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ヴィクトリア女王は2人いた?『大英帝国』黄金期の象徴が持つ真の姿とは

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

ヴィクトリア女王は何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!

『大英帝国』黄金期を作った人です。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

人類の4分の1を支配したイギリスは『大英帝国』と言われました。

『イギリス帝国』とはイギリスとその植民地・海外領土などの総称ですが、これがとてつもない規模になったので、イギリスはそう言われたわけです。ヴィクトリア女王はその『大英帝国』の女王としてイギリス史上最も長く、63年7か月もの間、イギリスに君臨し続けました。彼女の存在についてはあのガンジーが、

 

 

ヴィクトリア女王はインドの自由のために尽くす女帝だ!

ガンジー

 

 

と言ったほどですが、実際の姿はまさに『女王』の名にふさわしく、短気で激昂しやすい性格だったと言い、評価が分かれています。まるでヴィクトリア女王が二人いるかのような分かれ方です。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

革命がいらないイギリス

『ヴィクトリア時代』

イギリスを『世界の工場』にした3つの革命『農業・エネルギー・産業』革命とは 踊る要人と、憤る民衆。ナポレオンが引っ掻き回した世界の後始末『ウィーン会議』とその体制の崩壊

 

上記の記事の続きだ。18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスで『産業革命』が起こったわけだ。では政治の方はどうだったかというと、冒頭のフランスの記事にもあったように、ここでもやはり不平等な選挙が行われていた。例えばフランスでは、七月革命後に首相となってルイ・フィリップを擁した七月王政の実力者、ギゾーが、選挙権を求める民衆に対し、

 

ギゾー

選挙権が欲しければ金持ちになれ。

 

と発言し、フランスで参政権を求める市民が蜂起し、『二月革命』が起こるわけだ。そしてイギリスでも当初は選挙権が『資産家のみ』に限られていたのである。では、イギリスでも同じような現象が起きたかというと、確かに『チャーティスト運動(1837~1850年頃)』のような運動はあり、イギリス国内で労働者が選挙制度の改善などを求めた。しかし、1832年から選挙法の改正が行われ、選挙の不平等は少しずつ解消されていたのである。

 

また、もともとイギリスでは王権に対して議会が強かった。1688年、議会は当時の英国王ジェームズ2世追放を決議し、メアリ2世(在位:1689年2月13日 – 1694年12月28日)とウィリアム3世(在位:1689年2月13日 – 1702年3月8日)の夫妻を共同統治王として迎えることにした。

 

[メアリ2世とウィリアム3世]

 

両王は、『王よりも議会が優位である』ことを宣言した『権利の宣言』を認め、『権利の章典』として国民に発布し、これによって議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立した。こうして、

『王は君臨すれども統治せず』

 

という原則が固定化されたのである。その前の詳しい流れは下記の記事にまとめてある。

 

エリザベス女王の死後『ピューリタン革命』で王を引きずり下ろしたクロムウェル!『名誉革命』で王を『シンボル』にした英議会

 

したがって、民衆はフランス等のようにわざわざ『革命』を起こす必要はなく、議会に『改革』を求めればその意見が通りやすかったのだ。わざわざ革命的に、武力行使をする必要はなかったので、それもフランスと同じ轍を踏まなかった理由として挙げられるのである。これによって、東インド会社の商業活動が全面禁止され、アジア貿易に自由に参加できるようになり、『』の開国を求めてアヘン戦争につながっていったわけである。

 

アヘン戦争の原因はお茶の値段を吊り上げた『清』、野心の塊だった『イギリス』のどっちにあるか

 

 

ヴィクトリア女王時代

1839年、清国政府はアヘンの輸入を禁止し、『林則徐(りんそくじょ)』を広州へ派遣。その2年前の1837年、イギリスは新たな『女王』の時代が幕を開けていた。現エリザベス2世の高祖母にあたり、在位期間はイギリス史上最も長く、人類の4分の1を支配する『大英帝国』作り出した女、ヴィクトリア女王その人である。

 

[1835年のヴィクトリアの自画像のスケッチ]

 

彼女がこのあたりの時代に書いた自画像が、とても華奢で繊細に見える。とてもじゃないがこれから世界を支配する女王には見えない。それは、彼女の母であるヴィクトリア妃の肖像画を見ても同じ印象を受ける。

 

[母のヴィクトリア妃]

 

だが、18歳で即位した彼女の1835年と言えば、16歳。初々しさが残るのは当然。彼女は間違いなくここから『大英帝国』の女王として63年7か月もの間、イギリスに君臨し続けるのだ。下記の記事で『世界一有名な女王』としてエリザベス女王の名を挙げたが、それで言うならヴィクトリア女王は『大英帝国の黄金期を作った女王』だ。『イギリスを世界一にした女王』と言ってもいいだろう。

 

『太陽の沈まぬ帝国』スペインが沈んだ理由は?フェリペ2世VS『世界一有名な女王』とその裏にいた重要人物

 

 

パクス・ブリタニカ

実は、いくつかの参考書に描かれる彼女らの印象はこの肖像画のとおりである。母は、多くの愛人をかけていた夫とは違って質素堅実をモットーにしていて、退廃した英王室からヴィクトリアを隔離し、厳しく、口やかましくしつけられた。その結果、物怖じせず、相手をまっすぐ見つめ、自分の意見をハッキリという真面目でお堅い性格になったのだ。だから彼女は多くの国民から愛されたのであった。

 

産業革命で『世界の工場』となり、『アルマダの海戦』でスペインの無敵艦隊に勝ち、『トラファルガーの海戦』ではあのナポレオンに打ち勝つほどの強大な海軍力を持ち、その海軍力に支えられた世界一の植民地帝国となったイギリスは、その圧倒的な経済力・軍事力から『パクス=ブリタニカ』と讃えられた。

 

[トラファルガーの海戦(ターナー画)]

 

パクス=ブリタニカ
イギリスはこの時期、産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた。周辺地域での軍事的衝突や砲艦外交による武力行使などはあったものの、ナポレオン戦争や第一次世界大戦の時期に比べれば、特にヨーロッパ中核地域は比較的平和であったことから、ローマ帝国黄金期の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」にならい「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ばれる。「パクス」はローマ神話の平和と秩序の女神に由来する。

 

 

ディズレーリとグラッドストン

『大英帝国の黄金期を作った女王』と言っても、結婚したアルバート公に『王は君臨すれども統治せず』という教えを学んでいたため、特に彼女が何かを直接指示して行ったわけではなかった。議会では地主や資本家を支持基盤とするベンジャミン・ディズレーリ率いる『保守党』と、振興の商工業者を支持基盤とするウィリアム・グラッドストン率いる『自由党』の二大政党制が確立していて、彼らがお互いにやるべきことをした。

 

ディズレーリは、

 

  • スエズ運河買収
  • インド帝国樹立
  • ロシア南下政策阻止

 

等、植民地や勢力圏をうちたてる帝国主義政策を行う。グラッドストンは、

 

  • 平和外交
  • 選挙法改正
  • アイルランド自治

 

に尽力。労働組合の合法化や小選挙区の採用など自由主義改革を実行した。グラッドストンは英国民から親しまれたが、ヴィクトリア女王はディズレーリがお気に入りで、彼が死去するまで女王との交流は続いていたようだ。

 

[ベンジャミン・ディズレーリ]

 

しかし彼女が愛したのは夫であるアルバートで、彼が死んだ後はすべてに絶望し、42歳からの10年間も喪に服した。このような逸話からも、彼女がどれだけ真面目な人間だったかということがよくわかるわけである。アルバートが遺した子女の多くが欧州各国の王室と結ばれたため、彼女は『ヨーロッパの祖母』ともいわれているようだ。

 

 

イギリスは正義か悪か

しかしもちろん、彼女も含めた『大英帝国』の栄光の陰には、未来永劫には自慢できない『闇』の要素もあった。例えば、先ほど何気なく出ている『植民地』だ。収入源としては最高で、収入を得る方はそりゃあ文句はないだろうが、植民地にされる側としては、理不尽極まりない話である。『奴隷』も同じことだ。そうした犠牲と代償の上に成り立つ栄光は、未来永劫には続かないのが真理から見た結論なのである。

 

『キャプテン・クック』ことジェームズ・クックは、海洋探検家の代名詞である。イギリスの海軍軍人であり、海図製作者でもあった探検家のクックは、1769年、ニュージーランドに到達。翌年にはオーストラリアに上陸することに成功する。オーストラリアで領有を宣言し、1788年よりオーストラリアはイギリスの流刑植民地となる。

 

[クックの最期]

 

MEMO
キャプテン・クックは1778年、ハワイ諸島を発見しするも原住民とトラブルになり、ハワイで刺殺される。

 

だが、イギリスの最初の植民地はアイルランドだ。アイルランドは1801年にイギリスに併合されたが、英国国教会を信仰するイギリスは、カトリックが多かったアイルランドで宗教差別をし、英国国教会教徒以外は公職に就けなくなる。弁護士のオコンネルがカトリック協会を設立し、1829年に『カトリック教徒解放法』を成立させるが、経済格差は残る。

 

1922年にアイルランド自由国が成立し、1938年にイギリス連邦内の独立国となり、1949年にイギリス連邦から離脱して正式に独立しアイルランド共和国となったが、今でもイギリスとアイルランドには遺恨が残っている。

 

オーストラリアでは、1851年に金鉱が発見され、『ゴールドラッシュ』が始まった。1880年代以降はオセアニア(オーストラリア大陸、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア)の分割は本格化し、イギリス、ドイツ、フランスなどが勢力圏を築いた。また、タイ以外の東南アジアはすべて列強諸国の植民地となった。

 

列強諸国が植民地から手を引いた年(東南アジア諸国が独立した年)

ビルマ(ミャンマー) 1948年
ラオス 1953年
ベトナム 1945年
カンボジア 1953年
フィリピン 1946年
マレーシア 1963年
ブルネイ 1984年
シンガポール 1965年
インドネシア 1949年
東ティモール 2002年

 

東南アジアで命を燃やした歴史に残る偉人たちと、唯一独立を守り続けた奇跡の国~ASEAN誕生~

 

[ウォルター・クレインによって描かれた1886年の地図。英旭菱が赤色で示され、右上の囲みには100年前の1786年の英国領が示されている。]

 

 

インドの初代皇帝

イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 – 1901年1月22日)(※ヴィクトリア朝とも言われる)、初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)。先ほどディズレーリがインド帝国を樹立したとあったが、彼女はインドの初代皇帝でもある。下の写真は彼女が70歳前後のものだが、この時には随分女王としての貫禄がついているように見える。

 

[ヴィクトリア女王 1887年]

 

Wikipediaを見てみよう。

際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていたが、被支配民の間では「帝国の母」としてその「子供」たちである世界中の臣民たちに慈愛を注ぐヴィクトリアのイメージが広まり、大英帝国の支配への抵抗心を和らげたのである。カナダのインディアンのスー族やクリー族はヴィクトリアを「白い母」と呼んで敬意を払っていた。

 

あるインド藩王はヴィクトリアのインド女帝即位にあたってのデリーでの大謁見式(ヴィクトリアは欠席)において「ああ、母上。ロンドンの宮殿にいます親愛なる陛下。」と呼びかけている。1865年に反乱を起こしたジャマイカの黒人たちもヴィクトリア女王個人には忠誠を誓っており、裁判所を襲撃して囚人を解放した際に「我々はヴィクトリア女王陛下に反乱を起こしているわけではないから、陛下の所有物を略奪してはならない」として囚人服を置いていかせたという。かのガンジーもヴィクトリアをインドの自由のために尽くす女帝として敬愛していた。

 

ヴィクトリア自身も支配下におさめた非白人国家の王や首長の子供たちを後見したり、教育を与えたり、自分の名前(男性の場合はヴィクトリアの男性名ヴィクターや夫の名前アルバートなど)を与えるなどして「女王は人種に寛大」というイメージを守ることに努めた。

 

 

ヴィクトリア女王の実態

ヴィクトリア女王がどのような女性だったかというのは、この文章の最初の方を見ると、『穏やかで、真面目で、誠実で、政治に口出しをしない人』であるが、後になるほど『奴隷や植民地の上に成り立つ大英帝国を黙認し、そこに長い間君臨した女帝』という印象が浮かび上がることになる。参考書には彼女の気性が荒いとか、そういうことは書いていない。

 

しかし、Wikipediaには、『実際のヴィクトリアはイギリスの植民地支配を揺るがす反乱に対して容赦のない主張をしていた』とあるわけだ。そしてそれは別にWikipediaにあるからというわけではなく、冷静に考えてイギリス女王として国を動かすディズレーリのような人間とともに行動し、あるいはその盛衰と利害の影響をストレートに受ける環境にいて、

 

ヴィクトリア女王

駄目よ!植民地なんて!解放しなさい!

 

と言うのではなく、

 

植民地を揺るがす反乱が起きているようね!対処しなさい!

ヴィクトリア女王

 

と言ったわけだ。しかし、周囲の人々が彼女を半ば神格化し、

 

我々はヴィクトリア女王陛下に反乱を起こしているわけではないから、陛下の所有物を略奪してはならない。

 

と言ったり、

 

ヴィクトリア女王はインドの自由のために尽くす女帝だ!

ガンジー

 

と言ったわけだ。

 

その男『ガンジー』。負の連鎖に立ち向かった男はブッダだけではなかった!

 

ヴィクトリア女王というのは『2人』いるのだろうか。

 

もう一度Wikipediaを見てみよう。夫のアルバートは彼女についてこう語っている。

ヴィクトリアは短気で激昂しやすい。私の言う事を聞かずにいきなり怒りだして、私が彼女に信頼を強要している、私が野心を抱いている、と非難しまくって私を閉口させる。そういう時私は黙って引き下がるか(私にとっては母親にしかられて冷遇に甘んじる小学生のような心境だが)、あるいは多少乱暴な手段に出る(ただし修羅場になるのでやりたくない)しかない。

 

更にヴィクトリア自身も、

矯正不可能なほど「意見されると感情が激高しやすい性格」だ。

 

と語った。そして彼女と仲が良かったディズレーリも、

女王陛下とうまく付き合うコツは、決して拒まず、決して反対せず、(受け入れ難い女王の要求に対しては)時々物忘れをすること。

 

と語っている。彼女に対する意見が分かれているようだ。参考書だけでは彼女はとても繊細で真面目。夫が死んだら10年も喪に服すほどの誠実さで、だからこそ国民に愛され、長い間女王の座にいることができたというイメージしか見えてこない。

 

しかし、Wikipediaやこの時代を俯瞰で見たときに浮かび上がってくるのは、女王気質のヴィクトリア女王。やはり、この時代が『大英帝国黄金の時代』なのは、女王気質であったヴィクトリア女王の存在が大きかったのかもしれない。

 

[列強諸国による中国分割を描いた風刺画。孫にあたるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と睨みあうヴィクトリア女王。]

 

 

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