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古墳時代の倭国(日本)を支配したのは『ヤマト政権』!そして『氏姓制度』で蘇我氏の勢力拡大を許し、歴史が動く!

『古墳時代』

わかっている最古の日本人の名前は『卑弥呼』!ではその前にいた『師升』とは誰か?

 

上記の記事の続きだ。卑弥呼の親族である壱与(いよ)の時代も、魏の次に興った『西晋王朝』とやり取りをしたのだが、266年を最後に邪馬台国が中国の史書からなぜか消えてしまい、日本のことを知ることは難しくなる。この期間は『空白の150年』と言われている。したがって、『弥生時代後期~古墳時代前期』の時代の詳細は不明だ。

 

紀元前5000年頃に現在のイラク地方で興った『メソポタミア文明』がなぜ有名なのかというと、そこで『世界最古の文字』が作られたからだ。文字があれば『国の名前や人物名』等を、その文字を解読して理解することができる。つまり、文字がない時代のことは解読しようがないので、メソポタミア文明よりも更に7000年以上前にあった中国の長江文明には何があったかわからないということなのである。

 

[楔形文字]

なぜ『メソポタミア文明』は世界最古の文明じゃないのに一番有名なのか

 

同じように、この『弥生時代後期~古墳時代前期』の時代の詳細を語ることはできない。唯一の手掛かりである『近所の中国』にある書物にも、この『空白の150年』については全く触れていないのである。このあたりも『卑弥呼、邪馬台国』という存在が謎めいたものになっている面白いところではある。

 

では、なぜ弥生時代の後のこの時代を『古墳時代』というのか。それは、鍵穴型の形を持つ『前方後円墳』が大和地方(奈良県)に存在し、その分布状況からこの地方に大きな勢力が存在したと考えられるからだ。そこで、確証はないが、この時の状況について以下のような呼称をつけ、これを中心として国が運営されていたと考えられている。

 

勢力名 ヤマト政権
中心人物 大王(おおきみ)

 

[大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵、大阪府堺市)最大規模の前方後円墳(5世紀前半-中頃の築造)。]


参考
前方後円墳Wikipedia

 

ちなみに奈良県にある『箸墓(はしはか)古墳』は、倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめ)の墓だとされているが、この人物が卑弥呼なのではないかとする見解もある。しかし、卑弥呼が死亡したとされる3世紀中期との時期にずれがあることや、古墳の規模および様式が中国の魏志倭人伝の記述と異なっているので、首をかしげる点もある。

 

[国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成]


参考
箸墓古墳Wikipedia

 

とにかくこのようにして、詳細は不明なのだ。中国の書物に書いてある情報を頼りに史実を知るしかなく、後はあり得そうな現実を想像するしかないのである。だが、この前方後円墳は、大王の墓の可能性が高い。5世紀前半に作られた大仙陵古墳から、こうしたいくつかの古墳を調べると、

 

ヤマト政権の大王を中心として、畿内を中心にこの国が統治されていて、その勢力は少しずつ全国へと拡大していった。

 

という事実が垣間見えることになる。前方後円墳は、北は岩手県、皆々鹿児島県まで広がっていること、また、副葬品に書かれた『貴重な文字』などから分析すると、このヤマト政権はほぼ全国を統治するほどの勢力を持っていたことがわかる。空白の150年は3世紀後半~413年だから、その間にヤマト政権が台頭し、邪馬台国に代わってこの国をまとめていたのだろう。

 

前方後円墳が大王の墓であるというのは、調査によってわかっていることだ。エジプトのピラミッドと違って調査も圧倒的にしやすいわけで、あれのようにいまだに謎が多いということはなく、大体のことはもうわかっている。

 

ピラミッドは、ファラオ(王)が死んだあと、また帰ってくることを前提として作られた墓であり、家のようなもので、だからピラミッドからはファラオ関連のミイラや、たくさんのお宝が発掘されるわけだ。最近では違う説も浮上していて謎が多いが、この前方後円墳も『王の墓』という意味ではピラミッドと同じなのである。まあ、権力、財力を持った者の所有物や住居、『墓』が大きくなるのは世界的な相場である。そういう相場とも照らし合わせて歴史をひも解けば、おのずと内容が浮き彫りになってくるのだ。

 

謎多き『エジプト文明』!かつて作られたピラミッドの全容はまだ完全に解明されていない

 

  • 銅鏡
  • 呪術道具
  • 埴輪(ハニワ)

 

といった様々な物も備えられていて、当時の権力者がかつての卑弥呼のように、呪術的なものを重要視していたことも推測できるのである。

 

[武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝]

[馬形埴輪(東京国立博物館)]

 

ヤマト政権は5世紀後半から6世紀頃にかけて勢力を伸ばした可能性が高い。この頃になるともう中国の書物に記録が残っているのだ。倭の五王が中国南朝の『宋』に朝貢し、倭王として認めてもらおうとしたことや、鉄資源を求めて朝鮮半島へ侵攻し、百済(くだら)新羅(しらぎ)と戦っていたことが宋の歴史書に記されている。

 

『宗』の英雄『岳飛』と売国奴『秦檜』。だが、守った南は北よりも遥かに熱かった!

 

倭の五王

  1. 讃(さん)
  2. 珍(ちん)
  3. 済(せい)
  4. 興(こう)
  5. 武(ぶ)

 

この宋の記述は、『空白の150年』以来のものだった。

 

当時の中国は分裂状態にあり、朝鮮半島の支配が緩んだ時期だった。中国の支配力が弱まったこの時期、現在『北朝鮮(北)、韓国(南)』であるこの朝鮮半島には下記のような国が存在していた。

 

高句麗(こうくり、こぐりょ)
中央西 百済(くだら)
中央東 新羅(しらぎ)
伽耶(かや)諸国

 

日本はこの時すでに『伽耶諸国』を支配下に収めたか強い影響力を持っていて、朝鮮半島に進出していた。百済ともやり取りがあり、関係は有効だった。しかし、遠いエリアである北の高句麗とは敵対関係にあり、ヤマト政権は百済や伽耶諸国と組んで彼らと戦った。高句麗の『好太王碑(こうたいおうひ)』の石碑の碑文には、これらの事実が記載されている。騎馬軍団を持った高句麗と戦うことで、日本は馬術を学んだようだ。

 

ただ、もしそれが本当なら日本はこの点では随分大陸から後れを取っていることになる。古代エジプト、あるいはアレクサンドロスの時代からすでに騎馬軍団は存在していたので、やはり島国である日本は何かと『ガラパゴス化』しやすいのだろう。

 

[古代エジプトの戦車]

[イッソスの戦い(紀元前333年)]

 

ただもちろんガラパゴスにもメリットはあって、この後に台頭するチンギス一家の勢力の侵略を、地理的な環境のおかげで阻止したこともある。

 

13世紀にあったチンギス=ハン一家の野望!『死体の山(ワールシュタット)』を作りながら領土を拡大

 

また、世界四大文明に匹敵する日本独特の『縄文文明』があったことを考えれば、どっこいどっこいだろう。大陸は様々な地域の人々の技術、思想、宗教、文化等が入り混じり、切磋琢磨するから進化も早いが、対立も多い。その点日本は『宗教戦争』などは起こらないわけで、一長一短があるということだろう。

 

縄文時代(新石器時代)にあった『縄文文化』は世界四大文明と並べて考えるべき高度な文明

 

馬術だけではなく、朝鮮半島からの『渡来人』によって、大陸の技術や文化も取り入れた。

 

  1. 鉄器や硬質の土器でる須恵器の制作
  2. 機織りや金属工芸などの技術
  3. 漢字や儒教などの学術

 

ヤマト政権は渡来人をグループ化して組織化し、日本の技術を進化させたようだ。

 

韓鍛(からかぬ)治部(ちべ) 鉄器づくり
陶(すえ)作部(つくりべ) 須恵器づくり

 

こうした技術や文化の伝播は、他国を侵略するとき、あるいは対立するときに同時に行われるのが相場である。例えば紀元前300年代に活躍したアレクサンドロスの東方遠征によって、ギリシャ文化が東へ伝播した。『ヘレニズム文化』である。

 

仏教では『偶像崇拝』が禁止されていて、仏像を作ったり、個人を崇拝することが良しとされていなかった。ブッダ(釈迦)の死後500年ほど経って、アレクサンドロス三世がエジプトを征服後、ペルシアを滅ぼし、西北インド(ガンダーラ地方)まで進出した。それによってヘレニズム文化が入ってきたことにより、『仏像』が作られるようになった。

 

 

『ギリシャ、ペルシャ』と世界を支配したアレキサンダー大王がこの世界に与えた影響とは

 

また、中世ヨーロッパは『暗黒時代』とも言われ、ただただ神のためにある1000年間で『哲学』もほとんど栄えなかった。しかし、キリスト教の腐敗と衰退により、それを打破する動きが活発化。その中で、14世紀の芸術家あたりから『神から人へ』視点を変える考え方が動き出した。この考え方は、実は紀元前の古代ギリシャの時代にあったものだった。

 

その中で、14世紀の芸術家あたりから『神から人へ』視点を変える考え方が動き出した。この考え方は、実は紀元前の古代ギリシャの時代にあったもの。ギリシャ神話の神々は人に姿が似ていて、それが理由で人が『神から人へ』視点を変え、『哲学』が生まれたが、それは世界に広がらなかった。『翻訳・伝播』されなかったからだ。

 

その後8世紀頃のイスラム帝国で『アル・マンスル』がバグダードを経済的に繁栄させ、彼の孫である『ハールーン・アル・ラシード』がアリストテレスをはじめとするギリシャの化学を記録し、保存。ギリシャ語文献がアラビア語へ翻訳され、哲学、論理学、地理学、医学、天文学などの学問が発展。11世紀末にはアラビア語文献のラテン語への翻訳も盛んに行われた。そうしてギリシャ・ローマの古典はムスリム商人によってラテン語に翻訳され、それが十字軍の遠征の通り道で栄えた場所などを通してヨーロッパへ流入。

 

ムスリム商人

なるほどこれがギリシャ文化か!翻訳翻訳…。
うーむ!かつてのギリシャは『神』ではなく『人』を見たか。

ヨーロッパ人

 

こうしてヨーロッパで『ルネサンス』時代が幕開けしたのである。

 

十字軍とイスラム国家が衝突しなければアリストテレスは忘れられ、『ルネサンス時代』も生まれなかった

 

このようにして世界規模の視点で考えると、こうして人間というものは互いに『切磋琢磨』して、潜在能力を引き上げてきたのである。それが『良い方向に』かどうかはさておいたとして。

 

とにかく当時のヤマト政権(4世紀~6世紀頃)は中々の力を持っていて、それは朝鮮半島にまで影響を及ぼすものだったということがわかるワンシーンである。日本は、朝鮮と勢力争いをしていて、中国に認めてもらおうとしていたようだ。それによって外交や軍事面で優位に立てたからである。

 

日本

朝鮮半島の勢力よりは強いことを中国に知ってもらおう!
ふむ。朝鮮半島の勢力よりは、倭の国の勢力が強いか。

中国

 

倭の五王だが、最後の『武』というのが『雄略天皇』であると考えられている。この古墳時代の武王は、弥生時代の卑弥呼同様、中国の王朝から認められている。この場合は、『新羅や伽耶の軍を束ねる将軍』として、宋の王朝から称号を得たようだ。

 

同一人物

武(王) 雄略天皇 ワタカケル

 

氏姓制度

 

さて、そうして力を持ったヤマト政権は、次に各地の豪族を政権内に組みこむための『氏姓制度(しせいせいど)』を考えた。豪族たちの『氏(うじ)』と言われた血縁関係を中心とするグループに、『姓(かばね)』といわれるその豪族の地位や政権内の立ち位置を示す称号を与えて統治しようとしたのだ。

 

姓の一例

臣(おみ) 中央の有力豪族
連(むらじ) 軍事・物の生産など、特定の仕事を持つ豪族
君(きみ) 地方の有力豪族
直(あたい) 地方豪族
首(おびと) 地方の小豪族

 

ヤマト政権(大王)

蘇我ちゃん、あんたは地方だけじゃなく、結構上の立場で広範囲をまとめんしゃい。
はっ!わかりもうした!

豪族(蘇我氏)

 

その中でも力を持ったのが『蘇我氏(そがうじ)』で、『大臣(おおおみ)』となった蘇我稲目は二人の娘(小姉君(おあねぎのぎみ)、堅塩姫(きたしひめ)を欽明天皇(きんめいてんのう)に嫁がせ、外戚として台頭した。

 

外戚(がいせき)

皇帝、王の母親または妃の一族のこと。

 

古墳時代は後期に入ると、古墳も巨大な『王のためのもの』ではなくなり、小規模な『民衆の墓』へと変わっていった。こうして古墳時代が終わり、次の『飛鳥時代』へと変わっていった。

 

 

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