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ブッダが考えた『生まれ変わり』や『地獄』に対する見解とはなんだった?

ブッダが広めた教えとは本当に『仏教(宗教)』だったのか?

 

上記の記事の続きだ。そのようにして仏教は生まれ、そこにすでに蔓延していたバラモン教の教え『よりも素晴らしい教え』を広げようとした。であるからして、ブッダの教えというのは元々そこに蔓延していた『バラモン教』の影響があった。

 

ブッダ

輪廻から解放される『解脱』が必要なのだ!

 

と言ったりするわけだ。

 

解脱(げだつ)
ヒンズー教の輪廻が『永遠に生まれ変わる宿命』であるのに対し、ブッダが教える解脱は、その宿命の輪から逃れることができるということ。つまり、良いことをすれば、良い存在になって生まれ変わるということ。

 

 

六道

地獄道 前世で最も重い罪を負った者が生まれる所
餓鬼道 欲望のままに生きた者が生まれる所
畜生道 人間以外のものに生まれる
修羅道 憎悪に満ちた世界
人間道 善行をなした者が生まれる社会
天道 善行をたくさんした者が宿る所

 

この仏教の生まれ変わった後の『六道』の考え方を見ると、『地獄』や『畜生』と出てくる。これを見ると普通は『あの地獄』を想像してしまう。しかし、ページ下部に記載している参考書には、地獄や修羅、餓鬼といった生まれ変わった場所を『人間が住む世界』という描写をしている。つまり、鬼がいて、溶岩があって、ということではなく、『地獄のような戦争が行われているような場所』ということだ。

 

餓鬼は戦場ほどではないが、まわりに欲望のままに生きるような者しかおらず、修羅になると、単純に『修羅場』だ。喧嘩をしたり、いわゆる修羅場のような状況でしか生きていくことができないという、『人間が住む舞台』に、また生まれ変わるという描写をしている。

 

もし地球が平面なら人は『上と下と横』に何があると考えたかわかるだろうか?

 

上記の記事で考えたのは、こういう世界だ。

 

  • 上:天使が空を飛ぶ天国
  • 横:魔物や竜がいる異世界
  • 下:鬼と溶岩がある地獄

 

地球が平面だと思っていた当時は、上には天があり、下には溶岩があり、基本的には地獄に『落ちる』というように、『下に行く』というのが地獄の基本的な考え方だった。そしてやはり下には溶岩があり、上には太陽があるように、皆がイメージする天使は羽がついていて空にいて、鬼は溶岩の近くで棍棒を持っているわけである。

 

[鬼山地獄の赤鬼像/別府温泉(大分県別府市所在)の一角をなす鬼山地獄に所在]

 

しかし仏教の言う『地獄』はそうではなく、『戦場』のような場所。生きている間に悪いことをすると、生まれ変わったときにそういうところで生きることになるということを言っているわけだ。だとしたら、まだ理解しやすくなってくる。

 

ただやはり、バラモン教の輪廻と生まれ変わりの影響を受けているから、『生まれ変わる』ということ自体は否定しなかったようだ。これに関しては現代の人間が考えれば首をかしげるが、しかし、ブッダが今を生きていたら、私はとっくに違う考え方に改めていると推測する。

 

例えば先ほどの『地球平面説』、そして、ガリレオコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。

 

画像

 

しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、

 

画像

 

更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかった。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』

 

ニュートンが万有引力の法則に気づき、アインシュタインが相対性理論を見出し、コロンブスが新大陸を発見し、マゼランが船による世界一周計画でこの地球が大部分が水に覆われた球体であることが証明し、ダーウィンが進化論を見出したように、人間というものは、時間をかけて徐々に徐々に誤謬をはがし、真実を発見していく。

 

誤謬(ごびゅう)
間違った考え。誤った判断。

 

そう考えると、ブッダはあの時代にあって、『よくやった』と言わざるを得ない。『犬に生まれ変わる』とかそういう発想は現代的ではないが、この考え方によってバラモン教にあった『負の連鎖』から抜け出す道を見つけたのだ。『カースト制度』である。

 

バラモン教にあったカースト制度は、『生まれ変わっても永久に同じ身分』という考えのもとに存在していたが、ブッダが教えた『解脱』とは、そういう輪廻からの解放。つまり、

 

ブッダ

生まれ変わりはあるが、善い生き方さえすれば、善い者に生まれ変わり、そして今の意志はもうそこにはない。我々はたった一度の人生を生きているのだ。

 

という考え方をする。これこそが『天上天下唯我独尊』の言葉の意味である。この言葉は釈迦が生まれたとき、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして発した言葉だとして伝えられているが、そんなはずがないだろう。彼は神ではない。仏教には、『神』はいないのだ。そうではない。この言葉の意味はこうだ。

 

私たちの命は、過去、未来永劫の時間の規模で考えても、唯一無二。そして、たった一度の人生を生きているのだ。そのことを理解して、人生を慎重に、真剣に生きなければならない。自分の人生を尊重し、尊敬しなければならない。

 

私は、彼がこういう言葉を言ったのを知って、この言葉も、そして彼のことも好きになったのだ。なぜならそれは『真理』だからである。すべての生きとし生ける者に対して、公明正大で平等そのもの。私は徹底的な無宗教者だが、こういう考え方を持っている人間は、別に『神』の称号を持っていても、私は文句はない。

 

 

この考え方を見ればわかるように、彼は当然バラモン教の輪廻の影響を受けている。しかし、カースト制度に疑問を持ち、身分差別に疑問を持ち、『それよりもいい世界がきっとある』と考えた釈迦は、答えを見つけ、ブッダ(悟りを開いた者、答えを見つけた者)となったわけだ。その理不尽な輪廻からの解放や、天上天下唯我独尊の考え方は、とても素晴らしい考え方だ。『犬に生まれ変わる』というあたりは違和感があるが、しかし彼はよくやった。素晴らしい考え方を生み出し、光を当てたと言っていいだろう。だからこそ彼の教えは今もなお多くの人に愛されれているのだ。

 

特に私が好きなのは『地獄』への考え方だ。それはもちろん『鬼がいる場所』ではない。あるいは、『生まれ変わった場所』だけでもなかった。ブッダが考えた地獄というのはそれだけじゃなく、『心』のことでもあった。

 

例えば、この天上天下唯我独尊を理解している人間の心は、解放されている。何しろ、自分の命こそはこの世で唯一無二なのだ。その事実を本当に理解した人間の心は躍動し、くよくよなどしている時間など一分もないことを悟る。

 

『やるべきことがない人間だけが、悩み、憎むのだ。』

 

その様にして、一つ一つの真理を理解していくことにより、心が豊かになり、思い悩みから解放されるのである。これを『極楽』と表現しているのだ。そして無知である人の心を『地獄』と言っている。

 

極楽

[内に目を向けて真理を理解すれば心は平安になる]

 

地獄

[内に目を向けずに問題を未解決にしたままだと心は混沌とする]

 

たしかにこの考え方なら、無宗教者の私も合点がいく話である。私自身、内に目を向けるまでは人生に未解決問題が溢れていて、そのせいで気持ちが鬱屈とし、それを誤魔化すように刹那的な人生を生きてしまっていた。

 

刹那的な人生
毎日、その日が楽しければそれでいいと考える、場当たり的な生き方。深く考えないで済むメリットがあるが、思慮浅く、悔いの残る人生に繋がっている可能性が高い。

 

しかし、読書して考察し、内省や内観を積み重ねていくことによって、その未解決問題が徐々に解決していき、それと共に心のモヤモヤが晴れていき、平安な心を取り戻していったのである。

 

 

仏教というのは『天国に神がいて、地獄に鬼がいる』という発想ではない。『私が神だ』と言う存在もいない。ただ、この世の闇に差した一筋の光なのだ。ブッダというのは、とても素晴らしい人間だった。私は彼への敬意から、参考書にある『その他の様々な宗派の教えや考え方』に関しては、書かないでおく。

 

 

 

 

 

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