『ヒト』を最適化しよう。(リニューアル中です…。)

なぜ我々は『友人』であり『人を殺してはいけない』のか?

なぜ我々は『友人』であり『人を殺してはいけない』のか?それはもちろん、下記の黄金律のこともある。『愛』だ。それで話を終わらせてもいい。

 

『愛があれば全ては解決する。』

 

だが今回は少し違った考え方をしよう。バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 』にはこうある。

宇宙は本質的に複雑で、永遠に再生的である。宇宙には『始まり』も『終わり』もあり得ない。かなりの科学者がこの始まりと終わりという誤った概念を発明するために、いまだに無駄な努力を費やしている。最小のものといえば、われわれには中性子と陽子があり、それらは電子と陽電子、ニュートリノと反ニュートリノなどとともにつねに共存し、また共存する形でしか存在しえない。単一の構成要素はなく、存在するのは唯一、複雑なシステムの集合体である。

 

例えば『ビッグ・クランチ・モデル』とは、

 

STEP.1
バン(ビッグバン)
STEP.2
膨張
STEP.3
収縮
STEP.4
クランチ

 

というアコーディオンのように収縮と膨張を繰り返す宇宙の在り方の考え方だ。つまり膨張はあるところまで行った後『反転』し、今度は収縮が始まる。そう考えたとき、われわれが認識している138.2億年前に起きたビッグバンは、あくまでも『最新のビッグバン』であり、我々はこの連鎖の中という限られた時間の中でしか生きられないということである。

 

 

そう考えるとその最新のビッグバンはある種『始まり』とも言えるし、最新の収縮はある種『終わり』とも言える。その時間が例えば300億年だと仮定した場合、一つの宇宙の寿命は300億年で、その膨張と収縮の間にその宇宙の中で何が起きるかということ。我々人間がまた同じように生まれるのか、恐竜が今度は絶滅しないのか、そういうことも不確実である。

 

ちょうど、川や海の水をがばっとバケツや水槽に入れると、中に目に見えないレベルでのプランクトン等の微生物がいるが、同じ川、同じ海からすくったはずなのに中に何が入るか、どれだけの要素が揃うかわからないようなイメージで、次のビッグクランチでは、この同じ宇宙でも全く違う要素の生命が生まれ、それらがどのように交配してどんな種族が生まれ、どこまで突き詰めて、成長するかはわからない。

 

 

ただ、一つだけわかっているのはたとえ何があったとしても結局その宇宙の寿命は300億年であり、最終的にはまるでアコーディオンのように、ある一定のところまで膨張したらその後は収縮してしまい、最後には消滅してしまうというわけだ。そう考えると、そこにはある種『始まり』と『終わり』がある。

 

しかし実際には『宇宙は永久に膨張し続ける』という理論が濃厚になってきている。

 

STEP.1
バン(ビッグバン)
STEP.2
膨張
STEP.3
収縮することなく膨張し続ける

 

この『インフレーション理論』ははるか以前からあったのだが、ある本とまた今回の参考書を書いた有識者の見解をまとめると、この理論を考えた方がつじつまが合うというのである。やはりそうなるか。しかし、だとしたらその『始まり』は何だったのか。宇宙の本を読んでも結局そこはわからない。『相対性理論を楽しむ本 よくわかるアインシュタインの不思議な世界』はとてもわかりやすく、多くの人から支持される本だ。本にはこうある。

『宇宙の始まりは、超高温・超高密度の状態だった』とするビッグバン理論は、アメリカの物理学者ガモフが、1940年代に提唱したものです。『ビッグバン』という名前は、ガモフの理論に反対して『定常宇宙論』を唱えていたイギリスの天文学者ホイルが、『それでは、宇宙は火の玉から始まったとでも言いたいのか』と皮肉って呼んだことが始まりとされています。

 

(中略)ではガモフは『火の玉のような状態』という考えをどこから着想したのでしょうか。それは『なぜ宇宙には、水素やヘリウムなどの軽い物質(元素)が多いのか?』という謎から生まれたのです。先ほど、『宇宙は膨張している』ことを提唱したベルギーの神父ルメートルの話をしました。彼は『宇宙が増長しているということは、昔の宇宙は小さく圧縮されていたはずだ』として、そのような宇宙の出発点を『宇宙の卵』と呼びました。

 

このような形で、わかりやすくこのあたりのことやアインシュタインの相対性理論について説明してくれているので、このテーマを考えたい人は読んでみるといいだろう。この宇宙の出発点である『宇宙の卵』はキリスト教徒にとっては好都合。

 

キリスト教徒

最初の宇宙の卵は神が作った。

 

という主張ができるからである。事実この本でも、

したがって、宇宙は特異点という物理法則が破綻する一点から生まれ、その後は相対性理論にしたがって膨張してきたという、不完全なシナリオしか描くことが出来ないのです。

 

として『宇宙の始まり』が何であるかは謎のままだと考えている。しかしバックミンスター・フラーは2000年以前(おそらくは1950~2000年の間)に、すでに『宇宙は本質的に複雑で、永遠に再生的である。宇宙には『始まり』も『終わり』もあり得ない。かなりの科学者がこの始まりと終わりという誤った概念を発明するために、いまだに無駄な努力を費やしている』と言っているわけだ。

 

 

 

さて、宇宙の話をしてもキリがないので更に詳しく考える場合は上のような本を読もう。私も読んだが10分の1くらいしか理解していないが。注目したいのは『共存する形でしか存在しえない。単一の構成要素はなく、存在するのは唯一、複雑なシステムの集合体である』という部分である。この世はそう単純ではなく、複雑であると。それを考えたとき、私の頭にふとある言葉が思い浮かんだ。

 

ニーチェは言った。

『論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。』

 

  • 単一の構成要素はなく、存在するのは唯一、複雑なシステムの集合体
  • 現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないもの

 

ここにある共通点は『複雑な要素(システム)』であり、我々人間もその要素の一つである。ニーチェはこうも言った。

 

これがどういう意味かはきちんと調べてはいないが、ニーチェの性格とこの言葉を見ると『唯一無二の自分の命を他の要素に染められるのは屈辱であり恥だ』という考え方が浮かんでくる。もしそうだとした場合、私はその気持ちがよくわかる人間である。クリスチャンの両親を持った私は、ニーチェの言うようにキリスト教に対して思うところがたくさんあり、そして様々な宗教について勉強すると下記のような黄金律に出合ったわけだ。

 

『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』

 

だが、『完全に透明な光輝く元素の中』で、他の要素と結合、あるいは混合せずに生きようと思っても、バックミンスター・フラーの言うように、『単一の構成要素はなく、存在するのは唯一、複雑なシステムの集合体』なのであり、元々その元素自体が『単一で成り立っていない』わけだから、ニーチェの言うような『唯一無二の確保』は無理なのである。

 

分かりやすく、金八先生の言葉を借りてみよう。

 

金八先生

君たち、いいですか。人という字はねぇ、ひとと、ひととが支えあっているから人なんですよ。

 

このようなことを考えたとき、『エネルギー不変の法則』を考えてみる。

 

『エネルギー不変の法則』とは、宇宙を成り立たせているエネルギーの総量は、形を変えても一定、という法則。例えば、木を切り倒して薪にして燃え盛る火にくべると、もともとあった木という存在のエネルギーは、熱エネルギーと気体になったエネルギーに換えられるだけで、『エネルギーの総和』は変わらない。そう考えると、例え石ころ一つでも、全ての存在に意味があるわけだ。

 

STEP.1
木を切り倒して薪にして燃え盛る火にくべる
STEP.2
木という存在の個体エネルギーはなくなる
STEP.3
しかし、それと相応の熱エネルギーと気体エネルギーが生まれる
STEP.4
結果宇宙の『エネルギーの総和』は変わらない

 

私のポテンシャルはこうだ。

 

  • 血気盛ん
  • 複雑な思考回路
  • 繊細な心
  • 高い理想
  • 見栄とプライドの違いを知っている

 

正直、これらの要素を持って人生を生きるということは、常に周りが敵だらけになるということだ。気に食わないことが多すぎるのである。事実、私との関係がこじれて不和になっている関係はたくさんあり、そのすべてが私さえ柔軟に対応していれば解決できるのだが、私には『色々な細部』が見え、かつ『周りへの要求』が大きいことから、

 

そんなこと自分で気づけよ

 

と考えるところがあり、多くの人は私という厄介なエネルギーに対峙することは容易ではなく、かつ、

 

なぜ自分がやらなければならないんだ

 

と考えてしまうか、見て見ぬふりをしてしまうことから、その関係が不和のまま維持されてしまっているわけだ。だがとにかく、そのようなポテンシャルを持っている人がいる場合、もし戦争時代や戦国時代に生まれていたのなら、私は家で姿を隠しながら怯えて暮らすくらいなら戦場に行って死に場所を見つけるはずである。何もしなければ殺される。だとしたらやられる前にやるしかないわけで、ただ何もしないよりは自らやりにいくだろう。

 

しかし、私の心底の部分では、人を殺したくないし、傷つけたくない。あくまでも『やらなければやられる』ような状況があり、こちらが何もしていないのにあちらが仕掛けてきた場合、正当防衛が認められるように、やるしかないのであり、率先して人を傷つけることを喜ぶような性格ではないということだ。その不和ある人間関係も、すべて、もれなくすべてだが、すべて『相手から仕掛けてきた』ことが原因であり、私が『何もしていない、なにも悪気がない無邪気な子供』をいじめる、ということはありえなく、それは私をよく知る人全員が知っていることである。

 

 

では、なぜ私は人を殺したくないのか。なぜ傷つけたくないのか。その根本的な部分にあるのは、実は今回考えたようなことが要因にある。つまり、我々は運命共同体であり、『同じ要素』のエネルギーの一つ。血は繋がっていなくても犬や植物を愛でるように、石ころでさえ同じエネルギーの一つである現実がある中、私はその『仲間』を無意味に恨んだりすることは間違っていると考えるのである。これが私がプロフィールに書いた、

 

『全ての人々(友人)に伝えます。『悔いのない人生』を。』

 

という言葉の意味である。私があのようなポテンシャルを持って、周りに気に食わないことが多くありすぎるのに、私が平静を保っていられ、かつその『周り』に失望せず生きていられるのは、心底の部分で彼らと運命共同体であることを自覚しているからだ。そしてもちろん自分は神ではなく、無意識の部分で自分の間違った部分を正当化し、公明正大なジャッジができていない可能性、つまり『自分の伸びしろ』を自覚しているということ。この2つの要素があるからこそ、私はこの人生を、くよくよせずに前向きに生きていくことができるのである。

 

私のような根が真面目で完璧主義な性格は本当は『うつ病』になりやすいが、私はならない。私は一見『意固地』に見えるが、それはこの世の中のシステムが想像の範疇を超えるほど複雑なので、その中を生きていくための『推進力』として信念が必要なだけで、実際には柔軟性がある。

 

 

かつ、自分が何かを分かった気になって落ち込んでいるのを俯瞰で見たときに、馬鹿馬鹿しいからである。