒で仏教をインドに広めた人です。

2.インドで初めてのイスラム王朝です。元トルコ人奴隷が建国したので、そう呼ばれています。

3.奴隷王朝最後のロディー朝を打ち破った、バーブルという人が作った帝国です。

宗教も作品も商品も、作る人とそれを広める人、その両方が重要です。

ユニクロことファーストリテイリング社長の柳井正も、

 

と言っていますが、広がってなんぼ、人に知ってもらい、使ってもらってなんぼというものがあるのです。その意味で、アショーカ王が王の立場で仏教を軸にして政治をしたことは、仏教にとっても大きいことです。

 

かつてのローマ帝国(キリスト教)で考えても同じことです。ディオクレティアヌスが皇帝をとして崇めさせる『専制君主制』を始め、コンスタンティヌスが夢の中でキリストの十字架を見て、『ミラノ勅令』を発布。そしてローマ帝国最後の皇帝テオドシウスがキリスト教をローマ帝国の国教と定めた。この3人の強烈なリーダーシップがなければ、現在のキリスト教はないかもしれないのです。

 

さて、インドも13世紀になると、インドで初めてのイスラム王朝『奴隷王朝』ができます。元トルコ人奴隷のクトゥブッディーン・アイバクが建国したのでそう呼ばれていますが、正式には『デリー・スルタン諸王朝』です。その後、ムガル帝国の初代皇帝バーブルが奴隷王朝最後のロディー朝を打ち破り、インドにムガル帝国を建国しました。

 

ブッダの登場で仏教ができ、アショーカ王やカニシカ王等がそれを広めます。しかし、イスラム勢力がインドにやってきて、こうしてムガル帝国がついにインドを支配。すると、『イスラム教VSインド宗教(ヒンズー、仏教)』という図式が浮上してしまいます。これが後の『インド分裂』の大きな原因となります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. アクバルは何をした人?
  2. タージ・マハルは何のために作ったの?
  3. ムガル帝国はなぜ滅亡したの?
  4. インド大反乱の原因は?

1.ムガル帝国内で宗教面の融和を図り、イスラムがヒンズーを支配するという形をとらなかった人です。

2.ムガル帝国5代目皇帝のシャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルの為に作ったお墓です。

3.インドの人口の9割を占めるヒンズー教徒を圧迫して反乱が起き、イギリスの支配を受けて滅亡しました。

4.兼ねてからイギリスの支配にうんざりしていて、東インド会社がインド人を冒とくして爆発した形です。

ムガル帝国3代目皇帝のアクバルは『インド史上最高の名君』と言われました。

イスラムがヒンズーを支配するという形をとらず、ムガル帝国がすべての人々の長で、人々の共生を保障する存在であることを強調しました。しかし、5代目皇帝のシャー・ジャハーンあたりから雲行きが怪しくなってきます。彼は愛妃ムムターズ・マハルを愛したのはいいのですが、彼女の為にタージ・マハルという巨大な墓を作り、国のお金を消費します。世界の歴史を見ても、国が破綻する前に必ずこうした『王の浪費』があるのです。

 

6代目のアウラングゼーブの時には、確かに領土は最大版図を迎えましたが、父親の時代からすでに斜陽を迎えていたのです。彼は強硬手段によってヒンズー教徒を圧迫し、インドの人口の9割を占めるヒンズー教徒が反乱を起こしてしまいます。同時に、この時期イギリスやフランスがインドの植民地化を狙って進出してきていて、ムガル帝国は窮地に追い込まれるのです。

 

当時のインド支配を担当したイギリスの『東インド会社』は税収を確保するためにインド人を更に圧迫。そして、インド人傭兵が要求されたある事実でついに不満が爆発。銃に弾を込めるときに『薬莢(やっきょう)』という包み紙を歯で噛み切る必要があるのですが、そのときの潤滑のために豚や牛の脂が使われていて、それがインド人の心を逆なでしてしまい、全インドを巻き込む『インド大反乱』に発展してしまいました。豚は、イスラム教では軽蔑視していて、ヒンズー教では神聖なものだったのです。

 

しかし2年後にはイギリスが鎮圧。これによってイギリスは、

 

もう我々が直接やるか。

 

と言わんばかりに、支配下にあった、

 

  1. 東インド会社
  2. ムガル帝国

 

といった中間的な存在を廃止、滅亡させ、ヴィクトリア女王を皇帝とする『インド帝国』を打ち立てました。

 

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パレスチナ問題~イラン・イスラム共和国 

いくつか質問があるんだけど、

  1. 三枚舌外交って何?
  2. パレスチナ問題って何?

1.イギリスの要人が『3つの方向に、つじつまの合わない都合のいい話』をしてしまった件です。

2.イギリスの三枚舌外交が原因となって起きた、パレスチナ(イスラエル)の領土権争いです(現在進行形)。

パレスチナは『アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)』を重んじる人々にとっての『聖地』です。

イギリスは三枚舌外交で3つの方向に都合のいい話をし、戦争などの局面でイギリスが有利になるように、周りを固めていました。

 

 

話した相手 対象 話し合いの名前
フセイン アラブ人 フセイン=マクマホン協定
ピコ フランス、ロシア サイクス=ピコ協定
ロスチャイルド ユダヤ人 バルフォア宣言

 

しかし、結局この『つじつまの合わない話』のツケが回ってきて、

 

協力したのに『パレスチナ』について、対応してないじゃないか!

 

と怒らせてしまいます。ではアラブ人(イスラム教)、ユダヤ人は分かりますが、『フランス、ロシア』に対する話はどういうことでしょうか。パレスチナは、第一次世界大戦後にイギリスが国際連盟にその地域の保護をゆだねる『委任統治領』となりました。更にイギリスとフランスは、その地域となった、

 

  1. イラク
  2. シリア
  3. レバノン
  4. トランスヨルダン
  5. パレスチナ

 

を、その土地の部族や宗派などを一切考慮せず、国境を直線で引いてしまったのです。結局『3つの方向』にいた人々は『パレスチナ』を巡ってトラブルを抱えてしまい、『中東戦争』などに発展。現在進行形でパレスチナは、領土問題や宗教問題等が未解決状態のままとなってしまっています。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. パレスチナ分割案って何?
  2. シオニズム(シオン運動、シオン主義)って何?
  3. ロスチャイルド家ってどんな人たち?

1.パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家に分割する決議です。

2.イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動のことです。

3.ユダヤ人の中で最も経済的に成功を収めた財閥です。力を持っているユダヤ人ということです。

エルサレムはすべての『アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)』にとっての聖地です。

そのエルサレムがあるのがパレスチナです。

 

ユダヤ人

ここはもともと神が我らに与えた場所だ!
2千年前のことなんか知らん!

アラブ人

 

彼らは宗教(考え方)の違いによって、このようにいがみ合い続けます。それは現在進行形です。1948年のユダヤ人におけるイスラエル国家の樹立宣言は、前年の『パレスチナ分割案』による影響が大きい。1947年の国連総会でパレスチナ分割案が採択されましたが、これは『人口では約3分の1のユダヤ人にパレスチナの約6割の地を与える』というあまりにもユダヤ人びいきされたもので、アラブ人にとっては理不尽この上ないものでした。そこでアラブ人の不満が爆発し、建国されたばかりのイスラエルを攻撃し、『第一次中東戦争』が勃発してしまうのです。

 

『現代イスラエルの父』ロスチャイルド家のエドモンもシオニズム運動に熱心で、バルフォア宣言以前から初期のユダヤ人入植者のために私財を投げ打ってパレスチナの土地を購入していたりしていました。しかし、彼自身はアラブ人の事情も知っていたため、ユダヤ人のイスラエル建国は反対していたようです。しかしユダヤ人たちのシオニズム運動は強行され、中東戦争に繋がってしまいました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ローラット法って何?
  2. ジャワハルラール・ネルーは何をした人?

1.インド人というだけで、令状なしで逮捕や裁判なしの投獄ができる法律です。

2.自治のレベルを超えて完全な独立を求め、インドの初代首相となった人です。

インドはイギリスにとって有力なエリアでした。

それは、『戦力』と『収入源』という意味でです。戦力というのは単純に『人の数』で、イギリス軍の10人に1.3人がインド人だったと言われています。また、植民地としての収入源も捨てがたい利益です。すべてはイギリスという国の為にインド人はありとあらゆる権利を牛耳られたのです。

 

インドは何とかして独立しようと(自由になろうと)しますが、イギリスは何とかしてそれを阻止します。様々な『形だけの約束』をしてはごまかし、問題を先延ばしにしてうやむやにし、独立を防いでいたのです。『ローラット法』というインド人というだけで、令状なしで逮捕や裁判なしの投獄ができる法律を作ったりして、違う約束を帳消しにしたりするなどして、独立はどんどん遠のいていきました。しかし、

 

 

といった人物たちを中心に、インドは独立に向けて本格的に動き出します。第一次世界大戦が終わった直後、イギリスがインド支配に躍起になっていたのは、イギリス自体もその体制を維持するために追い詰められていたからでした。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 第一次中東戦争(1948年5月15日 – 1949年3月10日)の原因は?
  2. その内容と結果は?
  3. 第二次中東戦争(1956年10月29日~1957年3月)の原因は?
  4. その内容と結果は?
  5. 第三次中東戦争(1967年6月5日 – 6月10日)の原因は?
  6. その内容と結果は?
  7. 第四次中東戦争(1973年10月6日 – 10月24日)の原因は?
  8. その内容と結果は?

少し長いので分けて応えましょう。

第一次中東戦争(1948年5月15日 – 1949年3月10日)

1.ユダヤ人のイスラエル建国までの過程とその一連がアラブ人にとって理不尽だったからです。

2.アメリカという超大国の支援があったため、イスラエルの圧勝に終わりました。

 

第二次中東戦争(1956年10月29日~1957年3月)

3.英仏の所有物でもあった『スエズ運河』を2代エジプト共和国大統領のナセルが国有化宣言したからです。

4.英仏がイスラエルを誘ったのが問題となり、『民族対立を利用する悪者』という目で見られ、彼らはエジプトから退くしかなく、エジプト側の勝利となりました。

第三次中東戦争

5.アラブ人が『パレスチナ解放機構(PLO)』を設立し、イスラエルがその勢力を阻止しようと先制攻撃を行なったからです。

6.パレスチナとシナイ半島の全域を占領し、またしても戦いはイスラエル側の圧勝で終わりました。

第四次中東戦争

7.アラブ人が失った領地を奪回しようとエジプトとシリアを攻撃したからです。

8.アラブ側が豊富な石油資源という武器を駆使し、『第一次オイルショック』を引き起こし、支援国アメリカを翻弄して妥協させ、アラブ側がシナイ半島のガザ地区、ヨルダン川西岸地区を奪回するこことに成功しました。

第二次中東戦争以外は『ユダヤ人VSアラブ人』という対立構造が原因でした。

しかしこの中東戦争は別の側面もあって、アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争は代理戦争の側面も含むと言われていたのです。アメリカとソ連の冷戦はちょうど『1947-1991年』に行われていました。この中東戦争はすべてその冷戦の期間内に行われたことです。第二次世界大戦後の戦争は、大体がこの冷戦が関連していて、『資本主義陣営(アメリカ側)VS共産主義陣営(ソ連側)』の代理戦争なのです。

 

しかし、元々パレスチナの地はアブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)という『考え方が分裂した宗教の人々』にとって聖地であり、アイデンティティ(身分証明)の地。これを死守し、聖地として正当化することで彼らは自分たちの人生を力強く生きていることは間違いありません。その強い意志の為に軋轢が生じ、確執を生み、戦争までに至った。一つだけ言えることは、『彼らの神』はきっと人が争うことを望んではいないということですね。神がいくら正しくても、『人は間違える』。戦争は、間違った人間が生み出した失敗(判断ミス)なのです。

 

ちなみに、アダムとイブが降り立ったとされるカシオン山はシリアにありますが、この場所も常に内戦状態が続き、国民の半分が避難民となっている状況が続いています。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. イラン革命って何?
  2. イスラム原理主義って何?
  3. 第三世界って何?
  4. イラン=イラク戦争(1980年9月22日 – 1988年8月20日)の原因は?
  5. イラン=イラク戦争の内容と結果は?

1.アメリカが脱イスラム化をさせようとしたエリアで起きたイラン(ペルシャ)人の革命です。

2.『イスラム法』に基づいた政治を行ったり、イスラム教ができた当初の考え方に立ち戻るという考え方です。

3.アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国の総称です。

4.元々スンナ派(イラク)とシーア派(イラン)で対立構造があり、そこにアメリカがイラク側についてイランを攻撃し、発生しました。

5.イラン側が降伏間際のところまで追い込まれましたたが、外国の支援の事情が重なって形成逆転し、最後にはイラン優勢の形となりました。

これら一連の背景にいたのはアメリカでした。

『冷戦』の真っ最中である中東戦争終了後、アメリカは中東でも自分たちの味方である国を探していて、選んだのが『イラン』でした。

 

アメリカ

よし、中東はイランに親米国家になってもらおう!

 

しかしルーホッラー・ホメイニが『イラン革命』を起こし、これに反発する動きを見せます。アメリカと話をつけていた皇帝はこれを弾圧しようとしますが、元々この地の人々に深く根付いていた『イスラム精神』がホメイニの活動に共感し、皇帝は国外に退去する羽目になります。こうして『イラン革命』は成立してし、ここから『イラン・イスラム共和国(1979年~)(通称イラン、あるいはペルシャ)』となります。アメリカの参入と、イスラム勢力の弾圧を力づくで行ったことにより、彼らの心底に眠っていたイスラム魂に火が付き、この革命は起こったのです。

 

しかしこのままではアメリカのメンツもありません。そこでアメリカはスンナ派(イラク)とシーア派(イラン)の対立構造を利用し、イランをあきらめて『イラク』を支援することにします。そして利害が一致したイラクはアメリカと組み、イランを攻撃。こうして『イラン=イラク戦争(1980年9月22日 – 1988年8月20日)』が始まったのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. インドはなぜ分裂してしまったの?
  2. ガンジーはなぜ暗殺されたの?
  3. ムハンマド・アリー・ジンナーって何をした人?

1.ヒンズー教とイスラム教という宗教の違いが原因です。

2.ヒンズー教とイスラム教の融和を願って活動したため、ヒンズー原理主義者に『反ヒンズー教徒』扱いされて、暗殺されました。

3.独立パキスタンの初代総督で、イスラム教側のインド人でした。

1947年にイギリスからの独立に成功したインド。

しかし、ムハンマド・アリー・ジンナー率いるイスラム教側と、ガンジーらが率いるヒンズー教側で意見が対立します。ただ、実際にはガンジーはヒンズー教だけではなく、イスラム教側への理解もあり、それだけではなくキリスト教への理解もあった人物でした。

 

ガンジー

自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同する。

 

まさに、インドの中心的人物にふさわしい彼のような柔軟性のある人間にかかっていたインド分裂の阻止。しかし、その態度を斜に構えて解釈したヒンズー教原理主義者に、

 

あの野郎、イスラム側かよ!

 

と思われ、ガンジーは1948年1月30日、銃で撃たれてこの世を去りました。彼の死の影響もあり、インドはインド(ヒンズー教側)とパキスタン(イスラム教側)に分かれて、分裂してしまいました。

 

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憤慨するイスラム世界 

アフガニスタンはなぜ常に戦場なの?

場所的に他国から侵略されやすいのが一つの大きな理由です。もう一つは宗教問題です。

日本、古代エジプト、タイはそういう意味で地理的に有利な場所でした。

したがって、長い間外国からの侵略がないか、あるいは緩衝地帯となって戦場にならなかったというある種の奇跡が起きているエリアです。しかし、その真逆の例もあります。それがイスラエルやアフガニスタンということですね。アフガニスタンはイギリスと三度にわたる『アフガン戦争』を起こしていますが、まずそのようにして侵略する対象の地域となってしまっていました。その後もソ連が侵攻してきます。ソ連からすれば自分の国の周辺諸国を取り込んでおけば、次にあり得る被害の低減が可能になると考えたわけです。

 

ソ連の周りを社会主義国家にすれば、親ソ的な国が増え、次の被害は抑えられるぞ

 

しかしアメリカ率いる資本主義陣営が、

 

ソ連がこれ以上社会主義国家を増やしたら、脅威になるぞ

 

と考え、それを抑えようとして『冷戦』は始まります。そんな米ソの代理戦争となってしまう場所が世界各地にあったのです。しかし、アフガニスタンはこれに抗い、

 

ムスリム

イスラム教を守るために聖戦をするのだ!

 

と声を上げ、『ムジャーヒディーン(戦士たち)』への志願兵が集うようになります。そこにいたのがビン・ラディンでした。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. クウェート侵攻って何?
  2. 湾岸戦争の原因は?
  3. 湾岸戦争の内容と結果は?

1.イラクがクウェートを併合すれば、石油収入を上手く使って負債を返済できると考えたからです。

2.力をつけ始めたイラクを抑えようと、アメリカを中心とした多国籍軍でイラクへの攻撃を開始しました。

3.イラク対14の多国籍軍。圧倒的な戦力の差に、イラクは降伏するしかありませんでした。

イラン=イラク戦争』でイラクの負債は700~900億ドル(約8兆円)にまで膨れ上がってしまっていました。

それを返すためにクウェートにある石油を駆使しようとしたのですが、クウェートがイラクの言うことを聞かず、イラクが怒ってクウェートを襲撃しました。イラクは、クウェートを併合すれば、石油収入を上手く使って負債を返済できると考えたのです。そしてクウェートの首長ジャービル3世はサウジアラビアに逃亡し、イラクの占領作戦が順調に進んでいきます。しかしアメリカはこう考えました。

 

このままイラクが力をつけていくとなると、色々と不都合があるな…。

 

そして国連安全保障理事会の決議を受け、アメリカを中心とした多国籍軍でイラクへの攻撃を開始し、『湾岸戦争』が始まったのです。イラク対14の多国籍軍。圧倒的な戦力の差に、イラクは降伏するしかありませんでした。しかし、この戦争で『サウジアラビア』というエリアを戦場にしたことが、後に大きな問題を引き起こす原因となってしまいます。

 

  1. 『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと
  2. アメリカ軍がここに駐屯したこと

 

これに対し、その後世界を震撼させるある人物が怒りを覚えていました。それが、オサマ・ビン・ラディンだったのです。

 

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9.11の『アメリカ同時多発テロ事件』はなぜ起きたの?

大きな原因が3つあります。

1.アメリカがユダヤ教の肩入れをして、パレスチナ(エルサレム)の地をアラブ人から奪った因縁がありました。

2.アメリカ人の9割がキリスト教徒で、『イスラム教VSキリスト教』という宗教対立の構造がありました。

3.湾岸戦争で『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと、アメリカ軍がここに駐屯したことがイスラム教への冒涜だと解釈されました。

アメリカ人の9割がキリスト教徒、ユダヤ人は6%と言われています。

ですから、イスラム諸国がアメリカを攻撃する時には、そこにキリスト教を意識しないということは考えにくいわけです。元々、パレスチナの地はアブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)すべての聖地で、考え方が衝突しています。考え方が分裂してその3つの宗教があるわけですから、元々彼らは対立構造を作りやすいのです。

 

更にそこに『アメリカ人がユダヤ人の味方をした』事実があるわけです。アメリカの重要人物にユダヤ人が多く、パレスチナを巡る争いでユダヤ人の味方になり、アメリカという強大なバックをつけたユダヤ人が、パレスチナで有利な立場を得ました。そういう強硬手段をアラブ人、イスラム人は先に取られているので、そこの採算を合わせ、対等になるためには同じように強硬手段を取るしかありません。更に、

 

  1. 『サウジアラビア』という地域を戦場にしたこと
  2. アメリカ軍がここに駐屯したこと

 

これに対し、オサマ・ビン・ラディンが怒りを覚えます。こういった様々な事情が積み重なり、彼らにある『聖戦(ジ・ハード)』という戦いの歴史を持ち出しながら、彼らはアメリカに『報復』する形で、攻撃したのです。

 

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アラブの春って何?

ある事件をきっかけに中東で大規模に広まった、民主化を求める革命やデモ・暴動です。

チュニジアのブアジジという青年が、役所の女性職員から暴行と侮辱を受けました。

どう訴えかけても相手にされないことに憤慨し、ブアジジはガソリンをかぶって焼身自殺し、命を懸けた主張に出たのです。イスラム教を含むアブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)では自殺することを禁じており、また火葬の習慣もありません。この周辺諸国にはアブラハムの宗教を重んじる人であふれていたため、彼が行ったその『焼身自殺』は大きな衝撃を与えました。

 

そしてそれをその場に駆けつけたブアジジの従兄弟のアリ・ブアジジが、事件直後の現場の様子を携帯電話で撮影し、その日の夕方、フェイスブックへ映像を投稿し、それが世界各地に広がり、瞬く間に暴動につながったのです。

 

  • ジャスミン革命
  • エジプト革命
  • リビア内戦
  • イエメン騒乱
  • アルジェリア騒乱
  • モロッコ騒乱
  • サウジアラビア騒乱
  • ヨルダン騒乱
  • レバノン騒乱
  • イラク騒乱
  • クウェート騒乱
  • バーレーン騒乱
  • オマーン騒乱
  • シリア内戦

 

実に広範囲に渡ってデモ・暴動・革命が起きました。その理由は、アラブ諸国には他にも多くの独裁国家や専制国家が存在していたからです。

 

中東の人々

彼の死を無駄にするな!我々にも権利を与えろ!

 

こうして中東で大規模な民主化を求める革命が起きたのです。しかし、2010年から始まったシリア内戦は現在も続いていて、2016年の時点で30万人以上、2018年の時点で36万人以上、そして最終統計結果では46万人を超えてしまっています。更に、ここにアメリカとロシアの影響も加わってしまっていて話が複雑化し、いまだに完全に解決しないままとなってしまっています。

 

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中国とアジア史の歴史

先秦時代

中国史上最も古い国は?

紀元前1600年頃からあった『殷(いん)』が王道の答えですが、『夏(か)』の可能性があります。

紀元前1900年頃に『夏』という王朝があった可能性があります。

14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されています。司馬遷が編纂した歴史書『史記』には、

兎(う)が夏王朝を建国したものの、暴君であった17代桀王(けつおう)が人望を失ったため、湯王(とうおう)がこれを討伐して、殷王朝を建国した

とあります。伝説上の王朝とされてきましたが、これが本当なら『夏』が中国で最も古い国ということになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 春秋時代はいつ?
  2. 春秋戦国時代はいつ?
  3. 戦国時代はいつ?

1.紀元前770年~紀元前403年までの約370年間です。

2.紀元前770年~紀元前221年までの約550年間です。

3.紀元前403年~紀元前221年までの約182年間です。

『春秋』というのは儒家経典の一つである歴史書「春秋」から取られているので、これで覚えるしかありません。

周が東西に分裂した紀元前770年から『秦』が中国を統一する紀元前221年までのおよそ550年間を『春秋戦国時代』と言い、戦国時代が始まる前の、現在の山西省一帯を占めていた大国『晋』が三国に分裂した紀元前403年までの、およそ370年に渡る期間を『春秋時代』と言います。そしてそこからが戦国時代となります。ただ、春秋時代と戦国時代の境目を何時とするかには諸説あり、晋が(韓・魏・趙)の三国に分裂した紀元前453年か、その三国が正式に諸侯となった紀元前403年とで分かれます。

 

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秦漢帝国

秦の始皇帝の時代はどれくらい続いたの?

15年です。

せっかく統一された中国がわずか15年で崩壊したのには理由があります。

秦は、『儒教』の教えが気に食わず、『法律』のみで国を支配しようとします。そのほかにも『外部』から力づくで統治する姿勢が貫かれます。こうしたある種の『恐怖政治』が裏目に出て、民衆の反感を買ってしまい、その後、『万里の長城』の警備をさせられた農民の反乱である『陳勝・呉広の乱』という大反乱につながってしまいます。(人の)内部をおろそかにし、外部(法律、恐怖等)だけで国を力づくで統治しようとした結果、無理が生じて潰れてしまったわけですね。

 

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『秦』の始皇帝の次の王朝は何?

劉邦(りゅうほう)が作った『漢』王朝です。

項羽(こうう)と劉邦が戦って、劉邦が勝ちました。

約5年間にわたる彼らの『楚漢戦争』は、結果的に人望で勝った『劉邦』が勝利し、『漢王朝』が秦に代わって中国を統一することになります。その前にあった秦が滅亡したのは紀元前206年。そしてこの楚漢戦争も、紀元前206年から始まりました。秦が滅亡し、再び中国は混乱することになるのですが、それをこの劉邦率いる『漢』が、秦の代わりに中国を統治することになるわけです。

 

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なんで漢は『前漢・後漢』があるの?

一時違う国に乗っ取られ、また再興したからです。

漢を『王莽(おうもう)』が奪って、『新』という王朝を建てます。

しかしそれはたったの15年しか持ちませんでした。すぐに漢王朝の子孫『光武帝』が取り返し、再び『漢』の時代が始まります。間に15年だけ『新』が入ってしまったので前後に分けているということですね。こうして名前を分けるとき、『前者が栄えていて、後者が廃れている』などというケースもあります。しかし漢の場合は、前漢、後漢共に栄えた時期があるので、そういうことではありません。

 

前漢には漢を創った『劉邦』がいて、儒教を国教にし、漢の前に滅んだ始皇帝の『秦』の時代の失敗を生かした『武帝』がいました。後漢には、『ローマ帝国』と並ぶほどの帝国を作ったと言われる『光武帝』がいました。しかし両者とも実力のあるそうしたトップが死んだ後に、周りにいた『地位だけ高い大人』たちが特権を乱用し、破滅していきました。

 

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黄巾の乱って何?

度が過ぎた政治家を懲らしめるために起こした反乱です。

当時の皇帝は『0歳、2歳、8歳』等、とても幼い段階での即位が続きました。

当然その幼い皇帝では政治はできませんから、近くにいた大人が代わりにやるわけです。しかし、その近くにいた大人が権利を乱用し、彼らのやり方に逆らう者を弾圧したりして、力づくで物事を推し進めようとしました。地方では農民も圧迫され、農民の反乱が相次いでいました。そこで、『張角』という人物を中心に大きな反乱を起こします。彼らは黄色の布を頭に巻き『黄巾賊(こうきんぞく)』と呼ばれました。彼らが起こした反乱だから『黄巾の乱』というわけですね。

 

しかし黄巾賊は流民や農民が中心であり、政府側には後の『三国志』で活躍する猛者たちがいたためか、一年足らずでこの反乱は鎮められました。

 

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魏晋南北朝時代

三国志ではどの国が勝ったの?

『魏、蜀、呉』の三国とは無関係の『晋』でした。

司馬炎の『晋』が、呉を滅ぼして三国時代を終焉させました。

しかし、匈奴(きょうど)に華北を奪われ、晋は265年~420年の、わずか150余年の寿命となります。晋は、『周』の時代と同じように、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けています。この西晋のことで言うなら、わずか50年しか持たなかったということになります。司馬炎の死後、『八王の乱』が起こり、皇族たちが主導権争いをした結果、『万里の長城』の守備がおろそかになり、異民族である『匈奴』が侵入して滅亡したのです。

 

司馬睿(しばえい)』が晋を再興し『東晋』時代が始まりますが、それも結局420年に『宋(そう)』に滅ぼされ、中国は南北に分裂する『南北朝時代』に突入します。

 

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『三国志』の重要人物は誰?

この時代に戦死した、歴史に名を残さなかった大勢の人々です。彼らのことを忘れてはいけません。

5650万人以上いた中国の人口は、この三国時代で800万人にまで減ってしまいました。

 

たしかに、

 

  1. 曹操(魏)
  2. 孫権(呉)
  3. 劉備(蜀)

 

といった3つのエリアのトップ、そして、

 

  • 関羽
  • 張飛
  • 趙雲
  • 諸葛亮公明
  • 周瑜

 

といった様々なキーパーソンは重要人物です。しかし、忘れてはならないのは、この時代に中国の人口の85%以上が失われたことです。

 

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隋唐帝国

いくつか質問があるんだけど、

  1. 楊堅(ようけん)は何をした人?
  2. 煬帝(ようだい)は何をした人?

1.『隋(ずい)』王朝を建てた人です。589年には陳を滅ぼし、中国を統一しました。

2.『黄河と長江を結ぶ大運河』を作った人です。しかし、彼は父である楊堅や兄弟たちを殺害した煬帝は『中国史上最強の暴君』です。

彼らは親子なのに最初の漢字が違います。

 

父親で使われている漢字には『明るい、温かい、Good』という意味がありますが、子で使われている方には『炙り尽くす、照り付ける、Bad』という意味があったといい、親子で180度評価が分かれてしまった例です。楊堅は長安に都を定めて、西晋の滅亡依以来300年にもわたる中国の分裂状態を終わらせ、久しぶりに中国を統一させました。しかし、この『隋』も次の代の『煬帝』の時代を持って終わってしまいます。実に、37年という短期間しか持たなかった王朝でした。

 

しかし、煬帝が作った『黄河と長江を結ぶ大運河』は、後世にとってとても役立つものになったことは事実でした。当時、中国大陸は西から東へ流れる川ばかりで、南北を船で移動することはできませんでしたが、このおかげで南北をつなぐルートができ、大いに助かったのです。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 則天武后(そくてんぶこう)は何をした人?
  2. 楊貴妃(ようきひ)は何をした人?

1.『唐』の帝位を引き継ぎ、国号も『周』へと改変させ、後に『中国史上唯一の女帝』と称される人です。

2.夫の父であり、6代目の唐の皇帝『玄宗』と愛人関係にあった女性です。

『唐』は日本も見習うほどのよくできた統治機構を作り上げたことでも有名です。

そして『遣隋使』と同じように『遣唐使』を派遣し、唐の政治機構を学びました。後に『中国史上唯一の女帝』と称される3代目皇帝『則天武后』は『唐』の帝位を引き継ぎ、国号も『』へと改変させてしまいますが、結局それ自体は『唐』復活を望む声が高まり、周は一時的なものとなります。

 

しかし、6代目の唐の皇帝『玄宗』が息子の妻だった『楊貴妃』に溺れて政治をおろそかにし、雲行きが怪しくなります。楊貴妃自身は政治には一切関わりませんでしたが、楊貴妃の『楊一族』が実権を握り、政治が崩れ始めます。更に、同時期に『タラス河畔の戦い』が起こり、唐がイスラム勢力のアッバース朝に敗れ、中央アジア方面での党の影響力が衰退。その後、『唐』は16代も皇帝が続いたので結構長続きしますが、『朱全忠(しゅぜんちゅう)』に国を乗っ取られ、滅亡してしまいます。

 

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『西遊記』って何がモデルなの?

中国の『唐』の時代にいた『玄奘(げんじょう)』という僧侶は、三蔵法師のモデルです。

物語に出て来る三蔵法師は尊称であり、法名は『玄奘三蔵』(げんじょうさんぞう)です。

629年8月、中国では国外への旅行は禁じられていましたが、玄奘はどうしても『本当の仏教』が学びたくて、インドへ旅に出てしまいます。しかし、意外なことにその旅はどこへいっても歓迎され、16年ぶりに祖国に帰ってきたときも、中国の皇帝に喜ばれました。彼の覚悟ある誠実な心構えが認められたのでしょうか。この命がけの玄奘の大冒険は『西遊記』のモデルとなりました。

 

そして日本には誰もが知っている『ドラゴンボール』という漫画がありますが、この漫画も最初のモデルはこの『西遊記』でした。玄奘が命がけの旅をしなければ、日本にこの名作漫画も生まれていなかったのです。

 

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宋元帝国

『宋』はなぜ『北宋、南宋』に分かれたの?

宋は一度滅亡しました。しかしそこから南に『南宋』として新しく作り直したので、その南宋時代と分けてそれ以前を『北宋』と言います。

『女真族(じょしんぞく)』が作った『金』という国家がありました。

彼らは宋の弱体化に付け込み、宗に乗り込み皇帝一家を捕らえます。しかし、当時の皇帝徽宗(きそう)の子である『高宗』が難を逃れて、8年間逃げ回り、臨案(りんあん)(現・杭州)を都にした『南宋』を興します。その『南に建てた宋』である南宋と比較し、それまでの宋を『北宋』と呼ぶことになっています。

 

実は、この南宋が作られた場所はとても恵まれた土地でした。それに気づいていなかった金は、南宋の存在を認め、彼らと和解して維持させ続けました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. チンギス・ハンは何をした人?
  2. モンゴル帝国はなぜ滅亡したの?

1.東西遠征を繰り返して、世界制覇を実現させようとした人です。

2.インフレによる経済破綻、朱元璋(しゅげんしょう)による『紅巾の乱』。また大きくなりすぎたことも原因かもしれません。

彼が基礎を作り、5代皇帝のフビライ・ハンの時代にその領土は最大になりました。

チンギス・ハンが作った『モンゴル帝国』は、『宗』を脅かした『金』を脅かし、北インドと南ロシアも恐怖に陥れ、中国の統一も果たしました。世界征服もあと一歩というところまで勢力を拡大させることに成功しました。しかし、領土を拡大しすぎて一人のハンだけでは統一が難しく、モンゴルは4つに分かれます。

 

しかし最後は、チベット仏教にはまった皇帝たちが、豪華な寺院を建てる等して、大量のお金を刷り(交鈔)、それによってインフレが起きて経済破綻し、混乱に陥ります。そして、そこを好機と見た『支配されていた漢民族』たちが、『紅巾の乱』を起こし、滅亡してしまいます。その首謀者は、次の中国『明』の初代皇帝『朱元璋(しゅげんしょう)』でした。

 

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明清帝国

いくつか質問があるんだけど、

  1. 『朱元璋』にはなぜ2つの肖像画があるの?
  2. 明はなぜ滅んだの?

1.天下にふさわしい顔を演出するために、本来の人相とはかけ離れたものを作ったようです。

2.第14代皇帝万歴帝(ばんれきてい)の怠惰、宦官の横領、豊臣秀吉の脅威。こうした事実が手伝って、徐々に衰退していきました。

肖像画が『盛られる』ことは平気であったようですね。

そんなスーパーワンマン朱元璋がチンギス一家の作った帝国を滅ぼし作った『明』ですが、第4子として生まれた『永楽帝』の時代に最も栄えます。彼は日本で『内閣』の語源ともなっている『内閣大学士(皇帝の秘書官)』を設置し、合理的な政治システムを構築する等の才知を発揮します。彼の時代には、実はコロンブスやヴァスコ=ダ=ガマより1世紀も早く大航海を実現させています。

 

しかし第14代皇帝『万歴帝(ばんれきてい)』の時代に目に見えて衰退し、例によって『贅沢と女』に溺れ、政治を怠ってしまいます。同時にいくつもの問題が発生。

 

  1. 万歴帝の怠惰
  2. 宦官の横領
  3. 豊臣秀吉の脅威

 

こうした事実が手伝って、徐々に衰退していきました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. ヌルハチは何をした人?
  2. 『金』はなぜ『清』と名乗ったの?

1.清の初代皇帝です。

2.支配する人々が『金』に嫌な思い出があるため、統治の邪魔にならないように工夫し、『清』と改名しました。

ヌルハチは『後金(こうきん)の創始者』であり、清の前段階の後金の皇帝でした。

しかし、金(満州族)というのは漢民族を襲撃して支配している過去があるので、漢民族にとっては屈辱的な名前でした。そこで国号を『清』に改名するなど、様々な工夫をして中国を統治しようとしました。ちなみに、実際に当時の中国『明』の皇帝、李自成(りじせい)を倒して明を乗っ取ったのは、3代目順治帝(じゅんちてい)の時代です。そして4代目の康熙帝(こうきてい)は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、『中国の歴代最高の名君』として語り継がれています。

 

  1. 『中国の歴代最高の名君』康熙帝
  2. 再興の環境に恵まれた乾隆帝
  3. 彼につないだ雍正帝

 

は、『清の黄金期を作った3帝』と言われています。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. アヘン戦争って何?
  2. アヘン戦争の原因は何?

1.イギリスと清の間で起こったアヘン(麻薬)を中心とした戦争です。

2.アヘン依存を力づくで断ち切ろうとした清が、イギリスを攻撃してしまい、イギリスが艦隊を出して清を攻撃しました。

イギリスは清と貿易がしたかったのですが、清が殿様商売をしていました。

清が『お茶』等、イギリスは『銀』で取引するのですが、その取引は清が有利であり、銀が大量に清に流れる状態でした。そこでイギリスは、

 

  1. まずインドに綿織物を渡し
  2. インドがアヘンを中国に渡し
  3. 清が銀をイギリスに渡す

 

という『三角形』の貿易を考えました。『三角貿易』です。そして清の幹部たちを『アヘン中毒』にさせ、アヘンを欲しがらせる状況を作ります。イギリスはただインドに綿織物を流しておけば、後はインドが採算を合わせる為に勝手にアヘンを清に流しますから、これですべての国が『満たされる』状況になるわけです。

 

しかし、やはりそうした強引な方法は長続きせず、清がアヘンの貿易を厳しく取り締まります。その時イギリス人の居住区までも軍隊で取り締まったことで、イギリスが艦隊を出して清を攻撃し、『アヘン戦争』が開幕しました。戦争は完全にイギリス側の勝利で、負けた清は不平等な条約を結ばざるを得ませんでした。

 

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ペリーはどうして来日したの?

この時期世界各国で『開国』や『植民地化』が進んでいたからです。

海外から来る国は基本、まず『開国』を求めます。

そして、貿易をしてそれぞれが利益を得るわけです。しかしペリーはかなり横柄な態度でこの国に訪問したようですから、貿易の目的は『お互いの利益』というよりは、一方が不利になるような条件で話を進めようとしたでしょう。当時の政治的最前線にいた人の根底にあるのは『自国の利益と発展』ですから、それが満たされることを何よりも重視して動いていました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 日清戦争(1894年7月25日 – 1895年11月30日)の原因は?
  2. 日清戦争の内容や結果は?

1.朝鮮半島を支配しようとした日本が、その親分的立ち位置にいた清と揉めたことが原因です。

2.軍の強化に努めた日本軍が圧倒的に強く、日清戦争は日本の圧倒的に有利に進み、日本の勝利で幕を閉じました。

そもそも、誰も他国を占領などしようと思わなければ戦争は起きませんでした。

日本が朝鮮半島を攻めたのがいけないのか、その前からあった世界的な『(帝国を作るために必要な)植民地思考』がいけないのか。自国を守るため等、国が領土と勢力を広げようとする理由はいろいろあるかもしれませんが、どちらにせよ戦争とは、誰かが『超えてはいけない一線』を超えたからこそ起こる現象でしょう。清の属国であった朝鮮半島を日本が攻めれば、清は日本を悪く思うことでしょう。『日清戦争』は日本が帝国思想を持っていたからこそ起きた戦争だと言えます。

 

日清戦争は、富国強兵に努めた日本の勝利で終えました。しかし、富国強兵なら清も行っていた。では、『同じ軍事力』だと言われていた日清で、なぜ清は日本に負けてしまったのか。それは、清が強い独裁政権を持つ皇帝のもと、官僚が一方的に国民を支配する体制を築いてしまったからです。つまり、

 

やれと言うんだから、やるしかねえか。。

 

という『やる気のない(主体性のない)』人が育ってしまったのです。その主体性の有無がこの戦争の明暗を分けたと言われています。

 

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中華民国

いくつか質問があるんだけど、

  1. 孫文は何をした人?
  2. 中華帝国って何?

1.『辛亥革命(しんがいかくめい)』で『清』を打倒し、『中華民国』を建国した人です。

2.袁世凱(えんせいがい)という人物が中華民国ができる混乱時に乗じて作った、一時的な国です。すぐに崩壊しました。

清は戦争に負け続けたのにも関わらず、皇帝が贅沢を繰り返していました。

もはや清の権威は失われていました。そこに孫文が登場し、共和制(王のいない国)『中華民国』の建国を宣言します。しかし、袁世凱(えんせいがい)という清側の人間がやり手で、孫文率いる革命軍は窮地に追い詰められました。そして袁世凱は、

 

清は潰すが、私を次の国の皇帝にしろ。

 

と主張。そして1916年、袁世凱は『中華帝国』に改めます。しかし、そのような無理な政治によって内外から激しい非難を浴び、たったの3か月で退位。本人もすぐに病死しました。結果中華帝国はたったの3か月で袁世凱の命と野望と共に消えた、幻の国となりました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 日露戦争(1904年2月8日 – 1905年9月5日)の原因は?
  2. 日露戦争の内容や結果は?

1.日本とロシアは当時領土拡大を狙っていて、その侵略地域が被って衝突した形です。

2.ロシア側で内乱が起きていたこともあって、日本が勝利しました。

ロシアは以前から日本に圧力をかけていました。

当時世界の覇権を握っていたイギリスと、直接圧力をかけられ、自分たちの領土の一部を返還させられた日本。お互いの利害が一致した両国は、ロシアを悪く思います。日本がイギリスと『日英同盟』を結び、アメリカもこれを支持。1904年2月、日本軍がロシア太平洋艦隊を攻撃します。東郷平八郎が海戦史上前代未聞の『トーゴー・ターン』で画期的な戦略を見せて勝利を収めるなど、確かに日本側も戦いで結果を残しました。

 

しかし、当時のロシアは『第一次ロシア革命』、つまり国内での内乱によって、体力を消耗していました。また、日本は常備兵力約20万人のところ、100万人を超える兵力を動員し、大きな損害を被りました。そうした理由から、『日露戦争は日本側の圧勝だった』というのは言い過ぎだという見解があります。ただ、世の大勢の人は結果だけを見るので、この戦いで日本は『大国ロシアに勝った国』として名を馳せることになります。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 張作霖爆殺事件の原因は?
  2. 張作霖爆殺事件の犯人は?
  3. 張作霖爆殺事件の後どうなったの?

1.中華民国の初代総統、蒋介石(しょうかいせき)率いる『北伐(ほくばつ)軍』は中国統一の為に満州が邪魔でした。

張作霖(ちょうさくりん)は満州の重要人物だったので、彼がいなくなれば満州の進出が容易になり、そして北伐軍が中国を統一しやすくなるからだったと言われています。

 

2.爆殺したのは日本軍(関東軍)ですが、蒋介石率いる『北伐軍』が関与していたとされています。

 

3.中国内で内乱的な状態になりますが、『打倒日本』という一つの目標を作って結果的に中国はまとまりました。

『打倒日本』になった理由は、領土拡大を狙って日本が積極的に他国を侵略していたからです。

更にその張作霖爆殺事件が起き、実際に日本軍がそれに関わりました。そうした日本に抗うという意味で『抗日』という考え方が生まれました。ただ『中国国民党』の蒋介石はどちらかというと抗日には興味はなく、同じ国内の『中国共産党』を警戒していました。むしろ、爆殺事件の裏にはその蒋介石がいたとも言われています。

 

  • 日本軍(関東軍)&蒋介石(北伐軍)

 

ですね。しかし、張作霖の息子だった張学良(ちょうがくりょう)は、日本を敵視します。そして、日本寄りでもあった蒋介石を拉致して監禁し、説得。内戦停止と共産軍との共闘を約束させます。そして『第2次国共合作』という、『中国の同盟』が作られました。これで、

 

  • 中国VS日本

 

という構図が作られやすくなってしまいました。それがこの後起こる日中戦争の原因になる『満州事変』に影響していきます。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 満州事変って何?
  2. 日中戦争(1937年7月7日から1945年9月9日)の原因は?
  3. 日中戦争の内容と結果は?

1.満州の日本軍が、日本が経営していた南満州鉄道を爆破し、それを中国軍のせいにして、奉天と大連を制圧し、満州を占領した事件です。

2.以前から充満していた『日本VS中国』の思想が、1937年7月の盧溝橋事件(七七事変)』で沸点を迎え、戦争に至りました。

 

3.すぐに『第二次世界大戦』が始まったので、アメリカ・イギリス等の連合軍側にいた中国に、日本が負けることになりました。

日本は短期決戦を望みますが、そもそも中国の『第二次国共合作』は手ごわく、戦争は長引きました。

そんな最中の1939年、ドイツがポーランドを侵攻し、イギリスとフランスがドイツの宣戦布告。『第二次世界大戦』が始まってしまいます。その後日本は、『日独伊三国同盟』に応じ、アメリカ、イギリスなどを敵に回します。気づけば大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争になり、日中戦争は『第二次世界大戦』の中に入り込み、中国がいる連合軍に負けた形となりました。こうして『日中戦争』と『第二次世界大戦』は、1937年から1945年まで続きました。

 

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いくつか質問があるんだけど、

  1. 毛沢東は何をした人?
  2. 中華人民共和国は誰が創ったの?
  3. 台湾は中国?

1.ソ連の支援を受けながら『中華人民共和国』を創りますが、、やり方が強引で数千万人の死者を出してしまった人です。

2.ソ連と毛沢東です。

 

3.いまだに立場は定まっていません。地政学上は『中華民国』が統治していますが、一般に現在も『台湾』と呼ばれています。

蒋介石の『中国国民党』、毛沢東の『中国共産党』が対立していました。

アメリカの支援を受けた継いだ蒋介石は『国民党』として毛沢東と戦いますが、『共産党』の毛沢東はゲリラ戦を展開し、国民党を打ち払っていきます。そして、1947年に『人民解放軍』と改称し、ソ連の援助を受けて戦い、1949年1月に北京、4月に南京を制圧。南京は、国民党の本拠地でした。そして1949年10月1日に、『中華人民共和国』を建国したのです。

 

アメリカ・蒋介石VSソ連・毛沢東

 

で、毛沢東側が勝利し、中華人民共和国ができた構図ですね。しかし毛沢東は列強を追い越そうとする独裁者気質の強かったで、やり方が強引すぎました。表面的には生産力が急増したと報告しましたが、実際には違ったし、できた鉄鋼の大半は粗悪品。また、食糧増産に成功したという虚偽の報告と現実の帳尻を合わせるために、農民から食料を没収して、それを生産品と偽り、これで数千万人の餓死者が出ました。この後に起こる『プロレタリア文化大革命』を入れれば、毛沢東は『約5000万人』の中国人を死に追いやってしまったと言われています。

 

また台湾は、『オランダ、清、日本、中華民国』と様々な国が支配した国ですが、いまだに立場は定まっていません。地政学上は『中華民国』が統治していますが、一般に現在も『台湾』と呼ばれています。

 

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中華人民共和国

いくつか質問があるんだけど、

  1. プロレタリア文化大革命って何?
  2. 天安門事件って何?
  3. タンク・マン(戦車男)って誰?

1.失敗を取り返そうとした毛沢東が、腹心『四人組』と一緒に権力奪回を図った運動のことです。

2.窮屈な政治体制や抑圧の影響で民主化を求める学生や市民たちが、天安門広場で行ったデモ活動と、その暴動の鎮圧です。

 

3.デモ鎮圧の為に戦車まで用意した政府ですが、その戦車の前に佇んで道をふさいだ『謎の男』です。

毛沢東は1966年~1977年まで『プロレタリア文化革命』を続けました。

教育機関や教会、寺院などを襲撃し、彼らに逆らう知識人や勢力を『社会主義の敵』と定め、徹底的に迫害を行いました。この活動と『五か年計画』、『大躍進政策』の強引なやり方によって、結果的に毛沢東は約5000万人の中国人を死に追いやってしまったと言われています。

 

その後中国は、胡耀邦(こようほう)、鄧小平(とうしょうへい)と続き、経済改革人権抑圧の二面的な政治が行われました。確かに中国が経済大国に成り上がったのは彼のおかげですが、やはり窮屈さは残っていて、それに逆らう形で『天安門事件』というデモが起こりました。そのデモを鎮圧するために政府は武力弾圧を行い、戦車まで引き出します。

 

しかし、その戦車の前に手提げのビニール袋を持って佇み、進路を邪魔した一人の男がいました。彼は通称タンク・マン(戦車男)と言われています。その一部始終が、ビデオやカメラにおさめられ、戦車の前に立ちはだかる男の姿は、不正に抵抗する力強いシンボルとなりました。

 

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中国がしようとしている一帯一路(いったいいちろ)って何?

現代版のシルクロード構想です。中国は海洋国家として世界の海洋を自由に利用できる体制づくりを狙っています。

かつて中国は西に『ローマ帝国』、東に『後漢王朝』があると言われるほど栄えていました。

更に『唐』の時代には交易路である『シルクロード』を使って、唐とアッバース朝を中心に世界が栄えました。しかし、それが19世紀になって西洋列強の進出によって、他国との交易によって利益を上げることができなくなってしまったのです。更に清の時代には幾多もの戦争に負け、陽の目を見ませんでした。

 

ですが、中国は『第二次世界大戦(日中戦争)』に勝ち、人口の増大と経済強化、更に海軍を増強し国力をつけました。今、中国はかつての大国中国を目指して、再び海洋進出を狙うようになったのです。『一帯一路』とは、2014年11月10日に中華人民共和国北京市で開催されたアジア太平洋経済協力首脳会議で習近平総書記が提唱した、こうした経済圏構想です。

 

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アジア

いくつか質問があるんだけど、

  1. 東南アジアで植民地化されなかった国はないの?
  2. 『ASEAN』って何?

1.タイです。

2.東南アジア諸国連合のことです。戦後に東南アジアがまとまったということですね。

降伏も占領もされずに第二次世界大戦を乗り切った奇跡の国『タイ』。

西側のビルマがイギリス領、東側のカンボジア・ベトナムなどがフランス領になったなかで、その間に位置するタイは、両国の緩衝地帯となり、助かったわけですね。そうやって環境的に有利性を得た国の話は、世界各地にあります。

 

ASEANですが、ベトナム戦争が起きたことで、東南アジアの5か国は結束を強め、1967年、各国は『バンコク宣言』を行い、これが『ASEAN(東南アジア諸国連合)』の始まりとなりました。この5か国が率先してまず結束を固め、社会・経済面での相互協力を行い、反共産主義を掲げます。そしてベトナム戦争終結後の1970年代後半には、規模を拡大。現在は東南アジア諸国10か国がASEANに加盟していて、EU連合やNAFTA(北米自由貿易協定)よりも多い人口となっています(約6億人)。

 

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『韓国』と『北朝鮮』は同じ国だったの?

はい。1392年に李成桂(りせいけい)が建国した『李氏朝鮮(りしちょうせん)』という一つの国でした。

朝鮮半島は李氏朝鮮という一つの国でした。

李氏朝鮮は、明や清への朝貢体制を続けながら、500年以上も安定した政権を続けていました。この領土をめぐり、

 

  1. 日清戦争
  2. 日露戦争
  3. 日中戦争

 

が引き起こされます。日本は領土を拡大するために、まずこの朝鮮半島の侵略から始め、そして近隣諸国と対立するようになったのです。その後、1948年8月、南部で李承晩(いすんまん)を首班とする『大韓民国(韓国)』がアメリカの支援によって成立。これに対抗し、1948年9月ソ連のスターリンが北方の平壌に赤軍を入城させ、金日成(きむいるそん)を首相に立て『朝鮮民主主義人民共和国』を建国。李氏朝鮮は二つの国に分かれました。

 

  • 韓国&アメリカ
  • 北朝鮮&ソ連

 

という形で、アメリカとソ連の対立構造に巻き込まれる形、あるいはそれを利用する形で、それぞれがそれぞれをバックにつけ、分裂したのです。

 

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まず、神話が『自由な発想』で創られました。そして秩序を作るために宗教が誕生し、それに逆らう形で哲学が誕生しました。このような背景を押さえておくと、より全体の理解が容易になります。

 

キリストの言葉

 

ということで、『神話、宗教、哲学』のすべてを併せて読んだ方が理解度が上がるわけですね!

『神話』が誕生したすべてが分かる!記事一覧(時系列順)

これで世界の『宗教』の大体が分かる!記事一覧(時系列順)

『哲学』が誕生した理由と今まで考えられてきた大体が分かる!記事一覧(時系列順)

 

 

人間の歴史

『人間の歴史』を700万年前の猿人時代からまとめた年表もあります。より時系列の確認に興味がある方はご覧ください。映画や漫画の舞台となった時代なども記載されているので、おそらくWeb上にあるものでは日本一細かい年表だと言えます。(たぶん)

【上巻】年表で見る人類の歴史と映画・漫画・小説一覧[宇宙誕生~1900年編]