偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
運営者
考察
何が幸福なのかは人それぞれなのだが、もしかしたら、その(幸福だなあ)と思っている感想自体が、間違っているのかもしれないわけだ。例えば、人を殺すことに快楽を覚える人間がいたとして、その人間が人を殺したとき、(幸福だなあ)と考えたとしたら、それは、本当に幸福なのだろうか。それとも、『何もかも』間違っているのだろうか。その勘違いの連続が積み重なって、間違った思想と間違った行動に出て、後で矯正施設で矯正されるのだろうか。
『刹那の快楽』を『人生の幸福』とはき違える人は、別に珍しくない。むしろ、精神未熟な時代は誰だって、刹那の快楽を得る為の衝動を抑えられず、後で振り返って恥ずかしい行動を取るものである。そんな風に、精神の確か、不確かということが関係してくるこのテーマで、しかし、『他者を幸福にする』ということだけは、極めて蓋然性の高い『幸福』に繋がる行動だ。
『背理法』で考えれば良い。つまり、まず『不幸になること』を考えて、『その真逆にあることが幸福である』という捻出方法を使えばいいのだ。人間の『四聖』に数えられる、孔子、ソクラテス、ブッダ、キリスト彼らの罪の定義とは、上から順に、『利己、無知、執着、罪』である。キリストの言う『罪』とは、紐解くとヘブライ語の『的を外す』という言葉に辿り着く。キリスト教の7つの大罪とは、
- 傲慢
- 強欲
- 暴食
- 色欲
- 怠惰
- 嫉妬
- 憤怒
が挙げられるわけだが、それを見てもわかるように、それらは『欲望を間違った方向に向けた結果』であり、キリストの言う『罪』とはつまり、そういうことなのである。いや、利己も無知も執着も全てそうだ。間違った感情の持っていき方なのだ。利己的であり、無知で、執着し、7つの大罪が指し示す方向に、間違って欲望を持っていく人間が思い浮かんでくる。
彼は当然、『罪深き人』であり、『間違えた人』であり、『不幸』だ。では、その真逆はどうだ。利他的であり、無知の知を知り、執着することの愚かさを知り、7つの大罪が指し示す方向が間違いであるということを全て熟知している人間。彼を評価するなら、『清廉潔白な人』であり、『正しい人』であり、そして『幸福』であるということになるのだ。『他者を幸福にする』のは、そういう人にしか出来ない。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。
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