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哲学の5つの主題[形而上学、倫理学、政治哲学、科学哲学、論理学]

『哲学(philosohia)』はいつ生まれた?カギを握る古代ギリシャ人と日本人

 

上記の記事の続きだ。こうして哲学は古代ギリシャで紀元前600年頃に誕生した。だが、哲学というのはその他の学問と違って、かなりその範囲が広い。例えば、

 

俺はこう生きると決めているんだ!

 

と主張する人の思想にあるのは『哲学』ということになる。数学は数字を扱う学問だし、経済学は経済だが、こういう風に、幅広い意味を持っているのが哲学なのである。だが、前回の記事に書いたように哲学というのは、『すべての学問の水脈であり根っこ』でもあり、『すべての学問の上にある』と言える重要な思想体系なのである。

 

ただ、哲学にも主要なテーマがある。それが以下の5つだ。

 

  1. 形而上学
  2. 倫理学
  3. 政治哲学
  4. 科学哲学
  5. 論理学

 

形而上学(Metaphysica)

 

形而上学というのは、『目に見えないもの』の研究である。元々古代ギリシャには、『目に見えるもの』の研究をする『自然学』があった。例えば、草、木、花。それら目に見えるものを研究する学問はあったので、それと差別化させるために、これを作った。

 

  1. 存在論
  2. 認識論

 

という2つに大きく分けられる形而上学だが、どちらにせよ考えてみればわかるように、これらは『目に見えないもの』だ。その他にも、

 

  • 精神
  • 時間
  • 空間

 

などもそうだ。こうした問題はすべて目に見えない。こういう問題を考えていこうというのが、この形而上学だ。また例えば、以下の記事で考えたようなことはすべてこの『形而上学』となる。つまり、神話、宗教について考えることも、この形而上学ということになるわけだ。

 

真っ暗な部屋で黒い布で目をふさぎ、『存在しない黒猫』を捕まえることはできるか? 人間は『殺生、盗、淫、妄語、糞尿食』を正当化することはできるか? あらゆる神話や宗教で共通する『死後の審判』とは?

 

ちなみに、形而下学は、この実体のない原理を研究の対象とする形而上学の反対であって、実体のあるものを対象とする応用科学の学問である。つまり、先ほど挙げたような『自然学』などは、『形而下学』と言うこともできるということだ。

 

倫理学

 

だが、それで言うとここから説明するものすべてが『目に見えないもの』の話になるので、形而上学では先ほど挙げたように『存在論』と『認識論』の2つを主に考えるわけである。

 

形而上学の2つの主軸

存在論 存在の本質の研究
認識論 知識に関する理論

 

そうなると、この『倫理学』というのは、

 

  • 道徳
  • 法律
  • 秩序

 

といったような『人の習慣、習性を決める学問』ということになる。例えば、

 

なぜこの法律があるのか?それで本当に正しいのか?

 

という風に考えることもそうである。存在論は『自分がなぜ存在するのか』という発想をするが、倫理学の場合は『人が社会の中でどう在るべきか』ということ、『どう調和していくか』ということについて考える。

 

政治哲学

 

政治哲学は、『国家の在り方』や『自由や平等について』を考える。政治というくらいだから、主に考えるのは国の在り方だ。国には政府があり、市民がいて、そこに主従関係や義務、権利等があるわけだが、その関係や状態は本当に正しいのか、ということについて考える。今まで様々な偉人、思想家、哲学者たちが政治哲学についての本を出している。

 

プラトン 国家論、法律
アリストテレス 政治学
アウグスティヌス 神の国
トマス・アクィナス 臣民と権利と義務
マキャベリ 君主論
ジョン・ロック 市民政府論

 

科学哲学

 

『科学』と言えば普通は、哲学とは真逆の学問だ。哲学や神学、つまり宗教や神話について考えることは『目に見えないもの』を扱う学問だが、科学は違う。例えば下記の記事に書いたように、稲妻、洪水、地震のような自然現象を見たとき、昔の人は知識がなかった為、そこに『恐ろしい存在』の面影を見た。

 

稲妻、洪水、地震。あまりにも力強いあの正体を知らないとき、人はそこに『何を見た』かわかるだろうか?

 

しかし現在ではなぜそのような自然現象が起きるのかを説明できるようになっているため、地球が平面だとも思っていないし、象や亀がそれを支えているとも、太陽が地球の周りを回っているとも思っていない。

 

もし地球が平面なら人は『上と下と横』に何があると考えたかわかるだろうか? 天動説を否定した件でガリレオよりもひどい目に遭った人がいた!

 

科学とは、普遍性と客観性が認められる知識体系が必要条件。それを実際に証明することができるかどうかが問われる世界だ。『モーセが海を割った』とか、『巨人が怒って地震が起きた』とか、そういう証明不可能なことは『科学』の範囲内ではない。しかし、その科学を追求する『科学者』には、哲学があるわけだ。

 

俺は、この研究で世界をより良いものにしたいんだ!

 

これは哲学なのである。これが科学哲学だ。

 

論理学

 

論理学の祖はアリストテレスだ。彼は論理学を『証明の学問』と呼び、『3段論法』を開発した。『詭弁論理学』を通して、これについて少し考えてみよう。

 

  1. BはCである。
  2. AはBである。
  3. ゆえに、AはCである。

 

これを三段論法という。たとえば、

 

  1. 哺乳類は脊柱動物である。
  2. ネズミは哺乳類である。
  3. ゆえに、ネズミは脊柱動物である。

 

これは典型的な三段論法である。

 

また、

 

  1. すべての犬は猫ではない。
  2. すべての人間は犬ではない。
  3. すべての人間は猫ではない。

 

という場合には、問い自体は妙だが結論は正しい。だが、

 

  1. すべての犬は猫ではない。
  2. すべての子犬は猫ではない。
  3. すべての子猫は猫ではない。

 

という風に、最初の二つが否定文であった場合、結論も否定文でなければならない。これを『否定二前提の虚偽』という。また、

 

  1. 天才は狂人である。
  2. 彼は狂人ではない。
  3. 彼は天才である。

 

という風に、前提のどちらかが否定文ならば結論も否定文でなければならないのに、結論が肯定文であるときは、その論法(誤り)を『不当肯定の虚偽』という。また、

 

  1. ある金持ちは嘘つきである。
  2. あるユダヤ人は金持ちである。
  3. あるユダヤ人は嘘つきである。

 

という風に、前提がふたつとも『ある特定の…』という形であるときは、結論の真偽は保証されない。この場合、結論は正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。とまあ、こういう風に考えていき、自分の考えを業率的に展開しようとするのが論理学である。

 

 

このように考えたとき、哲学というのは『高知能を持った動物』だけができるものだと考えるかもしれない。確かにそれは一理あるが、人間というのは、『高知能者だ』と思いあがるために知能を持っているのではなく、『高知能者ではない』と思うために知能が備わっていると考えることができなければ、『豚に真珠』となるだろう。

 

人間には『高知能だ』と思いあがるために知能があるのではない。『高知能ではない』と悟るために知能があるのだ。

 

 

 

 

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