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トマス・ホッブズは『リヴァイアサン性』を国家に譲り渡すことが平和へのカギだと主張した

モンテーニュとマキャベリは疑った。だが、二人の政治思想は対極的だった

 

上記の記事の続きだ。ルネサンス時代、マキャベリと同じように、政治哲学の分野で重要な哲学者がいた。イギリスの哲学者、トマス・ホッブズである。

 

各人の誕生年

ルター 1483年
エラスムス 1466年
マキャベリ 1469年
モンテーニュ 1533年
トマス・ホッブズ 1588年

 

彼が生まれたのはそのマキャベリが死んでから60年経ってのことだった。マキャベリは1527年に他界している。そしてここに挙げた偉人たちは皆、出身国が違う。

 

各人の出身国

マキャベリ イタリア
モンテーニュ フランス
ルター ドイツ
エラスムス ネーデルラント(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)
トマス・ホッブズ イギリス

 

ホッブズが生きていたイギリスは、王党派と革命派の戦いが激化していて、クロムウェル率いる清教徒が政権を握り、国王が処刑されるという禍々しい事態に発展していた。

 

 

これによって、国家の基盤、存在自体が危ぶまれてしまった。そこで、ホッブズは『社会契約論』を主張して、国家がいかに必要であるかを説いた。

 

彼は『リヴァイアサン』というドラゴンを用いて、どのように国民にそれを説明したか。リヴァイアサンというのは、旧約聖書に出てくる海の怪物のことだ。ホッブズはこの怪物をその著書のためのメタファーとして使い、国家の必要性を説いた。

 

ドラゴン

[画像]

 

茂木健一郎氏の著書『挑戦する脳』にはこうある。

『リヴァイアサン』の中で、ホッブズは、人間はもともと『万人の万人に対する闘争』の状態にあったとした。誰もが自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない。そのような『自然状態』は余りにも耐えがたいので、人間はそのもともと持っていた自然な権利を『政府』に譲り渡す。そのようにして形成された政府は一つの『リヴァイアサン』として自由に意思を決定し、行動するようになる。

 

つまり、人間には元々『リヴァイアサン』のような猛獣的なエネルギーが備わっていたが、それを野放しにすることは耐え難いと考え、政府に譲り渡し、自分の代わりに政府に『闘って』もらうようシステム化したわけだ。『自分は闘いたくないから』である。

 

もともと自由で、あらゆる権利を持っていた人間たちが、『万人の万人に対する闘争』を避けるために、契約を結んで権利の一部をリヴァイアサンたる『国家』に譲り渡す。国家の秩序を成り立たせているのは『法』である。国家は法を定め、個人は法に従う。個人は、法に抵触しない限りにおいて、自由に行動することができる。一方、国家の行為については、そのような縛りがない。まさに地上に存在する唯一の『リヴァイアサン』として、国家は自らの行動を選択し続けるのだ。

 

つまりこういうことだ。

 

STEP.1
人間には元々『リヴァイアサン性(猛獣性)』がある
STEP.2
しかしそれがあると何かと不利益である
例えば、『生きるためのあらゆる戦い』をしなければならない。
STEP.3
だからそのリヴァイアサンは政府に譲り渡す
STEP.4
政府は個人の代わりにリヴァイアサン性を発揮する
例えば、国家同士で取引を行ったり、戦争やテロの報復をする。

 

9.11テロの首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンをアメリカの特殊部隊が殺害したというニュースは、国家が『リヴァイアサン』であることを思い起こさせる『事件』だった。法律に基づいて処罰するのではなく、実力を行使して殺害しています。民主主義の新しい希望として登場したオバマ大統領が、ヒラリー・クリントン国務長官ら政府の要人が居並ぶ『シチュエーション・ルーム』で、その一部始終を遠隔モニターし、殺害の指示を出している光景を映し出した写真は、歴史的な一枚となった。

 

このビン・ラディン殺害の実際は、『インターステラー』、『オデッセイ』等に出演するジェシカ・チャステイン主演の映画『ゼロ・ダーク・サーティ』で見ることができる。ゼロ・ダーク・サーティ、つまり『深夜0時30分』。それは実行された。もちろん、多くの犠牲を払いながら。

 

 

それと同時に観るべきなのはバットマンシリーズ『ダークナイト』、『ターミネーター4』等に出演したクリスチャン・ベイルが主演を務める『バイス』だ。9.11の時、大統領だったのはブッシュ大統領ですが、実は陰の実力者が他にいた。

 

 

『事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ』というセリフがあるが、この話については、『現場』である前者と、『会議室』である後者の両方を観ることで更に臨場感がアップする。

 

とにかく、人には皆『リヴァイアサン性(猛獣性、野性)』が備わっているが、それをそれぞれが解放(主張)すると、争いが絶えなくなる。するとそこには平和はない。だから、国家にそのリヴァイアサン性を任せて(移譲して)、自分たちの代わりに他国との取引や、対立するべき対立を担ってもらおうと主張したのだ。

 

『自分たちの代わりに国家にやってもらう』のである。『警察』の存在理由にも似ている。警察がいなければ犯罪者が横行することになり、秩序が乱れて世は混沌に陥る。それと同じように、人々のリヴァイアサン性をそのままにしておくことは、『羽目が外れた動物』と同じことになるわけだ。国家も警察も、どちらも平和には欠かせないわけである。

 

羽目を外す

本来、この言葉の意味は、『銜(はみ)』という馬の口に付ける金具からきている言葉であり、それを外してしまうと、馬が野生化し、コントロール不能になる為、羽目だけは外さないように、馬に骨休めをさせる、そういう発想から来ている言葉だ。

 

 

だが、このような仕組みを作れば、長い間腐敗に陥ったキリスト教のように、権力を持った者が越権的になるのが相場だ。ホッブズも、この仕組みがある以上は、その国家には服従しなければならないと主張した。それでも『自然状態(リヴァイアサン性を渡さないでいる状態)』よりはマシだと考えたのだ。

 

現代を見ても、国家や警察といった権力を受け渡された存在は、その特権を乱用して越権行為に逸れるのをよく見かける。しかしそれでもそれは『自然状態』よりはいい。『必要悪なのだ』ということなのである。

 

 

暗黒時代をまとめたのはまたしても『キリスト教』だった!だが…。

キリスト教が支配した中世の1000年間では哲学はほとんど発展しなかった

 

 

 

 

 

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