『ヒト』を最適化しよう。

孔子は『論語』も『儒教』も知らなかった!

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

『論語』は孔子が作ったの?わかりやすく簡潔に教えて!

孔子の教えをまとめたものですが、『論語』という名前をつけたのは誰だかわかっていません。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

『儒教』は墨子がつけ、『論語』は誰がつけたかわからない。

ですから、孔子は『論語』も『儒教』も知らないことになります。しかしそれはただ『その言葉』を知らないだけで、それらで教えられているものは『孔子の教え』です。孔子の教えは、日本でも多くの人が共感を覚えています。それもそのはず、孔子が説いたのは『真理』だからです。真理というのは『いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道』の意味ですからね。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

『論語』の名付け親

孔子に続いた者、対立した者。彼らは結局何を目指し、それは成し遂げられた?

 

上記の記事の続きだ。これで儒教の話は終わりである。まず下記の記事に書いたように、『儒教』というのは孔子がつけた名前ではない。対立していた『墨子』が考えた名前だ。儒教の『儒』の字は、この墨子が憎しみを込めてつけたといわれている。本来『雨を祈る人』というこの字は、儒教が災難を祈る人のような、祭祀で金儲けをしようとする輩であるというような、そういう非難の意味が込められていた。

 

『儒教』を作ったのは孔子ではなく、対立していた『墨子』だった?

 

しかし、孔子はそれを知らない。それは孔子が亡くなった後のことだから、孔子が知る由もないのである。そして『論語』もそうだ。儒教も論語も、『孔子の教え』をまとめたものだ。だが、その名前をつけたのは孔子ではない。今言ったように儒教は墨子であり、論語に関しては誰がつけたのかわからないのである。

 

 

論語と日本人

しかし、この論語を重んじている人は多い。例えば、

 

 

日本人だけでもすぐに挙げられる人物でこれだけの人間がいる。次の新一万円札の顔、渋沢栄一もそうだ。彼の著書『論語と算盤』、そして安岡正篤の『論語と活学』、佐藤一斎の『言志四録』は私も持っているが、どれも素晴らしい本だ。その背景にあるのは孔子の教えなのである。

 

 

例えば『論語と算盤』にはこうある。

(かの孔子孟子の教えを、孔孟教というが、これは『儒教』のことである。儒教は別名『孔孟教』、つまり『孔子と孟子の教え』だ。)

その孔孟教の誤り伝えたる結果は、『利用厚生に従事する実業家の精神をしてほとんど総てを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網を潜られるだけ潜っても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。従って、 今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的及び法律的の制裁が絶無としたならば、かれらは強奪すらし兼ねぬという情けない状態に 陥っている。(中略)義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながらかつ仁義を行い得る例は沢山にある。義利合一に対する疑念は今日直ちに根本から一掃せねばならぬ。

 

この『義利合一』の考え方は、私の価値観を大きく変えた。

 

富ながら義を重んじることはできるんだ!

 

かつて、本当にお金など必要ないと思っていた幼少時代を送り、そして拝金的に生きた青年時代を生きた私にとって、この考え方は心底に響くものがあった。そうして生み出されたのが、この黄金律なのである。

 

『お金を稼ぐことは、良いのか。それとも悪いのか。』

 

[渋沢栄一]

 

また、『論語の活学』にはこうある。

彼らが『四聖』と言われ、『知性の源』であるとされ、彼らの言葉が傾聴に値する理由とはまさに、彼らが聞人(ぶんじん。世間によく名の聞こえた人)や郷原(きょうげん。世渡りのうまいお調子者)を向こうに廻して、自らの信ずるところに従って、堂々と主張し、行動した勇者だからである。

 

そう。私に『四聖』というキーワードを教えてくれたのは、この本だったのだ。

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

 

私はこの論語の活学を読んだ後に、彼ら四聖と向き合うことを決意したのである。

 

[安岡正篤]

 

佐藤一斎

それから『言志四録』を書いた佐藤一斎だが、彼が重んじていたのは朱子学(しゅしがく)だった。朱子学とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。彼も孔子の教えを強く重んじていた人間である。彼の門下生もすごい。

 

 

その数は6000人ともいわれているが、錚々たる人物の名がここに挙げられることになる。『言志四録』にはこうある。

真の大志ある者は、小さな事柄もおろそかにしないでよく勤め、真に遠大な志のある者は、些細なことでもゆるがせにしない。

『千条の堤も蟻の一穴より崩れる』(韓非子)との言葉がある。中国・魏の宰相白圭が『ごく些細な手抜かりから取り返しがつかない大事に至る』と、堤の蟻の穴をふさがせたことから出た言葉である。大事の原因は、もとを正せば小さなことから起こっているものも、目先のことや大きなことばかり気にする人は、それに気づかない。『凡事徹底』という言葉もあるように、小さな約束事や日常の挨拶守れない人に大きなことを成すことはできない。

 

これは以下の黄金律と同じ的を射ている。

 

『『一歩』の価値をどう評価するかで、その人間の人生は決まる。』

 

役職や給料を辞退することは。たやすいことだ。だが、目先の小さな利益に動かされないことは難しい。

実際は、役職や給料を辞退することも難しいのだが、これらの辞退には、自分の意にそぐわないとの決心から出るものなので、その決意があればできる。だが、目先の利益というものは、『つい、魔が差して』と無分別な状態のときに引っかかるだけに始末が悪い。不祥事を起こす会社のつまづきは、『この程度なら』との小さな利益を優先させたときに起こっている。似た言葉に『小利を省みるは、即ち大利の残なり』(韓非子)というのがある。小さな利益にとらわれると、大きな利益を失うとの意味だ。

 

これは以下の黄金律と同じ的を射ている。

 

『耐え忍ぶことができる人間でなければ、大局を見極めることは出来ない。』

 

人はみな自分の健康については心配するが、心の状態が健康であるかどうかは問わない。時々は、次のように心に問うてみるがよい。『独りでいるとき、心を欺くようなことはしていないか。独りで行くとき、自分の影に恥じるようなことはしていないか。独りで寝るとき、自分の寝具に恥じるようなことはしなかったかどうか。そして自分の心が安らかで愉快に楽しんでいるかどうか』と。このように反省する心を持っていれば、心は決して放漫にはならない。

 

これは以下の黄金律と同じ的を射ている。

 

『いつも心が愉快であることの、甚大な恩恵を知れ。』

 

英雄豪傑は普通の人ではないのだから、そうそう世に現れるものではない。だが、このような優れた人物であっても、低い地位に埋もれて志を伸ばすチャンスがなければ、その才能を発揮することはできない。幸いにして、立派な地位を得ることができれば、遠大な計略を企てて大事業を成し遂げることができる。そうした例は数多くある。ところで現在、諸外国のトップがどのような人物であるかはわからない。だが、彼らがどのような人物であろうとも、平素からこちらの準備が怠りなければ、何ら心配することはない。平和なときこそ準備すべきである。

 

この条は国家の準備をいっているのであるが、事を成すにはやはり準備が必要である。井伊直弼は若きころ出世の望みを断たれ『埋木舎』で逼塞していたが、大老になるに及んで、そこで勉学に励んだことが大いに役立っている。

 

これは以下の黄金律と同じ的を射ている。

 

『基礎工事をしない建築物、基礎土台をおろそかにする人間。どちらもその限界は、知れている。』

 

まだまだいくつもある。この『言志四録』は、私がまとめた『38の黄金律』のほとんどに通じるものがあり、それはつまり『真理』を射ていることを意味する。この黄金律は私が書いたのではなく、『世界中の偉人の教えをまとめたもの』だからそう言うことができるのだ。

 

[佐藤一斎]

 

孔子は『儒教』や『論語』の名前とは無関係だが、儒教や論語でまとめたものは『孔子の教え』だ。そしてその孔子の教えは、私も含めたこの世界の多くの人々に影響を与えた。ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、『偉大な哲学者たち』の第一巻をこの四人(四聖)にあてており、彼らを『人間の基準を与えた人々』とみなしている。

 

さて、『神話編』に続き、これで『宗教編』も終わりだ。次はいよいよ『哲学編』となり、最下部にある『年表』における、人間の歴史上での、人間の心の変化や在り方についての、輪郭が完成することになる。

 

 

 

 

[宇宙誕生~紀元後編]年表で見る人類の歴史(世界史・日本史)と映画一覧