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孔子『兄弟がいないというのはどういう発想からか。ゼロから考え直すべし。』(超訳)

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内省

兄弟、姉妹がいないという考え方はやめた方が良い。そもそも、人間が国や家族や会社というそれぞれのコミュニティを持ち、その中だけで生きていくのは正解なのだろうか。

 

それによって不和は起きないのか。格差や差別、対立や軋轢、無理強いや争いは起きないのか。起きるのであればそれがなぜ、正しい在り方だと言えるのだろうか。クリスチャンは皆のことを『兄弟、姉妹』と言い合うが、 もし人間の起源がアダムとイブなのであれば、それもつじつまが合う。

 

確かに、個と、個が相対すれば、切磋琢磨により、大きなエネルギーは生まれる。だからあらゆるコミュニティがあっていいし、 違う発想の党が存在してもいい。だが、国同士の愚かな戦争や、悲惨な人生を強いられている人が、 正しい世の中の在り方であるわけがないのだ。

 

インドの強姦事件はどうだ。
中国の環境汚染はどうだ。
ヒンズー教のカースト制度はどうだ。
宗教を過信したテロ行為はどうだ。
人生の半分を理不尽に監禁された人生はどうだ。
車で人の群れに突っ込む人間はどうだ。
銃を乱射して自殺する人間はどうだ。

 

人間がみんな、兄弟、姉妹だと考えていれば、こういうことは起きない。それから、『兄弟、姉妹』という意味も考えられなければ意味がない。兄弟、姉妹とは、たとえ血がつながっていても、 およそそう呼ぶに相応しくない関係のものもある。それでは『兄弟、姉妹』とは言えない。人間がみんな、兄弟、姉妹だと考えていれば、こういうことは起きないのだ。

 

この、計り知れないスケールの中で、何の因果か運命か、我々は同じ星に生まれ、そして同じ時代を共に生きている。自分たちは稀有な存在なのだ。そういう絆で結ばれているのだ。そのことを自覚し、言動に責任を持つべし。皆で一緒に、生きているのだ。皆で一緒に、子孫に命を繋いでいくのだ。

 

 

参照:四海の内、みな兄弟なり。君子はなんぞ兄弟なきを患えん。

(顔淵第十二-五)

 

 

注意

※これらの言葉は参考文献や史実に基づき、運営者が独自の見解で超訳し、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

参照文献

顔淵第十二-五)

四海の内、みな兄弟なり。君子はなんぞ兄弟なきを患えん。

関連する『黄金律

『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』

『失敗をすぐに認められるか、それとも隠蔽するかで人間の価値は決まる。』

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