『ヒト』を最適化しよう。

サルトルが『アンガージュマン』で自由を得るべきだと主張

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

サルトルは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!

『人は社会と自分の成長から目をそらさず、かつ自由に生きるべきだ』と主張した人です。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

人間は『どう生きるか』を定められていません。

この時点で人間には『自由』があります。しかし、自由に生きると言っても、例えば自分の家庭内に何らかの問題を抱えていた場合、それを『見てみぬふり』をして生きることは『自由』とは言えません。『現実逃避』に近い。サルトルはその家庭内にある何らかの問題を見てみぬふりするのではなく、逃げずに関わるべきだと言います。そこでたとえどういう結論が出たとしても、そこには『逃げずに自分の環境に立ち向かった』という自負が残り、様々な選択肢から自分が本当に納得がいくものを選んだ結果そうなったことなので、悔いが残りません。

 

サルトルは同時に『人は生きている限り成長すべきだ』と言いますが、それを実現させるためにも、自分の環境にある問題を見てみぬふりせず、それに立ち向かうことは避けて通れません。自分に与えられた環境から逃げずに真の自由を得る。サルトルはそれが人のあるべき姿だと考えたのです。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

実存主義者サルトル

ハイデッガーが『死を直視する』ことで得られる境地を主張した

 

上記の記事の続きだ。このハイデッガーの影響を大きく受け、『実存主義』を自称したのがサルトルだ。フランスの哲学者である。作家でもある。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。彼女もまた作家であり、哲学者である。

 

[キューバを訪問し、ボーヴォワールと共にチェ・ゲバラと会談するサルトル(1960年)]

 

各人の誕生年

ショーペン・ハウエル 1788年
キルケゴール 1813年
ニーチェ 1844年
ハイデッガー 1889年
サルトル 1905年

 

サルトルの思想はこの言葉に表れている。

 

 

『実存は本質に先行する』

彼はプラトン以来、『本質が実存に先行する』と考えられていたのに対し、『実存は本質に先行する』という革命的な考え方をした。包丁に例えて考えてみよう。包丁は、『食材を切る』ために存在する。それが『本質』だ。まずそういう本質があって、それから包丁が作られる。つまり、『本質が実存に先行する』わけだ。

 

 

では『人間』はどうか。人間の本質は?サッカー選手になること?いやそれはわからないはずだ。すべての人間は、自分がどんな本質を持っているのかということを明確に義務付けられていない。そうなるとどうなる。そこにあるのは『自由』になる。

 

そうか、自分の好きなように生きられるんだな!自由なんだ!

 

こんな発想が思い浮かぶはずである。だが、フロイトがこう言い、

 

バーナード・ショーはこう言い、

 

ジェームズ・ディーンがこう言ったように、

 

自由に生きられるということは、そこに責任がつきまとうということになる。だから一見すると自由なのだが、そこには彼らがこう口をそろえるように、ある種の不自由(窮屈さ)があるわけだ。

 

 

アンガージュマン

そこで『アンガージュマン』という考え方を打ち出す。

 

アンガージュマン
社会参加。現実にある社会に積極的に関わっていくということ。

 

 

ここで言うアンガージュマンというのは、単なる社会のことではない。『自分が生きている環境』と言った方がわかりやすい。例えば、皇族の家に生まれる人と、難民の子として生まれる人とでは、生きている環境、そこにある社会の様相がまるで違う。だがサルトルは、それでもアンガージュマンを意識し、環境から逃げるべきではないと主張する。

 

なぜなら、『それで初めて人は自由を得られる』からだ。松下幸之助は言った。

 

だが例えばそこにある環境が『テロ、戦争』であった場合はどうなる。環境にしたがって、それを追従するか。いや、アンガージュマンとは、別に同調、追従を煽る言葉ではない。『参加する』のだ。つまり、『見て見ぬふりをしない』ということ。

 

  1. テロや戦争を止める
  2. あるいは終わるように働きかける
  3. テロや戦争に参加しない

 

このような選択肢を取ることも、れっきとしたアンガージュマン(社会参加)なのである。大事なのは見て見ぬふりをしないことなのだ。

 

 

 

『距離』を作れる人間

またサルトルは、『ヒトとモノ』を別次元で考えた。

 

即自存在(そくじそんざい)
対自存在(たいじそんざい)

 

例えばペンがある。これはいつまでもどこまでもペンだ。ただこうしてペンはペンとして在り続けるものを、『即自存在』と呼んだ。

 

 

だが人はどうだ。人は意識を持ち、

 

私は~である。

 

等と考える。明らかに物とは違う存在だ。サルトルは、人間が物や世界との間に『裂け目を作る(距離を取る)』存在だと言う。

 

俺はペンじゃない!

 

として、対象物との間に『距離』を作るのは、人間だけなのだ。そういう存在(人)を、『対自存在』と呼んだ。この二つの違いをサルトルはこう定義した。

 

それであるものであり、それでないものでない 即自存在
それであるものでなく、それでないものである 対自存在

 

言い方は面倒だが、最初は簡単だ。『ペンであり、ペンでないわけがない』と言い換えればいいわけだ。つまり『ペンはペン以外のものではない』ということであり、そりゃそうだということになる。

 

問題は次だ。『人は人だが、人ではない』という、謎の解釈が生まれることになる。だが、こう考えてみるとわかる。『人は人だが、過去のその人と比べると成長しているので、違った存在になっている』ということ。

 

 

人はその『距離』を、物だけじゃなく『(例えば)過去の自分』との間にも取る。例えば、

 

いやあ俺も昔はそうだったけどさあ、今じゃ落ち着いたよ。

 

などと言うだろう。そこにあるのは『距離』である。過去の自分と、現在の自分との間に距離を作っている。サルトルはこのように、過去や現在自分を脱し、未来に向かって自分を駆り立てることを『投企(とうき)』と呼んだ。

 

イギリスの探検家、ラポックはこう言ったが、

 

そうなると人間というものは、生涯この『投企』をし続けるべき使命を背負っているのである。

 

御木徳近は言った。

 

 

 

 

 

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