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トルストイ『汝の心に教えよ、心に学ぶな。』

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ふむ…。

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考察

フランスの小説家、ブールジュは言った。

 

心に聞いてしまうと、心はおそらく、私利私欲を優先するように仕向けて来るだろう。そんな心は、逆にこちらから諭して、支配するように努めなければならない。

 

聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

 

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

 

 

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した(差した)』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。

 

『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

 

人間は、『魔に刺されてはいけない』のである。魔性を聖性が諭して、管理する。それが人間の責務である。善玉菌を優位にして、悪玉菌を劣位にするのと同じことだ。

 

『汝の心に教えよ、心に学ぶな。』

 

アインシュタインはこう言っている。

 

アインシュタインの言葉を聞くと、『心の方に従え』という見解が持てるようになる。だが、ここでも『良心』と出ているように、心とは、『良心』と『悪心』の二つがあるのだ。そのうちの、良心の方に従うべきであると。これは今説明した、『聖性と魔性』の考え方と同じである。

 

自分の良心や聖性。そして、心底の本音を理解している人はそう多くはない。だが、元来人間はとても賢い。『優先順位』がよくわかっている人間は、自分が本当にやるべきことをやらずには、次の段階に進むことができないものである。

 

例えば私は家庭内の宗教問題が未解決だった10代の頃、勉強など何一つやる気にはならなかった。部屋も電気を付けっぱなしで寝ていたし、後片付けもぞんざいにしていた。

 

クリスチャン

 

『それよりも先に片づけるべきことがある』と、心の底で理解していたからだ。しかし、自分一人の力では解決することができなかった。かといって、その問題を見て見ぬふりをして、突きつけられる毎日の義務や責務をこなしていくほど器用でもなかった。

 

ある、子を失った母親は、その問題についての心の整理がつかず、毎日をふさぎ込んでいるようだった。子供の部屋も残ったままだ。扉を開けることができない。自分のせいで子を失ってしまったという自責の念を抱えて、毎日を悲観的に過ごしていた。

 

なぜだろうか。人が前を向いてその道を全力で歩いていくことができない理由は。それは、心底に『未解決問題』を抱えているからだ。そこに目を向け、その問題を解決するべきだ。それが自分が本当に望んでいることなのだから。

 

元来人間はとても賢い。『優先順位』がよくわかっているのだ。その優先順位を決めているものこそ、自分の本当の声だ。その声に耳を傾ける必要がある。時には、丸一週間目をつぶり、瞑想することも必要になるだろう。しかし、それが必要ならそうするべきだ。たかだか一週間の時間で一生が報われるなら、やるべきだ。

 

知っているだろうか。 ブッダが、ブッダ(悟りを開いた者)になったきっかけを。

 

ブッダ

 

彼はゴータマ・シッダールタという名前で、王子の身分で生まれた。しかし29歳の頃に家を出て、この世に存在する負の要素の解決策を探す旅に出た。王族の身分として、ありとあらゆる欲を満たしたシッダールタは、それから6年間、逆に自分の身体を傷めつけることで、『今までの自分では決して見ることのできなかった境地』を見ようと奮闘した。

 

だが、何も見つけられなかった。どんな苦行をしても、苦から解放されることはできない。そして35歳になったシッダールタは、瞑想を始めた。『ヴィパッサナー瞑想』である。

 

瞑想

 

ヴィパッサナーとは、『あるがままを観る』という意味だ。宇宙があり、地球があり、太陽があるから人間がいる。人間の他にも動物や昆虫がいて、たくさんの植物があって、酸素を出してオゾン層を作って、地球の生命をはぐくんでいる。

 

小さな動物を大きな動物が食べ、その死骸はまた違う動物や昆虫の餌となる。そうして残った死骸や糞尿は、すべて大地に還り、肥料となって植物を実らせる。その植物は木の実を実らせ、違う動物や昆虫の餌となる。

 

全ては循環している。全ての命に、無駄がない。人間も同じだ。人間は死ぬが、それは他の一切の生命と同じだ。苦労から抜け出すことを望むのは、『人間だけが望むこと』だ。他の一切の生命とて、同じ環境で生きて、愚痴一つ言わない。言葉をしゃべらないからだ。

 

そうか。自分は間違っていた。求める方向を、間違えていた。自分は不老不死にでもなろうとしていたのだろうか。苦労も苦しみも一切の悩みもなく、この人生をいつまでも生きる。そんな『理想像』など、まやかしにすぎなかったのだ。

 

ヴィパッサナー瞑想でたどり着いた境地は、『ブッダ』の称号にふさわしいものだった。釈迦一族の出身であったシッダールタの通称は『釈迦』だが、彼はこの世のあるがままを観て、ブッダになったのである。

 

『汝の心に教えよ、心に学ぶな。』

 

トルストイのこの言葉は、かつてのシッダールタにも通用する言葉である。確かに心は宇宙のように無限であり、その心でヴィパッサナー瞑想のような内観をして、そこで得る境地はある。

 

だが、かつてシッダールタが修行に出た理由が『苦しみから解放されるためにはどうすればいいか』という願いだったことを考えればわかるように、人の心や志は、必ずしも崇高かつ高潔で、純潔なものとは限らない。的を外し、自分本位かつ人間本位の発想になっている場合があるのだ。

 

シッダールタが6年の苦行をしても一切ブッダの境地にはたどり着かなかったが、瞑想をしてその境地を得たように、心は『更新』することができる。かつての私も、子を失った母親も同じだ。心を更新し、次の境地を見るのだ。

 

エネルギー不変の法則』というものがある。木が燃えたら、確かに木の物質的なエネルギーは消える。だが、燃えて気体になった熱エネルギーはそのまま空(宇宙)に放出され、宇宙のエネルギーの総和は、結果として変わらない。その真理を突いたのが、『エネルギー不変の法則』だ。

 

 

いいんだ。悩んで。苦しんで。それが人生だ。そして最後には必ず死ぬ。みんな平等に死ぬ。そして命は受け継がれ、すべては循環し、この世のエネルギーの一つとなる。この境地を教えるのだ。自分の心に。

 

 

 

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