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三浦綾子『長い間その人を慰め、励まし、絶望から立ち上がらせる言葉を、胸にたくさん蓄えておかねばならない。』

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ふむ…。

考察

『長い間その人を慰め、励まし、絶望から立ち上がらせる言葉を、胸にたくさん蓄えておかねばならない。一生涯使っても、使い切れぬほどたくさんに。』

 

三浦綾子の言葉はどれもとても温かみがあり、多くの人が慰められるだろう。『愛に溢れている』という印象を受けるはずだ。私も、弱っている時、あるいはそれを外部に求めている時に見れば、必ずそう思っていたし、事実、彼女のある言葉には忘れられないものがある。しかし、私は今、ここにあえてこう言及したい。

 

人は本当に慰めを求めていいのだろうか?

 

まず間違えて欲しくないのは、私は29年間もの間、実の両親からクリスチャンになることを強要されて育った。この言葉の意味が分かるだろうか。『強要』という言葉の意味が。それが29年間続いたということの意味が分かるだろうか。外出先で絡まれて財布を盗られたのとはわけが違う。

 

(なぜ人の心を慰めるはずの宗教が、私の心をこんなにも苦しみ続けるのだろうか。)

 

この決定的な事実から目を逸らす全ての人間の目には、残念ながら節穴が空いている。三浦綾子もクリスチャンだ。私の両親と同じだ。彼らは口を揃えてこう言う。

 

主イエスは、慰めである。

 

私が通わされた教会の牧師は、こう言っていた。

 

寝てもいいから、ぜひ教会に来てください。

 

その一歩から始まるのだと。主はいつでもここにいると。だが、私は『寝る』くらいなら、家のベッドで寝る。教会に行くなら、その理由があって行く。そして、牧師がハッキリと断言した、『イエスは慰めである。』ということが本当なのであれば、私は『慰め』などいらない。

 

いや、もう一度言おう。人は本当に慰めを求めていいのだろうか?私もかつては、『慰められた』と言ったはずだ。しかし、それを踏まえたうえで今私は、そう言っているのだ。話を一気に核心へと向けよう。テロリストが掲げている宗教は、自分たちの意志・主張・信仰を慰めているのではないのか?

 

 

『慰め』と『援用』の違いは何だろうか。『援用』とは、自分の解釈を強化させるために、他の要素を取り入れること。あるいは、他の要素を、自分の思想を補強する為に、恣意的に取り入れること。例えば、『時効』という概念があって、それが15年と定められていた場合、『じゃあ、あいつを殺して15年逃げ切ればいいんだ。』と考えるのが、『法律の援用』ということである。つまり私は、宗教が人間の自分本位な考え方に援用されている事実を、知っているのである。

 

もう一度言おう。私は、心が微塵もそれを求めていないのに、両親に29年間もの間クリスチャンになることを強要されて育ち、それに逆らうと、家の子として認められない雰囲気が漂い、実際に、『この家はクリスチャンの家だから出ていけ』と29歳の時に言われた。

 

かつて、教会に行かないと父親が帰宅してすぐに怒鳴りつけ、力づくで私を教会へと強要した。私はハサミを握ったが、殺すほど親を憎んでいるわけではなかった為、やり場のない怒りと悲しみが、ただただ私の心を蝕んだ。父親が死んで10年、その29歳の時に実家に帰ってそのことを真剣に話すと、母親の口から出た言葉は、信じられないものだった。

 

お父さんは、そんなことしないと思う。

 

…なんという愚かな現実なのだろうか。『あった』事実を、実の親が『なかったと思う』などと、その場にいなかった母親が、目の前の言うことを聞かない息子から、死んだ夫を庇うかのように、吐き捨てるかのようにそう言ったのだ。こういうことが腐るほどあったとしたのなら、私の心が歪曲し、非行に走ったことも想像にた易いはずである。(もちろん、非行の原因は全て私にある)これこそが『慰め』を求めた人間の延長線上にある、愚かな現実の一つだ。

 

今、母は私とのその29歳の時の我が家で言う歴史的な口論の末、29年のそれを悔い改め、『確かにクリスチャンは、自分たちだけが正しいと思うところがある。』という排他性を認め、私への態度をガラリと変えたから、現状での問題はもうない。だが、かつて精神未熟な頃に私が受けた精神的なダメージは、一生消えることはないのである。

 

私はそうした確かな葛藤を積み重ね、とある結論に至った。

 

(もし、宗教が『慰め』でなく、『戒め』だとしたら、私は宗教が好きになるかもしれない。)

 

それは当然、『四聖』に数えられる、

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

世の偉人たちと向き合ってから抱いた結論である。

偉人

 

もし、彼らが説いている『教え』のことを『真理・愛・神』と言い、そしてそれを教える教育の事を『宗教』だと言うのであれば、『慰め』でなく、『戒め』なのではないだろうか。だとしたら、全ての問題に説明がつくようになる。つまり無辜な命を奪う残忍なテロリストは、それによって『戒め』られる。決して自らの思想を『慰め』られることはないから、神という黄金の盾を援用することは出来ない。

 

瀬戸内寂聴は、

 

と言ったが、これはブッダの言う、

 

ということ。つまり、

『人は生まれた瞬間から衰退しているのだから、生きる、老いる、病む、死ぬということは最初から決まっていたこと。当たり前のこと。それがわかっていれば無駄な苦しみはないはずだ。あるのなら、そこにあるのは『執着』であり、執着とは、人間の心に寄生する、間違った心の在り方である。』

 

という意味なわけだから、これは『慰め』ではなく、『戒め』だ。しかし、これを結果的に『慰め』と捉える人はいるだろう。

 

(ああ、そうなんだ。そうなっているんだ最初から。そう考えると気が楽になった。)

 

として、慰められる。しかし、それは結果論であり、宗教は大前提として『戒め』である可能性が高いという結論に、私は辿り着いたのである。だから私は言ったのだ。人は本当に慰めを求めていいのだろうか?ということを。人間が慰められるのはよくて、なぜ人間に食べられたり、踏みにじられる動植物や昆虫の命は慰められないのだ。ここが絶対的なポイントであり、これを見て見ぬフリをするなら、そこに『神(真理・愛)』などない。

 

 

 

 

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