偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
運営者
考察
まず、『神』について理解していない人間は、意味不明である。『は?』ということで、そこで思考がストップして終わりだ。私もその一人だったし、それは生きている間、絶対に変わることが無いと、もう、念じる様に自分に言い聞かせた時代があったほどである。それもそのはず、私は両親にクリスチャンになることを強要されて育ったのだ。
それは、今書いたとおり『強要』だった。人の心を救うはずの信仰が、人の心を長い間苦しめていたのである。そのパラドクスに気づけなかった両親の罪は深いが、彼らに悪気が無いこともわかっていた。だから私はやり場が無かった。家庭内暴力も一度も振るわなかった。もっとも、それは『家庭外』では別だったが。
ルターを起因とするキリスト教の『プロテスタント』とは、カトリックのように、『キリストの助けを得ながら自分の努力でも救われうるとして、他力プラス自力の立場をとる』といった教えではなく、『罪深い存在である人間は、自らの力では自分を救うことは出来ず、キリストによってのみ救われるとし、いわば他力を強調する』という教えである。
従って、私とルターとの考えがどこまで一致するかはわからないが、しかし、『何事もすべて自力で解決できる』という自負は、一歩間違えれば驕りに繋がるわけで、そういう意味ではとても傾聴に値する教えだ。
それに、『神=真理=愛』という図式で考えた場合、また更にルターの言葉は心に浸透しやすくなる。例えば、『法律』であれば、人は何の抵抗もないはずだ。しかし、法律は、完全ではない。何しろ、それを作った人間が、恒久的に未熟だからだ。
しかし、『真理』ということであれば違う。それは、『人は必ず死ぬ』といった真理を見てもわかるように、これは人間が創った原則ではない。だとしたら、その信憑性は極めて高い。少なくとも、人為的なものよりも遥かに上だ。だとしたら、なるほど、その図式なら意味が分かる。それを『最後の砦』として考えた時、『法律に反するから』ということでは不完全だ。
何しろ、ソクラテスは、
と言ったが、法律の定めによって、無実の罪なのに、裁判で死刑に多く票を入れられ、そして処刑されたのである。ソクラテスは、法律よりも、真理の方が正しい事を説いていた。しかし、その場にいた大衆は、真理よりも法律を重視し、無実の人間を処刑してしまった。ここまで考えると、ルターの言葉の意味はもう完全に理解している。もっとも、私が『神=真理=愛』という図式に辿り着くためには、多くの代償を払った。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。
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