Contents

徳川家斉『40人女がいるけど、何か問題でも?』大塩平八郎『知行合一!己の命を使って救民する!』

『大塩平八郎』

『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』に選ばれた日本人、葛飾北斎登場!

 

上記の記事の続きだ。さて、1786年に10代将軍家治が死去し、御三卿のひとつ、一ツ橋家出身の徳川家斉(いえなり)が、1787年から11代将軍となった。彼はその若さでその地位についたということもあって、在位期間は50年で、将軍の中で最も最長となった(在任:1787年 – 1837年)。

 

[徳川家斉像(徳川記念財団蔵)]

 

彼は、先代で活躍した田沼意次を解任し、吉宗の孫にあたる御三卿田安家出身の松平定信(さだのぶ)を老中として迎え、1788年には彼を将軍補佐役に取り立て、二人三脚で政治改革を行う。定信は、天明の飢饉を乗り切った実績もあり、名君との評判が高かったのだ。その政治スタイルは前半後半で大きく異なり、

 

  • 前半『寛政の改革』
  • 後半『大御所時代』

 

と言われた。八代将軍吉宗、九代将軍家重が『米を使った社会の立て直し』をしてギリギリ財政難を持ち直し、10代将軍家治と田沼意次は『金を使った社会の立て直し』をしてちょっとした混乱を招いたわけだ。

 

吉宗、家重 米を使った社会の立て直し
家治、田沼 金を使った社会の立て直し

 

そこで、11代将軍である家斉と、その補佐である定信は、吉宗の政策、つまり『享保の改革』をモデルにして、もう一度『米を使った社会の立て直し』を図った。飢饉とそれによる一揆・反乱が多かったので、取り急ぎそれを抑える為に、対策を打つ。

 

囲米(かこいまい) 全国の大名に1万石あたり50石の米を備蓄させる
七分積金 町の運営費を節約させ、うち70%を緊急時用に積み立て
旧里帰農令(きゅうりりのうれい) 資金援助をして農民の工作を促進
人足寄場(じんそくよりば) 手に職をつけてもらい失業者が出ないよう対策
棄損令 金を貸していた商品に武士への貸金を放棄させる
出版統制令 風紀の乱れにつながる書物の出版の禁止

 

基本、冒頭の記事にも書いたように、このあたりの時代の思想の中心は儒学だった。だから、この出版統制令は基本的にそれが軸になり、あるいは幕府批判となるものを禁じた。これらの対策によって一時的に状況が好転。幕府の権威も復活し、下層民の生活は持ち直した。

 

しかし、半ば強制的に当てはめたこれらの対策は、長期化するにつれて反発を招くようになり、緩和措置を求める家斉とも対立した松平定信は、1793年、それが原因で将軍補佐を辞任することになった。ただ、更に違う文献では、そういう対立だけではなく、家斉が実父の一橋治定に『大御所』の称号を与えようとした際、定信がこれを猛反対したことや、天井知らずに膨張していく大奥の予算を削ろうとする定信が邪魔だったとある。

 

[松平定信自画像]

 

確かに、家斉は40人以上の側室を置き、55人の子女をもうけたといわれていて、色々とお盛んだった。大奥最盛期と言われたこの時代は、実は財政的には破綻寸前。こうした事情を考えると、『定信が度を過ぎた人物だった』というよりは、『家斉が度を過ぎた人物』で、定信はむしろ正しく、堅実な対応をしただけということになる。

 

しかしとにかくここからは、家斉一人が政治を行う『大御所時代』が始まる。その独裁政権が原因か、大奥に対する経費削減が原因か、家斉はそれ以降、更に生活が荒れ、ますます状況が悪化。そしてその気配は社会全体に伝わり、連鎖。下記の記事で、『明暦の大火』で財政難に陥り、萩原茂秀という人物が、

 

萩原茂秀

小判を水増ししよう!

 

と提案し、それまでの小判をつぶして銀を混ぜ、水増しして小判を作って小判の量を増やそうとしたと書いた。今まで、小判には金が84%含まれていたが、その『元禄小判』は57%に下がった。こうして金と銀の含有バランスが崩れた『純度の低い小判』ができ、それによってその状況を打破しようと考えた。しかし、それは結果的にインフレを起こす原因となったわけだ。

 

[元禄小判]

忍者?侍?我々を忘れてるようだ。我こそは『浪人』!世界が驚嘆した『赤穂浪士討ち入り事件』の主役だ!

 

なんと家斉は、この小判の金の含有量をさらに引き下げ、小判の枚数を増やすという対策に出る。しかしそれが原因で物価が急上昇し、商人が繁栄するのはいいが、米を基盤として暮らす武士や農民は追い込まれたのである。

 

商人

我々にとってはいいや!物価が上がれば金の価値が上がって、金がある我々の価値が上がるんだからよ!
ええい!我々はどうする!獲った米を金に換えて生活しているんだ!獲れる米の量は同じなんだぞ!

武士

 

これによって治安が乱れ、江戸周辺では博打が流行してしまった。その取り締まりの為に幕府は『関東取締出役(しゅつやく)』という警察機構を作り、治安維持を強化した。

 

ただ、これにも諸説があり、違う文献では家斉ではなく、老中となった水野忠成(ただあきら)の専制政治が原因だったという。むしろ家斉は出る幕がなく、政治には興味を失っていたというのだ。それゆえに、遊興にふける毎日を送るようになったという。この水野は、田沼時代を凌駕するほどの賄賂政治を行い、それによって政治が退廃し、社会に贅沢をする気風が漂い、それが冒頭の記事にあった『化政文化』に繋がったという。

 

[水野忠成肖像(妙心寺福寿院所蔵)]

 

つまり、化政文化の華やかで派手な庶民のありさまは、この水野の賄賂政治、家斉の政治放棄によって捻出された、ある種の『度が過ぎた欲望の暴走』だったのだ。ここまでに至るいくつかの記事で私が書いたのはこうだ。

 

下記の記事でも、『ただ生きていくために生きていた時代は、『満足』を追い求め、それが満たされると人々は『贅沢』を追い求めるようになった』と書いたが、文化や文明が発達するということは、その背景に『贅沢を追い求める欲深い人間』がいるわけだ。別の言い方をすると『別にする必要がないことに夢中になる人間』が増えるのである。

 

生きるために『水』が必要だった。だが、『満足』した人々は『贅沢』を求めた。

 

この私の見解は、あながち外れていなかったということなのである。文化・文明の発達の裏には、『満足』を飛び越えて『贅沢』を求めた人間の姿があり、それは、実は真理に沿って考えたとき、そう関心できる現象とは言えないのである。それは、この世であらゆるエンターテインメントやスポーツ、娯楽を提供する人、あるいはそのステージで生きる人には受け入れられない事実だが、人の欲望を煽情するネオン街や、女性の化粧、誇大広告等は、この世に必ずしも必要ではないもの。

 

人間は、そうした欲望の暴走化の延長線上に『世界平和』とはかけ離れた不和・確執・軋轢・犯罪・差別・戦争といった事実を作りだし、その結果、この世にいつまでもいつまでも、世界平和が実現されないのである。

 

『足るを知る者は富む。足るを知らぬ者は貧しい。』

 

大御所時代最後の10年間は、華やかなその化政文化の裏で、毎年のように凶作があった。農村の疲弊が激しく、耕作を放棄して土地を売り払い、百姓たちが弱体化する事実も関係していた。そして1836年『天保の飢饉』が起きる。これによって全国的な大飢饉にお通り、大阪の米流通は麻痺し、市中は餓死者も続出した。

 

[天保の飢饉]

 

そこで登場するのが大塩平八郎(1793~1837年)だ。彼も冒頭の記事に書いた佐藤一斎(1772~1859年)と同年代で、伊藤仁斎と同時期に活躍した貝原益軒(えきけん)(1630~1714年)が学んだ陽明学を学んだ人物で、学者だった。江戸の陽明学者・佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わしていたという。

 

こんな状況でも豪商は米を買い占め、江戸の将軍就任儀式に米を送る。そうした不義がまかり通る世に憤怒した平八郎は、自らの蔵書を売り払って救済に乗り出すが、それだけでは解決できない。

 

そこで平八郎は、徐々に仲間を集めて『救民』の旗印を上げ、100~300の人々が大阪支柱を火の海にした。結局反乱は鎮圧され、平八郎は自分にも火を放って自害するが、彼の奮起に呼応した人々が全国各地で『大塩残党』『大塩門弟』などとして奮起し、一揆が頻発。貝原益軒の記事に『知行合一』について書いたが、行動することに重きを置いた平八郎は、自らが先陣を切り、この社会の腐敗に立ち向かったのである。

 

[大塩平八郎像(菊池容斎作、大阪城天守閣蔵)]

 

 

次の記事

該当する年表

SNS

参考文献