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明治維新を進めろ!『廃藩置県』で小国家『藩』を滅亡させ、天皇を中心とした集権国家を作れ!

『明治維新』

幕末の志士が命を燃やす!榎本武揚と土方歳三がもし『戊辰戦争』に勝利していたら、この国に『蝦夷共和国』が存在していた?

 

上記の記事の続きだ。1868年。戊辰戦争における最終戦『五稜郭の戦い(1869年5月)』が始まる前に、明治時代は始まった。3月、明治新政府の基本方針として『五箇条の御誓文』が発布され、古い因習の打破や天皇親政などが宣言された。

 

親政

君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)のこと。

 

五箇条の御誓文(現代表記)

  1. 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
  2. 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
  3. 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
  4. 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
  5. 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

 

流れを見て分かるように、明治天皇が指揮を執ることになったわけだが、彼は自分の意志ではなく、『国民の要求』、『時代の要請』によって最前線に立つことになった人物だ。したがって、最初は徳川最後の将軍慶喜が推測した通り、慣れない政治にてこずったという。だが、次第に頭角を現すようになり、憲法草案審議の際には立派な責任者となっていた。審議中に自身の第四皇子である昭宮猷仁親王(あきのみや みちひとしんのう)が亡くなったというのに、明治天皇は会議が終わるまで席を立たなかったというのである。

 

[幟仁親王が揮毫した御誓文の原本]

 

『五箇条の御誓文』は取り急ぎの政府の方針だった。その後、徐々に方向性を定めていく。実際に政治の中心を担ったのは公家出身の岩倉具視と、『維新の三傑』だった。

 

維新の三傑

  1. 西郷隆盛(薩摩藩)
  2. 大久保利通(薩摩藩)
  3. 木戸孝允(長州藩)

 

本来ならばここに土佐の坂本龍馬らも名を連ねたのだろうか。彼がいた土佐藩主の山内豊重が『幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)』なのだから、そういうこともあり得たのかもしれない。

 

幕末の四賢侯

  1. 福井藩第14代藩主:松平慶永(春嶽)
  2. 宇和島藩第8代藩主:伊達宗城
  3. 土佐藩第15代藩主:山内豊信(容堂)
  4. 薩摩藩第11代藩主:島津斉彬

 

ちなみに岩倉具視は、1867年12月に『王政復古の大号令』を出し、徳川最後の実力者、徳川慶喜の動きを封印した人物だ。これによって、朝廷主導の新政権樹立が宣言され、江戸幕府は完全に廃絶することになってしまった。そしてなんと彼の玄孫は、タレントの加山雄三である。

 

ある時加山は、バブル時の選択肢を誤り、23億円の負債を抱え倒産。何とか運営したホテルが18億円で売却されたが、5億円もの借金が残っってしまった。1969年の『フレッシュマン若大将』以降低迷した同シリーズが1971年に終了、映画出演の減少もあいまって、かつてない不遇の時代を迎え、ナイトクラブ、キャバレー回りをするも、ギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へと追い込まれた。

 

当時は夫婦で卵かけご飯だけ食べて生活したという加山だが、10年かけてこれを完済。その時、加山雄三が言ったのはこうだ。

 

加山雄三

ご先祖様の岩倉具視が言ったのは、『弟子に金を残すな。不幸になる』というものだった。

 

つまり、彼ら家系にあったのは『本物の教え』。私の好きな言葉にも、

三流は金を残し、二流は事業を残し、一流は人を残す。

 

という言葉があるが、彼らにあったのは間違いなく『一流の家訓』であり、これを理解できない人間は一流の素質はない。岩倉具視がどれだけの人物であるかということがわかるワンシーンである。下の画像を見て、これに関連する老子の言葉を思い浮かべた人は知者である。

 

 

さて、『王政復古の大号令』、『五箇条の御誓文』は京都で出されたが、西郷隆盛が江戸城を無血開城したわけで、江戸城は新政府に明け渡される。江戸は『東京』と名を変えるようになった。江戸城があった場所というのは、現代を生きる日本人が知らないはずもない、東京都千代田区の、『皇居』がある場所である。そこに行けば、いつでもお堀の池と物々しい城壁を見ることができる。

 

上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。

 

 

かくして日本の中心は京都→東京へと移り変わる。江戸が『東京』に改称されたのはこの時だ。大阪に遷都する話もあったが、すでにこの時の東京は『世界でも有数の大都市』になっていて、その状況に乗じてここを都にしたのである。京都には『京都府』が置かれ、東京に対抗して京都を『西京(さいきょう)』と呼ぶ風潮も広まったが、この頃から京都のことを『京』と呼ぶのは減ってきたと言えるだろう。

 

それまでは『京の都』だとか、『都がある京』だとかいう理由で京都のことを『京』と呼び、『都があるのは当たり前』という前提で語られることが多かったが、長い間都があったこの関西の地は『地方』となり、東の都、東京がこの国の中心となったのである。ちなみに下記の記事に書いたように、源頼朝が初めてこの国に『西の朝廷に対する、東の幕府』を作ったときは鎌倉だったわけだが、なぜその場所にしたかというと、この地が源氏ゆかりの土地だったからだ。地の利もあった。周囲を小高い丘が囲み、南に相模湾を望む鎌倉はまるで『天然の要塞』だったのだ。

 

さらば京都!貴族の代わりに武士(武家)が国を作る『鎌倉幕府』が日本史を大きく動かした!

 

だからもちろん鎌倉の地も頭をよぎった人がいるだろうが、すでに徳川家が江戸城を中心に政治を行っていたことや、前述していたようにこのエリアが発展していたことを理由に、江戸がこの国の中心となり、『東京』が誕生したのである。

 

9月には、『慶応』から『明治』に年号が変わり、この頃から『一世一元』、つまり天皇一代につき一つの元号を使う制度が用いられた。現在は令和であり、令和天皇がいる。

 

明治天皇 睦仁(むつひと)
大正天皇 嘉仁(よしひと)
昭和天皇 裕仁(ひろひと)
平成天皇 昭仁(あきひと
令和天皇 徳仁なるひと)

 

明治政府が行ったのは『中央集権化』の確立だ。何度も書いてしまうことになるが、重要だし、わかりやすくまとめているので何度でも見ていこう。

 

かつて、中大兄皇子が『天皇を中心とした集権国家づくり』を作るために、中臣鎌足と『乙巳の変』からの『大化の改新』を起こし、力をつけていた豪族の蘇我氏から政権を皇族が握ったのが645年。

 

中大兄皇子が蘇我入鹿を倒して『大化の改新』が始まる!天皇を中心とした中央集権国家を作るのだ!

 

その後、仏教、儒教、神道、アニミズム、御霊信仰などの精神体系と共に国づくりをし、

 

桓武天皇はなぜ『仏教の腐敗』として称徳天皇と道鏡の『鎮護国家』時代を批判したのか?

『儒教、仏教、神道、アニミズム、御霊信仰』日本人の心に独特の精神世界が作り上げられていく

 

班田収授法によって年貢を納めるシステムができ、その『資産』である田んぼを巡って様々な問題が生じ、その中で、それを守るために武装集団が結成され、その中からこの国に『武士・侍』が生まれる。

 

武士 武装化した有力農民、豪族、下級貴族の子孫
貴族の身辺警備のための武士
滝口の武士 宮中の警護のための武士

 

622年に49歳で生涯を閉じた聖徳太子は、初めて『忍者』を使って情報を集め、政治を行った人物として知られているが、ここで現在でも世界中の人が『日本』と聞いて連想する『忍者、侍』といった役者が揃うわけだ。

 

忍者 600年頃
武士、侍 900年頃

 

『他氏排斥』でライバルを蹴落としまくった藤原氏の権力が肥大化!そして『侍』が動き出す!

 

平将門がその武士の名を大きく轟かせ、平氏、源氏といった『武家』が強い時代が到来する。

 

『武士』の名を轟かせたのは俺だ!死して尚恐れられた『新皇』平将門はなぜ東日本で暴れた?

 

その武家の中から源氏である源頼朝が『鎌倉幕府』を作り、この国に朝廷以外の大きな権力が誕生し、幕府はこの国の軍事・警察を担当することになった。

 

さらば京都!貴族の代わりに武士(武家)が国を作る『鎌倉幕府』が日本史を大きく動かした!

 

だが、そのうちそこでも腐敗が起き、朝廷と足利氏が手を組んでこれを打倒。そして、京都の室町に『室町幕府』という新しい幕府ができる。しかし、天皇自身を頂点とした『建武の新政』は強引すぎてわずか3年で滅びる。幕府は足利尊氏が擁立する光厳天皇と、吉野に逃げた後醍醐天皇とで、二つに分かれる。『室町・南北朝時代』である。

 

足利尊氏(光厳天皇) 室町(京都)に幕府を開く
後醍醐天皇 吉野(奈良)に朝廷を作る

 

武士代表!足利尊氏が『建武の新政』をわずか3年で滅ぼし、日本の朝廷が2つに分裂した!(南北朝時代の到来)

 

六代将軍に選ばれた義教(よしのり)が『恐怖将軍』として独裁政治を貫き、多くの有力者が殺され、排除されていく中で、窮鼠が猫を噛む。そして『応仁の乱』によって、『戦国時代』に突入する。戦国時代とは、国家の秩序を維持する能力を失った幕府の正体が露見した『応仁の乱』で、実力で領地を獲得する戦国大名が活躍する時代である。それは上の階層で甘んじる猛者たちが目を離した隙に鼓舞され肥大化した、人間に本来眠っているはずの一大エネルギー(猛獣)が巻き起こした時代だった。

 

 

戦国時代のきっかけを作った人物 足利義教
戦国時代の端緒となる出来事 嘉吉の変(1441年)
戦国時代が実際に始まった時期 享徳の乱(1454年)
戦国時代に突入したと言える時期 応仁の乱(1467年)
戦国大名として最初に下剋上した人物 北条早雲(1476年)
戦国時代に突入した明白な境界線 明応の政変(1493年)

 

妻・日野富子がいなければ義政の政治放棄も『応仁の乱』もなかった?水面下で動いた猛者と『猛獣』とは

 

そして戦乱の時代が始まる。

 

 

といった名将たちが大暴れし、鬼才・信長が圧倒的な基礎を作り、策士・秀吉が天下統一を成し遂げ、名将・家康が260年続く『江戸幕府』を開いた。これが、源頼朝の鎌倉幕府、足利尊氏の室町幕府に続く三つ目の幕府であった。それが1603年。

 

日本史上最大の会戦『関ヶ原の戦い』のカギは天才中の天才『小早川隆景』の息子が握っていた!

 

それから264年。1867年10月に、ついに『大政奉還』となる。そして今回に至るわけだ。今までは、『幕藩体制』として、将軍の家臣である大名が、それぞれの小国家とも言える『藩』を統治する仕組みで、それがゆえに、

 

  • 薩摩藩
  • 長州藩
  • 土佐藩
  • 会津藩

 

等といった勢力が勃興し、そこから生まれた『維新の三傑』などの存在は、結果的に『国家の脅威』となったわけだ。彼らは国家の防衛を果たした重要人物だが、旧幕府軍として戦死した新選組などの武士たちからすれば、彼らは『国敵』そのものだった。

 

徳川家光が『武断政治』の総仕上げとして『幕藩体制』を築き、この世界に『対人恐怖症』が生まれた!

 

下記の記事に書いたように、この時すでにイギリスとフランスは、この国を植民地化させようと水面下で動いていた。事実、『薩英戦争』や『下関戦争』にて圧倒的な欧米の軍事力を目の当たりにした薩摩・長州藩は、『攘夷(外国を討つ)』ではなく、『倒幕』に目を向けるようになった。

 

長州藩

攘夷は無理だ!では、せめて倒幕!
洋式の軍備を整えて近代化するなら、古い体制の幕府が邪魔だ!

薩摩藩

 

なぜ仲が悪かった薩摩と長州は、同時期に攘夷を諦めたのか?水面下にあったイギリスとフランスの植民地争い

 

つまり、その『倒幕』を果たした今、ようやく『攘夷(外国を討つ)』に目を向けられるわけだ。こうした中、

 

国が一つにまとまっていなければ、外国という強豪には勝てない!

 

という考えが確実に浮上化していく。

 

例えば、中世ヨーロッパでは『封建国家』が当たり前だった。しかし、それでは国教が曖昧になり、王たちは『戦争を起こしても、どのぐらいの諸侯や棋士が戦場にかけつけてくれるのかわからない』という悩みを抱えていた。それまでは、明確な領土という観念を持たず、契約に基づいて主君に仕えたりする世の中の仕組みだったが、このあたりの時代から『国をあげて戦争ができる国』にするために、『主権国家』という新しい国家のスタイルが確立されるようになった。

 

封建国家

複数の主君に仕えることもできる土地のやりとりによる契約関係の集合体。近代国家と異なる点は主に、明確な領土という観念を持つものではなく、契約に基づく個人の人的結合から成る点である。

主権国家

自己の支配領域を明確にし、君主のみが排他的権力を行使する国。

 

『封建国家→主権国家』へと変わることで、曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけだ。たとえば、現在の日本は『国民主権』という主権国家だ。だが、この時代には『国王主権』だったわけだ。初期の主権国家では、流れ的にも国王に権力が集中する『絶対王政』がとられた。

 

 

『封建国家→主権国家』へ!権力が国王に集中し『重商主義』に支えられながら『絶対王政』が実現!

 

日本の場合、国王はいないし、長い徳川一強時代の影響もあり、誰か一人が一強として存在すればいいという考え方はなかった。だからこそ天皇が中心となるが、その周りに維新の三傑や岩倉具視といった人物らが存在し、天皇以外の人間も大きな責務を負った。

 

しかし、まずその雄藩である『薩摩、長州、土佐、肥前(薩長土肥)』といった4藩は邪魔なわけだ。大久保利通と木戸孝允は、自身の藩でもあるそれらの藩主を説得し、

 

  1. 土地(版図)
  2. 人民(戸籍)

 

を天皇に返上させ、天皇を頂点とする中央集権化が図られた。この1869年の『版籍奉還(はんせきほうかん)』によって『藩』という小国家に勢いはなくなり、戦国時代、幕末のような全国各地で頻発する反乱や戦といった問題が起きないように予防された。ただ、旧藩主はそのまま『知藩事』という職名で統治を続ける話になったので、まだまだこれでは甘かった。

 

1871年、『廃藩置県』を断行。これによってようやく、

 

  1. 藩の廃止
  2. 知藩事の罷免
  3. 府県の設置
  4. 中央からの府知事・県令派遣

 

が行われ、中央集権体制が確立していくのである。現在『宮崎県知事』などというだろう。あの立ち位置にいたのは『大名』だったのだ。それがこの廃藩置県によって『県知事』、つまり『中央が派遣した公務員』という立ち位置になった。そしてこの時、琉球王国は島津氏の支配下にあったが、日本と清の両方に服属している形になっていた。

 

そこで、琉球王国とその国王尚泰(しょうたい)を日本政府の直属にした。蝦夷地はこの時すでに『北海道』となり、琉球王国が『沖縄』になるのも時間の問題だった。

 

蝦夷地が北海道に代わった年 1869年
琉球王国が沖縄になった年 1879年

 

まず、新政府はロシアの脅威に備え、蝦夷地を北海道と改称し、アイヌの土地を一方的に日本国に編入した。それによってアイヌの人々は土地を追われることになってしまった。1899年に『北海道旧土人保護法』を制定するも、それは形だけで実際には彼らの文化はないがしろにされた。1871年になると、台湾で琉球漂流民殺害事件が発生。これをカードに、日本は清に責任を押し付け琉球王国を変有しようとしたが、

 

台湾は我々の管轄外だ!中国ではない!

 

として責任放棄。仕方なく1874年に出兵し、琉球が日本に属することを直接認めさせた。そして1879年に軍事的な圧力をかけ、これまた一方的に琉球藩を廃止。『沖縄県』が誕生する。これによって尚泰は東京に移住し、琉球王国はここで滅亡した。

 

 

 

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