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アインシュタイン、ディズニー、チャップリン、タゴール。フォードにピカソにヘミングウェイ。世界大戦の裏で活躍したこの世界の重要人物

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

第一次世界大戦、第二次世界大戦中の裏ではどんな偉人が活躍したの?わかりやすく簡潔に教えて!

アインシュタイン、ディズニー、チャップリン、タゴール。フォードにピカソにヘミングウェイ。

たくさんの偉人がいました。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

この時期に多くの偉人がいる理由は3つあります。

  1. 時期が近いから多くの人を知っている
  2. 戦争を起こすだけのエネルギーが集まった時期だった
  3. 戦争というエネルギーがこの時期の人に影響を与えた

 

この3つです。まず1つ目は『時期が近いだけ』です。つまり、はるか昔にはもっと大勢の偉人がいたかもしれないけど、記録も記憶もないから歴史の闇に消えた可能性があります。しかしちょうどこれくらいの時期の人なら今の人は鮮明に覚えているし記録もあるということです。

 

2つ目。『産業革命』、『第二次産業革命』、『エネルギー革命』等、人間が生み出せるエネルギーと、蓄えられるエネルギーの量が膨大になってきたのもこの時期です。イギリスが産業革命を起こせたのも潤沢な資金があったからですが、それを『エネルギー』と考えた場合、やはり何かを生み出すにはエネルギーがいるのです。

 

3つ目。ヘミングウェイ、ヘルマン・ヘッセ、サン・テグジュペリ等は戦争の影響を受けた作家です。また、ロバートキャパは戦場カメラマンですし、ピカソが『ゲルニカ』を描いたのも戦争があったからです。

 

もちろんこれがすべてではありませんが、下記の記事で『偉人の共通点』を導き出した私からすれば、彼らが経験した『窮地』と『エネルギーの充填』には興味があります。しかし当然、戦争は二度と起きてはなりません。

 

『この道は闇に続いている。私はそれを人一倍知っている。だからこそ歩ける、王道の道がある。私は堕ちたのではない。王になる道を歩く権利を得たのだ。』

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

世界大戦の裏で活躍した偉人

『世界大戦下の偉人たち』

 

上記の記事の続きだ。二つの『世界大戦』という人類の甚大な失態の陰で、この世界の歴史に名を刻む重要人物は大勢いた。まず、冒頭の記事に書いたように、『原爆の父』と言われたオッペンハイマーは、日本に原爆が使われてしまったことを悔いた。アインシュタインは自分の生み出したエネルギーの公式で原子爆弾が作られたため、日本に来日したとき、泣いて謝った。更にライト兄弟の弟オーヴィルも、第二次世界大戦で飛行機が戦争に使われ、自分の人生を後悔した。

 

 

アインシュタインは第二次世界大戦が終わった後の来るべきではない未来を想像し、この言葉を残した。

 

 

山本五十六は、

 

と言ったが、彼は生きる時代が違えば戦争などに命を使う必要はなかっただろう。

 

アメリア・イアハートが大西洋単独横断をしたのは、チャールズ・リンドバーグの5年後の1932年だった。

 

彼女はその言葉通り覚悟を決めて、偉業を成し遂げた。リンドバーグは1927年に大西洋横断無着陸飛行を成功させたが、そのあたりの時期で言えば、1908年、ヘンリー・フォードは『T型フォード』を発表し、世界初の大衆車を世に生み出した。1937年、ナチス・ドイツより勲章を贈られる。

 

諦めない。それが強さだ。

 

[1910年式モデルT・ツーリング。初期の典型的なモデルTである]

 

『スカーフェイス』、『暗黒街の顔役』とも言われたイタリア系アメリカ人のギャング、カポネが暗躍したのもこの時代だ。ギャングと言えばカポネという印象を世界に突き付けた。1913年に渡米したイギリスの映画俳優、チャップリンも『サイレント喜劇』で世界的スターとなった。現代においても喜劇王と言えば、多くの人が彼の名前を挙げるだろう。

 

彼のような視点を持った人間も、世界に必要である。

 

ルイ・アームストロングは、第一次世界大戦終結から世界恐慌までの『ジャズ・エイジ』と呼ばれた時代に登場し、ソロでの即興演奏『スキャット』の創始者となった。

 

彼もまた不撓不屈の精神を持った偉人だった。

 

ベーブ・ルースは『野球の神様』と言呼ばれた。1914年にレッドソックスのピッチャーとしてメジャー入りし、1920年からはヤンキースの強打者として活躍。野球をアメリカの国民的スポーツに押し上げたのは彼だ。

 

 

ウォルト・ディズニーは、1928年に『蒸気船ウイリー』でミッキーマウスを世に送り出す。

 

 

そろそろ偉人の共通点が見えてきたことだろう。ヘミングウェイの作品の多くは実体験に裏打ちされている。彼の名声を確立させた『武器よさらば』は、第一次世界大戦での経験があってこそのものだ。

 

 

1936年のスペインの内乱で、人民戦線派の特派員として参加し、その経験をもとに『誰がために鐘は鳴る』を著した。

 

 

 

東日本大震災があったとき、世界中の人が日本人の対応を称賛した。きっと、ヘミングウェイが生きていてもそうしていただろう。ロバート・キャパはヘミングウェイ同様、スペイン内乱に人民戦線派のカメラマンとして従軍し、『崩れ落ちる兵士』を撮る。

 

 

彼は言った。

 

ジョン・スタインベック、アーネスト・ヘミングウェイ、パブロ・ピカソなどの著名人とも深い親交があったキャパは、1954年、第一次インドシナ戦争の取材に向かう途中地雷に触れ、帰らぬ人となった。

 

インド最大の詩人タゴールは、イェイツにも絶賛された代表作『ギータンジャリ』によって、1913年に東洋人初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞した。日本の美を愛し、日本に対する親しみも深く、岡倉天心らと親交があり何度も来日したが、日本が中国を侵略した時は厳しく非難した。インド独立運動のガンジーを支持し、アインシュタインやロマン・ロランらの著名人とも交流があった彼は、世界平和、人類愛を表現し続け、1941年の死後も現在まで尊敬を集めている。

 

 

彼の目に狂いはなかった。

 

カフカは、オーストリア・ハンガリー帝国プラハ生まれのユダヤ系作家だった。頭木弘樹の著書、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』にはこうある。

弱い者への思いやり

 

『花瓶に押し込められている。そのいちばん下の花が苦しまないよう、気を付けなくては。どうすればいいだろう』(会話メモ)

 

自分が生きづらいだけに、生きづらいものに対して、とてもやさしいのです。人間に向けられる場合も、弱い者、たとえば泣いている子供などへのカフカのやさしさは格別です。ある日、カフカが恋人のドーラといっしょに公園を散歩していました。ひとりの少女が人形をなくして泣いていました。カフカは少女に声をかけます。

『お人形はね、ちょっと旅行に出ただけなんだよ』

 

次の日からカフカは、人形が旅先から送ってくる手紙を書いて、毎日、少女に渡しました。当時のカフカはもう病状が重くなってきていて、残された時間は一年もありませんでした。しかし、ドーラによると、小説を書くのと同じ真剣さで、カフカは手紙を書いていたそうです。

 

人形は旅先でさまざまな冒険をします。手紙は三週間続きました。どういう結末にするか、カフカはかなり悩んだようです。人形は成長し、いろんな人達と出会い、ついに遠い国で幸せな結婚をします。少女はもう人形とあえないことを受け入れました。

 

人形

 

また、本にはこうもある。

人によって弱められる

 

作家のオスカー・バウムは、『カフカと初めて会った時のことを忘れられない』と書いています。バウムが挨拶のおじきをしたとき、カフカの髪がふっと顔に触れたのです。カフカのほうもおじきをしていたからです。バウムは感動しました。なぜなら、バウムは盲目だったからです。おじぎをしても見えないバウムに対して、黙っておじぎをした人は、他にはいなかったそうです。その後、二人の友情は生涯続きます。

 

表層を象ることだけに支配された人間には、こういうことはできまい。

 

『ミステリーの女王』と言われたアガサ・クリスティは、イギリスの推理小説作家だ。正規教育は受けず、結婚後に30歳で処女作『スタイイルズ荘の怪事件』を発表したのを皮切りに、次々と大ベストセラーを連発。史上最高のベストセラー作家となった。

 

 

 

オードリー・ヘプバーンはこう言い、

 

遠藤周作はこう言ったが、

 

実際にこの世を支配しているのは、彼女が言ったこの皮肉だろう。

 

サン・テグジュペリはフランスの作家だ。ナチスの弾圧を受けた友人に『星の王子さま』を捧げた。この作品は日本にも大勢のファンがいることで有名だ。ナチスのフランス侵攻でアメリカに亡命し、北アフリカ戦線へ向かったあと、地中海上で消息がわからなくなった。

 

 

 

生きるとは呼吸することではない。行動することだ。

 

 

サルトルについては詳細を下記の記事に書いた。彼も第二次世界大戦で捕虜となり、釈放されたあとはレジスタンスとして活動した。

 

サルトルが『アンガージュマン』で自由を得るべきだと主張

 

ヘルマン・ヘッセはドイツのロマン主義と古典派の伝統を受け継いだ作家だ。第一次世界大戦で『デミアン』を執筆し、でも平和主義を唱え、ナチスににらまれスイスに亡命。1946年にはノーベル文学賞を受賞した。

 

 

人は一人では生きていけないという考え方もあるが、同時に重要なのは、彼のこの視点だ。

 

 

ピカソは、ヘミングウェイやロバート・キャパ同様、内乱があったスペインと縁があった。ナチス占領下時代のパリ。ピカソのアトリエに検閲に来たドイツ大使が、『ゲルニカ』を発見して尋ねた。

 

ドイツ大使

これを描いたのはあなたか。

 

ピカソは言った。

 

1937年、ドイツ軍はスペインの内戦に介入して無差別爆撃を行い、小さな町ゲルニカでは住人の3分の1が虐殺された。その怒り、悲しみがピカソに筆を取らせ、戦争の惨状を訴える『ゲルニカ』が誕生したというのだ。

 

[ゲルニカ市にある実物大のタペストリー]


参考
ゲルニカ(絵画)Wikipedia

 

ドイツ生まれのハリウッド女優マレーネ・ディートリヒはナチスと戦った。映画『嘆きの天使』を撮ったあと、渡米し、ナチス政権の帰国要請を断りアメリカの市民権を得る。1960年の念願のドイツ公園では『裏切り者』扱いする者もいたが、いまでは彼女の名を冠した広場が設けられている。

 

 

ココ・シャネルは第二次世界大戦中、ナチス親衛隊少将と愛人関係にあった。戦後は対独協力者と非難され、スイスに亡命した。12歳で母親を亡くして、すぐに父親に捨てられて、孤児院生活を送ったココ・シャネル。彼女の人生も波乱万丈だった。

 

大偉業を成し遂げた彼女は自分の人生に打ち克ったのだろうか。彼女に関するいくつかの映画を観た私は、断言を悩むところがある。だが、彼女の名前を知らない女性はいないだろう。

 

 

アンネ・フランクはユダヤ系ドイツ人の少女で、ナチスを逃れ一家でオランダに亡命した。ドイツのオランダ占領に伴い、アムステルダムの隠れ家で、家族4人を含む計8人で2年の潜伏生活を送り、1944年8月に逮捕され、収容所にて、チフスで亡くなった。16歳だった。彼女が書いた『アンネの日記』は、活字を読むことを嫌う人でさえ、読まずにいられないある種の魅力があった。

 

 

 

欲にまみれた最前線にいる人間が、世界大戦という失態を犯しているとき、この世には確かに力強く生きる人々がいた。彼らはその一例であり、戦争で死んだ多くの人や、歴史に名前を残さないような人の中にも、この世を全力で生きた人が大勢いた。我々はアインシュタインの言うように、もう二度と世界大戦をしてはならない。

 

だが、きっと大丈夫だ。アンネ・フランクの言うように、われわれ人間の心底にあるのは、赤ん坊のような純粋さだから。

 

 

 

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