『ヒト』を最適化しよう。

『自分のものに出来ない知識は、自分の知識とは言えない。』(2ページ目)

・NEXT(一致する偉人の名言)

・⇐BACK(簡潔に)

更なる詳細を追求する

二人の社員

あるところに、社長と、二人の社員がいた。社長は、

『理路整然とした合理的かつ効率的な仕事をする為に、まずは自分の身の周りを整頓しろ。』

 

と二人に言った。一人はいかにも、『聞いています』という態度で、よくうなづき、目をルンルンとさせて、まるで飼い犬が主人を見るような目でこちらを見ている。それに比べてもう一人は、少しぶっきらぼうな顔をしていて、うなづきもしない。ただこちらの言うことをじっと見ているだけだ。

 

数日後、出張から帰ってきた社長が、出張から帰ってきたことも告げずに、抜き打ちでその二人の様子を見に行った。すると、一人目の社員は同僚の女子社員と昼食に出ていて、会社にいないにも関わらず、机の上が私物で散乱していた。

 

 

しかし、二人目の社員は、会社でデスクワークをしているにも関わらず、きちんと身の回りが整頓されていた。では、話を聞いていたのは、どちらだったのだろうか。

 

知行合一

『『中国古典』の教え』の『伝習録』にはこうある。

『よいことだ、正しいことだと知っていながら実行しないのは、ほんとうに知っていることにはならない。』(知りて行わざるは、只だこれいまだ知らざるなり。)

 

『伝習録』という古典は、王陽明と弟子たちの問答をまとめたもので、昔から陽明学の入門書として読まれてきた。この言葉も、そのなかで弟子の質問に答えて王陽明が語ったものである。陽明学と言うと、多くの人は『知行合一』ということばを思い浮かべるに違いない。知ることと行うことはもともと一体のものであって、知ることは行うことを伴って初めて完結するのだという。

ここに紹介したことばも、それについて語ったものであることは言うまでもない。たしかに、なまじっかな知識をひけらかし、口でいいことを語っても、実行が伴わないと説得力もないし、信頼も得られない。実行の裏付けがあって、初めて発言に説得力が生まれてくるのである。毎日の仕事や生活の場で、『知行合一』をがけるのも、信頼される社会人の条件なのである。とりあえずは、身近なことや平凡なことから、できる範囲で実行を心がけていきたい。

 

知行合一。この黄金律で覚えるべきなのは、このキーワードだ。

 

正しい道理を知っていながら実行しようとしないのは、臆病

慶応義塾大学を卒業し、慶應義塾高校で教職に就き、同校生徒のアンケートで最も人気のある授業をする先生として親しまれた佐久協の著書、『論語の教え』にはこうある。

正しい道理を知っていながら実行しようとしないのは、臆病者の証拠だぞ。

 

この章句の前半は、『自分の先祖の霊でもないのにペコペコ頭を下げて拝むのは、信心深い行為をしているのではなく、あわよくば御利益をえようとの下賤な行為だ』という意味である。一方、当然すべきだとわかっていながら利益になりそうにないからと正しい行為をしないのは、勇気のない卑怯者の証拠だというのだ。

 

おそらく孔子の指摘に耳の痛い思いをしない者は少ないだろう。わたしたちは、気後れしそうになると、『何が正しい行為であるのかの絶対の基準などない』とか、『へたに注意をして逆恨みされたり、殺されでもしたら元も子もない』と防御線を張りがちである。孟子は、『人が『できない』と言っている時、99%は『やるとしない』を『できない』と誤魔化しているのだ』と述べ、『人間はこの世に正義を実現させるために生きているのだから、正義の実現のためには死んだとしても本望と思うべきだ』と威勢よくぶち上げている。

 

忘却先生

また、数々の偉人の人生を研究する、上智大学名誉教授、渡部昇一の著書、『賢人は人生を教えてくれる』にはこうある。

『雑事』に価値を見出した新渡戸稲造の卓見

 

新渡戸稲造先生はなぜ通俗雑誌に書くのかという理由を次のように述べています。(※通俗雑誌に連載をし、多くの人に批判されたが断固として書き続けた)

 

昔、忘却先生と呼ばれた非常に博識な漢学者がいたというのです。この先生は万巻の本を読んで、何一つわからないものがないというほどの知識を持っていました。しかし、その学問を活かして使う才能がなかったため、一冊の本を書くわけでもなく、せっかくの深い学識も役立てることができませんでした。

 

そのうち、この偉い先生もだんだんと年をとって、記憶力が衰え、読んだ本の内容を忘れるようになってしまいました。それどころか、見聞したこともことごとく忘れ、ついには人に会ってもしばらくすると名前も顔も忘れてしまうようになりました。そして最後には自分の年も忘れ、人と話しても目上の人か目下の人かの区別もつかず、老若男女の区別も一切できなくなってしまったのです。それで人々は昔偉かったこの学者を嘲笑って、忘却先生と呼ぶようになったというわけです。

 

この話を聞いたとき、新渡戸先生は感じるところがあったというのです。その人の勉強はなんだったのだろう、と思ったわけです。そして、自分も齢五十を超えようとしている今、忘却先生の轍を踏まないように、かつて自分が見聞したことで若い人のためになるようなことを語っておこう、と。通俗雑誌であろうが何であろうが、忘れないうちに書いておくのだというのです。

 

通俗雑誌

 

自分の頭に知識を詰め込む。それは一体、何のためなのだろうか。

 

勇敢に、知る、実行に移す

ジェームズ・アレンの著書、『『原因』と『結果』の法則』にはこうある。

私たちの思いは、目標と勇敢に結びついたとき、創造のパワーになります。この事実を知る人間は、絶えず揺れ動く思いや感情の塊などよりもはるかに高いレベルの、はるかに強い何かになるための準備を、しっかりと整えた人間です。そして、この知識を実行に移すことで、人間は、自分の心のパワーを、意識的、知的に利用しはじめることになります。

 

この太文字部分は、実際に本で強調されていることである。その意味がわかるだろうか。

 

持つ様式とある様式

ドイツの哲学者、エーリッヒ・フロムの著書、『生きるということ』にはこうある。

学習すること

 

持つ存在様式の学生は、講義に耳を傾け、講義の言葉を聞き、それらの言葉の論理構造と意味とを理解し、できるかぎり、すべての言葉を彼らのルーズリーフ式のノートに書き込む―のちになって、筆記したものを暗記して試験に合格できるように。しかしその内容が彼ら自身の個々の思想体系の一部となって、それを豊かにし、広げることにはならない。

 

(中略)持つ様式の学生はただ一つの目標しか持っていない。すなわち<学んだ>ことを固守することであって、そのために彼らはそれをしっかりと記憶にゆだねたり、筆記を大切に保存したりする。

 

(中略)ある様式で結びついている学生にとっては、まったく異なった特質を持っている。まず第一に、彼らは一連の講義に、たとえそれが第一回の講義であっても、白紙の状態で出席することはない。彼らはその講義が扱うはずの諸問題についてあらかじめ思いを巡らしているので、彼らの頭には、彼らなりのある種の疑問や問題がある。彼らはその題目について十分に考えたので、それに関心を抱いている。言葉や観念の受動的な入れものとなることはなく、彼らは耳を傾け、彼らは聞く。

 

そしてこれが最も重要なことだが、能動的、生産的な方法で、彼らは受け入れ、彼らは反応する。彼らが耳を傾けるものは、彼ら自身の思考過程を刺激する。新しい疑問、新しい観念、新しい展望が彼らの頭の中に生まれる。彼らが耳を傾けるのは、一つの生きた過程である。彼らは関心を抱いて耳を傾け、講師の言うことを聞き、聞くことに反応して自発的に生命を得る。彼らはただ家へ持ち帰って記憶することができる知識を獲得するのではない。それぞれの学生が動かされ、変化したのだ。

 

疎外された記憶

また本にはこうもある。

想起すること

 

持つ様式の人びとが顔あるいは風景を想起する方法は、たいていの人びとが写真を見る時の見方に代表されている。写真はある人物あるいはある光景を確認する時に記憶の助けとしてのみ役立つのであって、写真が引きだす通例の反応は、『そうだ、彼だ』とか、『そうだ、ここは行ったことがある』とかである。写真はたいていの人にとって、疎外された記憶となるのである。

 

紙に委ねられた記憶は、また別な形の疎外された思い出となる。覚えておきたいと思うことを書き留めることによって、私はその情報を持つことが確かとなる。だから私はそれを脳に刻み付けようとはしない。私は自分の所有を確信する―ただ筆記を失ったとき、私は情報の記憶をもまた失ったことになる。私の想起能力は私を去ってしまった。というのは、たくわえらえた記憶は筆記の形を執って、私の外在化した部分となっていったからである。

 

IQが高いからといって富や名声や幸せを得られる保証はない

ハーバード大学大学院にて心理学の博士号を取得した、ダニエル・ゴールマンの著書、『EQ こころの知能指数』にはこうある。

ここが問題なのだ。学校の成績がよくても、人生のピンチやチャンスにはほとんど役に立たない。IQが高いからといって富や名声や幸せを得られる保証はないのに、学校も社会も学力ばかりに注目して、人生を左右するもう一方の大切な資質、すなわちEQには目を向けない。情動の知性にも、数学や国語と同じように能力差がある。IQが同じでも人生に成功する人とつまずく人がでてくるのは、EQに差があるからだ。

 

詰め込む勉強法について、今一度考え直すべきである。というか、『今一度』と言っているが、もう、これらについては遥か昔から言われ続けているのだ。

 

本の虫

早稲田大学を経て、情報会社・出版社の役員を歴任した岬龍一郎の著書、『言志四録』にはこうある。

年老いた学者がいて、好んで書を読んでいた。飲食するほかは手から書物を離さず、やがて老人になってしまった。世間の人は誰もが勉強家だと誉めた。だが、私が思うに、このような人は事を成就しないであろう。彼は心をつねに書物の上に置いて、心の中に置こうとしない。人の五官は、等しくみんな使うべきだ。だが彼は、精神を目ばかりに集中させるので、目だけが疲れて精神もくらんでくる。このようなことでは、どんなに本を読んだところで、深く自得するということにはならない。ただ字面を追っているだけだ。

 

孔子の教えでは、食事するときも、とっさの場合でも、『仁』の心がけが必要だとしている。考えてみるがよい。彼は生涯、手から本を放さなかったが、心は放しっぱなしだったのだ。これで『仁』があるといえるだろうか。

 

これがまさしく西郷のいう『本の虫』であり、この人はただ本を読むのが好きだったに過ぎない。学問とは、それを行動に変えて、社会の役に立ててこそ、初めて学問なのである。

 

口先だけの聖賢と口舌の徒

また本にはこうもある。

聖人や賢人の学問を講義したり説いたりするだけで、自分ではその道を実践できない人を、口先だけの聖賢という。私はこれを聞いて恐れ入った。宗儒の教えを論じたり弁じたりするが、これを我が身に体得できない人を、紙の上の道学という。されにこれを聞いて、私は再び恐れ入った。

 

立派なことをいっておきながら、自分ではそれを実行できない人がいかに多いか。こういう人を『口舌の徒』という。すべては行動で決まる。自戒するところである。

 

知識を力に変える

60年間に全世界で累計3000万部の記録的ロングセラー、ナポレオン・ヒルの著書、『巨富を築く13の条件』にはこうある。

知識を力に変える

 

知識には、一般的知識と専門的知識の二つの種類がある。一般的知識がどんなに豊かであっても、また、どんな広い分野にいきわたっていても、富の蓄積にはあまり役に立たない。

 

大学では、あらゆる分野での一般的知識を教えているが、そこで教えている教授たちはそれほど富を持っているとは言い難い。教授は知識を教えるプロであっても、その知識を体系化し、活用する専門家ではないからだ。知識は、富を得るという明確な目的に向けて体系化し、活用しなければ、富の蓄積には結びつかない。この事実を十分に理解しないで、知識は力だと信じている人が大勢いる。

 

富の蓄積

 

どれだけ多数・確度の高い知識を得ても

京都大学工学部を卒業し、米国ローレンスバークレー国立研究所にてエネルg-消費データ分析に従事した、河本薫の著書、『会社を変える分析の力』にはこうある。

分析問題を設定する力

 

ビジネスでデータ分析する場合、どれだけ多数の知識を得ても、どれだけ確度の高い知識を得ても、それが意思決定に役立たなければ無価値です。残念なことに、分析者は、往々にして、高度な分析力を発揮する誘惑や、問題を解明したい心にかられて、意思決定に役立たなければ無価値であることを忘れがちです。

 

自分が『知識』を本当に大切にしていると思うなら、自分が取るべき行動は何か。

 

 

 

・NEXT(一致する偉人の名言)

・⇐BACK(簡潔に)