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ブッダ『過去に人を千人殺した?そんな人間は認められない。だが、どんな人間だろうが、真実を語ることに、罪はない。』


ブッダの言葉


仏教の開祖 釈迦(画像

 

ブッダは、

『たとえのこぎりで手足を切断されても、自分を見失うな。』

 

というような、究極的なことを言う事がある。それが出来ないと言うのなら、『私の生徒ではない』と言うのだ。つまり、『仏教徒ではない』ということなのだ。

 

しかし、そもそも『ブッダの教え=仏教』なわけだから、ここで言われるブッダとは、=釈迦であり、釈迦の教えをまとめた仏典というものにある、ブッダの教えに従えないのなら、それは『仏教徒』ではなく、『~教徒』という違う名前を語る方が正確である。

 

私の様にひねくれた人間は、授業を受けることは受けるが、それは独学であり自主的であるからして、別に生徒ではない。従って、教徒でもないし、信者でもない。ノコギリで身体を切る人間が目の前に居たら、思い切り相手をぶんなぐるか、逃げるだろう。間違っても身を任せることはない。ましてやその時に、『痛い!』と思わないことなど出来そうもない。よって、『仏教徒』の名を語る資格は、私にはない。

 

だが、言っている意味は、わかるのだ。ブッダとて、自分の身体をノコギリで切断されたわけではない。しかし、『痛み、悩み、憂い、苦しみ』というものから解放されるには、『執着』しないことが絶対条件。それであるからして、もし、そういう状況になっても、『執着』しないことさえ心がければ、人は苦しみから、解放されるという教えなのである。

 

武田信玄の側近、快川和尚は、織田信長に城を焼かれる刹那、

『心頭滅却すれば火もまた涼し。』

 

と言い残した。この言葉の背景にある境地もまた、ブッダの説く心の境地と同じところを指しているに違いない。

 

 

さて、人を千人殺した人間が居たとする。戦争を知らない人間の常識ではありえないが、知っている人間の常識では当たり前の事実だ。

 

そんな人間が、人生を悔い改め、人の人生について同情したとする。例えば、難産に苦しむ婦人を見たのだ。それは、許されるのだろうか。それとも、そんな人間が人に同情することなど、あってはならないのだろうか。

 

ブッダは、『こう言いなさい』と言う。

『私は悟って人生が変わってよりこのかた、わざと生き物を殺したことは、ただの一度もありません。この不殺生の真実によって、あなたとお腹の赤ちゃんが楽になり、安産となりますように』

 

彼がやってきたことは、許されない。だが、悔い改めた人間は、『赦される』のである。それに、彼女と子供を思って言ったその言葉には、『愛』がある。彼が過去にやったことは罪でも、『語られる真実』には、罪はないのだ。

 

 

参照:中部経典『アングリマーラ経』

 

※これらの言葉は参考文献や史実に基づき、オーナーが独自の見解で超訳し、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

著者:一瀬雄治 (Yuji Ichise)

 

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