ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- 『朱元璋』にはなぜ2つの肖像画があるの?
- 明はなぜ滅んだの?
1.天下にふさわしい顔を演出するために、本来の人相とはかけ離れたものを作ったようです。
2.第14代皇帝万歴帝(ばんれきてい)の怠惰、宦官の横領、豊臣秀吉の脅威。こうした事実が手伝って、徐々に衰退していきました。
ハニワくん
博士
肖像画が『盛られる』ことは平気であったようですね。
そんなスーパーワンマン朱元璋がチンギス一家の作った帝国を滅ぼし作った『明』ですが、第4子として生まれた『永楽帝』の時代に最も栄えます。彼は日本で『内閣』の語源ともなっている『内閣大学士(皇帝の秘書官)』を設置し、合理的な政治システムを構築する等の才知を発揮します。彼の時代には、実はコロンブスやヴァスコ=ダ=ガマより1世紀も早く大航海を実現させています。
しかし第14代皇帝『万歴帝(ばんれきてい)』の時代に目に見えて衰退し、例によって『贅沢と女』に溺れ、政治を怠ってしまいます。同時にいくつもの問題が発生。
- 万歴帝の怠惰
- 宦官の横領
- 豊臣秀吉の脅威
こうした事実が手伝って、徐々に衰退していきました。
博士
ハニワくん
先生
初代皇帝『洪武帝(朱元璋)』
夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→唐→宗→元→明
13世紀にあったチンギス=ハン一家の野望!『死体の山(ワールシュタット)』を作りながら領土を拡大
上記の記事の続きだ。『朱元璋(しゅげんしょう)』を筆頭に『紅巾の乱』が起こり、『明(みん)王朝』が作られ、元王朝の時代は終わった。朱元璋は南京を制圧し、モンゴル帝国の第15代大ハーン『トゴン=テムル』を万里の長城以北へと追いやり、中国を統一。元は北方へと逃げたので、以降『北元』と呼ばれるようになる。
2つの肖像画
一度はモンゴル帝国に乗っ取られた中国だが、もう一度漢人が中国を取り戻し、統一することになったわけだ。朱元璋は、年号を『洪武(こうぶ)』とし、自分が皇帝である間は年号を変更しない『一世一元』の制度を定める。そして『洪武帝』と呼ばれるようになる。洪武帝は、
- 土地・戸籍台帳の作成
- 功臣の粛清
- 恐怖政治
等を行い、君主独裁体制を築いた。貧しい農民の出から皇帝の座にのしあがった人物だったため、その能力は非凡であり、今まで大勢に任せていた仕事を一挙に自分ひとりで請け負い、新しいシステムを作って国を統治する。また、思想としては儒教を取り入れ、それをわかりやすく全農民に教える。しかし、そんな何でも一人でやろうとする『スーパーワンマン』のやり方はいつまでも通用せず、様々な部分から綻びが見られるようになる。
朱元璋には2つの肖像画がある。この絵は二つとも、朱元璋を描いたものだ。本来は右が近いのだが、天下にふさわしい顔を演出するために、左のような肖像画を描かせたという。
第3代皇帝『永楽帝』
その洪武帝の第4子として生まれたのは『永楽帝』だ。甥の健文帝(けんぶんてい)が即位するも、『靖難の役』にて、健文帝や后妃たちを自殺に追い込み、『明』の第3代皇帝となった。その後更に、健文帝の側近や一族、門下の大粛清を行い、数万人の命を奪う。その荒々しさは、父親である朱元璋さながらであった。
しかし、明が最も栄えたのは彼の時代だった。それはもちろん、朱元璋が築いた基礎・土台があったからだが、彼は日本で『内閣』の語源ともなっている『内閣大学士(皇帝の秘書官)』を設置し、合理的な政治システムを構築する等の才知を発揮した。更に、
- モンゴル
- ベトナム
- 女真族
を征服。更に、『靖難の役』で戦功を挙げた『鄭和(ていわ)』を抜擢し、1405年の大航海では、62隻、2万8000人という大規模の艦隊を率いさせ、
- ジャワ
- インドネシア
- インド洋
- ペルシャ湾
- アフリカ海岸
まで遠征。この『鄭和の大航海』で10数か国を属国とすることに成功する。各国に朝貢を求め、また、諸国の王や部族の長や家族を家臣として明に連れて帰ることにも成功する。コロンブスやヴァスコ=ダ=ガマより1世紀も早く大航海を行っていたのである。
[鄭和の航海図]
北虜南倭(ほくりょなんわ)
しかし明は、『北虜南倭(ほくりょなんわ)』に苦しんでいた。
北慮 | 北のモンゴル系の異民族 |
南倭 | 南方海岸を荒らした海賊『倭寇(わこう)』 |
モンゴル系民族『オイラート』が北方を脅かし、明は再び万里の長城の重要性に気付く。そして、現在我々が知る今の万里の長城の形が作られていくようになる。また、倭寇も中国東海岸や朝鮮半島沿岸部で海賊行為を行い、明の頭を悩ませていた。
一方、1392年に李成桂(りせいけい)が『李氏朝鮮』を建国し、朝鮮半島を掌握していた。李氏朝鮮の太宗は、1419年に倭寇鎮圧のための津島侵攻を契機に衰退するが、1467年の『応仁の乱』の際に、再び活発化する。だが、豊臣政権の海賊の取り締まりによって鎮静化していく。
第14代皇帝『万歴帝(ばんれきてい)』
明の第14代皇帝『万歴帝(ばんれきてい)』だが、彼は30年も朝廷に顔を出さない、『引きこもり皇帝』だった。即位した10歳の頃から周囲にうるさく言われたことも手伝って、やる気を失ったようだ。そして例によって『贅沢と女』に溺れ、政治を怠った。
女性に溺れて王朝を滅亡させた皇帝たち
殷(紂王) | 妲己に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
周(赧王) | 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
晋(司馬炎) | 美女に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
唐(玄宗) | 楊貴妃に溺れて政治をおろそかにして滅亡。 |
中国史上唯一の女帝『則天武后』と、世界三大美女『楊貴妃』がいた『唐』の盛衰
豊臣秀吉の脅威
そんな中、日本の豊臣秀吉が朝鮮半島に大軍を送り込み、明は朝鮮に救助を求められ、日本との長期戦を強いられる。しかし、軍事費が重なり、財政難に陥ると、銀山を開き、民衆への増税で賄うが、その大部分は宦官が横取りし、徐々に形成が悪くなっていく。
豊臣秀吉は、なぜ朝鮮半島に大軍を送ったのか。それは彼が日本で天下統一を成し遂げ、さらなる領土拡大のために、『明朝』の征服をしようとしたからだ。また、
- スペインの侵略を防ぐために先手を打った
- インドを征服する『唐・天竺征服論』
という説もあった。
- 万歴帝の怠惰
- 宦官の横領
- 豊臣秀吉の脅威
こうした事実も手伝って、明は徐々に衰退していってしまう。そして各地が反乱が起きるようになる。その最大の反乱が『李自成(りじせい)の乱』だった。 李自成は北京を占領し、明の皇帝たちを自殺に追い込み、明を滅亡させ、皇帝を名乗るようになる。
[李自成の銅像と行宮]
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