『ヒト』を最適化しよう。

『本当の友人とは。』(2ページ目)

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初めからそれが人情だと心得る

『『中国古典』の教え』の『史記』にはこうある。

『地位が上がったり下がったりすることによって、付き合いの深さが良くわかる。』(一貴一賤(いっきいっせん)、交情乃ち(すなわち)見(あらわ)る。)

 

漢の時代、てき公という大臣がいた。現職のとき、彼の邸はご機嫌伺いにやってくる客でごった返していたが、免職になったとたん、ばったりと客足がとだえてしまう。ところが、復職の噂が広まるや、またどっと押し寄せてくる気配である。このとき、てき公は一文を大書して門に張りだしたといわれるが、これはその一節である。

 

『貴』とは、地位が高いこと、『賤』とは地位が低いこと。人の世の付き合いを皮肉ったものであることは言うまでもない。てき公の気持ちもわからないではない。こちらが調子のよい時は、放っておいても人は集まってくるが、一度落ち目になると、さっと去っていく。これはいつの時代でも変わりがない。

 

てき公の嘆きは私どもの嘆きでもある。だが、初めからそれが人情だと心得ていれば、人が寄ってきたからといって喜ぶこともないし、去っていったからといって嘆くこともないのである。てき公はいささか向きになりすぎたのかもしれない。

 

 

私はこの『史記』の内容を見るまで、人間を過信していた。だが、人物こそ信用しなければならないが、人間の実態を完全に把握していなかった私は、未熟だったのだ。

 

弱い人間の本音

ハーバード大学で学士号を取り、スタンフォード大学で博士号を取得したソニア・リュボミアスキーの著書、『幸せがずっと続く12の行動習慣』にはこうある。

(省略)それから数年の間に私たちが発見したのは『最も幸福な人々は他人の成功から喜びを得ることができ、他人の失敗を前の当たりにしたときは心づかいをする』ということでした。しかし、典型的な不幸な人々からは、まったく異なる人物像が浮かび上がりました。不幸な人々は、同僚の業績や成功を喜ばずに意気消沈し、同僚の失敗や破滅を目の当たりにすると、同情せずに安堵するのです。

 

実際にはこの『不幸な人々』の割合の方が多いのが現実だ。

 

友人の定義

『心のブレーキの外し方』にはこうある。

あなたがプラスに成長することを、無意識的にでも邪魔してくるような人たちは、そもそも”友達”と呼ぶに値しないのです。

 

もし、自分が『本当の友人』と出会いたいなら、人間を過信せず、人物を信用して、『出会えるのを待つ』のではなく、『切磋琢磨してお互いにそうなれるよう努力する』ことが重要だ。

 

三番目の恩人

複数の会社を経営する『お金の専門家』、本田健の著書、『ユダヤ人大富豪の教え』にはこうある。

『恩人にはね、三つのタイプがいることを知っておくといい。

 

一人は君を心から応援してくれ、何かにつけて、ポジティブな言葉を投げかけてくれるタイプ。この人たちが恩人だとわかるのに、大した知性はいらないだろう。

 

二つめのタイプは、先ほど言った、マイナスの恩人だ。君にネガティブなことを言って、いままで気づかなかったことを教えてくれる。また、本当にやる気があるかどうかを試してくれるのも、この人たちだ。このタイプの人たちを恩人だと見るには、少し知性が必要なのはさっき話した通りだ。

 

三つめのタイプは、君が気づかないところで君を応援してくれている人たちだ。この人たちは、君の夢や情熱を察知し、君の知らないところで、君の活動を静かにさせてくれている。成功したければ、この三番目の恩人の存在に気付き、ひそかに感謝することだ』

 

本当の友人というのは、自分が見ていないところで自分のことを良く言う人である。

 

親しい仲だからこそ”なれなれしさ”を慎め

新渡戸稲造の著書、『自分をもっと深く掘れ!』にはこうある。

親しい仲だからこそ”なれなれしさ”を慎め

 

親しい友人や同僚その他知人との間でも、それ相応の礼節を守らねばならない。ところが面識のある同等の人々の間には、一種の競争心が潜み、他をしのごうとする心があるから、とかく相手の短所を見つけようと努め、礼節が行われにくくなる。ことに友人同僚に対して少しでも礼節を正しくすると、

『友人を他人扱いする』

 

と言って非難する者もあり、とかく礼節がゆるがせにされやすくなるものである。しかし、友人同僚らに対する礼節は、あくまでも守らねばならない。英国のことわざに、

『なれなれしくすれば卑しめられる』

 

とある。親しいからと言って、礼節を守らなければ、かえってその友情が破られる。(中略)とかく人は陰で他人の悪口を言いたがるが、面前で言うのをはなはだ嫌がる。しかし、友を思う誠意誠心があるならば、陰口をたたかず、直接に面前で警告すべきである。ところが実際は、ここまで友情の進む例はきわめて少ない。英国のある名士の言葉に、

『面前で悪く言っても、背後でよく言う者こそ、真の友人だ』

 

とある。

 

友人

 

新渡戸稲造も、英国の名士も、同じことを言っている。

 

うらやんだり妬んだりしてしまうなら

早稲田大学商学部を卒業後、様々な経歴を経て、クリスチャン女性の国際的なグループ『Aglow International(アグロー・インターナショナル)』に所属する中村芳子の著書、『聖書88の言葉』にはこうある。

言葉にならない時、となりにいることが友情だ

 

愛する人を亡くした友人を、どうなぐさめたらいいか分からない時がある。病気になった友人が落ち込んでいる時に、かける言葉がみつからない。そういう時、言葉は上滑りしてしまう。よかれと思ってかけた言葉で、かえって傷つけてしまうこともある。そんな時は言葉を忘れよう。ただそばにいて、その悲しみを一緒に感じよう。

 

(中略)ついうらやんだり妬んだりしてしまうなら、そっと場を離れよう。悲しみや喜びを素直に分かち合えない、そんな自分を認めることも、きっと大切だ。

 

『聖書』

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12:15)

 

嫉み、嫉み。その様な感情が生まれてしまうのは『当たり前』だという常識が蔓延しているが、この様な選択肢もあるのだ。その人物のために、自分からそっとその場を離れられるか。それぐらいの覚悟があれば、その人への思いは、あながち軽いものではない。

 

友達を必要としない人間

アドラー心理学に造詣の深い岸見一郎・古賀史建の著書、『嫌われる勇気』にはこうある。

哲人『あなたには親友と呼べるような存在がいますか?』

 

青年『友人はいます。でも親友と呼べるかというと…』

 

哲人『わたしもかつてはそうでした。高校時代のわたしは友人をつくろうともせず、ギリシャ語やドイツ語を学び、黙々と哲学書を読みふける日々を送っていました。そんなわたしを不安に思った母が、担任の教師に相談に行ったことがあります。すると教師は『心配いりません。彼は友達を必要としない人間なのです』といってくれたそうです。この言葉には母もわたしも大いに勇気づけられました。』

 

青年『友達を必要としない人間…。では、先生は高校時代、ひとりの友人もいなかったのですか?』

 

哲人『いえ、ひとりだけ友人がいました。(中略))友達が多いほど良いと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。これは愛のタスクともつながる話しですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。』

 

友人というものは、数ではない。

 

古人を友とする

早稲田大学を経て、情報会社・出版社の役員を歴任した岬龍一郎の著書、『言志四録』にはこうある。

宋や明の時代の語録を読むと、私には納得のいくところと、いかないところがある。また信じることができるところと、できないところがある。疑ってよいところと、いけないところがある。だが、繰り返しこれらを読んでいると、これらの賢人と一堂に会して、親しく討論し合っているような感じがする。これは古人を友とすることで、まことに有益な事である。

 

司馬遼太郎は『私は現世の友達も多いが、それより歴史上の友達のほうがもっと多く、知恵を借りている』といっていたが、いまや筆者も尚友(古典の中の友)の方が多い。

 

ニュートンは言った。

 

自分の真の友人が、現世の、同国の、近隣地域に住んでいるとは限らない。

 

 

 

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