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キルケゴール『汝が汝自身のごとく隣人を愛するとき、汝はまたその隣人を愛するごとく、汝自身をも愛さねばならない。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

ふむ…。

運営者

考察

愛情を、自分だけに注いで生きていく人間は、『自分本位』だ。しかし、『他人本位』に気持ちが偏り過ぎてもいけない。なぜなら、他人本位にはなれないからだ。つまりキルケゴールの言葉は深い。

 

隣人を愛するとき、そこには何らかの思惑があったはずだ。別に、口にして言う必要はないだろう。『隣人を愛しています』などと。気づいたら仲が良くなっている等の場合に、わざわざこういう言い回しはしない。そこにはどこかこう、『愛さなければならない』というか、『愛すべきだ』というか、そういう『義務』のような臭いが、わずかでも漂ってくる。

 

自分の身体を洗う時、自分の為に食事を摂る時、それらと同じように、隣人を思いやることが出来ているだろうか。出来ていないなら、そこにあるのは何だろうか。二つの違いは何だろうか。人の身体を、自分の身体の様に思うことは出来ない。だとしたら、そこには間違いなく、『差』が確実にある。

 

だとしたら、『相手を思った愛情』の中に、『わずかでも自分のエゴ』が混入していることになる。つまり、『相手の為、相手の為』と念仏を唱えても、そこに純粋さはなく、混沌としている。自分が排泄した後の身体を拭くときと、人のそれを拭くときに、少しでも『差』を感じるのであれば、結局それは他人本位ではない。だとしたら、『自分自身を愛さなければならない』というのは、『よく考えてみろ』という警鐘である。

 

そもそも自分を愛していなければ、排泄した後の身体を拭くことは出来ないのだ。それをすることに何ら抵抗がない。それが純粋な愛である。隣人を愛している時、自分自身も愛さなければならない、というのは、単なる警鐘であり、その鐘の音で『ハッ』と気づかされるだけなのだ。

 

(そういえば、自分は自分の事をまず第一に考えているんだった。)

 

自分以上に隣人を愛していると思うのは、単なる勘違いである。

 

 

 

MEMO

※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。

 

Check

こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。

 

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