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吉田松陰の名言・格言一覧

日本思想家。吉田松陰は1830年文政13年8月4日、長州藩の下士・杉百合之助の次男として生まれました。幼名は寅之助、叔父である吉田大助に養子入りしたのちに大次郎と改めます。(画像

名言一覧

23個あります

『自分の生死を度外視してでも、言うべきことをただ言うのみ。』

『多くの努力を注ぎ込んだことは、すぐにその功績を手中にすることはないかもしれない。しかし、全精力を集中して学んだものは生涯忘れないであろう。』
『宿命は、人の力や智恵が及ぶものではない。だから、この原因を天に任せ、天命というのである。』
『憂えたり、楽しんだり、気分の変化の原因は自分にあるのであって、物にあるのではない。』
『聖人・賢人の言行や教えを記した書を読む際に一番大切なことは、その内容に媚びへつらわないことである。』
『自分一身に降りかかる労苦を何とも思わないような人でなければ、どうして天下国家の人々を幸せにすることができようか。』
『人にはそれぞれ生まれつきの性質がある。だから、昔の心ある人に学び、自分に近いよい性質を自分のものとするべきである。』
『立派な人が大事にするのは、議論ではなく行動である。多言を費やすことなく、人としての誠をしっかり蓄えなさい。』
『世間が褒めたりけなしたりすることは大抵、その実態と違うものである。』
『どんな小さなことでも正しいか正しくないか、よいか悪いかという点において信念を失わないという頑固者でなければ、何をさせてもちょっとしたことしかできず、しっかりとしたことを行うことはできない。』

10。
『才能を伸ばし、人としての徳を身につけることは、辛く、苦しいことだ。』
『書を読む人は天下に満つれども、道を求むる者は絶えてなくして僅かにあり。』
『立派な殿様、賢明な将軍であるか、あるいは、馬鹿な殿様、愚かな将軍であるか否かは、日ごろの生活において決まることである。』
『およそ学をなすの要は己がためにするにあり。己がためにするは君子の学なり。人のためにするは小人の学なり。』
『人の心というものは、苦しめば奮い立ち、思うようになれば、怠けてだらけてしまうものである。』
『身体が死滅しても、その精神が死んでいないものは、昔の聖人や賢者らであり、これらは永遠に朽ちることのない人である。』
『勉強しない人の気持ちには3つある。』
『読書というものは、最もよく人の心を変えるものである。書というものは、何と恐るべきものだろうか。』
『志をもっている人間は、何かを目にしたら、必ず心中に感じるものがある。』
『仁人は天下に敵なし。』

20。

『君子は、人として踏み行うべき義理の心が足りないことを恥じ、小人は、名誉がないことを恥じる。』
『勇気というものがなければ、仁や智は何の役にも立たない。』
『豪傑とは万事自ら創してあえて人の轍跡を踏まぬことなり。』

23。

 

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吉田松陰の格言と向き合って内省する

吉田松陰とは(画像

日本思想家。吉田松陰は1830年文政13年8月4日、長州藩の下士・杉百合之助の次男として生まれました。幼名は寅之助、叔父である吉田大助に養子入りしたのちに大次郎と改めます。大助が死亡して家督を継ぐと玉木文之進が開いた松下村塾で兵学を学び始めました。松下村塾での厳しい教えを受け、成長した吉田松陰は明倫館の独立師範に就任。嘉永3年には見聞を広めるために九州、江戸へ遊学の旅に出ます。

 

嘉永5年には宮部鼎蔵と東北旅行の計画を立てますが、なかなか通行手形が発行されず、しびれを切らした松陰は友との出発の約束を果たすために長州藩を脱藩。重罪であった脱藩を行った松陰は江戸に戻ると士籍を剥奪され、世禄を没収されてしまいます。嘉永7年、マシュー・ペリーが日米和親条約締結のために再来航の際、金子重之助と密航の計画を立てますが失敗に終わり、長州藩の野山獄に投獄。獄中で松陰は「孟子」を囚人達のために講義をします。

 

出獄した松陰はかつて玉木文之進が開いた松下村塾を引き継ぐ形で自宅に開塾。久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、高杉晋作らを教育しました。安政5年、日米修好通商条約締結に激怒した松陰は討幕を表明、間部詮勝の暗殺を目論みますが弟子である高杉晋作や木戸孝允らの反対に遭い計画は頓挫して、幕府に捕らえられ再び野山獄に幽閉されます。

 

安政6年10月27日、安政の大獄により江戸へ送られ、取り調べを受けたのち斬首刑に処され、吉田松陰は30歳でこの世を去りました。