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マルクス『戦いか、死か。血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

ふむ…。

運営者

考察

まず、『戦い』と『血まみれの戦い』として、わざわざ二つに分けて挙げられていることから、この二つは、違う意味での『戦い』ということが想定できることになる。戦いにもいろいろあって、例えば、殴り合いや戦争もそうだし、目の前のスイーツを食べるかどうか、でも食べれば太るし、という、自分の心の中での欲望との葛藤のシーンでも、この言葉は使われることになる。

 

聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

 

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

 

 

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。

 

シェイクスピアも、

 

と言っている様に、我々には『聖性、魔性』の両面が備わっていることが浮き彫りになり、だとすると、冒頭に挙げた『戦い』のうち、その『葛藤』は、『聖性と魔性が意見を言い合っている』というイメージが想像出来るわけだが、そこにあるのも間違いなく『戦い』なのである。

 

だとすれば、『血まみれの戦い』は、戦争の方向。そして『戦い』は、こうした『魔性との戦い』と解釈することが出来る。もちろん、マルクスのこの言葉だけを見ただけでは、同じ的を射ることは難しい。しかしここでは、こう考えることもできる、ということにしておく。

 

では話を戻すが、『戦いか、死か』で区切りをするということは、そこが一区切りであり、その『戦い』における対極が『死』であるという考え方はどう説明するかというと、書いた様にここでは、『聖性と魔性の戦い』なわけで、考えたらわかるのだが、『魔性に支配されている人間』は、本当に人間だろうか。

 

 

僕をふったから。だからあの恋人を殺したんです。でも、これであの世で一緒になれるなあ。あははは!

 

と言って、ストーカー殺人か何かをした人間に対し、『魔が刺した』の一言で済ますつもりだろうか。済まさないのであれば、それはその人物を『道を間違えた人』、『人の道の外を歩いた人』、つまり、『外道』であると認識している証拠である。

 

ルソーは言った。

 

なるほど。そう考えたら、魔性に支配されて行動した人間は、生きていることにはならない、というイメージが、想像にた易くなる。という事は何だ。そうだ。『死』である。それは人として生きていないわけで、それは『死』を意味するのである。魔性との闘いに敗れた者は人として死ぬ。これであれば、マルクスのこの言葉に説明がつくようになる。

 

では次に『血まみれの戦いか、無か。』という言葉についてはどうだ。説明したように、これが『戦争』の方向で仮定したのであれば、そこにある、突き動かすエネルギー源は何か。どんな理由があって、そういうことになってしまったのか。なぜ戦争が巻き起こってしまったのか。退けない理由があるのか。抗う理由があるのか。とにかく、そこにあるのは『無』ではなく、『エネルギー』である。

 

今、世界を震撼させている『自称イスラム教徒のテロリスト』たちは、『聖戦(ジ・ハード)』という詭弁を盾に、テロリズムを行っている。しかし、本来イスラム教における『ジ・ハード』とは、『抗う為には人を殺してもいい』という意味ではなく、『神の為に奮闘し、努力すること』だという。つまり、『戦い』だ。そしてそれは『血まみれの戦い』ではない。『聖性と魔性の戦い』なのだ。

 

どう戦うか。何と闘うか。これは、全ての人間が、このたった一度の人生で問われているテーマである。そして、断じてその解釈を間違てはならないのだ。

 

 

 

 

 

MEMO

※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。

 

Check

こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。

 

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