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桓武天皇はなぜ『仏教の腐敗』として称徳天皇と道鏡の『鎮護国家』時代を批判したのか?

『平安時代』

追い詰められた聖武天皇が上を見上げると、そこにはブッダの教えがあった。鎮護国家の誕生

 

上記の記事の続きだ。後継者を定めていなかった称徳天皇の後、藤原百川(ふじわらのももかわ)らの協議により、それまで続いていた天武天皇の系統の天皇に代わり、天智天皇の孫である『光仁天皇』が即位した。奈良時代は彼の時代を持って終わりを迎えるのであった。結局、藤原仲麻呂が道鏡に敗れ、藤原氏は政治へ介入できず、光仁天皇の次に『桓武天皇』が即位し、都も平城京から『平安京』に移された。

 

 

『794(なくよ)ウグイス平安京』である。794年のことだった。だが、そこに移る前にいくつかゴタゴタがあった。まず、桓武天皇は『長岡京』に遷都した。だが、ここは水害の問題や、関係者(藤原種次)の暗殺があり、造営の続行が困難となる。そして、より淀川の上流にある平安京に移ったのだ。

 

古墳時代の倭国(日本)を支配したのは『ヤマト政権』!そして『氏姓制度』で蘇我氏の勢力拡大を許し、歴史が動く!

 

この理由としては、平城京時代の『足枷』を取り払いたかったからだ。上記の記事に書いたように、ヤマト政権から始まった(はずである)この国の政治は、豪族、仏教といった『横やり』が多く、天皇を中心とした中央集権国家づくりの足かせとなっていた。平安時代とは、延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と言われる。

 

ここまでの時代の呼称をまとめてみよう。

 

縄文時代 縄目の付いた土器を使用していたから
弥生時代 東京の弥生町で土器が発見されたから
古墳時代 巨大な古墳を作ったヤマト政権という一大勢力が台頭したから
飛鳥時代 飛鳥に皇居があったから
奈良時代(平城時代) 「奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたから
平安時代 平安京が政治の中心だったから

 

平安時代は平安京、そして奈良時代は平城京が都だったから『平城時代』とも言われている。そう考えると、しつこいようだがやはり『弥生時代』だけがそのネーミングセンスが疑われる。確かに漢字の印象は格好いいが、もっと意味があると思っていたのに他の時代と比べてこれだけわかりにくい。弥生時代の特徴は、

 

  1. 弥生土器を使用したこと
  2. 稲作を始めたこと

 

の2つだが、そもそもその弥生土器は後で付けた名前だからどうとでもなるし、やはりわかりやすく『稲作』を連想させるような言葉で付けた方が良かった。格好良くしたいならそれを見つければよかっただけである。

 

追い詰められた聖武天皇が上を見上げると、そこにはブッダの教えがあった。鎮護国家の誕生

 

さて、話を『横やり』に戻そう。上記にも書いたように、鎮護国家の思想があり、仏教の真理の力を借りるのはいい。だが、それによって冒頭の記事にあったように、道鏡のような僧侶が天皇の座を狙うような事態を招いてしまった。こういうことが問題となり、桓武天皇はこれを『仏教の腐敗』と考えた。その腐敗が嫌になったのは僧侶にもいた。

 

  1. 最澄
  2. 空海

 

といった仏教の重要人物は、この時に頭角を現すようになる。彼らもまた真の仏教を求めて中国に留学し、空海は密教という新しい風を日本に持ち込んだ。こうして皇室や貴族層に加持祈禱(かじきとう)を中心とする密教が流行し、平安時代の主流となった。その密教の広まりと共に、曼荼羅などの仏画や不動明王像など特有の密教芸術が発展するのである。

 

加持祈禱(

神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること

密教

秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。

 

ちなみに、Wikipedia『紀伊山地の霊場と参詣道』にはこうある。

標高1000メートル級の山々が連なる紀伊山地は、太古から自然を神格化して崇める信仰が盛んな地域で、古代の都がおかれた奈良盆地近辺の人々の信仰を集めていた。6世紀に大陸から日本に仏教が伝わってからは、7世紀後半に山岳修行の地となっていき、9世紀に伝わった真言密教は高野山、10世紀から11世紀にかけて盛んになった修験道は吉野・大峰や熊野三山が主な修行の場となった。特に熊野三山は神道の信仰の場でもあった。高野山、吉野・大峰、熊野三山は三大霊場として、神仏習合の思想によって密接なかかわりをもち、各霊場へと結ばれる参詣道として、大辺路、中辺路、小辺路、大峰奥駈道、伊勢路、高野山町石道が整備されていった。

 

世界遺産に登録されている『紀伊山地の霊場と参詣道』は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)である。

 

[速玉大社にある絵 筆者撮影]

[熊野古道 筆者撮影]

[那智の大滝 筆者撮影]

 

この頃から畿内(京の都近辺)において、古来から存在するこうした神仏習合の日本独自の精神体系と、それに伴った文化が生み出され、そして育まれていった。

 

神仏習合

日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。

 

『和歌山県世界遺産センター』にはこうある。

紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていた。また、仏教も深い森林に覆われたこれらの山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に見立て、仏が持つような能力を習得するための修行の場とした。その結果、 紀伊山地には、起源や内容を異にする「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」の三つの霊場とそこに至る「参詣道」が生まれ、都をはじめ各地から多くの 人々の訪れる所となり、日本の宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及ぼした。


参考
紀伊山地の霊場と参詣道の概要和歌山県世界遺産センター

 

日本の中心的な仏教の宗派

 

 

中国史上唯一の女帝『則天武后』と、世界三大美女『楊貴妃』がいた『唐』の盛衰

 

『宗教が力を持って越権的になり、腐敗化する』というのは世界に目を向けてもよくあることだ。例えば一番有名なのが、下記の記事に書いたヨーロッパにおける『キリスト教の腐敗』である。

 

フランク王国の盛衰と分裂の裏で進んでいた『カトリック教会』の台頭と腐敗

 

当時、ローマ帝国が分裂してできた『フランク王国』があった。そのフランク王国の後ろ盾となっていた『カトリック教会』が、次第に西ヨーロッパで最高の権威をもつようになっていった。西ヨーロッパの各王に、彼らに逆らうだけの度量がある者がいなかったのである。

 

プロテスタント(抗議者)『ルター』たちはなぜキリスト教を変えようと立ち上がったのか?

キリスト教が支配した中世の1000年間では哲学はほとんど発展しなかった

 

そんな中、上記の記事に書いたようなことが起こるわけだ。

 

  • 十字軍の遠征(1095年)
  • 『神聖な義務(宗教裁判)』の開始(1231年)
  • 法王庁が免罪符を販売

 

ここにあるのは『権威を持ったキリスト教の腐敗』である。ギリシャ哲学が1000年の歴史の幕を閉じ、『人間精神の暗黒時代』とも言われた中世とルネサンス時代に突入した。ここからは、どうしても哲学が『神学』と向き合わなければならない時代へと突入する。

 

暗黒時代

戦乱、疫病、政情不安定などの原因により、社会が乱れ文化の発展が著しく停滞したような時代。また、文明全体に及ぶ大きな事象でなくても、特定の芸術・技術・文化などが為政者や宗教組織から弾圧を受け衰退したり、革新者の不在などの理由で停滞した時期を指して、暗黒時代と呼ぶこともある。

中世

古代が終わり、近代にいたるまでの1000年間。ローマ帝国滅亡後の1000年間のこと。

 

この時代が『暗黒時代』と言われ、そして哲学から『神学』へと注目が集まったのは、それまでヨーロッパを支配していたローマ帝国が没落した事実があったからだ。その地を巡って様々な諸国が乱入してきて、地は混沌に陥った。

 

STEP.1
キリスト教がローマ帝国滅亡後の諸国をまとめる
STEP.2
しかし哲学者と信仰者で意見が対立する
STEP.3
アウグスティヌスがそれを調整する
STEP.4
しかしその時の発想がキリスト教の悪しき部分を助長させる
STEP.5
キリスト教が権力を持ち、越権的かつ排他的になる
STEP.6
宗教裁判所を設置する
キリスト教の教理に背き、教会の権威に挑戦する者を処断した。

 

[アウグスティヌス]

 

アウグスティヌス430年に他界している。カール大帝が死んだのは814年。神聖ローマ帝国が作られたのは936年。これらの間には500年以上の間隔が空いているが、この膨大な時間をかけて、キリスト教はじわじわと、だが確実にその勢いを上げ、それと同時に特権の乱用と越権行為にひた走る『腐敗問題』も生んでしまうようになってしまったのである。

 

そんな暗黒時代は実に1000年間も続いた。これは膨大な時間だ。そして、14世紀にまずそのキリスト教の『神中心の考え方』に対抗する『ルネサンス時代』があり、そして登場するのが『ルター、カルバン、ツウィングリ』だ。『宗教改革(1517年)』としてキリスト教の腐敗に立ち向かい、新しい体制に改善しようと立ち上がったのである。

 

ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった芸術家たちが『ルネサンス時代』に大活躍できた理由とは

『カトリック』や『プロテスタント』らに分派することを肝心のイエスは望んだのか?ドイツ三十年戦争の行方

 

そして、『仏教の腐敗』があった日本も大体同時期に『宗教の暴走』が行われている。やはり、それだけ『心』というものが人間の生きる中心軸であることがよくわかるワンシーンである。とりわけ、昔にさかのぼるほどそうなる。そもそも、冒頭の記事にあるように、道鏡が受けた宇佐八幡宮の神託は、仏教的ではなく、神道的である。だがどちらにせよ、『神様仏様』の精神が国のトップの行く末を決めるほどだったのだ。

 

それはつい最近まで見られることだった。かつてこの国にも、過剰ともいえる『天皇崇拝』の発想があった。天皇がラジオで言葉を発すれば、多くの人はそれを正座して聞いた当時の人は『天皇』と呼び捨てにすることはできず、『天皇陛下』と呼ぶことが当然だった。

 


参考
終戦の詔書(口語訳付き)iRRONNA

 

天皇が『神』なのに『寿命で死ぬ』理由が衝撃的だった!

 

天皇の神話については上記に書いたが、古事記と日本書紀に書かれているものもこの日本神話だった。この日本最古の歴史書には、基本、神代(イザナギ、イザナミ→初代天皇の神武天皇)から王朝が一度も断絶することなく天皇家が統治し続けてきたことを強調しており、戦前の天皇崇拝国家だった時期までは、これらの神話の要素はすべて史実として扱われていた。

 

[天岩戸神話の天照大御神(春斎年昌画、明治20年(1887年))]

 

人々が『テレビ』なるものを最初に視聴したときの話を考えてみよう。ブラウン管のモニターに映し出された白黒の映像に、人々の心は魅了されたのだ。そして、テレビ所有者がいると聞けば訪れて、皆で一緒になってテレビにくぎ付けになって、手を叩いて喜んだ。その時、テレビの視聴率はどうだ。萩本欽一、『おしん』等の時代まで遡ったとき、そこにあったのは視聴率『40%』、あるいは『60%』というような、現在では考えられない数字だった。

 

おしん

連続テレビ小説の定番である“戦中と戦後の混乱期を逞しく生きた女一代記”の一つ。1983〜1984年の平均視聴率は52.6%、最高視聴率62.9%(1983年11月12日放送 第186回)。これはビデオリサーチの統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録となっている。

 

では、その理由はなぜか。それは『それしか選択肢がないから』だ。つまり、人々の心の中にあったのが『おしん』一択。多くの人が心を一つにし、一つのことに夢中になったからあり得たことだった。

 

 

戦後からは70年。『おしん』からはたったの40年しか経っていない。しかしその短い時間の中で確実に人間世界は進化し、『多様性』も尊重されるようになった。選択肢が増え、一人一人の個性にカスタマイズできるように供給が増え、『LGBT』のようなマイノリティ(少数派)でさえ受け入れるべきだと主張されてきている。

 

映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』では、コンピューターの概念を初めて理論化し、エニグマの暗号解読により対独戦争を勝利に導いたアラン・チューリングという実在した人物の物語について描いている。

 

映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編

 

彼は同性愛者だった。しかし彼が息をした、戦争真っただ中の1940年代、同性愛はイギリスでは違法であり、逮捕されてしまったのだ。時代や環境によっては処刑されたこともあるだろう。それくらい同性愛というのはタブー視されていて、人間として認められた行動ではなかった。

 

過去に遡れば遡るほど『多様性と選択肢』が消えていく。そして、今から1300年以上も前のこの時代、そこで生きる人々の心にあったのは、今よりもうんと少ない知識と、偏った考え方。その中で、『どの道を歩くのが正解か』と教える宗教の存在は人にとってあまりにも大きな存在で、それと同時に気が付いたら身の回りにあった『神々』の存在も、偉大だった。

 

それゆえ、彼らはそれに『白黒テレビ』以上に身を任せ、依存し、夢中になった。そして喜ばしい結果が出れば手を叩いて喜び、悲しい結果が出ればそれは『リーダー(案内人、指導者)の失態』だった。人の心の案内をするのは、宗教家だった。だから、桓武天皇は道鏡のような人間が出てしまった奈良時代の仏教を『腐敗』として定め、

 

新たな案内が必要だ。

 

と考えたのだろう。実は、長岡京で藤原種次が暗殺されたとき、皇太子の早良親王の関与が疑われ、天皇は彼を配流。親王は無実を訴えたが、無念のまま命を絶った。

 

配流

流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である

 

すると、天皇の夫人や生母、皇后らが相次いで死去し、疫病、洪水といった不幸が続き、明らかに『親王の祟り』としか思えない出来事が頻発。それに怯えた天皇が、長岡京から平安京へと移したのである。そして、『平和が続くように』と祈られ、『平安京』と名付けられたのだ。更に、風水思想もあった。東の青龍、西の白虎、北の玄武、南の朱雀。この四神を軸にして考えたとき、

 

鴨川
西 山陰道
船岡山
巨椋の池

 

という立地にあるこの葛野の地は、四神相応としてつじつまが合うのである。

 

方位 四神 地勢 季節
青龍 流水
西 白虎 大道
朱雀 湖沼
玄武 丘陵

 

[白虎(高松塚古墳の壁画)]

 

737年、天然痘の流行で『藤原四子』の全員が亡くなってしまうという不幸がおき、人々はこれを『長屋王の祟り』と噂した。

 

  • 長屋王の祟り
  • 親王の祟り
  • 風水思想
  • 平和を願った平安京

 

そのどれもこれもが別角度から見ると『心構え一つの問題』であり、別にそんな風に考えなくても済んだ話。だが、当時の彼らにとってはこうした精神的な問題は、大問題だったのだ。

 

だが、道鏡は『殺生の禁止』という人として素晴らしい考え方を打ち出していた。それゆえ、奈良時代にあった仏教が本当に『腐敗』かどうかは前述した内容と照らし合わせながらよく考えて判断すべきである。ヨーロッパの暗黒時代にあったように、『逆らった者は処刑する』ようなことがあったわけでも、

 

これ(免罪符)を買ったら天国に行けるよー!

 

として、その『選択肢の少ない人間の心』を踏みにじったわけでもないのだ。かつて聖武天皇が信頼し、日本初の最高層位『大僧正(だいそうじょう)』になった『行基(ぎょうき)』のように、真心を持ってその道の探求に勤しんだ者だっていたのだから。

 


[行基菩薩坐像(唐招提寺蔵・重要文化財)]


参考
行基Wikipedia

 

 

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