『ヒト』を最適化しよう。

フッサールが『色眼鏡を外せ!』と主張。真理に辿り着きたいなら尚のことである

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

フッサールは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!

『色眼鏡を外さないと真理は見えない』と主張した人です。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

先入観があるとそれが邪魔をして真実が見えません。

常識や先入観に流されず、冷静な視点で対象物を見なければならないわけです。では、その対象物が『結局何であるか』ということを認識するためにはどうすればいいか。それはこの場合、『多くの人がなんと言っているか』という事実と照らし合わせながら決めるわけです。意見はそれぞれの確信に基づくものだから、確信の合致がすなわち『認識』ということになります。もちろん、その人たちの確信すべてが間違っていることもあります。だからここで言われているのは『認識』であって『真実』とは言っていないのです。真実を見極めることはそれだけ難しいということですね。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

現象学の創始者

ラッセルとデューイが『もっと現実に目を向けろ』と主張。主体性を埋没させてはいけない

 

上記の記事の続きだ。ラッセルとデューイがプラグマティズム(実用主義)を主張した。実はちょうどその頃、アメリカのデューイと同じ年に、オーストリアにフッサールという哲学者が生まれていた。彼はドイツで過ごした時間が長いため、ドイツの哲学者、そして『現象学の創始者』としても知られている。

 

[エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール]

 

各人の誕生年

ジョン・デューイ 1859年
フッサール 1859年
ラッセル 1872年

 

彼は人間にある、

 

  • 思い込み
  • 既成概念
  • 固定観念

 

等について触れ、『それがある以上は真理にはたどり着けない』と考えた。

 

 

現象学的還元

あれは何だ?
そんなの鳥に決まってるだろ。

何言ってるの、UFOよ!
キャー!スーパーマンだわ!

 

 

ここに出た様々な意見を見てもわかるように、彼らの『生きた環境』は違っている。例えば、UFOだと信じたい人は、UFOについて考えた過去があるからであり、スーパーマンという言葉を発した人は、スーパーマンという存在が何であるかを知っていなければならない。例えば、アメリカ人である可能性が高い。

 

例えば、世界の人々に『太陽を描いてくれ』と言った時、そこに書かれる太陽の色は違う。中東の方では『黄色』に描かれるが、日本で太陽を黄色に描く人は少ない。つまり、その対象が何であるか、どんなものであるかということの意見は、各人の生きた環境や、固定観念、先入観によって変わってしまうのである。

 

 

『人の認識は偏見と先入観と誤謬に満ちている』と考えたフッサールは、まずそこにある『色眼鏡』を外して対象を認識するべきだと主張する。これを『現象学的還元』と呼んだ。

 

誤謬(ごびゅう)
誤った判断。間違った考え。

 

 

 

専門用語

彼の考え方を専門用語で考えてみるとこうなる。例えば、『お皿を見たときの人の思考』だ。普通、お皿はお皿だと考えるが、もしかしたらそれを『灰皿』に使っている人もいるかもしれないので、思い込みはいけない。

 

現信憑(げんしんぴょう) それが皿だと思い込む
判断中止・保留(エポケー) 思い込みを排除すること
還元 では何なのかと立ち止まって考えること
志向性 対象に意識が(はじめて)向かうこと

 

現信憑でそれをまず『皿』だと思うが、エポケーして、還元する。するとはじめて志向性が持てるようになり、その対象物が何であるかということを冷静に見ることができるというわけだ。つまり、常識や先入観に流されず、冷静な視点で対象物を見なければならないということである。

 

では、その対象物が『結局何であるか』ということを認識するためにはどうすればいいか。それはこの場合、『多くの人がお皿だと言っている』という事実と照らし合わせながら決めるわけである。意見はそれぞれの確信に基づくものだから、確信の合致がすなわち『認識』ということになる。

 

認識 共通した確信

 

 

多数決?

だがここで問題が起こる。ソクラテスの例を考えてみよう。

 

 

ある時ソクラテスの『相手に自分の無知を知らしめる行為』を悪く思ったアニュトス、メレトス、リュコンは、彼を訴え、裁判で死刑を求刑するよう画策した。ただソクラテスはその裁判で一切自分の自己弁護をせず、むしろ当然のごとく無罪を主張した。もしソクラテスがこの裁判で『彼らの機嫌をうかがっていた』なら、もしかしたらソクラテスはここで死ぬことはなかった。しかし、ソクラテスはそれをしなかった。

 

そして幼馴染のクリトンに脱獄を勧められても断り、逃げることなく、死刑を受け入れた。彼曰く、

『これまでの生涯で一貫して私が説いてきた原則を、不幸が訪れたからと言って放棄することはできない。』(『クリトン』46)

 

そしてソクラテスは最期にこう言ったのだ。

『お別れのときが来た。君たちは生きながらえるため、私は死ぬために別れるのだ。君たちと私のどちらがより幸福なのだろうか?答えることが出来るのは神のみである。』(『弁明』42A)

 

 

そして、アテナイの人々はソクラテスを刑死させたことを悔やんで、ソクラテスを告訴したメレトスには死刑の判決を下した。その後人々はポンペイオンにソクラテスの銅像を作り、彼を讃えた。

 

その男、ソクラテス。最後の一呼吸まで『真理』を愛した男

 

では、この『アテナイの人々』の『認識』は一体どうなっているだろうか。最初はソクラテスを『死刑に値する』という認識で一致させたわけだ。そして多数決で死刑が決まり、ソクラテスは死んだ。だが、その後彼らの『認識』は、

 

我々が間違っていた…

 

となり、ソクラテスを刑死させたことを悔やみ、銅像を作った。つまり、フッサールの言う『確信の合致がすなわち『認識』』という話は私から言わせれば、

 

それがどうしたんだよ。その人たち全員が間違っていたらどうするんだよ。

 

ということになってしまうわけである。つまり、マリリン・モンローに言わせてみれば、

 

ということなのである。例えば、真理を地球に例えたとしよう。

 

日本は、極東だ。

 

と海外の人間は言う。だが、私はその言葉を聞いてもピンと来ない。なぜなら私は、日本を中心にこの世界を見ているからだ。この現象が、各宗教、国家、人種、そして70億人全ての人間に起きているとしたらどうだろうか。

 

 

地球は一つだ。だが、それをどの角度から、誰が見るかによって、それがどのようなもので、どのような形をしているかということの意見は割れるのである。そう考えると、

 

  • キリスト教
  • イスラム教
  • ユダヤ教
  • ヒンズー教
  • 仏教
  • 儒教

 

様々な世界的宗教があり、価値観があるこの人間世界の中で、『正確な認識』というのは一体どのように決まるのだろうか。『多数決』?じゃあキリスト教が正解だ。本当にそれでいいなら、それで話は終わりである。後の50億人は『間違った人』ということになる。

 

 

事物へえる

フッサールの認識への考え方はもちろん『多数決で決まる』というものではなく、『色眼鏡を外さないと真理は見えない』というものだ。しかしとにかく、人間が真理を導き出すということは、それだけ難しいことだということが、彼ら哲学者の思想を通して垣間見えるのである。

 

フッサールは言った。

『事物へかえれ!』

 

この意味は、自分の知識、意識から出発して対象に近づいていくしか、認識する手立てはないということである。では、ここに下記の記事を加えたらどうなるだろうか。うーむ。やはり私が導き出したこの考え方は、なかなか崩れそうにない。

 

『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』 『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』

 

 

 

 

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