偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
運営者
考察
女に限らず、涙を流すということは、人間にとってある種のスイッチである。プライドの高い私は、この15年で流した涙の数は5回。どれも、相当な理由があった。一つは17歳の頃の、父親の死だ。そこで私は久々に、『封印していた涙』を流すことになった。涙とともに、封印していたものがあったのだ。それは、人に弱みを見せるということである。何しろ人は、弱みを見せるとそこにつけ込んでくる生き物だ。私の場合は、家庭内で宗教を強要され続けた。クリスチャンになることを常に強要され続けていたのである。
それは『親なりの愛』だということなど、知っていた。しかし、私の心は宗教を求めていなかった。
(私の子供だ。きっと今から保険をかけておかなければ、この先の人生で苦しむことになる。)
そういう愛情があったことだろう。だが、私の心はそれを求めていなかったし、今も、これからも絶対にそれを求めない。私がここまで頑なになってしまったのは、間違いなく幼少期の家庭内にあった問題が、大きく影響しているのである。弱みを見せなくなり、涙を封印した理由も、それが大きい。だが、それによって失われた『人としての感情』が、冷徹無比な私の人格形成へと繋がり、父親が死ぬとわかった時に私は最初、
(死ね、と思っていたから本望だ)
という方向で、まず思慮を働かせていた。しかし、私は実の父親が死ぬとわかったときに、涙一つ流さない自分に、『違和感』を覚えていた。
自由になりたい。自分らしくありたい。人間らしくありたい。そう固く誓って、これまでやってきた。誰の言うことも聞かなかった。誰の言うことも信用できなかった。信用できるのは自分しかいなかった。
だがどうだ。確かに親は恨んだし、死ねばいいと思ったが、いざ死ぬとわかったときに取った自分の態度は。本当に人間なんだろうか。
そのときだ。私の頬をつたったのは、一筋の涙だった。私はその涙によって、間違いなく『何らかのスイッチ』が入ったことを悟った。まるで、『ダムの水』だった。私は堰を切ったように、それまで封じ込めていて、蓄積された様々な鬱憤を、涙に乗せて、外へ放出していたのだ。その鬱憤がすっかりなくなった頃、私の身体は軽かった。父は死んだが、私は父が自分の命を賭して、『このスイッチを押す』という愛を注いでくれた、と考えることにしている。キルケゴールが言う言葉にも、そんな背景が込められているだろうか。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。
🧭『38の黄金律』へ
※『38の黄金律』は、有料コンテンツとしてより深い考察をお届けしています。
🔎 名言の背景にある“思想の源流”を探る
※『黄金律』以外の知的コンテンツのほとんどは無料です。
関連する『黄金律』
『流動変化が避けられないことを知っているかどうかは、人間の運命を大きく変える。』