『ヒト』を最適化しよう。

ドストエフスキー『良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないのだ。』

名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!

ふむ…。

運営者

考察

いっそのこと、良心も悪心も存在せず、たった一つの心だけがそこに存在している方が楽だった。何しろ、その両派に分かれていることによって生まれるのは、混沌だ。それが葛藤となる。そして、そこにあるのは闘いである。

 

ドストエフスキーはこうも言った。

 

聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

 

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

 

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

 

 

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。

 

『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

 

ダンテは言った。

 

我々は、生きている限り、一生戦い続けなければならない。それは、人間に何より必要な力は、『克己心』であることを意味しているのだ。しかしここで考えたいのは、『正義が悪を倒したときに感じる、あのスカッと感』だ。

 

 

つまり、人間にもし『悪』の概念がなければ、あの感覚を得ることは無い。人は往々にして、あの感覚から生きるエネルギーや喜びを得ているのだ。あれがなければ、人生に抑揚がなく、淡々とした日常を過ごさなければならなくなる。

 

いや、もちろんそれは善い事のはずだ。それが世界平和というものである。しかし、人間に『好奇心』というものがなければ、人類の発展はなかった。その好奇心は、時に悪の方向に逸れてしまうことを考えると、それ自体が『悪』である可能性が高いわけだが、だとすると、この世から『悪』を取り去った場合、そこに残るのはどういう世界なのだろうか。

 

 

悪を正当化することはない。ないが、しかし悪がなければ存在していないものが確かにあるのだ。

 

ヤスパースは言った。

 

悪は取り除くことはできない。だが、悪を『劣位』にすることはでき、そこから人間というものは、この虚無たる儚い人生に生きがいを覚え、前を向いて生きていくことが出来るのかもしれない。

 

 

MEMO
※この文章は全て運営者独自の『名言を通した見解』です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
運営者 一瀬雄治(Yuji ichise.)の半生

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