『ヒト』を最適化しよう。

『よいお年を?違う。悔いのない人生を。』

意味

私がこの『よいお年を』という言葉に否定的な言葉をぶつける理由はちゃんとある。私の家はクリスチャンの一家で、私を含めて何人かをのぞき、ほとんどがクリスチャンである。その為、当然両親もキリストのことを『イエス様』と呼ぶわけだから、もう、その時点で他とは勝手が違う。

 

いや、海外では当たり前かもしれない。例えば日本とほぼ同じ人口数であるバングラデシュなどは、人口の9割がムスリムなわけだから、そこではキリスト教ではなくイスラム教が当たり前なわけだ。だから別に『イエス様』と呼ぶ人間がいるということで考えても、世界の規模で言えば珍しくはなく、むしろ20億人いる。だが、この日本でクリスチャンの割合は0.8%~1%と言われている。私はその極めて少ない数のうちに入る、稀なケースの家庭環境で育ったというわけだ。

 

当然、クリスマスを周りの日本人のように祝うことはなく、墓参りも初詣もなかった。日曜日には日曜学校なるものに強制的に行かされ、学校の友人とは常に深い溝を隔てて接しなければならなかった。何しろ、我々家族がやっていることが正しいのであれば、周りにいる学校の友人を含めた、従兄弟や、知り合いといった全ての人たちは、間違っている。

 

だが、彼らの中には間違いなくいい奴がたくさんいて、どちらかというと偏った思想を強要するうちの両親の方が、何らかの一線を越えてしまっているように思えるわけだ。しかし家族も本当に大事だ。幼少の頃、家族でキャンプへ行ったり、自然で遊んだ事実は、今も尚輝かしい大切な思い出の記憶として私の脳裏に焼き付いている。

 

人生を先に進めると、カルト教団がテロ行為を行い、世界を震撼させる事件に直面することになる。またあるいは、一部の狂信者が宗教を盾にしてテロリズムを行い、罪のない人間の命を巻き添えにしてしまう事件に直面することになる。一体この世に、宗教はあっていいのか。多様性はあっていいのか。いいならこれらのテロ行為や殺人も『多様性』の一つとして認められるのか。

 

私が何度も『嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ』と拒否し続けたのに、私にクリスチャンになることを強要する私の両親は、本当に正しい存在なのか。正しくないなら、私は一体だれを信じて生きていけばいいのか。どんな宗教を持てばいいのか。それとも、持たなくてもいいのか。家族と離別することになってもいいのか。それでも自分を貫くべきなのか。それとも、自分の心底の意志を押し殺し、無理矢理にでもかけがえのない家族と表面を合わせて生きていけばいいのか。私は、星の数ほど葛藤した。もがき、苦しみ、道を踏み外しもした。

 

私はある日、違和感を覚えるようになった。『よいお年を!』という言葉の存在にだ。

 

  • よいお年を!
  • 誕生日おめでとう!
  • メリークリスマス!
  • 結婚おめでとう!

 

これらの言葉が実に簡単に、事務的に、表層的に行われている感覚を得たのだ。まるで、カラオケで歌を歌っているとき、待っている人が曲を聴いておらず、次の歌を決める為に必死に本を読んでいる、そういう冷めていて、価値が軽んじられていて、空虚な感覚を得たのだ。

 

よいお年をっつったって、死ぬときはその年に死ぬ。誕生日おめでとうって本当に思ってるなら、他にやるべきことはないのか?メリークリスマスって、クリスマスはキリストの誕生日なんだよ。結婚おめでとうって言って、人集めて盛大に祝った人間が離婚してるのはなぜだ?

 

意識的に、主体的に、全ての固定観念や既成概念と向き合っていくと、どれも首をかしげざるを得ないものばかりだった。

 

例えば、『よいお年を!』と言い合っている人がいる。しかし、その二人がその翌年に、場当たり的で刹那的、かつ保守的な一年を過ごし、自分の気持ちを誤魔化して捏造、隠蔽したり、あるいは正直になれず、リスクを恐れ、恐怖に立ち向かわず、機会を逃してしまったとする。

 

人生の黄昏時を迎えて死の床に着いたとき、我々が後悔するのは『負ってきたリスク』ではない。避けてきたリスク、掴まなかったチャンス、立ち向かわなかった恐怖なのだ。 それであれば、なぜその年にそうしなかったのだ。それは二人が、『よいお年を!』という言葉に浸り、依存し、あるいは過信し、盲信していたからだ。

 

彼らが言うべきなのは本当に『よいお年を!』だったのだろうか。私はそうは思わない。なぜなら人生は一瞬ではなく、一年でもなく、一生だからだ。

 

 

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『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』 『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』

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