『ヒト』を最適化しよう。

『神の偶像崇拝が禁止されている、唯一とされているのは、神が人間ではなく、見えるものでもなく、真理だからであり、真理が2つあっていいわけがないからだ。』

意味

作ってはいけなかった仏像

モーセの十戒』にあるのはこうだ。

 

そしてモーセとは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教において、もっとも重要な予言者の一人である。そして仏教の開祖、ブッダも同じように、偶像崇拝を禁止していた。本人は、『個人の崇拝をするな。答えは自分の中にある』と言い続け、崇拝の的となることを拒否していたのだ。その教えは守られていた。

 

有力な考え方の一つでは、ブッダの死後500年ほど経って、アレクサンドロス三世がエジプトを征服後、ペルシアを滅ぼし、西北インド(ガンダーラ地方)まで進出した。それによってヘレニズム文化が入ってきたことにより、『仏像』が作られるようになった。

 

仏像

 

浄土宗 大信寺』のHPにはこうある。

仏像の無い時代

 

仏教が誕生してから約500年間は、インドでは仏像が造られなかった。さて、造る技術がなかったのか、それとも造る必要がなかったのか。その謎に迫る。

 

釈迦の生前には

 

釈迦の教えというのは、自らの知恵によって苦悩から超越するという「悟り」を多くの人々に分かりやすく説いたものなので、自分以外のもの(他力)に身を任せことによって救われるという考え、即ち、偶像を崇拝することは許されなかった。

孔子の警告

また、儒教の始祖、孔子は、

 

孔子

 

 

ここにも書いたが、

『自分の先祖の霊でもないのにペコペコ頭を下げて拝むのは、信心深い行為をしているのではなく、 あわよくばご利益を得ようとの下賤な行為だ。』

 

と言っていて、『窮地にこそ人間の真価が問われる』と言い、それまでは神や仏を軽んじていたくせに、手のひらを反して祈り始める人間を、批判した。どこに目を向けてみても、『偶像崇拝』、つまり、『他力本願』的な発想を良しとする人間などいないのだ。もしそれがいるとしたら、それは『末端』の人間だ。彼らのような源泉にいる人間には、そういう発想はなかったのだ。

 

フランスの小説家、プレヴォは言った。

 

彼ら『末端の人間』に悪意があったというわけではない。思いやる心や、温かい気持ちがあっただろう。だが、情報は歪曲するものなのだ。伝言ゲームのように、悪気はなくても、人間の思想というフィルターを通せば情報は変化してしまうのである。

 

唯一神の存在

『モーセの十戒』にはこうもある。

 

つまり、『唯一神』ということだ。神がこの世に二人存在してはならない。それを例えば各宗教によって、

 

  • キリスト教=ゴッド
  • ユダヤ教=ヤハウェ、ヤーウェ
  • イスラム教=アッラー

 

この様に呼ぶわけだが、どれも同じ神のことを指しているのである。『アッラー』とはアラビア語で『神』という意味。しかし微妙に違うのは、ヤハウェは『自分に似せて人間をつくった』ので形がありそうだが、アッラーは形がない。人間の姿をしているかどうかもわからない。従って、その偶像を作れるわけがないのだ。

 

 

偶像崇拝と他力本願

偶像崇拝や他力本願であると何がいけないかというと、例えば仏教で言うなら、『浄土宗』のそのHPにも記載されている様に、釈迦の教えが、『自らの知恵によって苦悩から超越するという「悟り」を開くこと』であるからして、そのような『他への依存』は、その悟りの足枷にしかならないからであり、表層的なことだけに依存する愚かな人間を捻出させない為でもある。

 

『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。

自分自身を見つめ、自由になれ

 

真理の探究は真の自由をもたらす。それは、伝統や権威や社会の多数意見から解放された個人の自由であるが、それ以上に真理の光に導かれて自分を知り、自分を抑制することを学ぶ人間が獲得する内なる自由である。

 

『ブッダ』

ブッダ

 

悟りに導く『方法』とは、実際のところ、個人の道でしかない。悟りは、宗教儀式や神への生贄を盲目的に実行することによるのではなく、『八正道』によって得られる。この八つの道とは、正しい行い、正しい瞑想、正しい知恵の実践に要約される。

 

(中略)ブッダの生涯の中の一つの逸話がこのことをわかりやすく説明している。ある日、ブッダが啄鉢の鉢を手に持っていると、一人の青年が奇妙な儀式を行っているのを目にした。全身ずぶぬれで、6つの方角―東西南北と地の方向に順番に額づいているのだ。ブッダは、この儀式の意味を問うた。シガーラ(この青年の名前である)は、父親が死ぬ前に、毎朝この儀式を行う様にと言い残したと明かした。

『お前の父親の忠告に従うのはもっともだ。だが、父はおそらくお前にすべてを語る時間がなかったのであろう』

 

とブッダは彼に言い、そしてシガーラ教誡経、あるいはシガーラの説教と呼ばれる、在家信者の道徳についての最長の説教を行った。それは次のように始まる。

『6つの方角は、聖なる道の精神に従って崇めなければならない。』

 

そしてブッダは、この世で各人が完璧となるために従うべき規則、罪や嘘のように根絶すべき悪業、両親、主人、友の前で守るべき振る舞いについて教えた。とくに悪業に追い込む4つの原因、不公平、敵意、愚かさ、恐れについて指摘した。こうして求道とは伝統とされている儀式を実行することではなく自分自身を変えることにあると、シガーラに示した。

 

『キリスト』

キリスト

イエスも、同じように自分の内面を見つめるよう弟子たちを導く。

『神の国は、実にあなたがたの間にあるのだ』(ルカ伝17章21)

 

と言っている。自分自身に向き合い、神と、心と意識の深奥なる真理を探し求めるよう促している。それは単に宗教儀式を忠実に行えばいいというものではない。

 

(中略)集団的儀式の重要性を否定するほどではなかったが、儀式は絶対的なものではなく、大事なことはもっと別のところにあるとイエスは教えた。イエスは一人ひとりが内面に向かうように導いた。真の神殿とは、人間存在の深奥であり、神と出会う心と精神のことなのである。

 

儀式慣例など、単なる表層に過ぎない。それをやったからといってどうにかなるものではないのだ。『まじない』や『願掛け』のようなもので、それをやったら確かに心理的に安心感を得られるかもしれないが、それは単なる『プラシーボ効果(思い込みによる効果)』だ。それは『悟り』とは一線を画すものなのである。

 

プラシーボ効果の実力

確かにプラシーボ効果の力は甚大なものがある。

 

『思考の力を侮る人間は、人生に敗北する。』

 

だが、それと『悟り』とは全く違うものだ。例えば、そのプラシーボ効果によって自分が犯罪のカリスマや稀代の革命家だと思い込み、犯罪者になることだってある。『洗脳』などはどうだ。どれもこのプラシーボ効果が関係しているわけだ。つまり、人間は間違った情報も、プラシーボ効果によって真実だと思い込んでしまうことがある。そしてその効果は甚大であり、それがなかなか人が洗脳から解けない理由の一つでもあるのだ。

 

神と人間

モーセの十戒の言葉、そしてアッラーの実態についてをおさらいすると、そこに見えてくるのは、

 

『神は人間ではない。人間の姿をしていない。』

 

という事実である。ただし、一つだけ注意しなければならないのは、イエス・キリストである。この人物の存在によって、神が人間の姿をしている、という考え方が定着してしまっている。イエスが処刑された後、三日後に墓場から死体がなくなっていた。そして多くの弟子がイエスがよみがえったと言っているのだ。

 

モーセブッダ孔子ソクラテスピタゴラス、マニ、ムハンマド、どの人物の弟子も死後の復活などは認めていないが、このイエス・キリストだけは、弟子たちが『復活を見た』と言っていて、『人間』なのか『神の生まれ変わり』なのか、史実では証明できないという。

 

『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。

歴史家が考え付く仮説は三つだ。

 

  • 復活したというのは、イエスの弟子たちの嘘であるという説。
  • 集団的な幻想か幻覚によるものだという説。
  • そして三つ目は、弟子たちは真実を述べており、死者の中からよみがえったイエスを本当に見たのだという説。

 

最後の説は、人間の理性に照らして考えると、いまだに全くの謎である。

 

イエス復活の実態は、この三つの可能性が考えられている。また、『PRESIDENT(2011.12.5号)』では、作家で、元外務省主任分析官の佐藤優氏はこう言っている。

信仰はつかみとるものではなく、うつる(感染する)ものだ。イエスが官憲に逮捕された時、弟子たちは怖くなって全員逃げ出した。しかし、十字架にかけられて処刑されたイエスが復活した後は、弟子たちは殉教の死を恐れない強固な信仰をもつ様になった。イエスは、

『受けるよりは与えるようが幸いである』

 

という生き方を徹底した。そして、最後に他の人間のために命まで与えたのである。

 

イエスが生きた時代は、哲学でいう素朴実在論が人間の思考を支配していた。夢で見ることが、昼間に現実で起きたことと同じ重みをもつ。処刑されたイエスと夢の中で出会い、話をしても、生きているイエスと会ったのと同じように受け止められる。それだから復活を超自然現象ととらえる必要はない。イエスの生き方が、弟子たちにうつったのである。同志社の神学教師たちにも、そして私にも、イエスや弟子たちの『受けるよりは与える方が幸いである』という生き方がうつっていたのである。

 

これもその二つ目の仮説『集団的な幻想か幻覚』に含まれるだろう。真実のところはわからない。この話は、この世界にイエスの復活を信じるキリスト教徒がいる以上、永久に解決することはないだろう。

 

 

『いる』ではなく『ある』

だが、私が考えているのは、『神は、いる』のではなく、『ある』のではないかという発想だ。つまり、『四つ目の解釈』の存在の可能性があるのだ。

 

『モーセの十戒』のこの記事にも書いたが、

 

私は2015年2月、映画『エクソダス神と王』を観た時、その確信が更に強化されることとなった。主人公であるモーセは、キリストよりも1300年前に生まれていた人間であり、歴史上では『神の代理人』とされているわけだが、そのモーセが、作中で『神』と出会い、そしてその子供の姿をした『神』は、こう言ったのだ。

 

『私は、ある。

 

つまり、『いる』のではなく、『ある』。その言葉の違いを理解した時、今回の十戒の言葉をもう一度よく見てみると、

 

『あってはならない』

 

となっていることがハッキリとわかるようになっているのだ。

 

その他にも私はメル・ギブソン監督の『パッション』という映画を観た。その映画は聖書に忠実であるということが私にはすぐわかった。キリスト教が発足する前のイエスの実像に迫る研究を20年近く続けた、レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』を読んでいたからだ。

 

 

そして映像を通して、更に聖書の教えと、イエス・キリストの実態を分析した。すると、ますます私のその見解でつじつまが合うことがわかっていった。更なる詳細は、『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ』の記事に書く。そしてもしその見解が正しければ、ブッダや孔子、ソクラテスといった『唯一神を信仰しない者』の異彩や威厳についても説明がつけられるようになる。

 

その記事で、『四つ目の解釈』について明らかにする。

 

 

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