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孔子に続いた者、対立した者。彼らは結局何を目指し、それは成し遂げられた?

『キングダム』の舞台と『孔子』の思想の関係は?秦の始皇帝がたった十数年で亡んだ理由とは

 

上記の記事の続きだ。このようにして様々な思想を持った偉大な人々が現れて、世をまとめようと考えた。秦の始皇帝もそうだし、漢の始皇帝『劉邦』もそうだ。また、孔子もそうだし、その元になった『周』の国の考え方もそうだった。しかし、結局世界平和は訪れなかった。人々は争い、春秋戦国時代は500余年も続いた。それが現実だった。

 

MEMO
紀元前770年~紀元前221年頃までのこの500余年間を春秋戦国時代と言う。

 

様々な思想はその後もたくさん続いた。その『劉邦』の子孫に当たる『武帝(ぶてい)』が、儒教を国教とすることになる。武帝は漢の国の、第7代皇帝である。

 

 

これによってまた孔子の教えに注目が集まり、儒教は『宗教』の次元にまで高まった。孔子が死に、まとまりのなかった儒教をまとめたのが、

 

 

である。孟子は、孔子に次いで儒教における重要人物と言われている。従って、この孔子を始祖とする思考・信仰の体系である儒教は、『孔孟教』、つまり『孔子と孟子の教え』と言われることがある。孟子は『性善説』、荀子は『性悪説』を唱えた。

 

孟子の『性善説』

 

まずは『孟子と性善説』だが、これは孔子の『忠信説』を発展させたものとされる。なお、今日『性善説』という言葉は『人は本質として善であるため、放っておいても悪を行わないとする楽天主義』という意味で用いられることが少なくないが、本来は正しくない。以下に解説するように、孟子も朱子も、人の『性』は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、『聖人の教え』や『礼』などによることが必要であると説いている。

 

性善説

[修行して善で悪を追い出す]

 

この考え方は、孟子とほぼ同時代を生きた古代ギリシャの哲学者、プラトンの考え方に似ている。プラトンも、『人間は善に生まれたが、成長と経験で悪に染まる』と考えた。

 

荀子の『性悪説』

 

荀子と性悪説』だが、『人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり』(『荀子』性悪篇より)から来ている。ここで言う悪とは、『(人間は様々な意味で)弱い存在』という程度の意味であり、『悪=罪(犯罪あるいは悪事)』という意味では無い(「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。

 

性悪説

[外部から後天的に善を積み上げる]

 

受け入れられたのは孟子の方だ。この孟子の考え方は王道政治の基礎となり、強固な国づくりに役立った。荀子の考え方はどちらかというと、前回の記事で話した『韓非子』の考え方に近い。

 

韓非子は、人間は孔子の言うような高潔な存在ではない。『利己』に走り、損をすることを回避しようとする。それが人間の本性というものである。従って、法律によって刑罰を整えれば、人はそれを回避しようとして、犯罪を予防できる。法さえ完備していれば、国の秩序は保たれるとして、法の重要性を説いたのだ。

 

韓非子

 

韓非子

孔子の夢見る徳治で秩序が保てたらそれ以上のことはない。しかし世の中はそうではないのだ!荀子の言うように人間の本性は悪だから、これに合わせて現実政治を行わねばならない!

韓非子

孔子、孟子の言っていることは、古代の人口が少ない時代なら可能だったかもしれん!人口が増え、経済が盛んな時代にはそんなのは絵空事じゃ!

 

そして墨子についても前回の記事に書いた。儒教が教える『家族愛』は『差別愛』であると主張し、『兼愛』を唱えた。孔子の考え方に対立した者はまだいる。道教の創始者と言われる老子や、その教えを継いだ荘子である。儒教にある『人為』を否定し、『無為自然』を思想の根本に置いた。『天』に行きつく『道』を示したのだ。

 

 

無為自然(むいしぜん)
人の手を加えないで、何もせずあるがままにまかせること。

 

荘子の『万物斉同』

 

荘子は孟子と同じ時代を生きたが、『万物斉同』こそが欲も徳もない世界へ導くものとし、『知』を学び獲得することへの無意味さを強調した。

 

万物斉同(ばんぶつせいどう)
万物は道の観点からみれば等価であるという思想。

 

『知』は徹底的な儒教への批判であり、相容れない思想でもあった。儒教が現実的な立場から道徳論を展開したのに対して、老子と荘子で語られる思想は、宗教的哲学だといえる。

 

しかし『相容れない思想』とは言っても、『より善い世界を目指す』ことを目的としたことは、ここに挙げた全員の思想家たちが一致したことだった。私が言いたいのは、これだけの思想家たちが集まって世界平和を目指しても、結局世界平和は実現されなかった、という決定的な事実である。

 

そこで前回も書いたように、私が考えたのが以下の記事だということだ。私はこの記事を、ここに挙げたすべての偉人たちの思想を取り入れながら書いている。例えば老子の『小国寡民』の考え方は、かなり的を射ているように見える。道教は世界宗教にまで発展しなかったが、私はこの点についても記事で詳しく書いている。

 

小国寡民(しょうこくかみん)
住民が少ない小さな国。国が乱れることなく治まる小国寡民が自然な姿だと老子は言った。

 

この記事でたどり着いたのは、これらすべての問題を解決する『鍵』なのである。もっとも、結論を先に言ってしまえば、すべての人がこれを実践できないのなら、この世に世界平和が訪れることは永久にない。今までありとあらゆる偉人たちが現れては新しい思想を見出し、結局実現できなかったように。

 

Inquiryで導き出したもの、導き出していくもの(序)

 

世をまとめることができないなら、

 

  1. まとめることは最初からできない
  2. すべての人が『目を向けるべきもの』がある
  3. 人間は一度亡び最初からやり直す必要がある

 

といういずれかが理由に挙げられることになる。人為的な世界の破滅を求めず世界平和を実現させるためには、『赤ん坊からの計画的な教育』が必要になるのだ。それも、全人間の。それができないのなら、ここまで膨張した人間の多様性の中で、世界平和を実現させることはできないだろう。それは、ここで挙げたすべての人。そして、かの『四聖』に数えられる、

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

 

を含めた、この世を生きたありとあらゆる偉人たちであっても成し遂げられなかった事実を考えれば、見えてくるはずの真実である。世界平和とは、『一部の人間が一時的に強いエネルギーを持つ』ことでは達成できないのだ。これが決定的な事実なのである。全人間が、これに気づけるかどうかだ。

 

そして、決して忘れてはならないことがある。たとえ『リセットする』としても、先人たちが築き上げてきた『叡智』を失ってしまうなら、また同じことの繰り返しとなるだろう。あくまでも偉人たちが積み上げてきた歴史と叡智があってこその『やり直し』なのだ。

 

 

 

 

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