Contents

黄河文明→『中国文明』!?中国最初の王朝は『夏』か『殷』か

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

世界四大文明なのは『黄河文明』?『中国文明』?わかりやすく簡潔に教えて!

どちらと答えても間違いではなく、『中国文明』と言った方が正解に近いと言えます。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

黄河文明の前に『長江文明』というものがありました。

黄河文明は紀元前5000年頃にできて、長江文明は紀元前14000年頃にできたとされています。そのため、それらをまとめて『中国文明』と数えるなど、まだ整理しきれていないところがあるようです。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

中国文明(黄河文明)

メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・中国文明

『インダス文明』を作ったドラビダ人。『カースト制度』の負を産み付けたアーリア人。

 

上記の記事の続きだ。四大文明から歴史を見ているので、最後に『中国文明』を見てみよう。

 

メソポタミア文明 紀元前6000~
エジプト文明 紀元前4000~
インダス文明 紀元前2500~
中国文明 紀元前14000~

覚えた『世界四大文明』はもう違う?人類最古の『文明』とは何か

 

この中国文明は、『黄河文明』として覚えた人も多い。それは、中国の黄河沿いで文明が生まれた黄河文明があった事実が影響している。紀元前5000年頃、今から7000年前だが、黄河の流域で、

 

  • 仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)
  • 竜山文化

 

などの小さな集合体の文化が発展し、『黄河文明』が興った。しかし、実は『紀元前14000年』頃からあった『長江文明』というもの見つかっていて、それらをまとめて『中国文明』と数えるなど、まだ整理しきれていないところがあるようだ。ちなみに長江文明は、

 

  • 河姆渡文化(かぼとぶんか)
  • 良渚文化(りょうしょぶんか)

 

が発展しでできた文明である。

 

中国文明の概要

黄河文明 紀元前5000年頃~ 仰韶文化、竜山文化 北の地域
長江文明 紀元前14000年頃~ 河姆渡文化、良渚文化 南の地域

 

 

三代

中国には『三代』という言葉があり、それは、

 

  1. 夏(か)
  2. 殷(いん)

 

という中国史で最も古い3つの王朝のことを指す。つまり、中国で最も古い王朝は、『』ということになる。だが、この夏という王朝は、長い間伝説の国だといわれていて、存在自体が怪しかった。そこで、多くの文献では中国最初の王朝は『』ということになっている。

 

MEMO

河南省で発見された二里頭遺跡が夏王朝の跡地だったと指摘されている。

 

黄河文明の後半である竜山文化時代に、『邑(ゆう)』という集落が形成され始める。その後、『邑』をまとめる『大邑』なる存在が現れ、その他の邑をまとめ始める。そうしてできた王朝が、『』だ。

 

 

甲骨文字

この時代には、『漢字』のもとになる『甲骨文字』が誕生した。亀の甲羅や動物の骨の表面に奇妙な文字が書かれているのが見つかり、この甲骨文字は発見されたのである。ここで亀の甲羅や動物の骨が使われているのは偶然ではなく、意味があったという。当時、それらを焼いて、ヒビ割れがどうなるかという結果を見て、政治を行っていたのだ。

 


参考
甲骨文字Wikipedia

 

MEMO

また、非常に精巧な青銅器も見つかっていて、これは現代人が再現しようとしても困難を極めるというレベルである。

 

 

『夏』か『殷』か

ここで、下記の記事に書いた中国の歴史について見てみよう。

 

『儒教』を作ったのは孔子ではなく、対立していた『墨子』だった?

 

STEP.1
紀元前1600年~1046年
中国に『殷』という国があり、そこでは『帝』という天の神を崇拝する考え方があった。
STEP.2
紀元前1046年
『周』の文王によって殷は亡ぼされる。
STEP.3
文王は『天命』によって殷を亡ぼしたと主張

 

殷が、周によって滅ぼされるとある(これがもしかしたら、夏も、殷によって滅ぼされたかもしれないということになる)。

 

しかしとにかく、紀元前14000年前からあった可能性がある『長江文明』、そして紀元前5000年頃からあったとされる『黄河文明』だが、そこから更に3000年以上という莫大な時間をかけて、ようやく中国に王朝が誕生するわけだ。それが、『夏』だったか『殷』だったのかはまだわからないが、わかっているのは上の流れ。『周の文王によって殷は亡ぼされる』ということである。

 

ちなみに、この殷の最後の王である『紂王(ちゅうおう)』は、絶世の美女といわれる『妲己(だっき)』にメロメロになり、政治をおろそかにしたことも滅亡の原因とされている。

 

[紂王と妲己(右)]

 

MEMO

妲己との宴は、庭園の池を酒で満たし、肉をそこらじゅうの木にかけて贅沢をした。このことから『酒池肉林』という言葉が生まれた。

 

そもそも紂王の『紂』というのは、彼の悪行からつけられた呼び名だ。彼に逆らった身の回りにいた者は、親子ともども殺されて、その遺体は干し肉にされた。女にうつつを抜かし、逆らう者は容赦なく殺し、その遺体を凌辱する。このような人間がいつまでも天下を治めることはできない。殷の滅亡は、決まっていたのだろう。

 

中国神話の衝撃!土で作られたのは『アダム』だけではなかった!

 

また、上記の記事に書いたように、この時にあったのはまだ神話だったかもしれない。しかし、その後中国の『三教(仏教、道教、儒教)』に数えられる、老子の道教や、孔子の儒教思想が生まれるようになる。

 

 

『儒教』を作ったのは孔子ではなく、対立していた『墨子』だった?

 

人には徳があるかないかが重要で、殷の君主は徳がないから引きずり降ろされたという考え方が生まれる。彼の生きざまは、良くも悪くも、後の中国の思想に影響を与えたようだ。

 

中国文明が長江や黄河の近くで興り、紀元前2000年~1600年頃に、中国に『夏』か『殷』という中国最初の王朝が誕生した。そして『周』に滅ぼされ、中国で周王朝が力を持つようになる。そしてこの周の考え方は、孔子が息をした紀元前500年頃にも理想のモデルとなった。

 

ここからは、中国を初めて統一する『始皇帝』の話となる。それは始皇帝編の記事で書こう。

 

 

次の記事

該当する年表

SNS

参考文献