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源義経があの『チンギス・ハン』ってどういうこと?弁慶より強かったカリスマ武士の実力と作られた伝説

『義経伝説』

天下を取り、越権的だった平氏に『以仁王の令旨』で全国の武士が立ち上がる!『平氏を潰せ!』

 

上記の記事の続きだ。さて、冒頭の記事で、『義経は奥州藤原に殺された』と書いたが、実際には秀衡は義経の味方であり、死後、息子の泰衡が鎌倉幕府に屈する形で、父の遺言を護れない結果となった。その奥州藤原の本拠地だが、現在、世界遺産にも登録されている『平泉』である。

 

  • 中尊寺
  • 毛越寺
  • 観自在王院
  • 無量光院

 

当の様々な寺院が今でも見ることができる。

 

[中尊寺(筆者撮影)]

 

秀衡は、『後三年合戦』で亡くなった戦死者を、敵味方関係なくこの中尊寺で弔った。そして仏教思想を取り入れ、この地の平和を願った。

 

[毛越寺(もうつうじ)に残る庭園(筆者撮影)]

 

建築された寺院とそれを指示した統治者

中尊寺 秀衡
毛越寺 基衡
無量光院 泰衡

 

更に、これら平泉が12世紀初頭から100年以上にわたって栄えることができたのは、清衡、基衡、秀衡の奥州藤原3氏が、この地で『砂金』を豊富に産出したからである。かつて、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で、

『掘れども尽きず』

 

と記し、日本を『黄金の国ジパング』と称したが、その金文化を支えたのが、玉山金山をはじめとする欧州各地の金鉱山だったのだ。

 

MEMO
『東方見聞録』に見られる日本の記述。日本(ジパング)は、民家や宮殿が黄金でできている黄金の国だと紹介されている。

 

良くか悪くか、世界の形を大きく変えたスペイン・ポルトガルの『大航海時代』の幕開け

 

更に、日本には『銀』もあった。上記の記事に書いたスペイン・ポルトガルの『大航海時代』で、この時代を契機に世界が一体化し、世界各地で流通が盛んになった。スペインがアメリカ大陸で採掘した銀や、日本からもたらされた金銀が大量にヨーロッパに流入し、大幅な物価上昇へとつながった。日本は戦国時代から江戸時代初期までの間、世界でも有数の銀産出国だったのだ。

 

下記の写真は私が20代の時に撮った世界遺産『石見銀山遺跡とその文化的景観』にある銀山の洞窟である。

 

 

島根県石見にあるこの銀山の年間最大産出量は38トンを誇った。当時、世界の年間銀産出量は600トンほどで、うち200トンは日本産だったほどである。スペインやポルトガルはマニラに拠点を置いていたので、アジアでの貿易にも強かった。

 

STEP.1
明(みん)で生糸を安く手に入れる
STEP.2
生糸を日本で銀と交換
STEP.3
銀で明や東南アジアで絹織物や陶磁器、香辛料等を購入
STEP.4
ヨーロッパに持ち帰って高値で売り利益を得る
 

 

このような『中継貿易』によって両国は莫大な富を得た。当時、銀は国際貨幣として広まっていたので、大きな価値を持っていた。そして下記の記事に書いたようなイギリス、インド、中国の『三角貿易』、そして『アヘン戦争』につながるのである。

 

三角貿易
イギリスは一度インドへ自国の製品を輸出し、インド産のアヘンを清へ輸出。そしてインドを経由して支払いに使った銀を回収するというする三角貿易によって利益を上げる。

 

アヘン戦争の原因はお茶の値段を吊り上げた『清』、野心の塊だった『イギリス』のどっちにあるか

 

平泉(岩手県) 金山
石見(島根県) 銀山

 

日本にはこういうエネルギー源もあったのだ。だがもちろん、これら『金のなる木』には権力が群がり、詳細をひも解いていけば、必ず『強制労働させられた人々』の存在を知ることになり、複雑な心境となる。

 

 

また、『名馬の産地』でもあった。源頼朝が木曽義仲(きそよしなか)を追討するために命じて始まった『宇治川の戦い』で活躍した、

 

  1. 梶原景季(かじわらかげすえ)
  2. 佐々木高綱(ささきたかつな)

 

が乗っていた馬が名馬であり、この地で育てられた馬だったと言われていて、糠部群(ぬかのぶぐん)は武士たちから一目置かれていたようだ。木曽義仲は源頼朝らのように、平氏の存在を脅かした武士であり、それを打ち破ったことは大きな出来事だった。

 

 

 

当時の戦は、武士の戦いで騎馬武者が一騎打ちをするスタイルが理想とされたので、馬が重宝されたのである。そして、その騎馬武者として活躍する者は英雄視されたのだ。しかしとにかくこのようにして繁栄があった奥州藤原氏で、朝廷や摂関家に貢物を欠かさなかったことで、この地は彼らが支配することを許されていたのだ。しかし、源義経をかくまったことでによって、追い込まれるようになったのだ。

 

1189年、秀衡が亡くなった後の2年後、泰衡は父の遺言を守って義経をかくまうが、結局鎌倉幕府に押され、義経の首を差し出す判断に至った。そして義経は自害し、泰衡は首を差し出したのだが、時すでに遅しだった。28万余の軍勢を率いて攻め寄せた頼朝軍になす術はなく、泰衡も殺害される。そして奥州藤原氏は滅亡したのであった。

 

この義経が死んだ時に死んだもう一人の有名人物は『弁慶』だ。彼は義経の郎党(家来)で、僧だった。

 

  1. 吾妻鏡
  2. 平家物語
  3. 義経記(ぎけいき)

 

に登場するが、とくにこの義経記によって伝説化され、豪傑化されたといわれる。先ほどの『衣川の戦い』で、多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれたという。

 

[『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵]

 

義経は、幼少に『牛若丸』と名付けられ、11歳で『遮那王(しゃなおう)』と言い、そして『義経』となった。『弁慶と牛若丸』で有名な彼らの出会いは、どこまで本当かがわからない。

 

かつて弁慶は、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたため『鬼若』と名付けられ、煙たがれられた。確かに、それは時代が古ければそうなることは十分にあり得る。

 

例えば、古代ギリシャでは精神病は体の病気とされていた。たとえば、ヒステリーは子宮の病気とされていた。そして中世ヨーロッパでは、精神病者は『神により罰を与えられた罪人』とされていた。しかし、1793年に、Ph.ピネルによって『精神病者は罪人ではなく、治療を受けるべき病人』だとわかった。

 

精神病者に対する見解

古代ギリシャ 体の病気
中世ヨーロッパ 神により罰を与えられた罪人
1793年 罪人ではなく、治療を受けるべき病人

 

『図解雑学 こころの病と精神医学』にはこうある。

鉄鎖からの解放

『近代精神医学の父』とされるPh.ピネルは、18世紀末のフランス革命の最中にパリのビセートル病院などにおいて、非人道的な精神病患者の処遇を改善し、『鉄鎖からの解放』を試みた。また、彼は世界最初の近代精神医学の教科書『精神病に関する医学=哲学論』を著し、『精神病者は刑罰を科せられるような罪人では決してなく、苦しむ人に払われるべきあらゆる配慮を、その苦痛からして、当然受けてしかるべき病人なのである』と主張し、これを実践した。

 

 

  • ピネル
  • フロイト
  • クレペリン
  • ブロイラー

 

といった精神医学者たちが、間違って蔓延していた精神病患者への対応を覆したのである。

 

フロイトの『超自我』はキルケゴールの『宗教的実存』と同じか?…いや違う。

 

フロイトやピネルよりも更に700年も前のこの時代の日本にあって、そのような特別な条件を持って生まれた弁慶が世間から嫌われ、それで彼の心が荒み、その持ち前の体格を持ちあまして暴れるということは、あり得ない話ではない。

 

その後鬼若は比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。やがて、弁慶は

 

弁慶

京で千本の太刀を奪おう!

 

と計画する。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。これ以来、弁慶が義経の家来となったという。

 

確かに、義経は優れた軍才を持った人物だった。そもそも、後白河法皇が京都で暴れた義仲を潰そうとして彼を任命したのは、義経に軍才があったからだった。だが、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

 

[鞍馬寺の大天狗僧正房と剣術修行をする遮那王。月岡芳年画(明治時代)]

 

源平合戦で有名なのが、

 

  1. 一の谷の戦い
  2. 屋島の戦い
  3. 壇の浦の戦い

 

だが、1184年1月、兄の頼朝の命で木曽義仲を倒した義経は、平氏追討に着手する。そして『一の谷の戦い』では、源平合戦が繰り広げられる中、ひそかに山中を迂回し、敵陣を見下ろせる場所『鵯越(ひよどりごえ)の断崖』を騎馬で駆け下り、平氏軍を海へ追いやった。

 

更に、『屋島の戦い』では、嵐の中、つまり、

 

こんな嵐では船も出ないなぁ

 

と誰もが思うその状況で数隻の船を出し、平氏軍のいる屋島に向かい、背後を急襲することに成功。そして『壇の浦の戦い』では、『非戦闘員は攻撃しない』という海戦の掟を破り、平氏の軍船を操る水夫を矢で攻撃した。

 

平氏

おい!ただの水夫が攻撃されたぞ!
ば、馬鹿な!それはタブーのはずだ!

平氏

 

義経は、かつて、中国の三国志の時代、『蜀』の諸葛亮孔明が計った『草船借箭の計(そうせんしゃくせんのけい)』を思い出すような巧みな戦術を使ったのだ。

 

風林火山』の兵法を心得ていた孔明。空が『濃霧』に包まれたのを見た時、『天の利』が満を持したと見極めた孔明は、たった20隻の船に”藁”を敷き詰め、『魏』の待機する船の群れに突っ込んだ。 20隻の船から太鼓で音を立てながら、見通しの悪い濃霧の中、孔明は『魏』の船に向かって、数百発の威嚇射撃をした。

 

すると、『魏』の船は、孔明が率いる船の数を読み違え、過大評価した。その何百倍もの矢をこちらに打ちこみ、想定した数100隻の船を沈めようとしたからだ。だが、実際は20隻。孔明は、敷き詰めた藁に相手の矢が刺さるように方向を変え、見事、矢を5万本手に入れたのだ。

 

草船借箭の計(そうせんしゃくせんのけい)

 

[盗賊の熊坂長範と戦う義経。伝説では、この時、義経は15歳であったという。]

 

更に、なんとこの義経はその『衣川の戦い』では死んでおらず、実はアイヌ民族が住む『蝦夷地』に逃亡し、生き延びたという。そうした逸話を『義経北方(北行)伝説』といい、それを信じた人々が、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社を創建したほどである。

 

更に面白い話が、『義経=チンギスカン説』である下記の記事に書いたように、チンギス・ハン(チンギスカン、ジンギスカン)というのはかつてのモンゴル帝国の祖であり、ローマ帝国の後にこの世界を支配した一大勢力だ。1206年、彼は『部族会議(クリルタイ)』にて『ハン』の称号を得て、『チンギス=ハン』と名乗り、大モンゴルの皇帝となる。

 

 

13世紀にあったチンギス=ハン一家の野望!『死体の山(ワールシュタット)』を作りながら領土を拡大

 

つまり、義経が亡くなった16年後なのだ。ちょうど時代的に合致しているのである。18世紀の中国『清』の乾隆帝の御文の中に

「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」

 

朕(ちん)
天子(てんし)。つまり中国のトップに立つ人物の自称。中国で、古くは一般に用いられた。

 

と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し『女真族(じょしんぞく))になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。

 

清は、北方の女真族が作った国だったのだ。清の初代皇帝は『ヌルハチ』だが、彼はどちらかというと『後金の創始者』であり、清の前段階の『後金』の皇帝だった。それを作ったのがヌルハチで、彼は女真族という民族だった。そして、彼らの祖先に『源義経』という人物がいたという話があったのである。

 

中国歴代最高の名君『康熙帝(こうきてい)』ら『3帝』が活躍した『清』

 

明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄が、ケンブリッジ大学の卒業論文で

「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」

 

成吉思汗
ジンギスカン。

 

という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。更に大正に入り、アメリカに学び牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいた小谷部全一郎が、

 

アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経らしいぞ!

 

という話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。すると、彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版し、この本で『義経=ジンギスカン説』が世にここまで知られるようになった。

 

しかしもちろんこれらは伝説の域を出ず、学術的に完全に否定された話である。しかし、それほどの潜在能力を持ったのがこの源義経という男だったということだ。しかしまあイギリスの哲学者ジョン・ロックがこう言ったが、

 

一体彼の『確信』は何だったのかということになり、人間の認識の不正確さを思い知るワンシーンでもある。

 

 

 

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参考文献