偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
運営者
考察
寂寥(せきりょう)とは、心が満ち足りない様子。空漠(くうばく)とは、漠然として捉えられない様子。人間の心が寂寥となるから、その渇いたスポンジに水分が吸収されるわけで、それが枯渇してなければ、そこに突き入る隙間はない。自分の心が寛容、あるいは空虚であり、まるで大洋の様に広漠としているならば、もう、そこには欲するものなど何もない。
図で見れば一発だ。
左のメーターはとても満ち足りているが、右のメーターは枯渇している。だとしたら、『欲する』のは右だ。そして、エネルギーが捻出されるのも、右だ。創作とは、エネルギーである。無から有を生み出す、人間の矜持である。何しろ、別にそんなことしなくてもいいのだ。しなくても生きていけるのである。しかし、自分の心が寂寥であると叫ぶ人間の魂は、エネルギーを捻出(創作)するし、人も愛する。それはまるで、『意地』だ。この儚い運命に生まれた『意味』のない人生を、何とかして『意義』のある人生にしようとする、人間の『意志』だ。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。
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