『ヒト』を最適化しよう。

ドストエフスキー『人間というものは時として、何にそそのかされて我を押し通すのか、自分でも分からぬことがあるものだ。』

名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!

ふむ…。

運営者

考察

親鸞は言った。

 

注目したいのは、なぜ親鸞は弟子の唯円に、このようなことを言ったのかということだ。全容は全て記事に書いたが、一部を抜粋する。

信じる私の言葉どおりに人を千人殺そうと思っても、いまのそなたにはどうしてもそれができないのだ。したいと思ってもできない。それはなぜか。そなたに千人殺す<業縁(ごうえん)>というものが備わっていないためなのだよ。そなたが人を殺せぬのは決してそなたが善人で心優しい人間だからではない。

 

いいかね、自分でこうしようと決意しても、人間は決して思うがままに行動することなど出来ないのだ。それはたまたまそなたに人を殺さねばならない<業縁>というものがないから殺せないだけなのだ。もしそなたにその<業縁>が宿っておれば、自分は一生、人を殺すまい、人を殺すぐらいなら自分が死んだほうがマシだ、と日頃から思っていたとしても、突然、百人、千人の人を殺すことになるかもしれぬ。

 

人の心の善し悪しとは関係なく、人には<業縁>というものがあるのだ。だから良い人、悪い人、などと人を区別して考えたりしてはいけないのだよ。人は思いがけない善いこともする。また、自分の意志に反して恐ろしいこともする。そういうものだ。

 

この話は傾聴に値すべきものである。例えば、ある日のニュースで、こういうものがあった。

元交際相手の女性に、「このままじゃ貴女を殺してしまいそうで怖いんです」などとメールを送り、女性を脅したとして、21歳の大学生の男が逮捕された。

 

彼は、その女性が『好きだった』のだろうが、その内自分の気持ちを抑制することが出来なくなってきた。そして思わずそういう言動を取ってしまい、逮捕されるまでに至ったのだ。このようにして、親鸞やドストエフスキーの言う様な事実は、確かに存在していることがわかるわけだ。

 

ただし、『存在している』だけで、別に改善策がある。ここで注目したいのはドストエフスキーの言葉だ。

 

聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

 

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

 

 

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。

 

『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

 

仏教、キリスト教、イスラム教、その全ての教えの根幹に、この『聖性と魔性の勝負』の話がある。これは非常に注目に値するべき内容である。つまり、最初から魔性と闘って、克つことを初期設定としておくことで、人間が『気づいたら魔に刺されてしまった』という結果には至らない。

 

 

MEMO
※この文章は全て運営者独自の『名言を通した見解』です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
運営者 一瀬雄治(Yuji ichise.)の半生

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