偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
運営者
考察
フィリピンの諺にはこうある。
つまり、生きているということ、それだけでは、『人』として定義づけることは出来ない。
ルソーは言った。
呼吸しているだけでは、それは『生息』である。
オスカー・ワイルドは言った。
生息しているだけというのは、存在しているだけということ。つまりそれ=『人として成立』ということにはならない。寝たきりの病気の人はもちろん置いておいて、例えば『人』なら、めったやたらに人を殺したり、傷つけたりすることはしないはずだ。『人』なら、動物と昆虫と植物について、どう考えるべきだろうか。『人』は、どこまでやっていいのだろうか。技術の進化を追いかけることは『エゴ』ではないのか。それで『エコ』がないがしろにされることはないのか。
それで地球が壊滅することになるなら、そこに『人』はいなかったのである。『人』には心がある。心がある人なら、他を傷つけない。環境を傷つけ、生命を傷つけ、結果的に人間をも傷つける未来を招く人間に、『心』があると言えるかどうか、首をかしげざるを得ない。
ルソーは言った。
我々はまず、出生する。そして、呼吸し、生息するが、『人』として生まれたのだ。そのことに徐々に気づいていき、大義を見つけてそれを全うする。そうして最高のバトンを子々孫々へと繋いでいくのだ。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。
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