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ドイツ(神聖ローマ帝国・オーストリア・プロイセン)で起きた『三十年戦争』と『七年戦争』

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. 三十年戦争(1618年–1648年)の原因は?
  2. 三十年戦争の内容と結果は?
  3. 七年戦争(1754年または1756年 – 1763年)の原因は?
  4. 七年戦争の内容と結果は?

1.カトリックかルター派か、どちらを信仰してもいいという自由を与えたのに、そのせいで逆に思想の衝突になった戦争です。

2.ヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展し、『神聖ローマ帝国』は解体同然となります。ルター派が勝ちますが、この戦争で大きく何かを得た者は、ほとんどいませんでした。

3.オーストリアとプロイセンのシュレジエン(地域)を巡る争いで、1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となりました。

4.一度はオーストリアが優位になりましたが、戦争は世界規模となり、結果はイギリス、プロイセン、ポルトガル連合軍の勝利となりました。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

ルターの革命によって神聖ローマ帝国(ドイツ)はカトリックかルター派か自由に選べるようになりました。

本来であればこのような政策を取れば人々の自由が認められ、平和に落ち着くはずですが、それによって隣り合った諸侯同士がいがみ合うようになり、『三十年戦争』へとつながってしまうのです。

 

 

カトリック側 スペイン
プロテスタント側(ルター派) デンマーク、スウェーデン、フランス

 

当時のヨーロッパでは大国として大きな影響力を持っていたこれらの国を巻き込み、ヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展。戦争後は『ウエストファリア条約(ヴェストファーレン条約)』で停戦しますが、『神聖ローマ帝国』は解体同然となります。そのため、その条約は『帝国の死亡証明書』と言われるようになりました。

 

この戦争以降、神聖ローマ帝国(ドイツ)の諸侯の中で2つの国家が頭角を現します。それが、

 

  1. オーストリア
  2. プロイセン

 

の2国でした。『七年戦争』はこの2国における覇権争いだと言えるでしょう。しかし、争いは他国を巻き込み世界規模となります。

 

 

オーストリア側 ロシア、スウェーデン、フランス
プロイセン側 イギリス、プロイセン、ポルトガル

 

そのため、1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり複雑化。戦線がヨーロッパにとどまらず、イギリスやフランスの間で起きたアメリカやインドの奪い合いにも発展してしまいました。何とか困難を乗り切ったプロイセンの『大王』フリードリヒ2世は、その後も国に貢献し、啓蒙専制君主の模範的人物として、プロイセンの治世を絶頂期に持って行きました。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

三十年戦争

『三十年戦争』・『七年戦争』

『カトリック』や『プロテスタント』らに分派することを肝心のイエスは望んだのか?ドイツ三十年戦争の行方

 

記事としては上記の記事の続きだ。こうして15~16世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)では、ルターを中心として『宗教改革(1517年)』でが起こり、その騒動の落としどころを探っていた。

 

アウクスブルグの和議

皇帝カール5世はルターに妥協し、『アウクスブルグの和議(1555年9月25日)』において、諸侯たちに、その地域がカトリックを信仰するか、ルター派を信仰するかを自ら決められるようにした。しかしこれが裏目に出る。本来であればこのような政策を取れば人々の自由が認められ、平和に落ち着くはずだが、思想の違いというのは恐ろしいものである。それによって隣り合った諸侯同士がいがみ合うようになり、『三十年戦争』へとつながってしまうのである。

 

三十年戦争
ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革によるプロテスタントとカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる。

 

[白山の戦い(1620年11月8日)]

 

白山の戦い
ボヘミア(現在のチェコ共和国)の首都プラハ近郊の山、白山(でのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘。

 

カトリック側 スペイン
プロテスタント側 デンマーク、スウェーデン、フランス

 

 

帝国の死亡証明書(ヴェストファーレン条約)

当時のヨーロッパでは大国として大きな影響力を持っていたこれらの国を巻き込み、ヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展。戦争後は『ウエストファリア条約(ヴェストファーレン条約)』で停戦するが、『神聖ローマ帝国』は解体同然となる。そのため、その条約は『帝国の死亡証明書』と言われるようになった。

 

戦争には多くの人々が関わり、損害を被った。『北方の獅子』と言われたスウェーデン最盛期の王グスタフ・アドルフは、勢力拡大のためにドイツの将軍ヴァレンシュタインとの戦闘が避けられないと判断し、『三十年戦争』に介入する。彼の軍隊は強力で、数で誇る敵軍を破り、カトリック・皇帝軍側に有利だった戦局全体の流れを変えたが、流れ弾に当たって戦死。

 

そのヴァレンシュタインは、ボヘミアの傭兵隊長だった。神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝フェルディナント2世に仕えて、帝国大元帥・バルト海提督・フリートラント公爵となって位人臣を極めたが、後に皇帝の命令で暗殺された。

 

デンマーク・ノルウェーの王クリスチャン4世は、60年間の善政をしき、名君として数えられるが、『三十年戦争』の敗北等により国力の衰退をもたらし、北ヨーロッパにおけるデンマークの覇権は失われた。この戦争で大きく何かを得た者は、ほとんどいなかったと言えるだろう。

 

[三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』(1632年)]

 

 

オーストリアとプロイセンの台頭

極めて小規模な領邦も存在していたが、ウェストファリア条約によって帝国は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となった。しかし、この戦争以降、神聖ローマ帝国(ドイツ)の諸侯の中で2つの国家が頭角を現した。

 

  1. オーストリア
  2. プロイセン

 

の2国である。

 

オーストリア

ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝時代に、60年間戦った戦争『イタリア戦争(1494年 – 1559年)』を起こしたことで有名だ。このハプスブルク家は、オーストリア系の一族だった。『アウクスブルグの和議』をしたカール5世(1519年 – 1556年)は、このオーストリア、ハプスブルク家の一族である。代々神聖ローマ帝国の皇帝の座を得るなどして地位の高い名家だが、『三十年戦争』で神聖ローマ帝国が解体すると、オーストリアの運営に集中することになった。

 

カール5世の3代下であるレオポルト1世(在位:1658年 – 1705年の治世中は三十年戦争で衰退した領土を受け継ぎ、全盛期のフランスとオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられたが、やがてオスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた。彼は本当は聖職者になるはずだったが、兄が急死したことにより、

 

  1. ハンガリー王
  2. ボヘミア王
  3. オーストリア公
  4. 神聖ローマ帝国ハプスブルク朝14代皇帝

 

の地位を得る。しかし、宗教教育しか受けておらず、穏やかな性格だった彼は、一度オスマン帝国との争いから逃げ出してしまっている。しかし、その失敗を機に褌を締め直し、前述した流れに持っていくのだ。そして長男のヨーゼフ1世をハンガリー王位に就けるなどし、大国復興の基盤を作ったのである。

 

[神聖ローマ皇帝 レオポルト1世]

 

彼の妻だった皇后のマルガリータは、6年間に妊娠と出産を繰り返し、6人目の子を出産してすぐ死亡してしまった。その中に前述したのちのハンガリー王のヨーゼフ1世がいるわけだが、次男のカール6世もすごい。マルガリータは中々の種を蒔いてから亡くなったようだ。

 

スペイン王の座を狙っていたカール6世は、兄ヨーゼフ1世の死によって、少し計画が狂う。だが、彼の在位中は、

 

  1. 南ネーデルラント
  2. ミラノ
  3. ナポリ

 

を獲得し、帝国の最大版図を築くことに成功する。そして彼の長女が、マリア・テレジアだ。

 

[少女時代のマリア・テレジア]

 

諸外国が女帝の誕生を認めなかったことから厳しい局面に立たされたが、外交も内政も積極的に関わり、国づくりに大きな貢献をした。

 

彼女はこういう名言を残しているが、もしこれが本当の言葉なら、言葉から彼女の誠意と生き様が伝わってくるようである。更に彼女の子供がマリー・アントワネットだからすごい。彼女の時代は『フランス革命』がテーマとなるので、別の記事に書こう。

 

 

プロイセン

プロイセンは、『三十年戦争』でできたばかりの新しい国だった。フリードリヒ1世は、スペイン継承戦争でハプスブルク家を支持して戦った功績により、プロイセンの初代国王となった。その子である『軍人王(軍隊王)』と呼ばれたフリードリヒ=ヴィルヘルム1世のもと、質実剛健な国づくりを行う。常備軍育成と官僚制度の整備に力を注ぎ、軍国的絶対主義の礎を築いたのだ。

 

そして彼の子である『大王』フリードリヒ2世につながる。彼は文化に無関心な『軍人王』とは違ってフルートの演奏や読書に勤しむ繊細な人間だったが、大人になると哲学と政治に関心を持ち、フリーメーソンに入会したり、『反マキャベリ論』を著したりして、威勢がよくなってくる。

 

 

モンテーニュとマキャベリは疑った。だが、二人の政治思想は対極的だった

 

前述したマリア・テレジアの継承権に異議を唱え、シュレジエンを不法に占領するが、これは征服戦争を肯定するマキャベリズムであり、言動の不一致が見られることがあったようだ。だが、まだ28歳やそこらだったから、逆に人格者を求めるのもおかしいだろう。

 

 

七年戦争

そんな彼は、マリア・テレジアと戦ったわけだ。彼女がシュレジエンを奪回すべく、ロシア、スウェーデン、フランスらと組んで戦争を仕掛けてくると、一時苦境に陥る。だがプロイセンもイギリスと同盟を組んだりしてこれに対抗。

 

そうしてマリア・テレジア率いる連合軍との戦いに勝ったプロイセンだが、連合軍とのリベンジマッチ『七年戦争』が起きてしまう。マリア・テレジアのハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。同盟国が関わった戦争だったから、戦線がヨーロッパにとどまらず、イギリスやフランスの間で起きたアメリカやインドの奪い合いにも発展してしまうのである。

 

七年戦争
1754年から1763年まで(主な戦闘は1756年から1763年まで)行われた戦争。

 

[左上から時計回り:プラッシーの戦い(1757年6月23日)、カリヨンの戦い(1758年7月6日 – 8日)、ツォルンドルフの戦い(1758年8月25日)、クネルスドルフの戦い(1759年8月12日)。]

参考 七年戦争Wikipedia

 

結局一度目の戦争同様、プロイセンの勝利に終わった。一度はオーストリアが優位になったのだが、シュレジエン地方の奪回は叶わなかった。そうして何とか困難を乗り切ったフリードリヒ2世は、その後も国に貢献し、啓蒙専制君主の模範的人物として、プロイセンの治世を絶頂期に持って行ったのであった。

 

 

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オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。

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