偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
偉人
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考察
以前、とある番組で『ホームランを打つまで終わらない』という企画があった。相手として、サッカーでゴールに貼られた番号を打ち抜く企画が同時進行していて、どちらが先に目的を達成するか、というゲームだった。
体力のある前半は、なかなかいい球を打った。だが、ホームランまではいかずに、ついには相手のサッカーチームが戦いに勝った。しかし、野球ゲームの方の人間は、一人、『まだやらせてくれ』と願い出る。無下にするわけにはいかない。皆が見守る中、その後も何球も何十球も球を打ち続ける。しかしホームランは出ない。
途中、休憩を挟んだ。その間、彼の友人である人物が、彼の助けになりたいと思ったのか、無言でピッチャーを交代し、その人物に投げ始めた。休憩といっても、『見守る人たち用』だ。本人は休まなかった。それを見て心を動かされたのか、友人はそういう行動に出たのだ。
だが、その友人は野球をやったことがない。だからボールはへなちょこボールだった。しかし、そのボールを受けて緊張感が解けたのか、ボールを打つ彼の身体が妙にリラックス状態になり、なかなかいい球を打った。
男性
そう言って、彼はまたバッティングを再開した。すると、とっくのとうに疲労しきっているはずの彼の状態からは想像出来ないような、いい球を打つようになった。彼は結局ホームランは打てなかった。だが、私はそのシーンを見て、妙に引っかかるものがあった。そして今回の松岡修造の言葉を見て、どうしてもその話をここに書きたくなった。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
当サイトにある500人の偉人の8000の名言。なぜ「1万」ではないのか──それは、内省が深まるにつれ、「本質を射る言葉」が自然と重なっていったからです。そうして浮かび上がった真理を、私は『38の黄金知』としてまとめました。
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