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中国歴代最高の名君『康熙帝(こうきてい)』ら『3帝』が活躍した『清』

夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→唐→宗→元→明→

『明』の初代皇帝『朱元璋』にはなぜ2つの肖像画があるのか?

 

上記の記事の続きだ。『李自成(りじせい)の乱』だった。 李自成は北京を占領し、明の皇帝たちを自殺に追い込み、明を滅亡させ、皇帝を名乗るようになる。1644年のことだ。李自成はせっかく明の皇帝になったのに、すぐに北方の女真族が作った『』に支配されることになる。山海関の防備をしていた呉三桂(ごさんけい)が北方の清を引き込み、李自成軍を北京から追い出してしまい、清王朝が勢いをあげてしまうのである。呉三桂は『周』を建国して清に反旗を翻すが、滅亡し、清の中国支配が確定することになる。

 

清の初代皇帝は『ヌルハチ』だが、彼はどちらかというと『後金の創始者』であり、清の前段階の『後金』の皇帝だった。ヌルハチは、満州文字を創製し、軍事・行政制度としての『八旗の制』を確立させ、1616年に後金国を成立させた。

 

[ヌルハチ]

 

八旗の制
軍隊を8つに分け、赤、白、青等部隊ごとに色の違う旗を持たせた。

 

そして2代目のホンタイジになって、1636年、国号が『金』から『』に変わる。後金時代の満州族の総数は、わずか30~60万人ほどだったが、それで2億人以上の漢族を支配しなければならなかったので、『八旗の制』や減税措置等の様々な工夫で、彼らを治めようとした。また、国号だった『金』は、下記の記事で書いたように、漢民族にとっては屈辱的な名前だったため、それが『清』に変わるというところにも、工夫があったのだ。

 

『宗』の英雄『岳飛』と売国奴『秦檜』。だが、守った南は北よりも遥かに熱かった!

 

初代皇帝 ヌルハチ 1616~1626年 後金を建国
2代目 ホンタイジ 1626~1643年 『清』に改称
3代目 順治帝(じゅんちてい) 1643~1661年 呉三桂の導きで北京に入城。李自成を倒す。
4代目 康熙帝(こうきてい) 1661~1722年 イエズス会以外の布教を廃止
5代目 雍正帝(ようせいてい) 1722~1735年 キリスト教の布教を廃止
6代目 乾隆帝(けんりゅうてい) 1735~1795年 貿易制限令

 

つまり、李自成を倒して『明』を乗っ取ったのは、順治帝の時代だったわけだ。そしてホンタイジは、それを見越して先に『清』へと国号を改称していたのである。もともと明と後金は仲が良かったのだが、李成梁(りせいりょう)の失脚とともに状況が一変し、明が討伐の為に大軍を送り込み、ヌルハチらは、これを『ジャイフィヤンの戦い』で殲滅した。

 

そして4代目の康熙帝(こうきてい)は、中国皇帝史上最長の61年の在位を誇り、『中国の歴代最高の名君』として語り継がれている。

 

[康熙帝(こうきてい)]

 

ロシアのピョートル1世から尊敬され、フランスの太陽王、ルイ14世からも熱烈な手紙をもらうなど、各国のトップからも一目置かれていた。元々ロシアは、清の領土である黒竜江に侵入してしまっていた。ロシア側からすれば、侵入した国の王を尊敬することになるとは思っていなかっただろう。そして両国はのちに『ネルチンスク条約』を結び、互いの国境を定めるようになった。

 

次の5代目皇帝、雍正帝(ようせいてい)は、その康熙帝の第4子だった。

 

[雍正帝(ようせいてい)]

 

激しい後継者争いがあったが、康熙帝の指名によって44歳で帝位に就くのである。しかし、彼は帝位を争った兄弟や、反目だった重臣たちを粛正。相変わらず、権力のそばには常に血の流れる話が存在していたのである。しかし、人格的には良心的であり、仙台、そして次の6代目皇帝、乾隆帝(けんりゅうてい)とともに、『康熙、雍正、乾隆』と3人セットで『清の黄金期を作った3帝』と言われることになる。

 

乾隆帝は、

 

  1. 土地税、塩税、内地関税の大幅な増収
  2. 平和にともなう軍事費の減少
  3. 素朴な宮廷生活による内定費の節減
  4. 官僚の不正に対する厳しい取り締まり
  5. イギリスやヨーロッパ諸国との茶・絹貿易により大量の銀が流入

 

といった条件によって、とても懐が豊かになった皇帝だった。

 

[乾隆帝(けんりゅうてい)]

 

今までの歴史を見てきても、たとえば『』は朝鮮に救助を求められ、日本との長期戦を強いられる。しかし、軍事費が重なり、財政難に陥る。更に、宦官の横領が発覚する。

 

『明』の初代皇帝『朱元璋』にはなぜ2つの肖像画があるのか?

 

』は、『西夏(さいか)』や契丹族の『遼(りょう)』相手に、防衛費たる『荒い金遣い』で、財政難を招くことになる。

 

『宗』の英雄『岳飛』と売国奴『秦檜』。だが、守った南は北よりも遥かに熱かった!

 

そして、茶番のように権力に溺れる皇帝たち。

 

女性に溺れて王朝を滅亡させた皇帝たち

殷(紂王) 妲己に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
周(赧王) 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
晋(司馬炎) 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
唐(玄宗) 楊貴妃に溺れて政治をおろそかにして滅亡。
中国史上唯一の女帝『則天武后』と、世界三大美女『楊貴妃』がいた『唐』の盛衰

 

そうしたことを考えても、乾隆帝の時代がどれだけ安定しているかということがよくわかるはずである。また、

 

  • モンゴル系のジュンガル王国
  • 東トルキスタン
  • 四川省北西部と台湾の反乱
  • ネパール
  • ミャンマー
  • ベトナム

 

こういった反乱を押さえたり、他国の領域を制圧し、しかもすべてを勝利に収めるなど、自ら『十全老人』と名乗るほど、多岐にわたる活躍をしてみせた。その結果、清の領土は2倍になり、彼の時代に清は最大領域となった。『中国の歴代最高の名君』の康熙帝といい、乾隆帝といい、彼につないだ雍正帝といい、この3帝が統治した時代の清は、最も輝いていたということなのである。

 

また乾隆帝は、『四庫全書(しこぜんしょ)』、『欽定二十四史(きんていにじゅうしし』を作り上げたことでも有名だ。前者は10年、後者は30年以上の時間をかけて、これを作り上げた。四庫全書は、実に3万6384冊という膨大な数の、中国にあったありとあらゆる本を、一つにまとめるミッションである。

 

[四庫全書(荘子の書)]

 

だが、清の最盛期もいつまでも続かなかった。結局、やはりそうした積極的な遠征が重なり、財政難に陥るのだ。そのころ、イギリスが世界を先駆けて産業革命を達成し、貿易路を拡大させていた。そして乾隆帝時代の末期、インド産のアヘンが中国内に持ち込まれるようになってしまう。これが、後の『アヘン戦争』の原因となる。

 

[乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』より)]

MEMO
1793年、イギリスの政治家マカートニーは、乾隆帝への謁見を果たすが、主要目的をすべてはねつけられた。朝貢使節と認識されたマカートニーは、ひざまずき、頭を地面に擦り付けるよう求められた。

 

 

該当する年表

年表で見る人類の歴史と映画一覧[宇宙誕生~紀元前2500年編]

参考文献