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アーロン『金はいい!!何よりも信頼できる!!!そうだろう?』

私は幼少期、『義』だけでこの世が成り立っていないことに不満を覚えていた。なぜお金が存在し、なぜ格差が存在し、なぜ人は自分本位なのか、不満を覚えていた。全ての人が協力して、百姓は米を、漁師は魚を、大工は家を建てれば、特にお金なんていらないじゃないか。なぜそれができないのだろう。幼稚園や小学校じゃ、皆で協力することを学んでいて、それが出来るのに、お金が無い世界でも十分生きているのに、どうしてお金が必要なんだろう。そう思っていた。

 

だが、人間にここまで食い込んだ『金』というものは、もう切っても切れないところまで根付いている。その幼稚園や小学校も、親が学費を払っていたのだ。だから、それありきでの人生を送ってしまう人間が、後を絶たない。それから10数年後の私は、ドロップアウトし、いろいろあって、更生の決意をし、大検を受けたのはいいが、一度落ちて、追試を受ける為にどこかに40万円を支払って、同じ試験を受け、当然同じ問題だから合格し、大検を取ることが出来たことに疑問を覚え、大検を取ったのに大学へは行かなかった。なにかこう、結局そのお金次第でなんとかなった。そういうまがまがしい事実が、私の心を歪曲させた。

 

結局は金かよ。今までの勉強は何だったんだ。なんか、非効率な生き方をしている気がする。

 

その金を出しているのは親で、信仰も、教育も、生活態度も親に主導権を握られるのが嫌で、自分や、世の中の矛盾に葛藤し、『金』の在り方に葛藤した。そこから私が拝金主義者になるのに時間はかからなかった。金を稼ぐためには、なにをやってもいいと思うようになっていた。別に今までドロップアウトして生きてきた生き方からすれば、なんてことはない。金があれば家も出れるし、誰かに恩を着せられることもない。好きな外食が楽しめるし、洋服、時計、車、高級住宅、酒、女、ギャンブル、繁華街、ありとあらゆる欲望を満たせる。そして私は、数年拝金主義者として生きて、私利私欲を満たす事だけを考えた。だが、その世界に居る人間は、魑魅魍魎だった。

 

拝金の世界に生きると、金は寄ってきても、『人間』は寄ってこない。そしてもちろん、自分も彼らと同じ、拝金者に見られてしまう。私が生きたいのは、こういう人生では無かったことに気がついた。表層的には義理人情で結ばれていて、自分達は戦国時代だったら武士。勝ち組で、”純金”な存在であることを唄うが、実際は所詮中身のない”金メッキ”。鉄くずが金のフリをする。そういう虚しい人生を生きていて、私は心から満足することなど出来なかった。

 

かつての恩師の教えも、心底に根付いていたからだ。あれだけの恩師に認められ、信頼され、教えられたあの恩を、私はこの生き方で返しているといえるのだろうか。そういう思いが、胸を突き動かした。葛藤の末、気が付いたら私は数年ぶりに、書物を読みあさるようになっていた。周りの人間は”メッキ”ばかりで学ぶところが無い。幸いなことに書物は、真理を求める人間をいつでも歓迎するかのように、ありとあらゆる方向から待ちうけてくれていた。幾多の権威ある書物を読むと、口々に伝えられるその知性に、共通点を見出せるようになったそれはまさに”純金”、『真理』である。

 

1+1=2。リンゴは、リンゴ。人は、死ぬ。

 

説明書のないこの人生に確かに存在する、絶対的な『真理』、『原則』。そしてこれらに焦点を合わせている人間が出した結果や、偉業。これに気がついた時、私はもう2流、3流(メッキ)の意見は全て雑音にしか聴こえない身体になっていた。その中の一冊に、孔子の教えを説く『論語』を紐解いた書物があった。第一国立銀行や、東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、未だに第一線で活躍する、政界、財界の著名人から一目置かれる故・渋沢栄一が書いた『論語と算盤』である。

 

私はどこの宗教にも属さないが、それはつまり、全ての真理に対して、差別が無いということである。かの孔子と孟子の教え、『孔猛教』には、『義利合一』という教えがある。本には、こう書いてあった。

 

『孔猛教の誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をしてほとんど総てを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚しきに至っては法網を潜られるれるだけ潜って金儲けをしたいの一方にさせてしまった。従って今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的及び法律的の制裁が絶無としたならば、かれらは強奪すらし兼ねぬという情けない状態に陥っている。

 

もし永くこの状態を押していくとすれば、将来富豪の懸隔はますます甚しくなり、社会はいよいよあさましい結果に立ち至る事と予想しなければならぬ。これ誠に孔孟の教えを誤り伝えたる学者が数百年来跋扈していた余毒である。(中略)ゆえに一般社会の為にこれを矯正せんとするならば、この際我々の職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めていくという方針を取り、義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。

 

富みながら仁義を行い得る例は沢山にある。義利合一に対する疑念は直ちに根本から一掃せねばならぬ。』

 

『義』と『利』。その両方を合一できなければ、人も企業も淘汰される。それは当然。『義』だけでは生きていけないのが人間の浅ましさ。かといって『利』だけで生きていくのは人間の在るべく姿ではない。その真理に辿り着いたとき私は、自身の経験が大きく手伝って、あまりにも深く感銘を覚えたのだ。

 

『義』だけでもダメ、『利』だけでもダメ、『義利合一』なのだ、と。ドストエフスキーは言った。

 

この言葉の真意を紐解いたとき、人は、金に重きを置かなくなる。”金メッキ”を塗りたくる虚しさを知り、 “純金”たる生き方を志すことが出来るのだ。

 

『金はいい!!何よりも信頼できる!!そうだろう?』

 

金に依存する人間は、どこか歪曲した過去を持つ私は、そうういう人の気持ちはよくわかるだが、悔いのない人生を生きる為には、見誤ってはならない。『義利合一』なのだ。

 

 

Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV

※画像は以下の参考文献から引用しています。

 

一言

この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。