『ヒト』を最適化しよう。

神の対極にいつも『怪物と悪魔』が存在する理由がわかった!

神々の住み家、神殿、神社、寺等が『高い場所』にある理由とは?

 

この話の続きだ。このようにしてとにかく『神話』が最初にあり、それが『宗教』へと変わっていった。この、『最初に神話があった』ということを理解することは極めて重要だ。もう、これだけでこの世にある様々な不和が解消され、心が平和になる人が大勢いるだろう。

 

神話 狩猟採集時代に生まれた 自由でめちゃくちゃな発想
宗教 農耕社会を作る過程で生まれた 秩序を作るためのきっちりとした規範
神話=『めちゃくちゃ(混沌)』。宗教=『きっちり(秩序)』の理由

 

どういうことかというというのはこのあたりの記事を読めばわかる。

 

ユダヤ神話(一神教)とギリシャ神話(多神教)はなぜ和解できたのか? 神話から宗教へ移り変わったということは、旧約聖書は『神話』が根幹にある?

 

神話から宗教へ移り変わるとき、急に『黒⇒白』にコントラストがはっきりするわけではなかった。グラデーション的に、徐々に論理的に説明できるようなシナリオへと移り変わり、そして現在の『科学』へとつながっていくわけだ。

 

 

つまり、それらの記事のタイトルにあるように『宗教の要素に神話の自由な要素が盛り込まれている』ということがわかるわけだ。すると、宗教にある様々な『よくわからない話』を説明することができるようになる。例えば挙げたように『天地創造の話』だ。アダムとイブの話とか、『モーセが海を割った』とか、そういう話を盲信するべきではないという事実が見えてくるわけである。

 

神話は自由な発想で生まれた。そして宗教が生まれて、そこに神話の要素が盛り込まれたということか…

 

我々はごく単純にそのような発想を持って、このあたりにあって今も盲信している人が多い『不思議な話』の存在の理由を説明できるようになるのである。

 

そして今回のテーマは『神の対極にいつも『怪物と悪魔』が存在する理由』である。『世界の神話 神話の生成と各地の神話。神々と英雄の活躍』にはこうある。

神話に登場する神々と英雄は偉大だ。しかし偉大な存在は比較の対象やその偉大さを際立たせてくれる対象がなければ引き立たない。それで神話の効果を極大化するため、神と英雄に対する抵抗勢力として、怪物と悪魔が登場する。

 

STEP.1
神が悪魔や怪物と戦う
STEP.2
苦戦するが結局神と英雄が戦いに勝つ
STEP.3
世界秩序が勝利するということを意味する

 

  • 悪魔
  • 怪物
  • ドラゴン
  • 吸血鬼
  • 魔女
  • 鬼神(霊魂)

 

これらの存在は『神の力(世界秩序の力)』を証明するために用意された『かませ犬』なのである。

 

しかし今回私が考えたいのは、これよりも更に深く潜ったところにある真実である。この後キリスト教が出てきて、悪魔は『サタン』と呼ばれるようになった。仏教にも仏道の邪魔をする『邪神』があり、釈迦が修行中にもこうした『邪念』に足を引っ張られたという逸話がある。サタンは自由に姿を変えることができ、ときには『蛇』に姿を変え、イブを誘惑して禁断の実を食べさせるというのは、誰もが知る話だ。

 

 

先ほどの本にはこのような存在を、

人に災いをもたらしたり、悪の道へ誘惑する魔物を指す。

 

と説明し、次の話に移っている。この『悪の道へ誘惑する』という言葉が、非常に重要なキーワードだと私は睨んでいる。『神の対極にいつも『怪物と悪魔』が存在する理由』は、下記の記事を見ている人はわかるように、『真理の対極には虚無がある』ということなのである。

 

『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

  • 真理⇔虚無
  • ⇔悪魔(怪物)
  • ⇔エゴ

 

簡単に言えば『神=光』で、『悪魔=闇』。ドストエフスキーがこう言ったように、

 

人間の心には『善意』と『悪意』があり、それらが戦ってどちらが勝つかで、人の心は充足したり虚無に陥ったりする。私は『神の対極に『怪物と悪魔』が存在する理由』は、ただ神の噛ませ犬的な存在でそれらが想像されたわけではなく、この世のこうした真理を、かつての人々が直感的に察知し、神話的な発想でイメージを描いたと見ている。

 

聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

 

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

 

 

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。

 

『神の為に奮闘する』ことを意味し、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

 

『人間には聖性と魔性の両面がある。聖性を優位にし、魔性を劣位にする、という闘いこそがジ・ハード(聖戦)なのである。』

 

  • キリスト教にある『サタン』
  • イスラム教にある『聖戦(ジ・ハード)』
  • 仏教にある『邪神(邪念)』

 

現在でも強い影響力を持つこれら世界宗教の教えにあるこういった『不思議な要素』の正体は、すべて説明できるようになっているのだ。そしてこれらは神話的自由な発想と解釈が行われない限り、人間にとって極めて重要な真理を突いた話なのである。

 

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