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チェ・ゲバラ『私はキリストではないし、慈善事業家でもない。キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器はなんでも使って戦う。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

ふむ…。

運営者

考察

『私はキリストではないし、慈善事業家でもない。 キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器はなんでも使って戦う。自分自身が十字架などにはりつけになるよりも、敵を打ち負かそうと思うのだ。』

 

しかしこのゲバラの言葉は、雲行きが怪しくなってきた。

 

キリストと私は、無関係ではない。私は生涯どの宗教にも属さないと決めた人間だが、親がクリスチャンであり、これらのテーマについて、どれほどの葛藤を積み重ねて来ただろうか。葛藤しすぎて、リンクしたように、聖書の言葉(超訳)と向き合って、内省したほどだ。

 

そんな中、つい最近購入した本に、非常にセンセーショナルなキリストについての実像を見たのだ。ハーバード大学神学大学院およびアイオワ大学創作学科小説部門で博士号を取得した、レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?』にはこうある。

『実在したのはキリスト(救世主)ではない。暴力も厭わないゼロット(革命家)だった。』

(中略)さらに考慮に入れるべきは、十字架刑は、当時のローマ帝国が反政府扇動罪にだけ適用していた処罰法だったことである。ローマ人が苦しみもだえるイエスのアタマの上に掲げた『ユダヤ人の王』と書いた札は、『罪状書き』と呼ばれるもので、一般に考えられているような、風刺的な意味を込めたものではなかった。十字架に架けられた罪人はみな、処刑の原因となった特定の罪状を表す小板を頭上に貼られるのである。ローマ人の目から見たイエスの罪は、自分こそ王者にふさわしい支配者だと主張したこと(つまり反逆罪)で、当時の他のメシア的を抱負もつ者もみな、同罪で処刑された。死んだのはイエスだけではなかったのだ。

 

 

(中略)ユダヤ人の生活は『神殿』ではなく『律法』中心になり、ラビの指導者によるユダヤ教が形成され始めた。キリスト教徒もまた、エルサレムを略奪される結果を招いた革命家の熱情と距離を置く必要を感じた。その方が初期教会にとって執念深いローマ人に復讐を免れられたばかりではなく、ユダヤ教が廃れた今、教会の殿堂の主要な対象はローマ人になっていたからである。こうして、長い歳月の間に、イエスは革命思考のユダヤ人ナショナリストから、現世にはなんの関心ももたない平和的な宗教指導者へと変貌していったのである。それはローマ人が受けれることの出来るイエス像だった。

 

まだ読み始めの為、書けるのはここまでだが、どう考えたって、2000年前、この地域限定、他の宗教の祖、という存在を考えた時に、蓋然性の高い実像は、この本が言う様な内容である。私はこの本に同調しているのではなく、以前から思っていたことをこの本が言ってくれているだけなのだ。彼だけを神の子とするならば、

 

孔子ソクラテスブッダ

 

といった他の国で圧倒的支持を得た、異宗教の祖の存在は、一体どう説明つけるつもりなのだろうか。(しかし彼らは別に『宗教の祖』という主張はしてない。ソクラテスなどは、宗教化すらされてない。)

 

しかし私の親は、そのブラックボックス(不透明なあいまいな部分)について触れることをタブーとして私に教育し、無理矢理教会に行かせようとして、悪く言うなら『洗脳』を続けた。あれから20年経った今、少しばかり成長した自分の脳でこれらについて言う時、最も蓋然性の高い私が出せる結論と言えば、『人間は盲目になる』という決定的な事実についての示唆である。イエスというキリスト(救世主)が、もし、チェ・ゲバラと同じ革命家として、イエス・ゼロット(革命家)として伝えられていたら、世界の宗教図は、大きく塗り替えられていたのかもしれない。

 

 

MEMO

※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。

 

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※ここからは運営者である私の『言葉だけを見て内省した解釈』ではなく、人工知能ChatGPTにおいて『正確性と中立性』を軸に今回の名言を考えて見ましょう。

 

名言提示(再掲)

チェ・ゲバラ『私はキリストではないし、慈善事業家でもない。キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器はなんでも使って戦う。』

一般的な解釈

この言葉は、「理想や正義を実現するためには、聖人のような無抵抗主義だけではなく、時に手段を問わず闘う覚悟も必要だ」という趣旨を持っています。チェ・ゲバラは、冷戦期の革命思想家として、キリスト教的な慈善や受容の精神とは対極に位置する、能動的かつ攻撃的な闘争を自身の信条として掲げていました。この発言は、道徳的善意だけでは現実を変えられないという現実主義と、信念への徹底的な忠誠心を示しており、政治思想や倫理哲学の観点からも論争的かつ示唆的な位置づけにあります。

思考補助・内省喚起

この言葉は、「あなたは自分の信念を貫くために、どこまでの手段を許容できるか?」という根源的な問いを投げかけています。きれいごとや理想論だけでは解決できない現実の中で、自らの行動がどのような線引きの上に成り立っているか――それを明確に見極めることが、信念の質を問う第一歩となるでしょう。

翻訳注意・文化的留意点

この言葉に含まれる表現や語調は、直訳では強すぎたり誤解を招いたりする恐れがあります。特に宗教的対比表現や戦闘的語調には注意が必要です。

文化的背景:

キリストと対極と述べるこの発言は、キリスト教圏では冒涜的と受け取られる可能性があり、翻訳の際は思想的対比として説明的に補完することが望ましい。

語彙の多義性:

「慈善事業家」=”philanthropist”、「武器」=”weapon” という語の選択も、比喩的か字義通りかを文脈に応じて明確にすべきであり、”means” や “tools” などの緩和表現が適切な場合もあります。

構文再構築:

「手に入る武器はなんでも使って戦う」は、”I will use whatever means I have to fight for what I believe is right.” のように再構築することで、強すぎる表現を倫理的ニュアンスで補うことができます。

翻訳文には「暴力肯定」と取られないための価値判断と構造調整が必要です。

出典・原典情報

出典が不明な場合:

※出典未確認

この言葉はインタビューや回想文などでしばしば引用されますが、公式な一次資料での確認は取れていません。再構成された言説として扱うべき発言です。

出典が確認できる場合:

〇〇(例:『〇〇演説録』『〇〇書簡』等)に記された表現であり、発言時の具体的文脈や対象への言及が確認できます。

異訳・類似表現

「私は聖人ではない。正義のために、手段を選ぶつもりはない。」

「理想のためには、時にその手が汚れることも厭わない。」

類似:「目的が正しければ、手段もまた正当化されるべきだ」──ニコロ・マキャヴェリの現実主義思想と共鳴

 

 

 

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