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ブッダ『外ではなく、”内”を観ることができるかどうか、問われている。』(超訳)

仏教の開祖 釈迦画像

内省

何か嫌なことがあったとき、自分の思い通りにならなかったとき、人は、様々な理由に直面したとき、原因を、自分の外側に押し付けることが多々ある。自分は何もしていないのに、いきなり外の環境によって、心を振り回されるのだから、そういう気持ちになってしまうのだろう。だが、本当にそういう『ギャンブル』のような生き方で、人生を生き貫くつもりだろうか。

 

なぜギャンブルかって?むしろ堅実な人生だと?いや、違う。その考え方では、まるで『賭け事』だ。あるいは、ただの『先進国(ボンボン)の自惚れ』だ。

 

『自分の人生では常に順風満帆が当たり前だった』とでも、思っているのだろう。世の中には、物心がついたときから、実の兄が警察にショットガンを口に突っ込まれるのを見て育つような人間もいる。盗みが横行し、ドラッグが蔓延し、人が簡単に死に、得体のしれない疫病を恐れ、それでも尚、劣悪な環境で生活することを強いられる人もいる。それなのにどうして、『人生とは常に、トラブルはなく、順風満帆にことが進んでいくものだ』と言うことが出来るのだろうか。

 

『外』に依存する考え方では、まるで『ギャンブル』だ。何かあったら浮ついて、何かあったら落ち込んで、だから、何もないことを願う。何も起こらないよう祈る。それでは『射幸的』で、場当たり的な人生だ。そうして生まれるのが、主体的な人間の対極にいる、反応的な人間。いい加減、この連鎖から抜け出すべきだ。そのカギを握るのは、自分の”内”である。

 

反省、内省、内観、という順番でそれは深くなっていく。

 

例えば、電力王、松永安左エ門のこの言葉の真髄には、どういう意味が込められているだろうか。

 

我々が”内”を観るのは、容易ではない。時間も必要。冷静沈着で、極めて謙虚な心も必要。松永氏の言うように、『強制的』でなければ、無理かもしれない。私がこれを実行できたのも、『強制的』な環境のおかげだった。

 

だが、強制的でも何でもいい、親が死んだら、強制的に考えることを強いられるように、人は、この人生で、自分の”内”を観て、一つ上のレベルに昇華するのだ。そうして人は、外的な原因に依存せず、内的な自分の心を支配して、生き貫くうえで降りかかるすべての試練に対し、敢然と立ち向かっていく本当の強さを、手に入れるのである。

 

自分の人生のカギを握るのは、”外”ではない。”内”なのだ。

 

 

注意

※これらの言葉は参考文献や史実に基づき、運営者が独自の見解で超訳し、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

参照文献

仏典

法句経50。

関連する『黄金律

『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』

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