『体験』と『意志』の欠如とは、どういう意味だろうか。 例えば今の時代を生きる我々は、『戦争』を知らない。 だから松下幸之助やvの様な人間は出てこない。 『坂の上の雲』を目指し、夢見て、 あるいは再び平和を取り戻そうと躍起になり、 高度に経済を成長させようとは、思わない。
例えば世界の建築家の安藤忠雄は、 まだ世界に自由に行けなかった時代に、世界に飛び立つことをひどく憧れていた。 解禁になるやいなや、すぐになけなしの金を持ってアメリカを横断した。 そして今では、世界の安藤忠雄になった。今、世界各地の絶景や世界遺産はテレビの画面を通して簡単に観ることが出来る。 旅行した気分になれるのだ。 youtubeもそうだ。
インターネットもそうだ。先週映画館で観たばかりのジョニー・デップ主演の映画 『トランセンデンス』ではこういうフレーズが出てくる。
『インターネットの登場で世界が狭くなった。 だが、インターネットが無くなった今、更に世界は狭くなった。』
世界は今、狭いのか、広いのか。 我々は世界を知っているのか、知ったつもりなのか。
『ホーディは…!!! 環境が生んだバケモノだ!!! こいつらの恨みには「体験」と「意志」が欠如している!!!実体のない…空っぽの敵なんだ!!!』
何度でも引用したい一文がある。作家の五木寛之氏は著書『大河の一滴』にある、この一文だ。
あるシベリア帰りの先輩が、私に笑いながらこんなことを話してくれたことがある。『冬の夜に、さあっと無数のシラミが自分の体に這い寄ってくるのを感じると、思わず心が弾んだものだった。それは隣に寝ている仲間が冷たくなってきた証拠だからね。 シラミは人が死にかけると、体温のある方へ一斉に移動するんだ。明日の朝はこの仲間の着ている物をいただけるな、とシラミたちを歓迎する気持ちになったものだった。 あいだに寝ている男が死ぬと、両隣の仲間にその死人の持ち物、靴や下着や腹巻や手袋なんかを分け合う権利があったからね。』
我々は今、どういう時代を生きているのだろうか。 狭いのか、広いのか。幸せなのか、逆に不幸なのか。進化したのか、破滅に向かっているのか。 一つ言えることがある。私は今の段階でひとまず『日本の世界遺産』を全て見て回ったが、 類稀なるあの景色は、テレビ画面や写真では決して観ることのできない、 忘れようと思っても忘れられない光景だった。そこに辿り着くのも、決して容易ではないのだ。 それも影響している。 実際に体験しなければわからない世界がある。実際に『体験』しなければ芽生えない『意志』がある。 私はそのことについて、とてもよく理解している。