『ヒト』を最適化しよう。

松下幸之助『自省の強い人は自分というものをよく知っている。つまり、自分で自分をよく見つめているのである。』

名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!

ふむ…。

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考察

『自省の強い人は自分というものをよく知っている。つまり、自分で自分をよく見つめているのである。私はこれを自己観照と呼んでいるけれども、自分の心をいっぺん自分の身体から取り出して、外からもう一度自分というものを見直してみる。これができる人には、自分というものが素直に私心なく理解できるわけである。』

 

自省

 

自省とは、内省のことだ。内を省みる。しかも、起きたことを後で振り返る、『反省』とは一線を画す。『内省』だ。それは、後始末ではない。『前始末』なのである。何かが起きてからでは遅い。『カウンターインテリジェンス』とは、あらゆるトラブルや問題が起きる前に、未然に防ぐ行為。空港でテロリストや疫病を未然に防ぐのも、そのカウンターインテリジェンスである。

前始末たる、カウンターインテリジェンスを持たなければならない。それは、内省である。自省である。更なる上の境地に『内観』というものがある。これは前始末どころではない。『底始末』だ。まさに、自分の奥底で凝り固まっている問題性や、トラウマ、パラダイム、それまでの半生、それらと一度全て向き合って、実態を把握し、時に解決する。

 

これが出来れば、人間は、何のために生まれ、どれだけ他の森羅万象と差異があり、残りの人生をどう生きて、死ぬときはどういう心構えで臨めばいいかを理解する。外ではなく、”内”を観ることができるかどうか、問われているのだ。

 

自省

 

しかし、テレビも車もない、はるか数千年前の時代ならともかく、今の世で自分と向き合うのは至難の業である。ゲーム、スマホ、パソコン、ネット、レストランにスポーツ中継に、ありとあらゆる娯楽が存在していて、人間の余暇時間を支配している。

 

私は26歳の一年間で日本の世界遺産を全て見て回り、その後も各地の名所、あるいは自然散策にはちょくちょく行っているが、修行僧が瞑想をしていた場所を訪れるたびに、瞑想の難しさを思い知る。

 

例えば、以下の動画は神奈川県の『伊勢原 浄発願寺奥ノ院・岩窟』である。実際に私が撮った動画だ。人が見るようにきちんと撮れていないので、 海外の方が撮った下の動画を見るのがいいだろう。

 

 

4:00あたりから見ると、ちょうどその洞窟までの道のりがわかる。

 

 

一言、ここにたどり着くのに一苦労である。昔がどうったかはわからないが、『蛭(ヒル)』もたくさんいて、油断すると足下が蛭でいっぱいで、血だらけになっている。

 

単純に、山を登る道のりも険しい。私は富士登山もしているが、意外とこういう道を登るのも容易ではない。このような道を登ってようやくたどり着く場所に、修行僧が瞑想をしていた場所がある。

 

これを見ると私は、

 

(これくらい世間から離れなければ自分と向き合うことができないのか…)

 

という思いと、

 

(それくらい自分と向き合うことは神聖なことなのだ…)

 

という感想を同時に抱くのである。私は内観を経験しているからわかるが、確かにあのような経験は、主体的にそこに意志を向けなければありえないことであり、普通の人がそれを志願することは難しいだろう。

 

だが、自分の心と向き合うことの重要性は計り知れない。何しろ、あの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が『ブッダ(悟りを開いた者)』になったのは、この瞑想(ヴィパッサナー瞑想。あるがままを観る瞑想)のおかげだったのだから。

 

瞑想

 

しかし『ブッダ』と聞いて人の感想は違う。私は元々傲慢不遜であり、自分を過信していて過大評価している。だから『ブッダやキリストがなんだ。俺だって一つの命で、どうせ死ぬなかで同じ人間に負けるわけがない』と考えるような人間だった。だったというか、今もまだその片鱗は残っている。もちろん『四聖』に数えられる、

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

世の偉人たちと向き合ったうえでだ。

偉人

 

そして彼らと向き合う時間を作ったのも、そうした思い上がりがそもそもの理由の一つである。内観も経験していたし、ブッダの境地も理解できた。だからこの話をスラスラとしゃべることができる。

 

だが、たとえば私の部下は、『ブッダ』と聞くと(自分とは無縁の話だ。次元が違いすぎる)と考えてしまうようだ。それはもちろん想像力の欠如で、彼がゴータマ・シッダールタだったときから一つ一つ考えれば、人間は皆ブッダの境地に立てるということを理解する。

 

しかし、彼は『自分と向き合う』時間が足りていない。自分と向き合うということはそれほど容易ではなく、そしてそれを成し遂げたときに得られる恩恵は、計り知れないのである。

 

私が内観をできたのも、人生のどん底に堕ちたからだった。電力王、松永安左エ門は、

 

と言ったが、それくらいの窮地に陥り、すべての退路を断たれるまで、人は本当の意味で自分と向き合うことはできないのかもしれない。

 

 

 

 

MEMO
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